ふりかえれば、フランス。

かつて住んでいたフランス。日本とは似ても似つかぬ国ですが、この国を鏡に日本を見ると、あら不思議、いろいろと見えてきます。

オスカー、映画誕生の地へ凱旋す・・・第84回アカデミー賞。

2012-02-28 22:15:01 | 文化
映画の都と言えば、ハリウッド。では、映画の父は・・・ご存知の方が多いと思いますが、フランス人のリュミエール兄弟、Auguste-Marie-Louis LumièreとLouis-Jean Lumière。1894年にシネマトグラフ・リュミエールを開発し、世界最初の実写映画『工場の出口』(La Sortie de l’usine, Lumière à Lyon)を翌1895年、パリで公開しました。50秒ほどの実写映画で、製作は弟のルイ・リュミエール。リヨンにあるリュミエール兄弟の工場を出てくる労働者たちを映したものです。

リュミエール兄弟が開発したシネマトグラフ映写機は、さっそく多くの国々に輸出されましたが、日本でも1897年2月20日、大阪の南地演舞場でリュミエール兄弟の製作したフィルムが公開されたそうです。当時から、関西には芸術や新しいものを受け入れる土壌があったのかもしれないですね。

「映画の父」、リュミエール兄弟が実写映画を上映してからわずか34年後、1929年5月16日に始まったのが、アカデミー賞の授賞式。今では、オスカー像を手にすることが、映画人にとって最高の栄誉と言われています。

24もの部門賞がありますが、その中でも最高の賞は、やはり作品賞。映画界最高の栄誉とは言われるものの、やはり「映画芸術科学アカデミー」(Academy of Motion Picture Arts and Sciences)というアメリカの映画人の団体が選定する賞だけに、外国映画の受賞は難しいようで、その分、外国語映画賞という一部門を創設しています。

だから、というわけでもないのかもしれませんが、今までフランス映画が作品賞を受賞したことがありませんでした。それが、ついに、今年、受賞!!! それも先祖返りではないですが、モノクロのサイレント映画での受賞となりました。「映画の父」がフランス人だったことを思い出させたのでしょうか。

いや、作品のレベルが高かったのだ・・・27日の『ル・モンド』(電子版)がフランス映画のアカデミー賞・作品賞受賞を伝えています。

ミシェル・アザナヴィシウス(Michel Hazanavicius)のフランス映画、『アーティスト』(The Artist)は、26日夜、ロサンジェルスで5つのオスカーを受賞し、伝説の仲間入りをした。作品賞とジャン・デュジャルダン(Jean Dujardin)が受賞した最優秀男優賞は、それぞれフランス映画初の受賞となった。すでに世界中で多くの賞を受賞したこの作品が、アカデミー賞を受賞するとの呼び声は高かった。何しろ、セザール賞6部門(フランスのアカデミー賞で、1976年から受賞が始まっています)、英国アカデミー賞7部門(英国映画テレビ芸術アカデミーが選定する賞で、British Academy of Film and Televison Artsの略“Bafta”で知られています)、ゴールデン・グローブ賞3部門(ハリウッド外国人映画記者協会が選定する賞で、1944年から授与されています)、インディペンデント・スピリット賞4部門(独立系映画のアカデミー賞とも言われています)を受賞していたのだから。

アメリカにおける映画の年間授賞式で、フランス映画がこれほどのオスカーを手にしたことはなかった。アカデミー賞の歴史で、初めてアングロ=サクソン以外の国の映画に作品賞が授与されたわけだが、その『アーティスト』は作品賞以外にも最優秀男優賞、監督賞、作曲賞、衣裳デザイン賞を受賞した。

しかし、『アーティスト』も期待されていた他の部門では、惜しくも受賞を逃している。助演女優賞は、セザール賞で最優秀女優賞を受賞していたベレニス・ベジョ(Bérénice Bejo)ではなく、『ヘルプ 心がつなぐストーリー』(La Couleur des sentiments:テイト・テイラー監督)のオクタヴィア・スペンサー(Octavia Spencer)、撮影賞はマーティン・スコセッシ監督の『ヒューゴの不思議な発明』(Hugo Cabret)、美術賞も『ヒューゴの不思議な発明』、編集賞はデヴィッド・フィンチャー監督の『ドラゴン・タトゥーの女』(Millenium : les hommes qui n’aimaient pas les femmes)、脚本賞はウッディ・アレン監督の『ミッドナイト・イン・パリ』(Minute à Paris)が受賞した。

『アーティスト』のプロデューサー、トマ・ラングマン(Thomas Langmann)は主催者の「映画芸術科学アカデミー」(Academy of Motion Picture Arts and Sciences)が彼に誰もが希う賞を授けてくれたことに感謝の言葉を述べた。また、父親である、監督・プロデューサーのクロード・ベリ(Claude Berri:『愛人 / ラマン』のプロデューサー)、そしてミロス・フォアマン(Milos Forman:『カッコーの巣の上で』や『アマデウス』の監督)、ペドロ・アルモドヴァル(外国語映画賞を受賞した『オール・アバウト・マイ・マザー』の監督)など著名な映画人たちへ敬意を表した。

監督のミシェル・アザナヴィシウスは、妻の女優、べレニス・ベジョ(アルゼンチン生まれ、両親とともに3歳の時に軍事政権を逃れてフランスへ。アザナヴィシウスとの間には3歳の男の子と1歳の女の子がいます)に感謝の言葉を掛けるとともに、3人のアメリカ人監督に謝辞を述べた。3人とは、「ビリー・ワイルダー、ビリー・ワイルダー、そしてビリー・ワイルダー」(Billy Wilder:『麗しのサブリナ』、『七年目の浮気』、『昼下がりの情事』、『アパートの鍵貸します』などの監督)だ。

