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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

東大寺東塔院 発掘調査現地説明会

2016-01-17 15:43:15 | 現地説明会
 11月21日の土曜日の午後から東大寺東塔の発掘調査の現地説明会があるということで、お昼から大急ぎで奈良へ。この日は、午前中に所用があり、JR奈良駅から東大寺へと向かったのだが、これが思いのほか遠かった。午後1時から開始の説明会に到着した時は2時を少し回っていた。2時からの説明が始まっていた。

 到着した時には、今回、発掘調査を行っている東大寺東塔の基壇の周りには多くの人が集まって、担当者からの説明を聞いていた。

 

 最初に目に入ったのは、調査区の中央区の基壇の東側部分、基壇を覆っていたであろう石や石敷きの遺構である。出っ張っているところは階段があったところである。昔から、寺院の基壇の部分については、ずっと石で覆っていたんだと今更ながらに得心した。

 東大寺の東塔は、周囲を回廊と四つの門で囲われて独立しており、東塔院と呼ばれていた。当日配布された資料によると東塔は764年(天平宝字8年)に東塔の露盤を上げると書かれている。ちなみに764年は恵美押勝の乱が起り、淳仁天皇が廃され、称徳天皇が重祚した年にあたる。血なまぐさいドロドロした世相だったような感じである。
 東塔は、平安時代に入り幾度か修理を受けているが、維持はされていた。1180年源平の戦いに中、平重衡の焼き討ちにあり、焼失するも、鎌倉時代に入り再建される。そして南北朝時代に入り、1362年落雷により焼失し、その後再建はされていない。

 

 奈良時代の基壇の外装石が残っているところが2か所見つかっており、奈良時代に建てられた基壇に盛り土をして、さらに規模を広げて建てたようで、約47m四方であると推定されている。

 

 奈良時代の基盤の大きさは、24m四方と考えられ、建物の構造も変わっていたと考えられている。ちなみに、西塔跡の基壇は同じぐらいの大きさとのこと。

 

 基壇の上に上がってみると、大きな不整形な穴がいくつかあり、これが心礎と礎石のあったところである。形がバラバラなのは明治になってから、礎石を取り出したからである。明治になってからだから、廃仏毀釈の時に、かなり寺勢が衰えたと言われているのでその時のことなのだろうか。

 

 ただ、礎石の位置を示す石標が建てられており、今回の調査の結果、その石標の通りに礎石に跡が見つかっている。それによると3間四方の建物であったことがわかっている。文献によると九重塔が建っていたらしい。避雷針等がない時代だから、一発で雷にやられるわなあ。

 基壇に中の発掘調査が行われていない部分についても、写真のように礎石の位置が示されている。

 

 北調査区では 北門と東塔に続く参道が見つかっている。

 

 基壇に残っている階段の幅と参道の幅が同じであることから、鎌倉時代の再建に伴って整備されたものと考えられている。

 

 

 南調査区では、回廊跡が見つかっているので、ほぼ東塔院の規模は確定できたことになる。

 

 この東塔院の発掘調査の後は、西塔跡等の発掘調査へと調査区域が広げられることになるとのことである。

 

 西塔跡である。訪れる人もなくひっそりとしていた。西塔の方は、平重衡の焼き討ちの後は、再建をされていないのかもしれない。

 

 また、西塔跡の東側に一乗院宮の墓地がひっそりとある。一乗院は興福寺の塔頭で、江戸時代の初期に皇族が入る門跡寺院となった。

 

 墓地の中には、後水尾天皇皇子一乗院宮真敬法親王と後陽成天皇皇子一乗院宮尊覚法親王墓の五輪塔が宮内庁により管理されている。

 この後、紅葉を見ながら、東大寺を出て、帰路につく。国道24号線の横、雲井坂の辺りはすっかりと紅葉をしていた。すっかり秋も深まっていた。

  

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