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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

古市古墳群を歩く(藤井寺市編)③ ~誉田山古墳(応神天皇陵)周辺その1

2014-10-20 22:53:36 | 史跡を歩く
 番所山古墳から東へ住宅街を抜けていくと外環状線に出る。外環状線を渡ると、宗教法人の教会があり、その奥に誉田山古墳が所在する。

 

 まずは、誉田山古墳の参道を行こう。拝所までは結構ある。拝所に向かって左側に、誉田八幡宮に保管されている国宝金銅製龍文透彫鞍金具が出土した丸山古墳がある。丸山古墳については、応神天皇陵の域内陪冢に指定されている。

 

 丸山古墳については、径50m、高さ7mの円墳である。周囲には周濠があった可能性もあるとのことである。内部構造については、宮内庁の管轄下にあるため、不明となっている。

 また、参道の西側には、宮内庁の書陵部の管区事務所がある。

 

 外環状線から、参道に行く道の途中に広大な空き地が広がっている空間がある。よく見ると自転車道のような舗装されていない土の細い道が続いている。

 

 外環状線の舗道から、自転車道に降りることができるため、実際に歩いてみることにした。
 この空地が、誉田山古墳の外濠外堤であり、国の史跡に指定されている。ずっと誉田山古墳に一定の間隔を置きながら後円部まで道はずっと続いている。但し、歩いて見ても内濠の木が高く、なかなか墳丘までは見えない。

 

 ただ外堤をめぐるだけでも、誉田山古墳の巨大さだけは実感できる。ここで誉田山古墳のデータを取り上げてみたい。
 墳丘は、全長425m、前方部幅300m、後円部径250m、前方部の高さ36m、後円部の高さ35mとされており、百舌鳥古墳群の大仙古墳(仁徳天皇陵)についで、日本で2番目に大きい古墳である。(ただし体積では大仙古墳よりも大きいといわれている。)ちなみに、以前このブログで取り上げた東山古墳もこの外堤にそって存在している。築造された年代としては、5世紀の初頭だと考えられている。そして、現在、延喜式に基づき応神天皇惠我藻伏崗陵として宮内庁の管轄下にある。
 外堤については、西側(写真のところ)について、約30mの濠があり、その外側に幅15mの外堤があったとされている。東側については、周濠自体はあるが、かなり狭かったのではないかといわれている。
 誉田山古墳が築造された五世紀初頭は、倭の五王の一人として知られている倭王讃が初めて東晋に朝貢をしたのが、413年と言われている。まさにそういった時代に、この古墳が築造されているのである。古墳の巨大さを考えると、中国に進出するほどの国力と自信があふれているように見える。

 この古墳の外周を歩くと後円部と接するあたりに小さな広場があり、案内板が立っている。

 

 ここいら辺りから市域が藤井寺市から羽曳野市へ移る。と同時に周囲に住宅が立ち並び、古墳に沿って歩くことができなくなる。

 この辺りは新興住宅地というよりは、旧村の風情が見える。そして、応神天皇を主祭神とする誉田八幡宮の南大門が見えてくる。

 

 誉田八幡宮については、日本最古の八幡宮と言われ、その創建は欽明天皇のころに遡ると言われている。古くは、誉田八幡宮の御旅所が後円部に作られており、誉田八幡宮から渡ることができたらしい。

 

 八幡宮と誉田山古墳の後円部の間にある放生橋はその名残であろうか?

 誉田八幡宮には、誉田山古墳のものだと言われている石棺や天井石の一部が境内の中にあるのだが確認はできなかった。残念。

 

 八幡宮の拝殿は、豊臣秀頼の寄進によるものと伝えられる。建築の途中に豊臣氏の滅亡があり、内部については、未完成とのことである。

 その他、境内には、誉田古戦場の碑が建っている。誉田八幡宮は、交通の要路にあり、古くは南北朝時代からたびたび古戦場になっている。大阪夏の陣に際しても、この地に薄田兼人が陣取っている。

 

 誉田八幡宮の東側には、東高野街道が走っている。この街道の西に誉田山古墳が横たわっている形になる。古道と巨大古墳とは何かしら関係があるように思われる。
 次は誉田山古墳の東側を歩いてみよう。というわけでその2へGO!

 
 
 

 
 

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