ふりかえれば、フランス。

かつて住んでいたフランス。日本とは似ても似つかぬ国ですが、この国を鏡に日本を見ると、あら不思議、いろいろと見えてきます。

盛者必衰の理・・・というには、あまりに長く、厳しい道のり。

2011-10-31 21:19:27 | 社会
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者もついには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。

言うまでもなく『平家物語』の冒頭部分ですが、これに例えるには、ちょっと厳しいような気もしますが、しかし、かつての栄光や、今いずこ、と思わざるのをえないのが、これまた言うまでもなく、ギリシャです。

古代ギリシャと言えば、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの三哲人、喜劇作家のアリストパネス、女流詩人のサッポー・・・多くの名前が浮かんでくるように、優れた文化が花開きました。紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけての時代です。多くの都市国家(ポリス)が成立したのは、さらに時代を遡って紀元前800年代。はるか昔のことです。

今日では、オリンピックの入場行進で先頭を歩く国として目立つ程度で、脚光を浴びることはあまりありません。その入場行進にしても、古代ギリシャの「オリンピアの祭典」がオリンピックの起源ということで与えられている名誉で、やはり昔の栄華に助けられていることになります。観光収入が多い国ですが、その観光名所にしても古代ギリシャ時代の遺跡と自然。

『平家物語』が書かれるより1,500年も前に栄えたかつての盛者、「ギリシャ」の名が今日、連日メディアのトップを飾っています。言うまでもなく、「ギリシャ危機」。ユーロ圏を、EUを、そして世界の経済を混乱に陥れている問題ですが、当のギリシャ人は、現状をどう見ているのでしょうか・・・25日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

「我々は怠け者だと思われているのだろうか」・・・アテネに住む公務員のカップル、クリス・ボッシニキス(Chris Bossinikis)とマリア・ソティラキ(Maria Sotiraki)と話し始めるや、いきなりクリスがこの質問を投げかけてきた。

多くのギリシャ人と同じように、クリスも自国のイメージ、つまり北ヨーロッパの人々が寒さの中で働いている間、太陽の下で肌を焼いているだけというイメージを恥ずかしく思っている。フランス人エコノミストのパトリック・アルチュス(Patrick Artus)は、こうした決まり切ったイメージには何ら根拠はなく、地中海に面した南欧の国々は他のヨーロッパ諸国よりもむしろ長く働いているのだが、一度持たれたイメージは変わらない、と語っている。

クリスはアテネのごみ処理場で庭師として働き、木の世話や植樹を行っている。そこでの勤務が終わり、デモの予定がない場合には、別の企業や個人からの依頼を受けて働いている。マリアも同じごみ処理場で事務の仕事をしている。

二人は公務員といっても正規の職員ではない。8年も契約職員として働いているが、まだ正規の職員にはなれない。ギリシャの財政を支援している「トロイカ」、つまりFMI(le Fonds monétaire international:国際通貨基金)、BCE(la Banque centrale européenne:欧州中央銀行)、CE(la Commission européenne:欧州委員会)から緊縮財政を行うよう通告されたギリシャ政府は、2010年の秋以降、契約職員との契約を打ち切ろうとしている。そのため、クリスとマリアは6カ月ごとに裁判所に行くことになったが、裁判所は政府の決定を破棄してくれている。

生産年齢人口の16%と同じく、二人は失業の恐れを抱いている。アテネ郊外で精神科医として働いているDimitris Ploumidisは、「9月以降、患者の半数が職を失っている」と語っている。

ギリシャは病んでいる。うつ病患者は増加し、自殺者数も増えている。ギリシャは長年そうした病や自殺に関してはヨーロッパで最も少ない国と自負していたのだが。終わりの見えない不景気の中で生まれた、一種の集団的憂鬱状態だ。

デモ参加者の多さや、オーストラリアをはじめとする海外への移住を希望する人の多さが、国民の精神状態を物語っている・・・「ギリシャに未来はない。」

社会党(正式には、全ギリシャ社会主義運動)のパパンドレウ(Georges Papandréou)政権は、まさに力尽きようとしている。緊縮財政の厳しさから国民からは抗議を受け、海外からはその実施が遅いと批判を受けている。最大野党(新民主主義党)は世論調査で支持率を伸ばしているが、二大政党は1974年(軍事政権崩壊)以降、交互に政権の座についてきたのだ。緊縮財政は2010年5月に可決されていたのだが、社会階層の全て、失業者から企業経営者までのギリシャ人の多くが、この政策は厳し過ぎるし、効率的でもないと考えている。国民は財布のひもを締め、緊縮策の効果は現れていない。

トロイカはギリシャの市場への復帰(支援の完済)を2021年に延ばすことを暗黙のうちに認めているが、そのことはあと10年も返済と耐乏生活が続くということだ。世界中のテレビが伝えたような暴力行為も起きたデモは、国民の怒りを示している。しかしデモも緊縮策を退けることはできない。

EUサイドでは、首脳たちが次から次へと緊縮案を出しているが、希望が持てないことが明らかになっている。軍事政権の崩壊以降、ギリシャの政治はヨーロッパを向いてきた。EUへの歩み、ユーロへの加入は、近代化および繁栄と同義語だった。「ギリシャがヨーロッパ主要国の判断について、今回のように慎重になっているのは初めてだ」と、政治学者のGeorges Sefertzisは語っている。

世論調査によれば、ユーロとEUの支持者はつねに半数を超えている。しかし、疑いの念も頭をもたげてきている。世論調査を専門とするIannis Marvisは、EU支持の国民感情は、次第に侵食されつつあると、5月に説明していた。

「ヨーロッパ社会の貧乏国にはなりたくない」と、マリアは語っている。ヨーロッパの基金、それはギリシャではうまく活用されず、しばしば目的と異なってしまうのだが、その資金は富める国と貧しい国の格差を埋めるために活用されるべきだ。後ろを振り返れば、2000年代のギリシャ経済の成長が、借金の山の上で達成されたものであることを歴史が物語っている。

民営化などさまざまな改革を約束しておきながら、なかなか実施に移さないギリシャ政府の対応は、EUあるいはトロイカによる管理の強化につながっている。「国家財産さえ売られるかもしれないと聞くにつけ、ギリシャ人として恥ずかしく思う。植民地となり果てるのかもしれない」と、Dimitris Ploumidisは憤っている。

「EUは上手くいかないだろう。北欧は南欧と離れたがっている。メンタリティを異にしているのだ」と、サロニカで修理工場を経営するSavvas Lazosは語っている。彼は、オーストラリアへの移住を希望している。2000年からの繁栄の10年に大流行した4WDはもはや買い手がいない。

国民的極左雑誌“Ardin”の管理職であるGeorges Karambelisは、パパンドレウ首相とベニゼロス財務相はトロイカの操り人形であり、指名手配犯だと、“WANTED”と大書きしたプラカードを持ってデモに参加し、大きな注目を集めた。緊縮財政の見返りは、「自由な生活」だ。Karambelisは、台頭する隣国トルコに対応するために、ギリシャはEUの一員であるべきだと、EUを支持している。しかし、その彼にとっても、EUとギリシャは袋小路に入り込んでしまったと思える。「EUはギリシャ政府に緊縮策を続けるよう圧力をかけているが、無責任だ。ヨーロッパ全体に危機をもたらすことになるのに」と述べている。

ギリシャとEUの関係は複雑だ。ヨーロッパからの財政上、軍事上の支援がなければ、200年近く前、ギリシャはオスマン帝国のくびきから逃れ、独立することはできなかっただろう。

フランス、イギリス、その他の国々にとって、ギリシャと言えば、古代の栄華、そして民主主義の揺籃だったが、今や借金の国となっている。

“Le Dicôlon”という小説(ギリシャで1995年に出版され、2011年にフラン語訳が出た作品)で、Yannis Kiourtsakisはヨーロッパにとって複雑なギリシャとの関係とギリシャの古代遺産の重要性を語っている。「古代ギリシャへの称賛は、ヨーロッパとヨーロッパ人に対して常に持ち続けている我々の劣等感を、ゆるぎない優越感へと変容させてくれる。我々はよく自覚しているのだが、歴史がギリシャを乗せた台座から、いかに小国になったとは言え、そのギリシャを引きずり降ろすことは誰にもできなのだ、永遠に。」

EU、そしてユーロへの加盟は2004年のアテネ・オリンピックと同じで、ついにその時が来たと受け止められていた。つまり、ギリシャはヨーロッパと対等だ。お金は使うのも借りるのも容易だ、個人にとっても、さらには政府にとっても。しかし、経済危機がやってきた。ギリシャはその台座から、突然、悲しみの中で引きずり降ろされたのだ。

・・・ということで、腐っても鯛、借金王と言えどもギリシャ。古代ギリシャへの尊敬の念があるうちは、EUはギリシャを見捨てはしない。そして、その称賛は、消え去ることがない。確かに、ギリシャ語は今でも各国で教えられていますし、古代ギリシャ文明に憧れる人も多くいます。

しかし、あの文明を築いた人々と同じ民族とはとても思えない、という人がいるのも事実です。年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず・・・同じギリシャ人と言えども、年月を経れば変わることでしょう。古代ギリシャ人の末裔というだけで、優遇してよいはずがない。ついに、ギリシャはその台座から引きずりおろされてしまいました。

緊縮財政策で国民の反発を買っているパパンドレウ内閣ですが、二つだけ素晴らしい成果をあげている、と国民の間で言われています。交通渋滞と、国民のコレステロール過多を解消したこと! そうです、給与は引き下げられ、失業者も増えている中で、ガソリンの価格は高止まり。従って、クルマを運転する人は減少。渋滞がなくなった。また飽食ともさよならをせざるを得ず、コレステロール値も下がった! ・・・こんなジョークを言っていられるうちは、ギリシャもまだまだ消滅してしまうことはなさそうですね。

悪いのは、いつも、外国人・・・大統領の公約で増えた手当でさえも。

2011-10-30 21:00:31 | 社会
昔、といっても25年ほど前ですから、そう遠い話ではないのですが、「シルバー・コロンビア」計画というプロジェクトというか、一種の社会現象がありました。覚えておいででしょうか。名前からすると、宇宙開発のような響きもありますが、シルバー層の海外移住、つまり老後は海外で、というブームでした。