作品賞を受賞する少し前、監督賞を受賞した際、アザナヴィシウスはとても感動し、「今、世界で最も幸福な監督です」と述べるとともに、「あまりの興奮にスピーチを忘れてしまいました」と告白し、「時として人生は素晴らしい。今日がその日です」と語っていた。

フランス人俳優として初めて主演男優賞を受賞したジャン・デュジャルダンは、微笑みながら、彼の演じたジョルジュ・ヴァランタン(George Vlentin:『アーティスト』はサイレント映画です)が話すことができるなら、きっと“Oh, putain, merci ! Génial ! Formidable ! Merci beaucoup ! I love you”と言うだろう、と述べた。彼はまた、役作りの参考となったサイレント映画時代の大スター、ダグラス・フェアバンクス(Douglas Fairbanks:1915年から34年に、多くの作品に出演するとともに、監督・プロデューサーとしても活躍。「映画芸術科学アカデミー」の初代会長です)、そして妻で女優のアレクサンドラ・ラミー(Alexandra Lamy)に敬意を表した。

他のフランス映画も候補に挙がっていたが、長編アニメーション賞ではジャン=ルー・フェリシオリとアラン・ガニョルの『パリ猫の生き方』(Une vie de chat)が、ジョニー・デップが声優を務めた、虚言癖のあるカメレオンの話『ランゴ』(Rango)に屈した。

マーティン・スコセッシが監督をした、はじめての子ども向け3D作品、『ヒューゴの不思議な発明』(Hugo Cabret)も前評判が高かった。そして実際、5つのオスカーを受賞した。録音賞、美術賞、音響編集賞、視覚効果賞、撮影賞という技術関係の賞だ。

俳優部門では、メリル・ストリープ(Meryl Streep)がフィリダ・ロイド監督(Phyllida Lloyd)の『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』(La Dame en fer)で主演女優賞を獲得し、3つ目のオスカーを手にした。オスカー像よりもきらびやかな衣装に身を包んだ62歳の彼女は自らの説明し難いほどの素晴らしい経歴に対し列席者に謝辞を述べた。

今年の受賞シーズンに多くの賞を獲得していたオクタヴィア・スペンサー(Octavia Spencer)は、当然の結果として助演女優賞を受賞した。「このような素晴らしい恋人を賜りありがとうございます」と、小さく、筋肉質で、頭のつるつるしたオスカー像を恋人に譬え、涙にくれた。

カナダ人俳優のクリストファー・プラマー(Christopher Plummer)は、82歳にして助演男優賞のオスカーを手にした。マイク・ミルズ監督の『人生はビギナーズ』(Beginners)で、人生の黄昏にゲイであることをカミングアウトする役を演じた彼は、スピーチで「私より2歳しか年長でないのに、今までどこにいたんだい」と、ユーモアを交えてオスカー像に語りかけた。会場は総立ちで彼に喝采を送った。オスカーが誕生したのは1927年で、クリストファー・プラマーの生まれる2年前だった。(註:英語版の「ウィキペディア」によるとアカデミー賞の受賞式が始まったのは1929年5月16日です。これでは、クリストファー・プラマーと同じ年齢になってしまいますが、第1回授賞式の選考対象になったのが1927 / 28年のシーズンに公開された作品だったため、1927年に誕生したオスカーというプラマーのスピーチになったものと思われます。)

前評判の高かったもう一作、アレクサンダー・ペイン(Alexander Payne)監督の『ファミリー・ツリー』(The Descendants)は脚色賞を受賞。脚本賞は『ミッドナイト・イン・パリ』(Minute à Paris)の脚本を担当したウディ・アレンに授与された。彼にとって4つ目のオスカーだが、賞の授与式に反対するウッディ・アレンは従前と同じく欠席した。

外国語映画賞はイラン映画『別離』(Une séparation)が受賞した。2月24日に受賞したセザール賞をはじめ、すでに世界中で多くの賞を受賞しているこの作品を監督したアスガー・ファルハディ(Asghar Farhadi)は、「イラン国民にこの賞をもたらすことができて誇りに思う。イラン人はすべての文化・文明への敬意を忘れず、敵意や恨みを軽蔑する人々です」と語った。

アカデミー賞授賞式の模様は世界中にテレビ中継された。会場は「ハリウッド&ハイランド・センター」(Hollywood and Highland Center)。フィルム・メーカーのコダックがチャプター11(破産法)適用を申請したため、「コダック・シアター」から名前が変更になっている。なお、ビリー・クリスタルが9回目の司会を務めた。

・・・ということで、フランス映画が初めてアカデミー賞作品賞を受賞し、主演男優賞もはじめて手にしました。これで、映画発祥の地としても、やっと溜飲を下げることができたのではないでしょうか。しかも、授賞作が、第1回の「つばさ」以来、83年ぶりというサイレント映画。まさに祖先帰りですね。

しかし、同時に、3D作品が技術部門で5つのオスカーを受賞。新旧織り交ぜ、今後の映画の進むべき道を模索しているのが現状ということなのではないでしょうか。

ところで、映画のタイトル。原題、フランス語のタイトル、日本でのタイトル・・・確認が大変でした。同じ、あるいは直訳なら苦労も少ないのですが。しかし、タイトルで観客動員数が増減することもあるのでしょう。宣伝マンが知恵を絞って付けているタイトルですね。

そういえば、かつて淀川長治さんが、ユナイト映画の宣伝部に勤めていた時、苦労してタイトルを考えていたという思い出話をしていたのを記憶しています。しかし、残念ながらどの作品だったか、思い出せません。淀川さんを偲んで、今日は、この辺で。サヨサラ、サヨナラ。
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UFO、OVNI、未確認飛行物体・・・70周年を祝う!?

