休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

葛城の国の古墳めぐり⑧ ~神明神社古墳

2023-08-15 23:34:26 | 古墳紀行

 二塚古墳のある山麓から、元来た道を東へ下っていく。途中、寺口北花内線を越えて、さらに下っていくと、左手に奈良県の社会教育センターに行く道があるのだが、この時、何を間違ったのか、この道を見つけられずにずっと下ってしまったため、県の社会教育センターのある丘を、ぐるっと半周してしまった。この日は、タブレットが電池が切れて、使用不可となり、さらに手元には道の駅で入手した簡単な観光地図しかなかったのも原因だったと思う。

 とにかく、山麓線から回り込んで、北側から社会教育センターの敷地に入る。神明神社古墳は、社会教育センターの研修棟等の建物の裏にある池を挟んだ反対側にある。また、周辺は、まなびやの森・かつらぎということで公園整備がされている。神明神社古墳へも遊歩道や案内板が整備されており、まったく行きやすい古墳となっている。

 

 案内に従って、遊歩道を歩いていくと神明神社の小さな祠が見える。ただ、この小さな祠が誰を祀っているのかははっきりとわからなかった。

 そして、この祠のある丘を南に下ると、新明神社古墳の墳丘が見える。

 

 想像以上にきれいに整備されているのにちょっと驚く。古墳の敷地をきれいに整地した山寄の古墳であり、南側は二段築造になっている直径20m程度の円墳(奈良県の遺跡地図には方墳?になっている。)である。

 この古墳の見どころは、何といっても綺麗に成形された切石で造られた横穴式石室であろう。

 

 花崗岩の切石で石室が構成されているのだが、残念なことに石室の入り口に扉が設けられ施錠されているので石室内への立ち入りはできない。

 仕方ないので、扉の桟の間からカメラを入れて撮影を試みた。

 

 石室は、奥壁は1石で、側壁左右ともに2石、天井石も2石で作られている。一見、羨道も玄室もない横口式石槨のように見えるが、奥壁から3mほどの所に溝があり、そこで羨道と玄室がわけることができるため、無袖式の横穴式石室とされている。

 

 その溝には木で作られた扉がはめ込まれていたのであろうと考えられている。そして出土品の中に扉の取っ手と思われる鉄製の環金具が見つかっている。

 

 羨道の入り口にも溝が見つかっており、ここも扉があったであろうと想定されている。そして、こうした閉塞施設を持つ古墳としては、天武・持統天皇陵に治定されている野口王墓古墳が同様の石室を持つと推定されている。

 また、この古墳は、埋葬施設が横穴式石室から横口式石槨へと移行する途上のものとされ、築造は7世紀の後半と考えられている。古墳の石室の感じは、香芝市にある平野塚穴山古墳のものと似ている気がする。

 ただ、整備としては、こっちの古墳の方がはるかにいい感じである。さすがに羨道部をコンクリートで覆うのは反則であろう。  

 

 話を古墳に戻そう。古墳には羨道部の前面に墓堂もあったようである。そして、古墳は真南を向いているのではなく、若干東へ触れている。その先には屋敷山古墳があり、屋敷山古墳の被葬者とのつながりも想定される。おそらく二塚古墳、屋敷山古墳、火振山古墳などといった一連の古墳との同じ系譜にあると推察できそうだが、葛城氏は、この神明神社古墳が築造されたころには、勢力が衰退しており、じゃあ、いったい被葬者は誰という疑問符が頭の中に飛び交う事になる。

 

 古墳の雰囲気から言っても、かなり皇族に近い人物が想定できそうだが・・・。用明天皇の皇子、当麻皇子が、母が葛城氏の出であるので、該当しそうなのだが、没年が7世紀の前半だと思われるので、ちょっと時代が合わない。難しいなあ。

 神明神社古墳から、まなびやの森・かつらぎの中にもう一つ皿池古墳と呼ばれる古墳があるので、その古墳を探索したのち、屋敷山古墳へ向かうことにしよう。

 注)この古墳を訪れたときは、まだ奈良県の社会教育センターが営業している時であったが、現在、休館に なっていると聞く。この古墳も写真の時のように整備されているのかどうか、ちょっと不安ではある。


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