太陽に恵まれたスペインのコスタ・デル・ソル(太陽海岸)が良いとか、オーストラリアのゴールド・コーストが良い、あるいは、やはりアメリカのカリフォルニアか、フロリダが良いとか、同じアメリカでも、退職者の街として建設されたフェニックス郊外の「サン・シティ」が良いのではないかとか、いろいろな話題が提供されました。

もちろん、そんな遠くはいやだという人向けに、アジアのリゾート地も候補になりました。バリ島、プーケット島など、常夏で、ゴルフができて、お米が食べられるところが良い、という意見もありました。

しかし、この計画もバブルの崩壊とともに、雲散霧消・・・霞が関の話題になることはなくなったようです。しかし、ブームとはいかないものの、老後を海外でということを実行に移している人も、増えて来ているようです。最近多いのは、マレーシア。政治が安定し、ゴルフが十分に楽しめ、日本からもそれほど遠くない。外国人用のマンションも整備され、治安も特に問題ない。日本の食材も、贅沢を言わなければ、それなりに手に入る。ということで、クアラルンプールなどで老後を過ごす人が増えているようです。

老後を海外で、という人は、先立つ物の準備をしっかりした上での計画でしょうから、移住した先での社会保障は期待しなくてもよいことと思いますが、それでも、行った先の国の社会保障制度を知っていても損はない。少なからず気になるところではありますね。

老後をフランスで、という方は、多くはないと思いますが、フランスでは高齢者連帯手当(l’Allocation de solidarité aux personnes âgées:ASPA)という、どの老齢保険制度にも加入していない65歳以上の高齢者(ただし、フランス国籍保持者か10年の滞在許可証所持者、またはフランス国籍を持つ人の親)を対象とした非拠出制年金があります。老齢最低保障手当(le minimum vieillesse)などいくつかの手当を2006年6月から一本化した制度です。

しかし、この手当に対し、フランスになんら貢献しなかった外国人の高齢者に連帯手当など支払うことはない、外国人高齢者をこの手当の対象から排除すべきだ、という声が、与党・UMP右派から上がり始めています。経済危機に乗じて外国人を排斥しようということなのか、社会不安を外国人の責任に転嫁したいからなのか。実態とその背景や、いかに・・・25日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

UMP(国民運動連合)内の議員グループ“la Droite populaire”(2010年6月に42人の下院議員によって設立された政策グループで、主要テーマはフランスのアイデンティティ、治安、移民。このテーマから分かるように、UMP右派。メンバーには、運輸担当大臣のTierry Marianiなどがいます)は、また得意の話題を見つけたようだ。老齢最低保障手当がそれだ。“la Droite populaire”の共同設立者であるフィリップ・ムニエ(Philippe Meunier)は「高齢者連帯手当」(ASPA)の支給対象者をフランス人およびEU加盟国出身者、フランスのために戦ったフランス在住外国人に限定しようと、「社会保障財源法案」(le projet de loi de financement de la sécurité sociale:PLFSS)の修正を67人の下院議員とともに提案した。2012年の社会保障財源法案に関する審議は下院で25日午後に始まることになっている。

「この修正の目的は、フランス国内において働いたことも社会保障の負担金を支払ったこともないEU外出身の外国人が老齢最低保障手当の恩恵に浴しているという不公平に終止符を打ち、公平さを再びもたらすことだ」と、ムニエ議員はコミュニケの中で語っている。

老齢最低保障手当の支給額は、65歳以上の単身世帯、あるいはカップルの内65歳以上がどちらか一人である世帯には月額742.27ユーロ(約7万9,500円)、年間合計8,907.34ユーロ(約95万3,000円)となっている。カップル(婚姻関係、内縁関係、PACSを結んだ関係)の二人共が65歳以上である場合は、月額1,181.77ユーロ(約12万6,500円)、年間では14,181.30ユーロ(約151万7,500円)が支給されている。

この手当は、65歳以上で、年金を受け取れるだけの負担金を支払わなかった人を対象としている。修正案提出の背景として、ムニエ議員は、手当の受給者70,930人の内22,803人もがEU外出身の外国人だということを指摘している。

移民の大部分は生産年齢の途中でフランスへやって来るため、年金を受給するために必要な負担金支払い最低期間を満たすことは難しい。従って、ムニエ議員の指摘した数字は特に驚くべきものではない。

高齢者連帯手当(ASPA)の支払総額は6億1,200万ユーロ(約654億8,500万円)になっており、ムニエ議員によれば、ここ5年で20%増加したそうだ。しかし、この増加はEU外出身の移民増加とは何ら関係がない。社会保障の会計検査委員会が実際、9月に公表した報告書の中で、ASPAの受給者数は2009年、2010年ともに増加しておらず、2011年、2012年も安定的に推移すると述べている。

支出が増えたのは、5年間での受給額25%引き上げが理由だ。それは、サルコジ大統領の選挙公約だった! ムニエ議員は、修正案が可決されれば、2億ユーロ(約215億円)以上の財政削減になるだろうと語っている。

・・・ということで、高齢者連帯手当の支給総額が増えているのを理由に、支給対象者から外国人を排除しようという与党・UMP右派の提案ですが、支給総額が増えているのは、受給者数が増えているのではなく、支給額を増やしているから。しかも、その支給額増は、サルコジ大統領の選挙公約だった!!

支給額の増加という数字は、とってつけたような理由でしかなく、本当の目的は外国人への社会保障の削減、ひいては外国人の排斥なのでしょうね。なにしろ、“La Droite populaire”のテーマが、「フランスのアイデンティティ、治安、移民」ですから、移民排斥を狙っているのは明らかなのではないでしょうか。

国民の不満が高まってくると、国民の関心を外国へ向けようとする為政者がいつの世にもいます。その第一歩は、国内に住む外国人へ向けられます。本来なら国民の不満を解消することが政治家の務めなのでしょうが、その難問から逃げて、国民の関心を外に向けるという安易は方法を取ろうとする政治家が出てきます。外国人排斥、外国企業攻撃、外国への侵略・・・すべては外国が悪い!

はたして、そうなのでしょうか。国内の課題が解決されない所に、国民の不満の根源があることが多いのではないでしょうか。外国や外国人を言い逃れに使うことは、もういい加減に止めたいものです。同じ悲劇を繰り返しているのでは、科学技術を除いて、人類は進化していないことになってしまいます。

「人間」は、本当に進歩しているのでしょうか・・・「進歩」が良いとは限らない、という意見もありますが・・・

物乞いを禁止するフランスの都市・・・目的は?

2011-10-28 20:26:47 | 社会
先日、子どもに物乞いをさせていた父親が大阪で逮捕されました。子どもだと、哀れに思って恵んでくれる人も多いだろうという計算なのでしょうが、その子どもの心にどのような影響を残すのでしょうか。父親は、近くに停めたクルマの中で見張っていたとか・・・

物乞いと言えば、バンコク。今は大変な洪水でさまざまな分野への影響が心配されていますが、この時期は雨季末期。毎年大雨になりますが、今年は例年以上に、異常に雨量が多かったのでしょうね。多くの観光客を惹き付けてやまない、この微笑みの国にも、物乞いは多くいます。それも、身体障害者の物乞いが多い。身体が不自由になると、他に働き口がないからだろうと思ってしまうのですが、実際には、子どものころに誘拐され、物乞いをするために、意図的に不自由な体にされてしまう場合も多いと、駐在時代に聞いた記憶があります。組織的商売・・・

そして、花の都パリにも。最初に住んだ、メトロ1号線のサン・マンデ(Saint-Mandé)駅近く。スーパー“FRANPRIX”の前の歩道に、こちらは五体満足、立派な体格のアラブ系男性が座り込んで、小銭が入った空き缶をじゃらじゃらと音をさせながら、恵みを催促していました。彼はスーパーの店員とは顔馴染みで、仲良し。私は1ユーロ・コインをたまにあげていたせいか、物乞いと仲の良いレジ係からは愛想の良い対応を受けました。しかし、パリでも、物乞いは組織的商売。彼が何かの都合で来ることのできない日は、別の人がきちんとカバーしていました。

また、凱旋門に近いシャンゼリゼには、多くのロマの女性たち。外国人観光客と見ると、近寄ってきます、“Do you speak Ebglish ?”と言いながら・・・

もちろん、フランスで物乞いがいるのは、パリだけではありません。多くの街にいますが、その中には、物乞いを一掃したいと考える自治体もあります。その一つ、マルセイユ市は、物乞いをはじめとする、公共の場での公序良俗に反する行為を禁止する条例を承認しました。

どのような内容で、各界の反応は・・・18日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

マルセイユ市は17日、公序良俗に反する行為、特に物乞いを取り締まることを目的とした市条例を承認した。条例文には、「市中心部の多くのエリアにおいて、歩行者の往来、道路や公共の場における利便性、建物へのアクセスなどを妨害し、あるいは公序良俗、治安を侵害するような懇願や要求を行うことを禁ずる」と書かれている。一時的なものではなく、しかもカバーエリアも広いこうした条例を導入することは市にとって初めのことだ。何しろ、ヴェロドローム競技場(Stade Vélodrome:サッカー・チーム「オリンピック・マルセイユ」のホーム・スタジアム)から、サン・シャルル駅(Saint-Charles:マルセイユの陸の玄関口)、ヴュー・ポール(Vieux-Port:旧港、観光地としても有名)まで含まれるのだから。

17日午後の記者会見で、治安担当の助役、カロリヌ・ポズマンティエ(Caroline Pozmentier:UMP所属の市議会議員)は、「この条例は、この夏起きたさまざまな出来事に対する市当局からの明確なメッセージであり、公共の場に平穏を取り戻すことを目的としている」と語った。彼女は、“anti-mendicité”(反物乞いの)という形容詞を使うことは避け、公共の道路でアルコール類を飲用することを禁じることも含むこの条例の幅の広さを強調した。警察は、この条例の違反者に38ユーロ(約4,000円)の罰金を科すことができる。