2012-02-27 21:17:36 | 社会
“UFO”と言えば、ピンクレディー。

♪♪それでもいいわ 近頃少し
  地球の男に あきたところよ
  でも私は確かめたいわ
  その素顔を一度は見たい

あるいは、カップ麺を思い出したりしますが、“UFO”が“OVNI”となると、パリで発行されている情報誌。

大学に入る前後だったとかと思いますが、パリで日本語の情報誌『いりふね・でふね』が刊行されたという情報に、これはすごいなと思った記憶があります。「ウィキペディア」によると、創刊は1974年。当初は有料だったようです。1979年に『OVNI』と誌名を替え、無料配布(広告料収入で運営)されるようになったようです。

1981年には「エスパス・ジャポン」を開設。イベントや図書の貸し出しを行っています。個人的にも、パリ滞在中は、たいへんお世話になりました。『50歳のフランス滞在記』で「先人たちの知恵」としてご紹介した本は、この「エスパス・ジャポン」でお借りしたものが大半です。日本人によって書かれたフランス関連の図書、特に年代物が充実しており、日本では手に入れにくい作品も読むことができます。

また、各種イベントも。作品展示、講演会、演奏会など、狭いスペースですが、熱気あふれるイベントを行っています。手作り感のある、草の根的な日仏交流の場となっています。

さて、その“OVNI”。“objet volant non identifié”の略ですね。日本語では、未確認飛行物体。UFOやOVNIに関する情報は昔からあるのだろうと思いがちですが、少なくとも私はそう思っていたのですが、実は公式な報告がなされてから、今年で70年なんだそうです。

情報誌『OVNI』は創刊38年。その倍ほどの70周年を迎えた“OVNI”。フランスでは、どのような状況にあるのでしょうか。信じられているのでしょうか、科学的な研究が行われているのでしょうか・・・26日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

空飛ぶ円盤(les soucoupes)とその乗組員である宇宙人(leurs occupants extraterrestres)は、26日、70周年を祝った。奇妙な飛行物体が昔から存在するにせよ、“ovni”が公式に誕生したのは1942年2月26日のこと。第二次大戦中のその日、ロサンジェルス上空で不審な飛行物体が確認された。飛び立ったアメリカ空軍のパイロットはその物体へ攻撃を行った。アメリカ軍は日本軍の攻撃だと思ったのだ。何しろ、パール・ハーバーから3カ月も経っていなかったのだから。

翌日、軍は単純な誤認によるスクランブルだったと説明した。しかし、1974年になって、その未確認飛行物体をある将軍が当時のルーズベルト大統領(Franklin Roosevelt)に報告していたという事実が公になり、UFOの存在を信じる人々に確信を与えることになった。

この「ロサンジェルスの攻撃」の記念日を翌日に控えて、グザヴィエ・パッソ(Xavier Passot)は58歳の誕生日を迎えた。「運命づけられているとしか思えない」と、彼は笑って述べている。このエンジニアは、2011年から“Geipan”という至って真面目な団体の代表になっている。“Geipan”とは、“le Groupe d’études et d’information sur les phénomènes aérospatiaux non identifiés”(未確認航空宇宙物体に関する研究情報グループ)の略で、国立宇宙研究センター(le Centre national d’études spatiales:CNES)の一部門となっている。ovniに関する研究機関としては世界で唯一の政府の支援を受ける民間団体なのだ。

“Geipan”は、緑や灰色の小人に関する神話ではなく、観察によって未確認物体の厳格で科学的な存在証明を行おうとしている。グザヴィエ・パッソは「ovniは科学的な手法によって分析されるべきだと常に考えている」と語っているが、彼やそのグループが調査を行うには、その情報はあらかじめ文書によって警察に通報されなければならない。突飛な証言や作り話を排除するためのフィルターとなっているのだ。

“Geipan”が注意を払うケースは、4つのカテゴリーに分類されている。37%の目撃証言は完全に、あるいは間違いなく確認される情報で、41%が確認されそうもなく、22%は確認できない情報だ。ほとんど確認できない情報を排除すると、本当に不思議な出来事に関する情報は少ししか残らない。グザヴィエ・パッソもこうした困惑にぶち当たっている。

では、説明しえないケースは地球外物体(une existance extraterrestre)の存在証明になるのだろうか。“Geipan”の代表者だったジャン=ジャック・ヴラスコ(Jean-Jacques Velasco)をはじめとする一定の人々は、「ウイ」へとその一歩を踏み出している。ヴラスコによれば、いくつかの目撃証言はプロのパイロットから寄せられたもので、疑いようのないものだ。彼らは空での勤務に慣れており、判断に影響を与えるような社会的事情からは距離を取っているからだ。またヴラスコはレーダーに捉えられた未確認物体についても言及している。最もありえる科学的仮定は、ovniは存在するというものだ。

この種の信用のおける証言にもかかわらず、“Geipan”の現代表はそこまで言い切ることはしない。「パイロットたちは自然現象を見誤った可能性がある。またパイロットたちが社会的影響から隔絶されていると言いきることもできない。パイロットたちの中には、ovni信者もおり、信仰が判断をゆがめることもありえる」と語っている。

