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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

奈良のきたまち散歩② ~多聞山城跡、旧奈良監獄~

2019-12-26 23:41:06 | 史跡を歩く

 聖武天皇陵から多聞山城跡へは、住宅地の中を抜けていくことになるのだが、その辺りは昔、奈良奉行所に勤めていた同心や与力たちが住んでいた場所でもあったらしい。そういえば、古めかしい、どことなく趣きのある家がいくつか並んでいた。

 多聞山城は、戦国時代の梟雄、松永久秀が1560(永禄3)年に築城した平山城である。多聞櫓と呼ばれる櫓と門が一体になった長屋状の建築物は、この多聞山城に始まると言われる。ちなみに多聞山城の名称は、城に多聞天を祀ったことに由来すると言われる。城としては、短命で、1573(天正元)年に松永久秀が、織田信長に敗れて滅んだ後、1577(天正5)年に破却されている。建物等は、旧二条城に、石材は筒井城などに再利用されたと言う。

 城跡には、若草中学校が建てられており、荘厳であった多聞山城を偲ばせるものはほとんど残っていないようだ。

 

 学校の敷地内に、多聞城跡と刻まれた石碑と築城に使われた石塔や墓石が正門横に集められている。

 

 そのほか、若草中学校に至る道は、かなりの坂道になっており、学校の校地も、石碑のある場所からも階段を上るようになっている。

 

 おそらく、当時、かなりの勢力のあった東大寺や興福寺も一望にでき、また、京都と奈良を結ぶ京街道もこの近くを通っている。こういった立地の良さが、この場所に城が築かれた理由だと思われる。

 

 若草中学校から東へ行くと、中学校の校舎とグランドの間に橋が架かっている場所がある。

 

 多聞山城の堀切の跡であると言われている。たぶん、道路を作る時に掘り下げたのではないだろうか。しかし、あれだね、校舎とグラウンドを橋でつないでいる学校ってあまりないような気がするなあ。

 そして、残念なことだが、この中学校の建設時には、まだ文化財保護法が制定されていないため、発掘調査がきちんと行われていなかったそうである。惜しいなあ。

 ここから北へ住宅地を抜けていくと、奈良少年鑑別所として使われていた「旧奈良監獄」がある。

 

 レンガ塀に沿って歩くとロマネスク様式の正門が見える。

 

 この日は、施設の見学会が開かれていたようで、多くの人が見学に訪れていた。入り口からのぞき込んでいたら、申し込んでいない人は入らないでときつく言われてしまった。めっちゃ感じが悪かったなあ。

 

 旧奈良監獄は、1908(明治41)年に竣工。あら、奈良女子高等師範学校が開設されたのと同じ年だ。当時、日本が不平等条約を解消するために近代的な法治国家体制を示すために、千葉、金沢、奈良、長崎、鹿児島に5大監獄を設計し、最後に完成したのが、この奈良監獄である。ほぼ当時からの建物であり、唯一完全な形で残っている。この建物を設計したのは、山下啓次郎氏、ジャズピアニスト山下洋輔のおじいさんであるらしい。

 

 戦後は、少年刑務所として使用され、2017(平成29)年に閉鎖され、今後、星野リゾートによりホテル等に転用されるとのことである。

 僕としては、漫画「じゃりン子チエ」でテツが中学生の時に、奈良の少年鑑別所に入れられたというエピソードがあったことで、この建物が、漫画の中にも描かれていたので、そのイメージが強い。ただ、高級リゾートホテルとじゃりン子チエでは隔たりが大きいか・・・。


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