数年前、マルセイユ市はすでに、攻撃的行為、特に赤信号で停車中のクルマのフロント・ガラスを拭いて料金を強要する行為を取り締まる条例を採用した。この条例の導入後、問題のクルマの窓拭きはいなくなったという。警官組合の地域書記、ダヴィッド=オリヴィエ・ルヴェルディ(David-Olivier Reverdy)は、今回の条例は警官のパトロールを容易にするとともに、市民が感じている不安を軽減するのに役立つものだと、条例の成立を歓迎している。今回マルセイユ市が採用したような条例は、すでに他の都市、ニース(Nice)、モンペリエ(Montpellier)、シャルトル(Chartres)などでもすでに採用されている。

マルセイユ市議会の野党のトップ、社会党のパトリック・メッヌッシ(Patrick Mennucci)は、公道におけるアルコール類の飲用を禁止することには全く賛成だが、他人に攻撃を加えるわけでもない物乞いを禁ずることには反対であり、実際に施行するのは容易でないだろう、と語っている。また彼によれば、治安の改善のためには、存在するものの適用されていない夜間のアルコール飲料の販売禁止条例を実施に移したり、スナックの営業を午前2時までに制限する条例を導入する方が効果的だということだ。フランス共産党(PCF)は、最も貧しい人々を追い出そうとする条例であり、貧困はその犠牲者を攻撃すればなくなるという問題ではない、と述べている。

UMP(国民運動連合)所属のマルセイユ市長、ジャン=クロード・ゴダン(Jean-Claude Gaudin:1995年から市長を務め、同時に上院議員。閣僚経験もあり、現在はUMPの上院議員団長を務める大物政治家)は、“anti-mendieté”(反物乞い)条例、特にロマの問題に触れる条例の導入に反対する立場を表明してきた。今年の8月にも、最大限の配慮を持って人権を尊重しつつ、ロマの問題の解決にあたると述べていた。17日、市議会において、ロマの人々を永続的に受け入れるための方策について問われたゴダン市長は、ロマの追放の後、その開催を公約したものの死文と化している円卓会議を、県の対応に委ねてしまった。円卓会議担当の市助役、ミシェル・ブルガ(Michel Bourgat)は14日、県知事の方は市長からの回答を待っている、と語っていたのだが。

・・・ということで、ロマを中心とした物乞いを市の中心部から一掃しようという条例が可決されました。その一方で、ロマの人々をどうやって受け入れるのかを話し合う会議は、市と県の間でたらい回しにされてしまっているようです。

文化や習慣の異なる人々をどう受け入れるか考えるよりも、追い出してしまう方が簡単。しかし、フランスがそれでいいか。三代遡って、外国人が家系に1人もいない国民はいないと言われるほどの国で、と思ってしまうのですが、外国人といっても、基本的には、古代ギリシャ・ローマからの伝統文化、キリスト教的精神を持った人という制限が加わるのでしょう。そうでない人は、マイノリティ。その多くが外見も異なり、“minorité visible”(外見で分かる少数民族)として、有形無形の差別を、感じる感じないという個人差はあるにせよ、受けることになります。

異なる人をどう受け入れるのか、違いをどう受け止めていくのか・・・差別するのは簡単ですが、共生への道は険しいようです。

フランスの次のファースト・レディは・・・歌手か、モデルか、それとも?

2011-10-26 21:01:31 | 政治
“First Lady”・・・本来はアメリカ大統領夫人を指しますが(初出は1849年だそうです)、今では多くの国々で大統領や首相の夫人を指す言葉になっています。日本でも、首相夫人を、ファースト・レディとカタカナで呼ぶことがありますね。

民主党への政権交代の後、宝塚の経験を生かして、歌や芝居など、日本のみならず、外国でも華やかな活動を展開した鳩山夫人、陰の総理と言われるほどの影響力を発揮した菅夫人と、何かと話題を提供してくれるファースト・レディが続きましたが、一転、控え目な、大和撫子的野田夫人となりました。良く言えば、重厚、自民党時代に戻ったような野田首相の夫人だけに、陰で支える賢夫人といったところでしょうか。夫婦は似てくる・・・

フランスでは、“la première dame”。前プルミエール・ダムのベルナデット・シラク(Bernadette Chirac)さんは、大統領夫人としては唯一、自らも選挙を経て政治家になったファースト・レディです。ジャック・シラクと出会ったのも、パリ政治学院の学生同士としてでした。現在でもコレーズ(Corrèze)県議会議員です(因みに、コレーズ県議会議長は、社会党の大統領候補、フランソワ・オランドです)。しかし、偉ぶったところもなく、気さくで、しかも福祉事業に力を入れるなど、国民の人気は高いようです。

現プルミエール・ダムのカーラ・ブルーニ=サルコジ(Carla Bruni-Sarkozy)さんは、ご存知、イタリア出身の元トップモデルにして、シンガー・ソング・ライター。ミック・ジャガーをはじめ、多くの有名人と浮名を流してきました。華やかな経歴とイタリア貴族に繋がるという家系ゆえか、物怖じしない優雅な物腰が外遊先でも受けがよく、外国での人気がフランス国民に歓迎されています。

カーラさんが、2012年以降もファースト・レディでいられるかどうかは、来年の大統領選挙の結果次第ですが、世論調査では、社会党のオランド候補に支持率で大きく引き離されています。サルコジ家は、最近生まれたばかりの女の子(Giulia)とともに、エリゼ宮を離れ、平穏な家族団欒を送ることになるのでしょうか。

では、世論調査の通り、フランソワ・オランド(François Hollande)が大統領になると、新しいプルミエール・ダムは? セゴレーヌ・ロワイヤルとは別れてしまっていますし・・・パリ警視庁による違法捜査の対象になったのではないかと週刊誌“l’Express”が伝えている女性が、今のパートナーです。彼女が捜査対象になったのは、世論調査で先行するフランソワ・オランドの荒探しの一環ではないかとも憶測されているようですが、20日には、検察による真相解明の調査が始まりました(『エクスプレス』の記事に関しては、弊ブログ10月7日をご参照ください)。

では、そのフランソワ・オランドの現パートナーは、どのような女性なのでしょうか・・・5日の『ル・フィガロ』(電子版)が伝えています。

「自分が前面に出ることは望まない」・・・これが、フランソワ・オランドとカップルを形成して以降、46歳の政治ジャーナリスト、ヴァレリー・トゥリエルヴェイエ(Valérie Trierweiler)が常に言ってきたことだ。しかし、彼女がパリ警視庁・情報局の捜査対象だったと、10月4日に発行された週刊誌“l’Express”が報じて以後、彼女の名前はあらゆるメディアに登場することとなった。

アンジェの質素な家庭(父は傷痍軍人、母はスケート場の受付)出身の若く、野望に燃えたヴァレリーは(もともとの名前は、Valérie Massonneau、1965年2月16日生まれ)、20歳のときパリに出てきた。その後、ソルボンヌに学び政治学でDESS(Diplôme d’études supérieures spécialisées:高等専修免状)を取得。1988年、週刊誌“Profession politique”に採用される。聡明で感じが良いという評判を得た彼女は、その2年後、週刊誌“Paris Match”に移る。そこで、ジャーナリスト・作家のDenis Trierweilerに出会う。数年後、そのドゥニス・トゥリエルヴェイエと結婚し、子どもを三人儲ける(この結婚が初婚という説と、再婚という説があります。また、ジャーナリストとしての職業上は、この前夫の姓を今でも名乗っています)。

彼女は、社会党担当であった時、フランソワ・オランドと出会い、友人同士となる(はじめて出会ったのは、1988年の下院議員選挙の時だったようです)。そして、政治家と政治ジャーナリストという二人の関係が、友情から恋愛に発展したのは、2005年夏頃だったのではないかと、“Hollande secret”を著したセルジュ・ラフィー(Serge Raffy)は語っている。当時、オランドは公式にはセゴレーヌ・ロワイヤルとまだパートナー関係にあった。ヴァレリーとフランソワの関係が『パリ・マッチ』編集部内で知られるようになると、担当替えが行われた。2005年末、当時の編集長、アラン・グネスタール(Alain Genestar)は、ヴァレリーに社会党担当を外れ、UMPを担当するよう命じた。さらに2007年になると、文化担当へと異動させられた。しかし、政治部門を離れたくない彼女は、『パリ・マッチ』誌を辞め、テレビ局“Direct 8”に活動の場を移し、週1回、“Politiquement parlant”という番組の司会をMikaël Guedjと一緒に行うようになった。

今年、フランソワ・オランドは体重を落としほっそりとした体躯に、今までになかった落ち着いた雰囲気を漂わせるようになったが、それはヴァレリーが勧めたことだと言われている。こうしたことからオランドを陰で支えているように思えるが、彼女は決して日陰の女性というイメージの通りではない。「力強く、率直で、政治家を攻撃することも辞さない」と、あるジャーナリストは彼女について語るが、また、女性差別的言動をとった同僚に平手打ちを見舞ったのを見たことがあるとも述べている。知的で、規律を守り、困難に耐えることができる女性としての評判が高く、彼女を称賛する政治家は右翼、左翼を問わない。同業者も政治家も、彼女の優雅さと美貌、非の打ちどころのないスタイル、仲間づきあいの良さを強調するが、同性の仕事仲間は、自分の魅力に自信を持ちすぎていると指摘する。彼女と1年一緒に働いたMikaël Guedjは、「彼女と一緒にいると、みんな良く笑う。彼女は笑うことを良く知っているし、笑うことが好きな女性だ」と語っている。

ヴァレリー・トゥリエルヴェイエとフランソワ・オランドの関係は2010年(10月)に公表されていたが、政治家と政治ジャーナリストという利害の対立が深刻に取り上げられるようになったのは今年の4月、オランドが社会党の予備選への立候補を表明して以降だ。しかし、彼女は、Direct 8で“2012, portraits de campagne”という新番組を始めた。彼女が自らに禁じたことは一点のみ、オランドにはインタビューしないということだ。しかし、オランドが予備選で勝利をおさめない限りは番組の司会を続けたいと述べていた彼女だが、今月4日、ついに、ツイッターで番組を降りたほうが良さそうだと語った。

彼女はジャーナリストとしての彼女の仕事と世論調査で支持の高い政治家としてのオランドの立場とが引き起こすかもしれない問題を上手く避けることができるとは言っていたが、実際にはパートナーに関すること、特にオランドに批判的な記事に対しては、黙ってはいられないようだ。週刊紙“Le Journal du dimanche”に掲載された≪Pourquoi ils détestent Hollande≫という記事のせいで、編集長のオリヴィエ・ジャイ(Olivier Jay)はカンヌ・フェスティバルで彼女に会った際、ちょっとした口論をする羽目になった。また“l’Express”は、彼女がラジオ局のディレクターに、オランドが髪を染めているという情報を訂正するよう訴えるメールを送ったことを紹介している。熱心なツイッター利用者である彼女は、オランドにセゴレーヌ・ロワイヤルとの関係を問いただしたマルク=オリヴィエ・フォジエル(Marc-Olovier Fogiel:ジャーナリスト・司会者)への批判をツイッターで展開している。

彼女はしかも、メディアでパートナーのイメージを守ることだけでは満足できないようだ。彼女はコミュニケーション全般に関するアドバイザーの役割を演じているようだ。経済週刊誌“Challenges”によれば、オランドが側近を集めて開いている火曜日の定例昼食会に、ヴァレリーも加わっているそうだ。自分がスポットを浴びる場に立つことはないと言っていた彼女だが、2012年に“la première dame”になるかもしれない選挙戦と距離を保つことは難しいようだ。

・・・ということで、決して裕福とは言えない家庭に育ちながらも、美貌と知性とバイタリティで政治ジャーナリストとして生き、やがて政治家のパートナーに。そしてついには、フランスのファースト・レディになるかもしれない。フランス版アメリカン・ドリームですね。「ファースト・レディ」の名にふさわしい!