グザヴィエ・パッソにとって、ovniの存在をめぐる論争は、しばしば宗教論争でしかなくなってしまう。「ovniの存在を信じる気持ちは、神を信じる宗教心に近いと思う。こうした場合、すべてのものが科学的に説明しうるという考えは、一種の宗教と言えないだろか」と、語っている。

そして、「異常に懐疑的な人たちの判断もまた歪んでいる。宇宙人が存在するという仮定よりもさらにばかげた仮定を提案するほどだ。実際、我々人間は、自分には分からない、と言う勇気を持つことが必要だ」と述べている。

・・・ということで、“ovni”つまり“UFO”の存在を調べる組織が、フランスでは国立の組織にあるそうです。合理主義的なフランス人のこと、未確認物体であろうと、単に夢見るのではなく、科学的に究明しよう、分析しようとしているのでしょうね。

「合理的」と「情緒的」。対極的であるようですが、もちろん、どちらかが優れているというわけではありません。違う、ということですね。

いつもご紹介する『世界の日本人ジョーク集』にも、対極的行動を取るとして紹介される日本人とフランス人。しかし、もちろん、すべてが対極的なのではなく、同じ部分、似た部分もありますね。

同じ人間と言えども、異なる点がある。されど、似ている部分もある。どこがどう違うのか、どう似ているのか・・・「ヒューマン・ウォッチング」の面白さでもあります。
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マドモアゼルが消える。パリジェンヌは残る。

2012-02-25 21:38:39 | 社会
Vienne la nuit sonne l’heure
Les jours s’en vont je demeure

ご存知、アポリネール(Guillaume Apollinaire)の『ミラボー橋』(Le pont Mirabeau)の一節ですが、この詩に倣って言えば、

男性中心主義の時代よ暮れよ、女性の時代の鐘よ鳴れ。
「マドモアゼル」は過ぎ去り、「パリジェンヌ」は残る

と言ったところでしょうか、ずいぶんと字余りですが。

そうです、フランスの行政書類から“Mademoiselle”が消えることになりました。英語では、かなり前、25年前か30年前頃に、“Miss”と“Mrs.”の別がなくなり、“Ms.”に統一されましたが、“machisme”の強いフランスでは、“Mademoiselle”と“Madame”の使い分けが執拗に続いてきました。しかし、時代の流れに抗することは、さすがのフランス男にも難しいのか、今年から行政上の書類では未婚・既婚の別なく“Madame”に統一されることになりました。

ついでに名詞の男性形、女性形もなくなってくれれば、フランス語の勉強がどれほど楽になることか、と思いますが、それではフランス語でなくなってしまうというご批判も受けそうで・・・それに、英語にしても“Mr.”と“Ms.”という敬称の男女差はあり、フランス語にも“Monsieur”と“Madame”という差があっても特に問題とはならないのでしょう。その点、「さん」、「様」など敬称に男女の別がない日本語は、実は進んだ男女同権社会なのではないか・・・などと言えば、何を寝ぼけていると、これまたお叱りを受けそうです。

というわけで、今後も“Monsieur”と“Madame”や“Parisien”と“Parisienne”は引き続き存在します。そして、消えゆく“Mademoiselle”・・・詳しくは21日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

“Les mademoiselles”は、生きてきた。しかし、旧姓や配偶者の姓と同様に、この「マドモアゼル」という言葉は、行政書類から消え去ることになると、21日の首相通達が述べている。「以前にも、いくつかの通達が未婚か既婚かを示す呼称の使用を止めるよう役所に呼びかけていた」ことを再確認した上で、「今回の首相通達は法改正が行われるまで継続して実施される」ことを強調している。

首相府は関係閣僚と知事たちを集め、行政上の文書や通達からできる限り“mademoiselle”(未婚女性)や“nom de jeune fille”(旧姓)、“nom patronymique”(父の名)、“nom d’ épouse”・“nom d’époux”(配偶者の姓)という言葉を削除するよう指示をした。その内“mademoiselle”は、未婚・既婚に関わりなく男性に付けられる敬称“monsieur”と同じように“madame”という敬称に、それ以外も、2002年から民法で規定している“nom de famille”(家族の姓)、そして“nom d’usage”(通称名)に取って代わられることになる。特に「配偶者の姓」では、配偶者に先立たれた寡婦や離婚してもそれ以前の配偶者の姓を名乗っている人たちを考慮に入れることができないためだ。

また通達は、“madame”や“mademoiselle”は戸籍に記載されることはなく、他の敬称を法律や規則が求めることもないと述べている。なお、すでに印刷されている書類はストックがなくなるまでは使用することができると明記してある。

昨年9月、性差別と戦う二つの団体、“Osez le féminisme”(2009年に設立)と“les Chiennes de garde”(1999年から活動を始め、略語CGDで一般的に知られています)は、公的書類から“mademoiselle”の欄を削除するよう訴えるキャンペーンを行った。“mademoiselle”は女性に対する差別であり、婚姻状況について語ることを余儀なくさせていると、二団体は説明している。

11月、連帯大臣で女性の権利担当でもあるロズリーヌ・バシュロ(Roselyne Bachelot)は、フィヨン(François Fillon)首相に“mademoiselle”という語を削除するよう頼んだことを明かしている。21日、バシュロ連帯相は、男女差別の一つのカタチの終焉を示す通達を歓迎した。その喜びを示すコミュニケで大臣は、家族手当基金(la Caisse nationale des allocations familiales)から家族の姓と通称名を混同しないように受給者に連絡が入ることを紹介している。

