ひのっき

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学校給食とララ物資 その3

2019年01月24日 | れきし

ララ(Licensed Agencies for Relief of Asia)承認2か月後の1946年11月30日、救援物資を満載したハワード・スタンバーグ号が横浜港に入港します。
食料、医薬品、衣料、学用品など、荷揚げされた大量の救援物資はララ物資と呼ばれ、多くの日本人を救いました。

子供たちの栄養状態改善のため、日本の役所も動きます。
文部・厚生・農林三省次官通達「学校給食実施の普及奨励について」がだされ、1946年12月24日、東京・神奈川・千葉で学校給食が開始されました。

脱脂粉乳+汁物だけという質素なものでしたが、その高い栄養価が子供たちの健康状態を劇的に改善させました。

そして1948年には全国都市の児童約300万人に対し学校給食が開始。多くの子供たちの栄養状態が改善されていきます。

これらの給食にはララ物資で大量に供給された脱脂粉乳が使われました。
学校給食の始まりがララ物資のおかげと言われるのはこのためです。
戦前にも給食がある学校はありましたが、「学校給食」が全国的な制度となった礎にはララ物資があったのです。

そして1952年には、全国すべての小学校を対象に完全給食がはじまりました。
この頃にはコッペパン、コロッケ、クジラの竜田揚など、かなり美味しそうなメニューになっています。

さて時を遡って1947年のアメリカでは、ララの米国政府承認に伴い日本難民救済会の活動が軌道に乗ります。
活動エリアをアメリカからカナダ、メキシコ、ブラジル、チリ、アルゼンチン、ペルーと徐々に拡大していきました。

またアメリカのキリスト教会でも日本支援の動きが始まります。
戦争中に本国に帰還していたキリスト教宣教師たちが、戦後日本を再訪してその悲惨な状況を目の当たりにしました。
宣教師たちはその目で見、その耳で聞き、その肌で感じた日本の現状をアメリカの教会関係者に詳しく伝えます。
その結果「日本の子供たちを救おう」と各国のキリスト教会が立ち上がりました。
1949年には全米7万6千の教会が一丸となり、全アメリカ国民に呼びかける大募金キャンペーンを開始します。
このキャンペーンは大成功をおさめ、多くのアメリカ国民が寄付に応じました。
アメリカの高校や大学では、「週に一度昼を抜いて、そのお金を日本の子供たちの募金に回す運動」が大々的に行われたそうです。

これらの寄付金で救援物資が賄われ、ララ物資として日本に送り込まれました。
ララ物資はGHQが廃止される1952年まで続き、推計では当時のお金で400億円分もの支援物資が送られたと言います。
ちなみに昭和25年の一般会計予算が6000億円強なので、日本の国家予算の数%にもあたる莫大な規模です。
日系人の寄付を中心に始まったララ物資ですが、最終的には8割がアメリカ・カナダ・中南米など各国の皆様から日本の子供たちへと寄付されたという、広く国際的な支援活動となりました。


終戦直後のアメリカで徒手空拳で立ち上がった浅野七之助氏。

同胞のために自らの食衣を削っても寄付を続けた日系人たち。

強い信念を貫きララの立ち上げ・発展に尽力したローズ女史。

日本支援の大キャンペーンを張った各国キリスト教会。

そして日本の子供達を救うために寄付に応じてくれた、アメリカ、カナダ、中南米、様々な国の皆様。

色々な、本当に多くの方々の熱意と善意のおかげで、今の学校給食と日本社会がある。

献立表を見て先人たちの情熱に思いを馳せたりした、学校給食考タイムでした!