実際、写真や映像で見るヴァレリー・トゥリエルヴェイエはきれいです。カトリーヌ・ドヌーブをもう少し知的にした感じと言えば、誉め過ぎかもしれないですが、それに近い美貌の持ち主です。同性からやっかみの声が聞こえるほどですから、男性にはファンも多いことでしょう。

その中で彼女を射とめたフランソワ・オランドには、それだけの魅力があるのでしょうね、きっと。「平凡な大統領」を目指すと言っていますが、実は女性受けがすこぶる良いのかもしれません。笑顔が印象的な、気の良いおじさん、といった印象なのですが、その「人の良さ」が女性を安心させるのかもしれないですね。男は顔じゃない、ハートだ! といったところでしょうか。しかし、セゴレーヌ・ロワイヤルの次が、ヴァレリー・トゥリエルヴェイエ。それで、大統領の椅子を狙うとは、欲張り過ぎ、というものですよ、オランドさん。でも、そうなりそうで、羨ましい・・・

孟母三遷・・・フランスの母は、パリへ、ヴェルサイユへ。

2011-10-25 21:34:45 | 社会
子どもは周囲の影響を受けやすいので、環境を選ぶことが大切だ、という意味で使われる「孟母三遷」。史実ではないと言われていますが、わが子の成長のためには転居も辞せず。日本でも、越境入学などが問題になりました。エリアによっては、今でも小学校への越境入学が絶えないようです。

しかし、もうひとつの諺があります・・・「鶏口となるも牛後となるなかれ」。『広辞苑』によれば、「小さな集団であってもその中で長となる方が、大きな集団の中でしりに付き従う者となるより良い」という意味。エリート校で最終グループにいるのと、一般校でトップグループにいるのと、どちらがよいのか。それでも、わが子の可能性に賭けたい、と思うのが親心。エリート校のトップになる可能性は誰にだってあるはずだ!

その通りなのですが、子どもにとっての最も身近な環境は家庭。家庭が学ぶ環境になければ、どこに引っ越しても、どんな学校に入っても・・・とは思うものの、なかなかそう客観的になれないのが、わが子の教育なのでしょうね。だから、難しい。

教育をめぐる、地域差、家庭の差。フランスでも顕著になっているそうです。将来のエリートは、どこに集まっているのでしょうか・・・12日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

未曾有な事態だ。2011年の入試で、エコール・ポリテクニック(Ecole polytechnique、理工科大学校:理工系の最難関、1794年にナポレオンによって設立され、愛称は“X”)に合格した400人の半数をわずかリセ2校の出身者が占めたのだ(入学定員は、フランス人400名、留学生100名です)。パリのルイ・ル・グラン高(Louis-le-Grand)とヴェルサイユのサント・ジュヌヴィエーヴ高(Sainte-Geneviève)がフランスで最も評価の高いグラン・ゼコールの半数を分かち合った。エリートの「パリへの集中」(la parisianisation)に拍車がかかっている。パリと近郊のヴェルサイユ(Versailles)、ソー(Sceaux)のリセ出身者の合格数は2003年には156名だったのが、2007年には185名に増え、ついに今年は240名になった。新記録だ。

フランスで最も評判の良いグラン・ゼコールだけが例外なのではない。かつてないほど、エリートはパリに集中している。“ENS”(Ecole normale supérieur、高等師範学校)や“HEC”(Ecole des hautes études commerciales、パリ経営大学院)でも同じように、新入生のかなりの部分がルイ・ル・グラン高、サント・ジュヌヴィエーヴ高、アンリ4世高(Henri IV)の出身者によって占められている。“ENA”(Ecole nationale d’administration、国立行政学院、フランス人の新入生は80~100名、留学生が30名ほど)では、ことし、あるリセ1校から6名もの合格者が出た。アンリ4世高だ。合格者の多かった他の4校もすべてパリの富裕層の多く住む地区のリセだ。『ル・モンド』が入手したデータによると、難関校への道はますます険しくなっており、パリのリセから合格を目指すことが必須になってきている。

リセではグラン・ゼコールを目指す準備学級(classes préparatoires)を設けているが、公立のルイ・ル・グラン高と私立のサント・ジュヌヴィエーヴ高の準備学級出身者が難関グラン・ゼコール合格者の多くを占めている。パリ5区にあるルイ・ル・グラン高(ソルボンヌ・パリIVのすぐ東側にあります)の準備学級からは今年、エコール・ポリテクニックに105人、高等師範学校に80人、“Centrale”(Ecole centrales des arts et manufactures Paris、エコール・サントラル)に60人、“Mines”(Ecole nationale superieure des mines de Paris、パリ国立高等鉱業学校)に142人が合格した。しかし、実際に入学するのは、高等師範学校で30人、エコール・サントラルに38人、パリ国立高等鉱業学校に15人・・・複数のグラン・ゼコールに合格したため辞退した生徒もいれば、どうしてもエコール・ポリテクニックに入りたくて、もう一年準備学級で勉強することを選んだ生徒もいるためだ。経営系のグラン・ゼコールを目指す準備学級(1クラス、45人)からは、パリ経営大学院に20名、“Essec”(Ecole supérieure des sciences économiques et commericiales、高等商業学校)に5名、“ESCP”(Ecole supérieure de commerce de Paris、パリ高等商業学校)に6名が合格した。

また、“Ginette”という愛称でよく知られているサント・ジュヌヴィエーヴ高からの合格者数も同じように、まさに脱帽ものだ。「最近の平均では、エコール・ポリテクニックに80人、高等師範学校に15人、エコール・サントラルに50~60人、パリ国立高等鉱業学校に20人ほどが合格している。わが高の目標は、一学年の半数以上がこれら4グラン・ゼコールに合格することだ。経営系を目指すクラスでは、70~90%の生徒がパリにある6グラン・ゼコールに合格すること、しかも、その半数がパリ経営大学院と高等商業学校に入ることだ」と、校長のジャン=ノエル・ダルニ(Jean-Noël Dargnies)は語っている。エコール・ポリテクニックに合格する生徒は、数年前にジャック・アタリ(Jacques Attali:『国家債務危機』などでお馴染みの経済学者・文筆家、エコール・ポリテクニック、パリ国立高等鉱業学校、パリ政治学院卒、ENAとグラン・ゼコール4校で学んでいます)が言ったように、エコール・ポリテクニックの学生の出身幼稚園は40校では収まらない(出身地は必ずしも特定の地域に限定されていない、ということですね)。しかし、リセに関しては、パリの一握りのリセから集中的に合格している。

グラン・ゼコール難関校の入試の前に、まずは評判のリセに、続いて、グラン・ゼコール合格者数の多い準備学級に入学することが大切だ。しかし、新入生選抜の実態は明らかになっていない。「フランスでは、不透明さが勝っている。従って、落第した生徒の父兄による誤った解釈が流布することになる」と、社会学者のマルコ・オベルティ(Marco Oberti)は語っている。

大学区として見た場合、パリ学区は平均的でしかないが、教育関係などの家庭の子どもが多いことから、数校のリセに優秀な生徒が集まっている。今年、バカロレアの成績優秀者の75人がパリのリセ出身で、郊外のリセ出身が51人、地方のリセ出身は36人に過ぎなかった。数学のトップ二人は、ルイ・ル・グラン高出身で、哲学のトップ三人は、コンドルセ(Condorcet)高とアンリ4世高出身だった。2010年の成績優秀者はもう少し地域バランスを保っており、パリのリセ出身者は57人、2009年には45人だった。

ストラスブール、ナント、ボルドー、トゥールーズにも非常に良い準備学級はある。各地域の中心都市には大きな準備クラスがあり、パリの準備学級に近いレベルで授業を行っているのだが、優秀な学生はパリの準備学級に転校して行ってしまう。グラン・ゼコール合格のチャンスをより大きなものにするためだ。「合格者数の多い準備学級の平均的学生でいる方が、平均的な準備学級の優秀な学生でいるより、難関校に合格しやすい」とCNRS(Centre national de la recherche scientifique:国立科学研究センター)の研究員、アニェス・ヴァン・ザンタン(Agnès Van Zanten)は述べている。

社会の入口は、十分に開いているとは言えない。グラン・ゼコールの学長たちはそのことを良く知っているのだが、グラン・ゼコールのレベルが下がることを恐れているのだ。しかし、平凡なリセと一部の優秀な準備学級の間に広がる格差を埋めるために、いくつかの措置が講じられてはいる。例えば、アンリ4世高の準備学級だ。恵まれない家庭出身の高校生に、準備学級に入るための準備を1年間手助けしている。その制度を利用してアンリ4世高の準備学級に入った生徒二人が、今年高等師範学校に合格した。

こうした試みの成果は、まだ限定的だ。機会均等(l’égalité des chances)に関する公式な討論にもかかわらず、フランスは相変わらずエリートへの登竜門、グラン・ゼコール難関校への入学者に裕福な家庭出身者が多くを占める状況を変えようとしていない。フランスのエリートとは・・・パリの5区か6区、あるいはヴェルサイユの学区に子どもを登録することのできる家庭のことだ。