21日に公開した談話で、上記の二団体は今回の首相通達を歓迎し、具体的な成果を示すよう求めている。二団体はまた、企業や民間団体もすべての書類から「マドモアゼル」という語を削除する運動に加わるよう強く勧めている。

・・・ということで、“mademoiselle”が少なくとも公式文書から消えて、女性はすべて“madame”に。こうした措置が一般化すれば、微妙な年齢の女性に、「マダム」と呼びかけようか、「マドモアゼル」と言おうか、悩む必要がなくなります。個人的には、女性差別がまた一つなくなるとういう大義以上に、瑣末な点で大歓迎です。

ところで、敬称と言えば、中国語。男性には「先生」、女性には「小姐」。未婚、既婚の別なく、このような敬称を付けますが、少なくとも10年や15年くらい前までは、中国人から「先生」と呼ばれて、嬉しさのあまりすべての警戒を解いてしまう日本人ビジネスマンや観光客が多くいました。最近でもいるのでしょうか。単なる敬称、「さん」と同じなのですが・・・同じ漢字文化圏でありながら、微妙な違いがある東アジアの国々。それだけに、違いをしっかりと理解したうえで、付き合いたいものです。

その点、ユーラシア大陸の西の端の国々とは、違うことが当たり前と思われていますから、違いをことさら強調することもないのですが、遠いだけに憧れが見る目を曇らせてしまうこともあり、この点は注意ですね。
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フランス人の平均月収は1,605ユーロ。そこには、格差が・・・

2012-02-23 20:24:46 | 社会
隣の芝生が青く見えるのかどうか・・・まずは、自らの現状を知ることから始めましょう。

「年収ラボ」というサイトがあります。年収に関する各種データを公開しています。その情報源は、国税庁の『民間給与実態統計調査』と、厚生労働省の『賃金構造基本統計調査』だそうです。

まずは、サラリーマンの年収。
平成9年 :467万円(頂点)
  21年:406万円(底)
  22年:412万円(回復)

業種別のトップ3は、
総合商社  :1,115万円
テレビ・放送:909万円
石油    :840万円
ビール   :840万円

年齢別・性別の年収は、
50~54歳:男=649万円、女=283万円
40~44歳:男=577万円、女=286万円
30~34歳:男=432万円、女=299万円
男性は50代前半が頂点。一方、女性は20代後半から30代後半までが他の年代より多くなっています。男女格差は非常に大きい!

年収300万円以下の割合(平成22年)は、
男性=23.4% 女性=66.2%
男性は徐々に増えつつあり、女性は高止まりしています。

また、公務員のケース。
国家公務員全職員=663万円
(最も高い職種は、税務署職員で740万円)
地方公務員全職員=729万円
(最も高い職種は、警察官で814万円)

さて、では、フランス人の懐具合はどうなのでしょうか。22日の『ル・フィガロ』(電子版)が伝えています。

給与の男女格差はなかなか縮まらない。管理職ではその差はさらに大きくなっている。男性給与所得者の平均月給は1,605ユーロ(約17万円)に増加している。

男女格差はなかなか手強い。Insee(Institut national de la statistique et des études économiques:国立統計経済研究所)が22日に発表した最新の雇用給与統計(2009年)によると、給与については、女性の収入は男性より相変わらず20%少なくなっている。1954年には35%もの格差があり、その後かなり解消されてきたとはいえ、1990年代初頭からは給与における男女格差はほぼ同じレベルで推移している。

この格差は同じ労働時間に基づいて算出されており、実際の年間労働時間を考慮に入れれば、格差はさらに顕著なものとなる。というのも、パートタイムで働いている女性の割合が多いからだ。パートタイムで働いている女性の収入は男性の手にする給与より30%低くなっている。しかしポジティブな面もあり、25歳以下の年齢層では給与の男女格差が縮まる傾向にある。

Inseeはこの解消されにくい格差の原因を男女の地位の違い(une structure de qualification différente de chaque sexe)に求めている。例えば、管理職の割合は、男性では19%だが、女性で管理職に登用されているのは12%に過ぎない。しかし、同じ地位でも、男女格差は見られる。いや、むしろ、拡大傾向にある。民間企業の女性管理職の収入は男性管理職より23%少なくなっている。

背景のひとつとして、女性が責任ある地位に就くのを妨げている有名な「ガラスの天井」(plafond de verre:性別や人種により昇進がブロックされている状態)が指摘される。また、Inseeによれば、教育や業種の選択、積み重ねたキャリアなどの結果でもあるという。例えば、女性の多くは、健康や社会活動といった給与の低い業種へ進んでいる。

パートタイムで働いている女性のかなりの部分は、自らそれを選んだというより、家庭の事情でそうした状況を選んでいる。しかし、子どものいない女性に限っても、パートタイムで働いている女性の割合は、男性よりも17%多くなっている。パートタイムが多い第三次産業で働いている女性が多いことが、このデータを裏付けている。

2009年における全就労者の平均年収は19,270ユーロ(約205万円)であり、月収では1,605ユーロになる。当然のことながら、管理職の方が高収入だ。管理職の年収は、工員や従業員より3倍多く、38,430ユーロ(約407万円)となっている。しかし、就労者の中で経済危機の影響を最も受けたのも彼ら、管理職だ。2009年の収入は前年より1.5%減少している。製造業、金融、IT通信が最も給与の高い業種だそうだ。