学校給食とララ物資 その2

2019年01月23日 | れきし

浅野氏らは1946年1月に「日本難民救済会趣意書」を起草し、現地邦人紙等を通じてサンフランシスコ在住の日系人へ寄付を呼びかけます。
戦争中は強制収容所に収監されてしまっていた日系人たちは、当時はまだ自分たちが食うや食わずやの貧困状態でした。
しかし故国の同胞たちのためにと歯を食いしばり、節約に節約を重ねながら浄財を捻出しコツコツと集めていきます。

そうして可能な限りの救援物資を買いそろえ、いよいよ日本に持っていこうというその時に、大きな問題が発生します。
日本へ救援物資を送る仕組みがないのです。

当時アメリカにはACVAFSという巨大な慈善団体があり、海外への人道支援を行っていました。
浅野氏らはこのACVAFSに日本への救援物資輸送ができないか打診します。
しかし同組織は活動対象がヨーロッパのみとの規定があり、日本への運搬ができなかったのです。

こうなれば自力で組織を立ち上げるしかない。
「日本難民救済会」を結成し、大統領直轄の救済統制委員会に公認するよう陳情します。
「はあ?難民救済?ジャップが何言っちゃってんの?」ケンもホロロな委員会。
頭を抱える救済会メンバーの前に、救世主が現れます。

E.B.ローズ女史。

戦前には教師として東京で教鞭をとったこともある、高邁な理想と卓越した行動力を併せ持つキリスト教の宣教師です。
戦中は強制収容所に収容された日系人たちを援助しつつ、日本爆撃停止を訴える平和促進運動を進めるなど、猛烈な反日感情渦巻くアメリカ社会の中でも敵味方分け隔てない愛を行動で貫いた信念の女性です。
ローズ女史は「日本難民救済会」の申請を知るといち早くこれを取り上げ、ライセンス取得のために奔走しました。

そして、1946年9月遂に認可が下ります。
日本へ救援物資を送ることのできる初めての組織。
LARA(Licensed Agencies for Relief of Asia)の誕生です。

キリがいいので今日はここまでにします。その3に続きます。


学校給食とララ物資 その1

2019年01月22日 | れきし

テーブルの上に学校給食の献立予定表があったのでへ―っと見てみました。
ジャンバラヤ、たらこスパゲティ、チョコチップパン、ミモザサラダなどいかにも美味しそうな今風のメニューが並んでいます。
おいらが小学校だったころの給食って、もっとこう、地味ーな茶色いおかずばっかりだった気がするなあ。
学校給食も時代ごとに変化しているんですね。

さてさて学校給食の歴史を語る上で、忘れてはいけない活動があります。

「ララ物資」です。

1945年に第二次大戦が終戦すると、日本は極度の食糧不足に陥りました。
多くの国民が満足に食べられず、特に都市部では餓死者も出たといいます。
子供たちも例外ではなく、ひもじいお腹をさすりながら学校へ通いました。
日本の子供たちは慢性的な栄養不足に陥ります。

そんな状況を知り、アメリカで立ち上がった一人の日本人がいました。
浅野七之助氏。
サンフランシスコ在住のジャーナリストです。

アメリカ国内の支援組織等を回り日本の窮状を訴えますが、なかなか相手にされません。
当時は対日感情が最悪で、そもそも日本人の言うことを聞いてもらえません。
日本人から見ると、太平洋戦争って強大なアメリカが弱小日本を一方的に打ち負かした戦争で、アメリカの損失って微々たるものではとのイメージがあります。
しかし実は太平洋戦線でもアメリカ兵が10万人以上戦死しており、かなりのダメージを負っています。
つい最近親族や友人を失った米国民が相当数アメリカ社会に暮らしており、「日本が困窮してる?はあ?自業自得じゃね?」の雰囲気でした。

個人の力ではどうにもならない。日系人たちの力を結集できないか。
「一食を分かち、一日の小遣いを割いても、援助することは、良心的な義務」との激を飛ばして、1945年11月「日本難民救済有志集会」を開きました。
ところがこの集会の参加者はほんの10人足らず。
サッカーチームも作れないこの小さな小さな決起集会がしかし、後に大きなうねりの源流となって日本の子供たちを救います。

長くなっちゃったので今日はここまでにします。その2に続きます。