・・・ということで、親が教育について関心を持ち、かつ精通していること。そして、学習レベルの高い学区に子どもを入学させること。それがエリートへの第一歩になる。

しかし、これでは、エリートの固定化ですね。例えば、サルトル。

J’ai commencé ma vie comme je la finirai sans doute : au milieu des livres. Dans le bureau de mon grand-père, il en a avait partout ; ...
(“Les Mots”)

こうしたエリートの家に生まれない限り、エリートの道を歩むのは、限りなく難しくなってしまう。そこで、肯定的差別(discrimination positive)が検討されることになります。しかし、アメリカの例をみると、英語ですからアファーマティブ・アクション(Affirmative action)となりますが、例えば、新入生の一定の割合を有色人種に優先的に割り当てる。しかし、成績が良くても落とされる白人学生からは、こうした優遇策は逆差別だという声が出てしまいます。

フランスでは、アンリ4世高に見られるように、名門の準備学級へ入るための準備を1年間手助けし、迎え入れているようです。その中から高等師範学校合格者が出たことは、テレビのニュースでも紹介されていました。後に続く生徒たちには、本当にうれしい、勇気づけられるニュースだったでしょうね。

鶏口となるも牛後となるなかれ、とか、どこに行っても、自分さえしっかりしていれば、それなりの成績は取れる、という意見もありますが、実際には、なかなか難しい。子どもは、家庭内だけでなく、学校という環境にも大きく左右されてしまう。やはり、孟母三遷、なのでしょうか・・・

フランソワ・フィヨン来日。仏首相と日本とのある「絆」。

2011-10-24 21:36:08 | 政治
ソルボンヌの文明講座を受講していた折のこと。ある女性教師が語学担当になりました。脚を組んで、長いキセルでタバコを吸っているのが似合いそうな、懐かしのフランス女優といった趣がなきにしもあらずの女性でしたが、なぜか日本人に優しい・・・実は、息子さんのパートナーが日本人で、パティシエ目指して専門学校に通っていたのだそうです。その日本人女性が実習で作ったケーキを授業に持参して、生徒に配ったりしていました。

ある国とどこかで繋がっていると、より大きな関心をその国に持ったりすることがありますね。フランス、あるいはフランス語に興味を持つのにも、人それぞれの背景があることでしょう。昔見た映画、子どものころ読んだ本、夢中になったシャンソン、たまたま旅行に行って、近所にフランス人が住んでいて・・・

そして、政治家といえども、人間。同じようなことがあるようです。外交はさまざまな政治力学で動くのでしょうが、そこに個人的思い入れや関係が忍び込むことも、当然あるのでしょう。どこかの国に特に関心を持ったり、訪問回数が増えたり・・・例えば、シラク前大統領の日本贔屓。日本訪問回数は実に48回にのぼるとか。特に相撲への関心・造詣が深く、在任中は優勝力士に「フランス共和国杯」を授与していたほど。

しかし、代が替われば、対応も変わる。サルコジ大統領が訪問する先は、アジアでは中国へ。「フランス共和国杯」も廃止されたとか。そのサルコジ大統領に代わって、日本へやってくるのが、フィヨン首相。大統領でないため、日本のメディアの扱いは小さなものですが、首相就任後、今回で3回目の日本訪問です。そして、そこには日本との思わぬ関係がある・・・

来日の目的は、そして日本との「絆」とは・・・23日の『ル・フィガロ』(電子版)が伝えています。

灰色がかった海が空とひとつになっている。見渡す限りの海岸線。どこか荒涼とした雰囲気が漂う。木造の家々は今や跡形もなく、その跡にはクルマまで混じった瓦礫の山があるだけ。学校の校舎はまるでナイフで抉られたような状態・・・コンクリート製の建物と墓石だけが辛うじて倒れずに残っている。そぼ降る雨に、足元は泥の海と化した中、フランソワ・フィヨン(François Fillon)は石巻市を訪問した。港町・石巻は3月11日の地震と津波によって大きな被害を受けた。海岸線に押し寄せた津波の高さは14mにも達し、石巻だけで4,000人もの犠牲者が出た。2万人という全犠牲者の4分の1近くにもなる(5分の1かと思いますが、細かな数字には拘泥しないのがフランス式です)。

フィヨン首相は瓦礫の中を歩き、犠牲者に捧げられた記念碑の前で献花した。記念碑といっても木の板があるだけだが、そこには“Courage, tenez bon”(実際には、「がんばろう!石巻」)と書かれている。「G20について会談するために日本にやって来ましたが、ここ、石巻を訪問しないわけには行きません。地震の被害を最もひどく受けた地域の一つなのですから。」石巻で復旧・復興の支援を行っている在日フランス人ボランティアと会った後で、フィヨン首相はこのように語っている。さらに続けて、「ジャズピアニストをやっている弟が日本人ミュージシャンと結婚しているだけに、いっそう大きな関心を持って、この災害についてフォローしています。時は過ぎゆき、新たな課題が次々と出てきますが、ここには苦悩があります。災害から立ち上がる、その困難さはいつも同じです」と語り、災害にあった日本への支援を継続することが重要だと述べている。

*フィヨン首相は1954年3月4日生まれ。母親は歴史の教師で、父親は公証人。Pierre、Dominique、Arnaudと3人の弟がいましたが、末弟のアルノーは18歳で交通事故死。二男のピエールは、故郷、ル・マンで歯科医、そして三男のドミニクがジャズのピアニスト・作曲家となり、奥さんが日本人。ドミニク・フィヨンの演奏は、日本でもCDが発売されており、聞くことができます(もちろん、YouTubeでも。Dominique Fillonで検索してみてください)。昨年夏、2枚目のソロ・アルバム、“americas”がリリースされました。なお、「ピアノの貴公子」とも言われているそうです。

ヨーロッパ・エコロジー緑の党の大統領選候補者、エヴァ・ジョリー(Eva Joly)も最近、石巻から100kmほどの福島を訪れているが(エコロジストは、反原発の立場です)、フィヨン首相は、フランスの原子力複合企業・“Areva”は事故にあった原発の核廃棄物の処理に協力する用意がある、と語っている。日本政府の決定次第だが。「いずれの国家も、エネルギー政策を自由に選べる権利がある。エネルギーにはもちろん原子力エネルギーも含まれているが、原子力は安定供給、経済性、温暖化ガス排出への取り組みといった点で優れている」と、読売新聞とのインタビューで述べている。

フィヨン首相は日曜日に、日本の首相“Yoshihiki Noda”と会って(野田首相、Yoshihikoですが、細かな点に拘らないのがフランス流、しかも、日本の首相は毎年替わっていますから・・・)、G20と原子力について意見を交換した。これでフィヨン首相の今回の短い韓国・日本訪問は終了となるが、もちろん、サルコジ大統領同意の上での訪問だと首相府は説明している。

フィヨン首相の両国訪問にはもう一つ目的がある。23日のユーロ圏首脳会議を前に、ユーロの危機が世界経済に及ぼす影響を危惧するアジアの投資家たちを安心させることだ。フィヨン首相は金曜の夜、ソウルでごくわずかな随行員であるマリアニ(Thierry Mariani)エネルギー担当大臣、クルシアル(Edouard Courtial)在外フランス人担当大臣、下院議員で前労相のエリック・ヴェルト(Erib Woerth)と会食をした際、ユーロ圏への懸念を述べていた。「フィヨン首相は、どれかの帽子から見事な解決策が出てくることを期待しているのだが、問題はどの帽子から出てくるか分からないということだ、と語っていた」と、三人の中の一人が打ち明けてくれた。

東京で在日フランス人を前に、フィヨン首相は、「ヨーロッパは今、困難に直面している」と言いつつも、楽観的であるかのように振舞っていた。「60年来のプロジェクトである欧州統合は、ソブリン債問題で危機に瀕している。今ほど政治的決断が求められることはない」と述べ、大統領選へのサルコジ大統領の正式な立候補を暗示した。「ユーロのお陰でEUは統一が保たれている。ヨーロッパは重くのしかかっている障害を、G20の前に取り除くことができるだろう」と語るとともに、改革の成果を次のように強調した。「フランスの予算への信認は世界で最も高いレベルの一つだ。それは、我々の改革と規律がもたらしたものだ。」そして、大統領選へ向けての基本テーマを述べた。「考え得る方策を総動員して至上命題に答える。つまり、フランス人を守れ、という課題だ。」

豪華な駐日大使公邸で在日フランス人たちと歓談したフィヨン首相は、自らの記録に言及した。2007年以来、これで3回目の日本訪問だ。すると、まだ終わりじゃない、という声が会場から起こった。「そればかりは、確かじゃないが」とにこやかに答え、フィヨン首相は2012年以降を匂わせた。パリに戻れば、現実の政治が待っている。特に、来年の下院議員選挙でのパリからの立候補や2014年のパリ市長選への立候補がフランス政界で波紋を呼んでいる。与党・UMPのジャン=フランソワ・コペ(Jean-François Copé)幹事長は地方選での敗北を受け、パリの議員団の間に秩序を再構築したいと、パリ選出の議員たちと会談を持った。「コペはフィヨンの勢力を衰えさせるために、下院議員選でのパリからの立候補を焚き付けておいて、その後で批判を展開するという、いわばマッチポンプを行っているようなものだ」と、フィヨン首相の支持者は、現状を憂えている。2012年以後は、すでに始まっている。

・・・ということで、フィヨン首相の義理の妹さんが日本人。日本に何となく関心、愛着があるのでしょう。首相就任4年半で3回の訪日。これが頻度として多いのかどうか、はっきりとはしませんが、アジアの他の国々への訪問よりは多いのでしょうね。自ら3回目を強調しているくらいですから。

フランス政界と日本人とのつながりは、他にもあります。例えば、極右、国民戦線(FN)の重鎮、ブリュノ・ゴルニシュ(Bruno Gollnisch)。国立東洋言語文化研究所で日本語を学び、1974年には京大に留学。政界入り後は、ジャン=マリ・ルペンの右腕としてFNの副党首を務め、現在は、欧州議会議員とローヌ・アルプ地域圏議会議員を兼職。夫人は、日本人。