・・・ということで、“machisme”(男性優位の考え)の影響か、フランスにおける男女格差、特に給与格差、昇進格差はしばしば指摘されていますが、2009年の給与でもまだ大きな格差が残っているようです。

耳元でフランス語を囁かれると思わずうっとり、という大和撫子も多くいらっしゃるのかもしれませんが、いざ結婚してしまえば(あるいはPACSを申請してしまうと)、財布は別々。いつまでも白馬にまたがった王子様ではないようです。ドメスティック・バイオレンスも多く報告されています。なんだ~、がっかり・・・する必要もないのかもしれません。

何しろ、給与の男女格差、我らが日本の現状はフランスどころではないのですから。大きな差ですね。管理職についている女性の割合も、フランスより少ないものと思われます。やはり、フランスの方がいい・・・

と思うか、財布のひもをしっかりと握れる日本の方がいい、あるいは「亭主、元気で、留守がいい」と堂々と言える日本が良いに決まっているなどと思うか、それは、女性の皆さんの判断次第、ですね。

なお、円ユーロの換算は、1ユーロ=106円で計算しています。物価や社会保障を勘案しないと単純には比較できないのですが、平均年収205万円・・・フランスで多くの女性が働いている背景も分かるような気がします。
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「移民」は「国民」に含まれるのだろうか・・・ルペンとサルコジの違い。

2012-02-20 21:31:20 | 政治
ヒト・モノ・カネが国境を越えて移動するのが国際化・・・ひと昔、あるいはふた昔前に人口に膾炙した言い回しですが、人が動いて住みつけば、「移民」という問題が発生します。移民先進国は、この問題にどう対処しているのでしょうか。

昔、人種のるつぼとか、人種のサラダボールとか言われたアメリカでは、今、公用語をめぐる裁判が行われています。アメリカは英語、と思い込んでいましたが、連邦レベルでの公用語規定はないそうで、メキシコと国境を接する、ヒスパニックの多いある町では、英語能力が政争の具と化しているようで、それが大統領選にまで影響を与えています。

 米大統領選共和党候補の指名を争うロムニー氏やギングリッチ氏が訴えていることがある。「英語を公用語に」という主張だ。まるで日本の企業のようなスローガンだが、英語は米国の今日的な問題なのだ。
(2月19日:産経:電子版)

また、ソビエト連邦時代に、ロシア人が移民したバルト三国。その一つ、ラトビアでは、第二公用語をめぐる国民投票が行われました。

 旧ソ連のラトビアで18日、ロシア語をラトビア語に次ぐ「第2公用語」とする憲法改正の是非を問う国民投票が行われ、19日発表された暫定集計結果によると、賛成24.9%、反対74.8%で否決された。
(略)
 ラトビア語を「解放の象徴」ととらえ、ロシアの影響力拡大を懸念するラトビア系住民の大半が反対したとみられる。
(2月20日:時事:電子版)

また、移民の国でありながら、移民であるいわゆる白人たちが征服者のような状況を享受している旧白豪主義のオーストラリアでは、

 オーストラリアで先住民の存在を認めることを目的とした憲法改正の是非を問う国民投票が計画され、市民団体が19日にも提案を打ち出す。主要政党もおおむね賛同する姿勢だが、細部をめぐって意見の食い違いもあるようだ。
(略)
 シドニー大学のマーク・マッケナ准教授(歴史学)によると、同国の現在の憲法では、欧州の入植者が来る以前からオーストラリアに先住民がいた事実が否定され、アボリジニの存在は無視されているという。
(略)
 一方、先住民の権利を保証する条項については、象徴的な文言にとどめるか、法的拘束力を伴う文言を盛り込むかをめぐって温度差がある。
 ただ、超党派の支持がなければ国民投票は成功しないとの認識で関係者は一致しており、たとえ象徴的な文言にとどまったとしても、「オーストラリア先住民の存在を認めることは重要な一歩になる」と専門家は指摘している。
(1月19日:CNN:電子版)

と、先住民・アボリジニの存在自体が認められていないそうです。捕鯨に反対する前に、アボリジニの存在を認めたらどうだ、と言いたくもなってしまいます。

さて、では、今回のフランス大統領選挙では、移民はどのように扱われているのでしょうか。

右派は移民の増加に反対していますが、右派の中にも温度差はあるようです。一般的に、反移民と言えば極右の国民戦線(FN)の常套句のように思えてしまいますが、大統領選となると、極右票を取り込もうと現与党・UMP(国民運動連合)の候補者、サルコジ大統領が移民増加に明確なノンを表明しています。

一方、FN党首で大統領選候補者、マリーヌ・ルペン(Marine Le Pen)は・・・19日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

マリーヌ・ルペンはポピュリスト的な言辞をエスカレートさせている。ニコラ・サルコジとの、2月19日のほぼ同時刻だが、お互い別の場所での論争で、FNの候補者であるルペンはポピュリズムと愛国心をまぜこぜにした演説を行った。

彼女は、民衆の蜂起と自由な国民の統合を幾度となく繰り返し、第一次大戦の際にフランス兵によって歌われた“Chant du départ”(出陣の歌)を二度引用した。

マリーヌ・ルペンは、会場に詰めかけた支持者たちに、新たな小道具、赤い紙を振りかざすよう呼びかけた。サッカーの審判が使うレッド・カードに倣ったもので、サルコジ大統領に今や退場すべき時だというメッセージを送るものだ。それに引き続き、二つの部屋に分かれた2,000人もの支持者たちは、退場、退場(dehors!)と、繰り返し叫んだ。