日本に関心を持ってくれる人が、外国の政界にも増えることは、国際化の時代、日本にとって良いことではないでしょうか。日本に留学している学生や、ワーキング・ホリデイなどで日本に住んでいる人たちの中から、やがて母国で政治家として活躍する人も出てくるかもしれません。こうした「絆」、大切にしたいものです。

そして、外国との「絆」のある政治家が、日本でもさらに増えるといいですね。親のコネで遊学したという世襲議員は多いようですが、自分の足で海外を歩いてきた人が政界にさらに増えてほしいものです。親のコネより世界とのコネ。民間企業はこの点をさらに明確に認識して、入社前に留学させるなど、外国人とのコネづくりにいっそう真剣に取り組み始めています。政界でも、ぜひ。記念撮影の際、端や後列にポツンと佇んでいないで済むように、ぜひとも多くの「国際的絆」を持ってほしいものです。

死亡した状況がはっきりしない・・・独裁者も、画家も。

2011-10-21 21:34:08 | 文化
42年間、リビアに君臨したカダフィ大佐が死亡しました。その死は、それこそ世界中で報道されていますが、死亡した状況がいまいちはっきりしません。

生きて捕らえられたのは間違いないようで、存命中の映像も公開されています。捕らえられた時には、背中と足に被弾してしたという報道もありますが、確認は取れていないようです。その後、民兵によって殺害されたという情報もありますが、トラックで他の場所へ移動中、カダフィ派との戦闘で死亡したという説もあります。しかし、国民暫定評議会(le Conseil national de transition)のジブリル(Mahmoud Jibril)暫定首相が、「カダフィ大佐を殺害した」と発表したという報道があり、どうも民兵によって射殺されたのかもしれません。情報がまだ錯綜しています。

生きたまま捕らえると国民暫定評議会は言っていたのですが、いざ捕らえてみると、現場にいる民兵の積年の恨みが強すぎた、ということなのかもしれません。排水管に逃げ込んだものの、発見され、引きずり出された。殴る蹴る、そして銃殺。その死体は引きずり回される。独裁者の末路・・・かつて、東欧でも、銃殺された独裁者がいました。今後、他の中近東の国々にも広がるのでしょうか。

フランスは、独裁者・カダフィ大佐の死を祝福しています。数年前には、カダフィ大佐をパリへ招待し、至れり尽くせりの厚遇をしたフランスですが、「アラブの春」がリビアに波及するや、一転、反カダフィ派を支援。イギリスとともにNATO軍の先頭に立ち、トリポリ陥落後には、サルコジ大統領がイギリスのキャメロン首相とともに、トリポリとベンガジを訪問。熱狂的な歓迎を受けました。国民暫定評議会をいち早く承認し、パリでの会談も行っています。その裏では、リビアの石油利権の30%を獲得したとも言われ、フランス外交の勝利と、自画自賛する向きもあります。

政治、外交・・・昨日の友は、今日の敵(仏語:L’ennemi d’hier est aujoud’hui ami. 英語:A friend today may turn against you tomorrow.)。ナイーヴでは生き抜いていけないようです。

さて、さて、為政者と同じく、その死の状況がはっきりしない画家がいます。フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Van Gogh)。あまりに有名な画家ですが、オーヴェル・シュール・オワーズ(Auvers-sur-Oise)で自殺した、というのが通説になっているものの、死の状況から自殺では不自然だという意見が根強く残っています。未公開の多くの資料をもとに、ゴッホの死は事故死だったと述べる本が出版されました。

どのような根拠で事故死だったと言えるのでしょうか・・・17日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

伝記作家のスティーヴン・ネイファー(Steven Naifeh)とグレゴリー・ホワイト・スミス(Gregory White-Smith)は(『ル・モンド』は二人とも伝記作家と言っていますが、より正確には、前者は美術史家、後者は作家で、このコンビが著したアメリカ人画家、ジャクソン・ボロックの伝記はピューリッツァー賞を受賞しています)、フィンセント・ファン・ゴッホの人生に関する新たな本を出版した。その本によれば(原題は“Van Gogh : A Life”です)、ゴッホの死は自殺ではなかった。ゴッホもよく知る二人の男と一緒にいる際、誤って発射された銃弾により死亡した事故死の可能性がある。ゴッホはオーヴェル・シュール・オワーズで1890年7月29日、37歳の若さで死亡した。

BBCによれば、二人の作者は今まで研究者が手にすることのできなかったゴッホの手紙を数多く、綿密に調べたそうだ。

ゴッホはラヴー亭(l’auberge Ravoux)に滞在し、作品を描くために周辺の麦畑を歩き回っていた。通説は、7月27日に畑で自殺を試みたが怪我を負っただけで死にきれず、宿泊先に戻り、2日後に死亡した、というものだ。

スティーヴン・ネイファーは、次のように語っている。ゴッホが自殺したのではないということは調べ始めてすぐ分かった。ゴッホを知る人たちの間で信じられている別の説がある。それは、ゴッホもよく知る二人の若者によって誤って発射された銃弾により重傷を負ったが、ゴッホは二人を守るため自殺というカタチで事故の責任を自分で負うことにした、という説だ。

ネイファーはさらに、次のように続けている。著名な美術史家、ジョン・リウォルド(John Rewald:1912-1994)は、1930年代にオーヴェル・シュール・オワーズを訪問した際に、上記のような説を検討していた。その説を裏付けるような新たな資料も見つかっている。中でも、ゴッホが腹部に受けた銃弾が、斜めの弾道を取っていたことが挙げられる。自殺なら、一般的には真横から垂直に撃ち込まれるはずだ。

二人の若者のうち一人は、その日、カーボーイの格好をし、手入れの行き届いていない銃をもてあそんでいた。その二人はゴッホと一緒に酒を飲んでいたと言われている。こうした状況であれば、事故死ということは十分に起きうることだ。若者二人がゴッホを意図して殺そうとしたと考えることには無理がある、と二人の作家は新著で述べている。

グレゴリー・ホワイト・スミスは、次のように語っている。ゴッホは自ら死のうとしたのではない。しかしこの事故の後で、自殺という状況を受け入れたのだった。彼の存在が重荷になっていた弟・テオ(Theo)を思ってのことだ。テオはまったく売れない画家、ゴッホを金銭面から支えていたのだが、ゴッホの死後わずか6カ月後に、後を追うように亡くなっている。

・・・ということで、ゴッホの死は、事故死だった、ということなのですが、よし、これだ、これで間違いないとも言えない所があります。例えば、『ウィキペディア』によれば、

「なお、死因は一般には自殺と言われているが、自殺するには難しい銃身の長い猟銃を用いたことや、右利きにも関わらず左脇腹から垂直に内臓を貫いていることから、他殺説も存在する。」

ということで、銃弾は垂直に撃ち込まれている!? スティーヴン・ネイファーとグレゴリー・ホワイト・スミスの説とは異なっています。同じく自殺ではないというものの、その根拠となる銃の弾道が異なっています。一方は、垂直だから自殺ではない、他方は、斜めだから自殺ではない!! 真実は、どこにあるのだ! と言いたくなってしまいます。

素人考えでは、腹部に銃弾を受けていること自体、自殺とは言えない理由になるのではないか、と思えてしまいます。自殺するなら、頭部(こめかみ)か心臓を狙うのではないか・・・そう思ってしまうのですが、それは20世紀後半や21世紀に生きる人間の常識であって、19世紀は腹部を狙ったのだと、もし言われてしまえば、反論のしようがありません。素人の哀しさです。何しろ、切腹は腹を掻っ捌いたわけですから、銃弾を腹部に受けていたからと言って、自殺ではないとも言い切れないのかもしれません。

すべては藪の中。『羅生門』の世界なのかもしれません。だからこそ、多くの人の関心を惹きつけ続けているとも言えましょう。少々、曖昧なところがあるほど、人は関心を寄せる・・・しかし、政治はそうあってほしくないものです。旗幟鮮明、はっきりした政治をお願いしたいものです。

なお、ゴッホ終焉の地については、『50歳のフランス滞在記』の2008年5月14日をご覧ください。写真とともに紹介しています。

フィヨンとコペ、それぞれの野望。

2011-10-20 21:18:36 | 政治
社会党の公認候補が決まった翌日、17日に行われた世論調査によれば、来年春の大統領選挙はフランソワ・オランド(François Hollande)とニコラ・サルコジ(Nocolas Sarkozy)の決選投票になる公算が高く、最終的には、62%対38%の大差でオランドが次期大統領になるという調査結果が出ています。社会党へ、17年ぶりの政権交代となります。

社会党予備選でのオランドの勝利など多くの政局を見事に見通している、あるフランス人も、2012年の大統領選はすでに終わったも同然。2017年がどうなるかに関心が移っている、と言っています。フランソワ・オランドが2012年から任期5年の大統領に。しかし、ユーロやEUを取り巻く環境が好転するとは考えにくい。誰が大統領であっても、その難局を乗り越えるのは至難の業。結果として、支持率は低下し、オランド政権も1期でその座を降りることになるだろう。従って、その後、2017年の大統領選挙に誰が立候補し、誰が後を引き継ぐかが、非常に注目される。すでに、そこに焦点を合わせて動き始めている政治家もいる・・・ということだそうです。

上記の世論調査が発表になるタイミングを見計らったかの如く、カーラ夫人が女の子を出産しました。おめでたいことです。“Félicitation !”なのですが、はたしてサルコジ大統領は赤ちゃんを抱く姿で、国父としてのイメージを付け加え、不利な情勢の一発逆転を狙うことができるのでしょうか。カーラ夫人は、生まれてくる子どもをメディアにさらすことは絶対ない、と語っていましたが。しかし、たとえ、メディアを通して父親・サルコジの写真が公表されても、支持率回復は難しい。そこまで国民との距離が乖離してしまっていると見る向きが多いようです。

こうした形勢は、フランス政界に身を置く人なら、よりリアルに感じているのかもしれません。社会党(PS)内は、オランド政権でどのポストを得るかで議員たちは動いているのでしょうが、野党に転落することになるであろうUMP(国民運動連合)では、2017年を見据えた動きが始まっているようです。

例えば・・・社会党の公認候補が決まる前、15日の『ル・モンド』が二人のUMP政治家の動きを紹介しています。

15日、地元のサルト(Sarthe)県に戻ったフィヨン(François Fillon)首相は、長い間当選を重ねてきたこの選挙区を離れ、2012年の下院議員選挙ではパリの選挙区から立候補することを公に認めた。
*フランソワ・フィヨンの獲得した主なポスト
 サーブル・シュール・サルト(Sablé-sur-Sarthe)市長:1983-2001
 サルト(Sarthe)県議会議長:1992-1998
 ペイ・ド・ラ・ロワール(Pays-de-la Loire)地域圏議会議長:1998-2002
 サルト県選出下院議員:1981-2002、2007(2002と2007は入閣のため辞任)
 サルト県選出上院議員:2004(入閣のため辞任)2005-2007
 なお、サルト県の県庁所在地はル・マン(Le Mans)で、フィヨン首相はここの生まれ(1954年3月)。そのためか、大のモータースポーツ・ファン。

しかしサルトでの発表の前、12日にフィヨン首相は、パリへのお国替えを非公開のセレモニーの場ですでに語っていた。「2012年の下院議員選挙では、パリ市民の支援を期待したい」と12日に述べたことを、フィヨン首相自ら、15日に行われたサルト県の市長村長会で公にしたというわけだ。「この私たちの県から選ばれて政治家活動を30年行ってきたが、そろそろ若い世代にバトンを渡したいと感じるようになった。次代を担う人たちに、その才能、情熱、新鮮な感覚を政治の場にもたらしてほしいと思っている」と、万感こみ上げる面持ちで語った。

「人生においては、常に新たな目標を定めるべきだと思っている。いつも同じことを繰り返していては、役に立たない人間になってしまうのではないか」と、フィヨン首相は付け加えたのだが、その時、会場は大きな拍手で包まれた。

首都・パリに選挙区を移したいというフィヨン首相の気持ちは正式な表明がなされないまま、4年前から何となく憶測されていたのだが、フランソワ・フィヨンはついに一歩を踏み出した。フィヨン首相がその意思を12日にパリ選出の議員たちに語った後、UMP幹事長のジャン・フランソワ・コペ(Jean-Fraçois Copé)もそのことを認めて、次のように語っている。「フィヨン首相のパリからの立候補には、ひとつの前提条件がある。協定を結ぶということだ。私はできる限りパリからの立候補を支援するが、幹事長としての役割も同時にしっかり果たさなければならない。」

フィヨン、コペ、この二人の政治家は、実は、2012年の選挙よりもさらに遠くを見据えている。つまり、ジャン=フランソワ・コペは2017年の大統領選への立候補を、そしてフランソワ・フィヨンは2014年のパリ市長選への立候補を、それぞれ考えているようだ。

しかし、この計画には障害が生じる可能性がある。フィヨン首相が狙っているのは、パリの5区、6区、7区をカバーするパリ第2選挙区なのだが、この選挙区を狙っているUMPの政治家がもう一人いる。パリ7区の区長であるラシダ・ダチ(Rachida Dati:マグレブ出身のイスラム教徒を両親に持つ、2007-09に法務大臣、2009から欧州議会議員、パリ7区長は2008から)だ。

「パリの選挙区から立候補したいなら、私に知らせるべきだと思う。どうしてフィヨン首相が私の選挙区を狙って攻撃に来るのか、理解に苦しむ」と、ラシダ・ダチは数日前に語っている。「パリは残念賞なのだろうか。やって来て、身を寄せるだけの場所。いや、パリは、そんな場所ではない」とも語っており、来年の下院議員選挙、パリではひと揉めありそうな状況だ。

・・・ということで、ジャン=フランソワ・コペは大統領を目指し、フランソワ・フィヨンはパリ市長を目指す。しかし、パリでは、かつてサルコジ大統領に寵愛され、フィヨン首相の下で法務大臣を務めたラシダ・ダチが、同じ選挙区からの立候補を狙っている。フィヨン首相があえてラシダ・ダチが望んでいる選挙区を立候補先に選んだのには、何か特別な理由があるのでしょうか。あるとすれば、それは何か個人的な理由なのか、あるいはUMPとしての理由があるのか、はたまたサルコジ大統領の何らかの意向が働いているのか・・・

サルコジ大統領誕生直後は、“omniprésent”で“bling-bling”な大統領の陰に隠れてしまい、その存在感のなさを揶揄されたりもしたフィヨン首相ですが、その誠実な対応ぶりから、やがて支持率は大統領よりも高くなり、一時は2012年の大統領候補になるのではと一部で喧伝されたフィヨン首相。結局、立候補することはありませんでした。しかも、その先の2017年には、党を押さえているジャン=フランソワ・コペがすでに手を挙げている・・・そこで、残念賞としてパリ市長の座をもらったのではないか。そのためには、市長選の2年前に、パリから下院議員に選出されている方が都合がいい。それは分かるが、だからと言って、なにも私の地盤を奪うことはないだろう! というのが、ラシダ・ダチの言い分なのかもしれないですね。

大統領選の社会党候補も決まったことで、「その後」へ向けての様々な動向が、今後伝えられることでしょう。誰が、脚光を浴びることになるのでしょうか。そして、フランス政界は、どこへ向かうのでしょうか。

「普通の大統領」で大丈夫か、外国の評判を気にするフランス。

2011-10-18 21:30:56 | 政治
2012年の大統領選へ向けて、社会党の公認候補を選ぶ予備選挙、その第1回投票は世界のメディアではあまり取り上げられませんでしたが、さすがに候補者が決まれば、多くの国のマスコミが取り上げています。何しろ、世論調査では、社会党候補がリードしている・・・新大統領になるかもしれない候補ですから、野党候補とは言え、無視はできません。

日本でも、現職のサルコジ大統領に対し手強い相手が登場した、と紹介されていました。特に、75%ほどの原子力依存度を2025年までに50%に減少させるというエネルギー政策の転換にスポットを当てた報道が目につきました。原子力大国のフランス、しかも、福島原発の事故の後、サルコジ大統領が原子力複合企業“Areva”の当時の会長(Anne Lauvergeon)を伴って来日し、支援を約束しただけに、フランスの原子力政策には関心が高くなるのも当然ですね。

一方、欧米のメディアは、フランソワ・オランド(François Hollande)の経歴や人となりを中心に紹介していますが、特にアングロ=サクソンのメディアは、いつもながら、皮肉を込めた報道ぶりになっているようです。

では、自ら“président normal”(普通の大統領)を目指すと語るフランソワ・オランドと、omniprésentでbling-blingな“hyper-président”と言われるサルコジ大統領の間で繰り広げられる大統領選も含め、どのような紹介記事になっているのでしょうか。17日の『ル・モンド』(電子版)が外国の同業者の視点を中心に紹介しています。

知的、繊細、親しみやすく、謙遜、しかし、経験不足。時として、これといった特徴がないほど至って普通の人物。17日、決選投票の翌日、その結果を伝える世界のメディアは、フランソワ・オランドを紹介するのに多くの形容詞を用いた。イギリスの日刊紙“The Guardian”(『ガーディアン』:中道左派)は、ドミンク・ストロス=カン(Dominique Strauss-Kahn)のスキャンダルがなかったならば、フランソワ・オランドはスポットを浴びる場に登場しなかっただろうと、皮肉を込めて紹介している。

「控え目な外見の裏に、折れることのない決意と大きな野望を併せ持っている」と、ドイツの週刊誌“Der Spiegel”(『デア・シュピーゲル』)はポジティブに紹介しているが、そのすぐ後、遠回しな言い方ながら、社会党候補は長年、気のいい会計係といった体質を保ってきた、と述べている。さらに、元第一書記の表舞台への復活は、大統領選への立候補を果たせず、しかもパートナー(セゴレーヌ・ロワイヤル)との関係を解消した失意の2007年の後、他の候補者たちよりも広いネットワークをいち早く構築してきたことに多くを負っている、と筆を続けている。

“The New York Times”(『ニューヨーク・タイムズ』:左寄り)も、プラスの面、マイナスの面を共に紹介している。「フランソワ・オランドは繊細で知的、フランスきってのエリート校(ENA)を卒業している」と持ち上げているが、しかし、「政府内部での経験がなく、彼が県議会議長を務めているコレーズ県(Corrèze)は、フランスで最も小さな県の一つで、国の舵取りとは比べようもない。フランスは国連・安全保障理事会の常任理事国であり、原子力兵器を持ち、特にアメリカとともに世界で二カ国だけが原子力空母を保有するという大国なのだ」と不安を表明している。

『ガーディアン紙』は、今後の大統領選へ大きな関心を寄せている。サルコジ大統領の癇癪と自己中心的な態度はつとに有名だが、一方オランド氏は実務家であり、常に微笑みを絶やさない。サルコジ大統領は、カリスマ性を持ち、ハデハデで、金ぴかの腕時計とサングラスを好み、妻はトップモデルだが、オランド氏はと言えば、控え目で、非常に内省的だ、と二人を比較している。さらに続けて、「オランド氏の人生と経歴を調べれば調べるほど、『普通の人』(M. Normal)に見えてくる。だが、今フランス人はそのような人物を必要としているのだろう」と述べている。

同じくイギリスの日刊紙“Daily Telegraph”(『デイリー・テレグラフ』)は、フランソワ・オランドの謙虚さは、田舎の商人のそれのようだ、と紹介している。

イタリアからも、皮肉は聞こえてくる。日刊紙“La Stampa”(『ラ・スタンパ』)は、サルコジ大統領と異なり、フランソワ・オランドはフランスの正統派政治家としての経歴を有していると紹介している。「サルコジはENAを出ておらず、パリ郊外の裕福でおしゃれなNeuilly(ヌイイ市)の市長を務めていた。一方のオランドは、人口15,000人の半ば眠っているようなTulle(チュール市)の市長だった。歴史的に、フランスは現状に飽きると変化を行ってきた。今回は、飽きるために、敢えて変化を選ぶのだろう。」

スペインの日刊紙“El Pais”(『エル・パイス』:中道左派)は、同業他社の皮肉とは異なり、フランソワ・オランドを「静かな変革と統一をもたらす政治家であり、国家元首にふさわしい精神と責任ある行動を示した」と書いている。さらに、「オランドの勝利は優雅な勝利であり、彼は競争相手の言葉を決して非難せず、常に協調的で、真に有益な投票であることを多くの人に納得させた」と称賛している。