予想できたことだが、彼女はサルコジ大統領に対する最も辛辣な言葉をその後に残していた。サルコジ大統領が第1回投票の最大のライバルになると彼女は考えている(トップで決選投票へ進むのは社会党のオランド候補で、残りの一つの椅子をルペンとサルコジが争うと見ているようです)。「国民が与えた信頼をあざ笑うかのような人間に第1回投票で制裁を加えることは国民を喜ばせる行為とならないのであろうか。」熱狂する聴衆を前にこのように自問し、そして、「ニコラ・サルコジは死んだフランスの候補者だ(candidat de la France morte:サルコジ大統領の選挙スローガン、la France forteをもじったものです)」と評した。

マリーヌ・ルペンがサルコジ大統領の5年の任期を振り返る時、その辛辣さは決定的なものとなる。「サルコジは自らを国民の候補者だという。国民の知性に対するなんという侮辱だろうか。失政を行った大統領の国民への最大の侮蔑だ」と、彼女は言い放った。フランスがそこから脱け出さねばならないほどの失政を行った大統領の職責は、まさに略奪し、裏切り、しくじったようなものだと、ルペンは述べている。

彼女はサルコジ大統領の集会を放送する番組を観て、その後で自分の集会を終えるために演説を再開した。反サルコジの攻撃は1時間の演説の前半、30分に及んだ。

結局、マリーヌ・ルペンは孤軍奮闘を演じようとしたのだ。グローバルな銀行(banque mondialisée)の支持を得た2人の候補者(ニコラ・サルコジとフランソワ・オランド)に対するたった一人の抵抗者というわけだ。そして専門家やジャーナリストなどのエリートと対峙し、エリートの信用を失墜させ、フランス国民を守るただ一人の候補者だということになる。こうした言い回しは、父であり、国民戦線の前代表であるジャン=マリ・ルペンがよく使った犠牲者としての立場の強調(victimisation)であるが、マリーヌは最近まで使うのを嫌がっていた表現だ。

明快な筋立てのない演説で、大統領の椅子を目指すマリーヌ・ルペンは続いて奇妙なコンセプト、つまり「根付いた愛国心」(patriotisme enraciné)というものを提示した。グローバル化した金融資本主義に直面し、自らの肉体がある祖国に根ざした人々(hommes enracinés)という概念を持ち出したのだ。彼女にとって、自立した国民から一斉に起こる声は総力戦に対する唯一の防御壁となる。彼女の著書、“Pour que vive la France”で書いているように、“homo economicus”(ホモ・エコノミクス:経済活動 において自己利益のみに従って行動する完全に合理的な存在=ウィキペディア)や“consommateur compulsif”(コカコーラやマクドナルドをたらふく食べ、飲み、アディダスを履き、トレーナーを着、帽子を前後ろ反対に被るような脅迫的観念の消費者)の名を挙げ、彼らは多国籍企業を利するために、自らの歴史や伝統を忘れてしまっていると指摘した。

マリーヌ・ルペンはまた、共和国精神の擁護者たらんと欲している。しかし、あくまで彼女流の共和国だ。「共和国とはフランスそのものであり、本質的にフランス的であり、肉体的にもフランス的だからこそ普遍的であり得る」と語っている。新右翼の分析を呼び起こす信条とともに、ルペンは人々の相違に称賛を贈り、「違いが世界を素晴らしく、多様で、輝かしいものにしている」と述べ、「国民と人々の多様性が世界をこれほど素晴らしいものにしている」と語った。

マリーヌ・ルペンは続いて、驚くような余談を述べている。肉体的にもフランス的であるべきという彼女の「共和国」と矛盾を起こすような脱線だ。2006年にジャン=マリ・ルペンがヴァルミー(Valmy)で行った有名な演説を思い起こさせるような余談とも言える。耳の聞こえない人が聞くことができるように語られるべき厳粛な言葉だ。

「われらが母なるフランスは、そのすべての子たちを愛している。長子だろうと末っ子だろうと。先祖代々のフランス人も、最近フランス人に加わった人たちも。フランスのすべての子どもたちの間には、違いはない。移民の家系であろうと、大昔からのフランス人家系であろうと。フランス人がいるだけだ。生まれながらのフランス人にせよ、帰化したフランス人にせよだ」とマリーヌ・ルペンは語り、国民第一主義という彼女の主要政策の一つを繰り返し述べた(彼女の国民第一主義とは、社会保障にせよ住居にせよ、フランス国民に対してのみ提供するという政策)。

彼女の父、ジャン=マリが対独協力者でフランス解放時に銃殺刑に処された作家のロベール・ブラジヤック(Robert Brasillach)を紙上で引用した24時間後、彼女は逆説的な言い方を駆使して、新レジスタンス国民会議(nouveau Conseil National de la Résistance)の創設を訴えかけた。

・・・ということで、反移民の極右支持者の票を狙って、受け入れる移民の数をさらに減少させようというサルコジ大統領に対し、根っからのフランス人も、移民も、フランス国籍を持つ者は同じフランス人。一致団結して、グローバル化と闘おう。グローバル化の影響を受け、苦しんでいる人たちの唯一の理解者、ただ一人の支援者がマリーヌ・ルペンである、という極右・国民戦線の訴え。どちらがより多くのフランス人の心をとらえることができるのでしょうか。答えは、4月22日に出されます。2人のうち、どちらが第1回投票で2位となって、決選投票に進むのでしょうか。どうも、フランソワ・オランドの1位通過は動かし難いようです。しかし、政治の世界は、一寸先は闇にして、選挙は水もの。まさに、“On verra”ですね。
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Chaque region a son gout・・・サルコジ大統領を支持するオート・サヴォワ県。