・・・ということで、スペイン紙を除いて、イギリス、アメリカ、ドイツ、イタリアからは、皮肉交じりの記事が届いています。ただ、誤解に基づく批判ではないかと思われる点もあります。何しろ、国が違えば、制度・システムが異なりますから。

例えば、アメリカやイタリアのメディアは、フランソワ・オランドの市長や県議会議長としての経験では、大国・フランスの舵取りを行うには不十分だと断じていますが、フランスでは政治家の兼職が認められています。フランソワ・オランドも、
・フランソワ・ミッテランの経済顧問:1979年~81年
・ミッテラン大統領の経済顧問:1981年~
・モーロワ内閣・報道官の官房長官:1983年~
・下院議員:1988年~1993年、1997年~現在
・社会党第一書記:1997年~2008年
・コレーズ県議会議長:2008年~現在
・チュール市長:2001年~2008年
という要職をこなしてきています。「大臣」の肩書はありませんが、地方政治が専門の政治家が突然、大統領になってしまうというわけではありません。アメリカでは、州知事の経験だけで大統領になってしまったりするようですが。

国が違えば、制度が異なる。そうした基本的なことを抑えた上での批評であるべきなのですが、必ずしもそうはなっていない。読者の関心を惹くための逸脱なのか、本当に違いを知らずに書いているのか。

しかし、肝心なことは、まだフランソワ・オランドが大統領になると決まったわけじゃない、ということです。社会党と左翼急進党の統一公認候補になったにすぎません。いくら世論調査で先行していると言っても、この先まだ何が起きるか分かりません。4月22日の第1回投票、そしてたぶん行われることになるであろう5月6日の決選投票。決戦の時はすぐのようで、でも半年以上あります。一寸先は闇と言われる政治の世界だけに、結果を決めてかかるわけには行きませんね。

“Occuper l’Elysee”・・・オランド候補とオブリ第一書記、大統領選をいかに戦うか?

2011-10-17 21:23:08 | 政治
世界的な広がりを見せている“Occupy Wall Street”運動。AFPによれば、80カ国、951都市でデモ行進などが行われているそうです。ローマを除いては、小規模な衝突はあっても、大きな混乱とはなっていません。東京では200人ほどだったようですが、多くの国々では、それぞれ数千人から数万人が参加しているとか。

背景にあるのは、経済格差への抗議。我々は99%だ、というスローガンも見られます。人口の1%が多くの富を独占し、しかも様々な優遇措置を受けている。許せない! という気持ちが出発点だったのでしょうが、運動が広がるにつれ、さまざまなスローガンが加わっています。東京では、反原発の声が大きかったようです。

この運動の背景に、「親より貧しい世代」の不満を見て取る論評も出ています。世の中は、より豊かに、より便利に発展していたはずが、いつの間にか、右肩上がりから、右肩下がりへ。高等教育機関の授業料は高くなり、ローンで授業料を払ってやっと卒業しても、就職難。若者の失業率は、特に高くなっています。なんとか職を得ても、いつリストラされるか分からず、支払い続ける年金も、自分が受給年齢になった時、果たして支給されるのかどうか、全く不透明。親の世代にとって当たり前だったことが、当たり前でなくなっている・・・明るい将来を見出すことができない、閉塞感。

この閉塞感を打破し、少しはバラ色の将来を垣間見せてほしい、いや、少しずつでも実現していってほしい。そうした願いに答えるのが、「政治」のはず・・・こうした「空気」を読んだのか、たまたまだったのか、「若者」と「教育」を政策の柱にすると訴える政治家が、大統領選候補者に選出されました。フランソワ・オランド(François Hollande)・・・

大きな注目を集めていた社会党公認候補を選出する決選投票。その結果と今後の展開は・・・16日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

「大勝利をもたらしてくれた今日の投票に込めた人々の思いを、誇りとともに、しっかりと心に刻みつけておきたい。」このように、フランソワ・オランドは社会党予備選の決選投票の結果を、16日夜、若干の謙遜を交えて表現した。第1回投票での勢いにさらに弾みをつけたオランドは、(フランス時間16日夜10時過ぎの時点で)56.37%の支持を集めた(第1回投票では、39.17%)。一方、対立候補のマルティーヌ・オブリ(Martine Aubry)は第1回投票で示された傾向を覆すことができなかった。

社会党公認候補となったフランソワ・オランドは、ソルフェリーノ通り(Solférino)にある社会党本部で、まじめで意欲に満ちた演説を行った。「自分を待ち構えている務めに思いを馳せている。サルコジ政治に辟易してしまっているフランス国民と同じ目線に立つことが大切だ」と述べ、大統領選での左翼の勝利を約束するとともに、新たな務めは決して容易なものではないことを強調した。大統領選での基本政策は述べなかったが、フランスに新たな喜びをもたらすと述べている『フランスの夢』(le Rêve français:今年の夏に出版されたオランドの著書です)を引き合いに、「若者」(la jeunesse)と「教育」(l’éducation)に最優先で取り組むことを改めて強調した。

しかし、この幾分控え目なトーンは、選挙事務所に使っていた「ラテンアメリカ館」(la Maison de l’Amérique Latine)で支持者たちに謝辞を述べる際にはかなり薄れていた。より勝者らしく、「今日は私の人生において特別な日かと問われるが、それ以上だ。自分の存在にとって特別な日だ。そして我々すべてにとって特別な日であり、新たな挑戦を前に、希望に満ちあふれた瞬間だ」と語った。

オランドはまた、エコロジストたち(ヨーロッパ・エコロジー緑の党:Europe Ecologie – les Verts)に対し、ちょっとした皮肉を込めて言及している。「エコロジストたちは、我々の討論に加わりたかったようだが、同列に並ぶにはあまりに支持者が少なすぎる」と、マルティーヌ・オブリを支持したエコロジストたちを揶揄した。

270万から300万もの投票者を集めた予備選に自信を深めた社会党関係者は、これからは結束を固めることが大切だと異口同音に語っている。オランドは、「敗者はいない。結束し、大統領選へ向けて確かな歩みを進めようではないか」と述べた。

決選投票で激しい攻撃を行ったマルティーヌ・オブリも、敗北を潔く認め、遺恨を残してはいない。「フランソワ・オランドは今や、社会党、そして左翼の結束のシンボルだ。私を支持してくれた人々も、すでに我々の候補者の周りに団結している。私は、社会党の第一書記に就任以来、たった一つの目標しか持っていない。社会党から大統領を出すことだ。フランソワ・オランドが我々の候補者に決まったわけだが、予備選を通して彼はいっそう強い候補者となった。7カ月後、彼が大統領になるよう全精力を傾けるつもりだ」と語り、17日から党の第一書記に復帰することになっている。

決選投票を前に、オランド支持を表明したアルノー・モントゥブール(Arnaud Montebourg:予備選で3位)やセゴレーヌ・ロワイヤル(Ségolène Royal:予備選で4位)も同じ口調だ。そして、ローラン・ファビウス(Laurent Fabius:元首相でオブリ支持)からロワイヤル、オブリ、マヌエル・ヴァルス(Manuel Valls:予備選で5位、決選投票ではオランド支持)、モントゥブールまで、誰もが一致団結していることを示すかのように、党本部玄関前の階段で、みんなで記念写真に収まった。ニコラ・サルコジが候補者になるであろう政権与党に対する、社会党の選挙戦の始まりだ。

社会党の予備選に対し、与党・UMP(国民運動連合)は、投票によって社会党にもたらされたと言われる利点を否定し、またオブリがオランドを批判した「弱腰左翼」(la gauche molle)を引用しつつ社会党内部の分裂を指摘している。社会党は22日に正式にオランドを公認候補として認定するが、一方、UMPは18日、社会党の政策を分析する会議を開くことになっている。

フランソワ・オランドはまた、選対本部を作らなければならないが、その陣容によっては党内に軋轢が生じることもありえる。オランド支持者のジュリアン・ドレイ(Julien Dray:下院議員及びイル・ド・フランス地域圏議会議員)は、日曜日、テレビ局・I-Télé(Canal+グループ)で、「候補者と党執行部の間にしっかりとした意思の疎通が必要だ。対立する二派閥を作るべきでない。意思の疎通が効率的に行えるようなチームを作るべきであり、そのことにより執行部内にバランスを再びもたらすことができる」と語っている。

・・・ということで、来年の大統領選挙、主要な構図は、ニコラ・サルコジVSフランソワ・オランドになるようです。世論調査では、現時点ではオランドが優勢で、ミッテラン引退後、17年ぶりに社会党政権が誕生しそうですが、まだ、4月22日の第1回投票まで、半年以上あります。決選投票はその先、5月6日です。それまでに、何が起きるか、分かりませんが、激しい選挙戦が行われるのだけは、確かです。

社会党(PS)と急進左翼党(PRG)の統一公認候補となったフランソワ・オランドですが、“RFI”(Radio France internationale)の記事によれば、主要政策として次のようなことを挙げています。
・教育の現場に6万人の雇用創設
・財政改革
・快適な労働環境づくり
・現政権とは異なる治安対策
・エネルギー政策の転換
・ヨーロッパのエンジンである仏独関係の強化

そして、『ル・モンド』の記事も言っているように、特に「若者」対策に力を入れるそうです。次のように語っています。
“Je continuerais à brandir pour offrir à la jeunesse et à la génération qui vient, une vie meilleure que la nôtre.”
(大統領に当選した暁には、若者たち、そしてさらにその後に続く世代が、私たちの世代よりも良い人生が送れるよう、全力を傾け続けるつもりだ)

もし、フランソワ・オランドが大統領選に勝利し、流行語風に言えば“Occuper l’Elysée”し(表題、Elyséeとアクセント記号を付けると、文字化けしてしまうため、省略しました)、なおかつ、有言実行で未来の世代が今日より良い人生を送れるようになれば、“Occupy Wall Street”のような運動は、少なくともフランスでは、二度と起こらないことでしょう。他国のこととはいえ、ぜひそうなってほしいと思いますが、はたして、そうなるかどうか・・・政治に対して、政治家に対して、疑い深い眼差しを向ける人が増えているのは、国の違いを問わないような気がします。