2012-02-19 21:39:51 | 政治
ずいぶんと更新の間隔が開いてしまい、アクセスしていただいた方々には、ご迷惑をおかけしました。

流行のインフルエンザ、というわけではなく、引っ越しをしておりました。24年前に郊外に建てた家、と言っても海外暮らしが長くなり、実際に住んでいた期間はそれほど長くはないのですが、それでも築24年。少しずつ傷んできましたし、あと数年で60歳。そろそろクルマなしでも生活できるようにしたいと、都心に近い、地下鉄の駅近くのマンションに引っ越しました。

♪♪雪が解けて川になって流れて行きます
  つくしの子がはずかしげに顔を出します
  もうすぐ春ですね

と、キャンディーズが『春一番』で歌っていましたが、今年の2月は厳冬。春はまだまだ先といった気候で、早咲きで知られる河津桜もまだつぼみのまま。引っ越しの日も寒い雨が降っていました。

♪♪春一番が掃除したてのサッシの窓に
  ほこりの渦を躍らせてます
  机本箱運び出された荷物のあとは
  畳の色がそこだけ若いわ
  お引っ越しのお祝い返しも済まないうちに
  またですね

と、これまたキャンディーズが『微笑がえし』で歌っています。昨春に契約した物件ですので、急な引っ越しというわけではないのですが、それにしても大学入学以降、海外も含めると18回目の引っ越しになります。引っ越しが趣味というわけではもちろんないのですが、結果としてこれだけの回数になってしまいました。しかも、今回は戸建てからマンションへの引っ越しなので、かなりの荷物を処分しました。キザに言えば、思い出に寄り添う品々にさよならを言いました。しかし、思い出はいつまでも心の中に・・・やはり、キザで似合いません。

さて、引っ越しをあたふたとしている間にも、さまざまな出来事が起こりました。サルコジ大統領がついに、再選を目指して、正式に立候補を表明。犬猿の仲と言われるキャメロン英首相にまで応援を頼んだようですが、世論調査では、相変わらず社会党のオランド候補の後塵を拝しています。しかも、与党内からも批判の声が上がるなど、厳しい状況のようですが、はたして、4月22日の第1回投票、そして5月6日の決選投票までに、形勢逆転はできるのでしょうか。

そのサルコジ大統領、地域によっては、大歓迎されているそうです。まるでスターのように迎えられているのは、例えば、南東部、スイスと国境を接するオート・サヴォワ(Haute-Savoie)県。どのように支持されているのでしょうか。17日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

ニコラ・サルコジは選挙キャンペーンの最初の集会を、2月16日、オート・サヴォワ県のアヌシー(Annecy)で行ったが、まさに征服地にいるようだった。伝統的に右派支持者が多く、実際2007年の大統領選でもニコラ・サルコジへ投票した人が多いこの地の有権者と再会するためにやって来たのだ。

76歳の退職者、アンベール(Hambert)に左派支持者かと問うと、すぐさま、「何だって。馬鹿にする気かね」という答えが返ってくる。この地方には地主が多く、人びとは敬虔なカトリックで、保守主義者であり、右派に投票することはつねに変わらぬ投票行動となっている。選挙キャンペーンのスタートを始めるのにここオート・サヴォワ県を選んだニコラ・サルコジを見に、多くの人々が集まった。2007年の選挙キャンペーンをこの地方で締めくくったニコラ・サルコジにとって、ここグリエール台地(le plateau Glières)は幸運を運んでくれたようなものだ。そこで、5年前に圧倒的多数で支持してくれた人々の中で活力を取り戻すためにやって来たのだ。

午前中、アヌシーの街で人びとの喝采を浴び、10ほどの店に立ち寄り、有権者と直接接した後、午後には30kmほど離れたヴァリエール村(Vallières:人口1,300人余)にあるチーズ製造所、シャベール(Chabert)へと向かった。

ヴァリエール・スポーツ・クラブのメンバーであるギー・ボキュース(Guy Beauqus)とその友人たちは、午後2時半からサルコジ候補を待っていたが、彼は1時間半遅れでやって来た。今は退職している元銀行員のギーはスポーツ・クラブで会計を担当しているが、ニコラ・サルコジを歓迎するには個人的な理由があると言っている。3年前、サルコジ大統領は自閉症の子どもたちへの支援を行っている施設に対し、そのサービスを向上させるための融資を受けることを容易にしたということだ。ギーの8歳半になる孫もその施設に通い、今では症状もずいぶん改善したという。「ハンデを抱えた人々を支援するのは国家の専権事項だ。サルコジ大統領には感謝している」とギーは語っている。

4人の子どもの母である学校の事務員、ベアトリス(Béatrice)は尊敬するサルコジ大統領への支持を表明するためにやって来た。「彼の率直な物言いが好きなんです。オート・サヴォワでは、直接的で、あるがままに話す人が好かれています。私たちもみんなそうなんです」と語り、左派のサルコジ大統領への攻撃はスキャンダラスのものであり、そのやり方は子供じみていると考えている。彼女にとって、「サルコジ大統領は経済危機の中でやれることはやった。決して失望はしていない」ということだ。アンヌ・マリー(Anne-Marie)も「こうした状況で、他に何がやれたというのでしょうか。サルコジ大統領のお陰で、フランスはうまく行っています。きちんと食べ、働くことができ、悲惨な生活を送っているわけではありません」と語っている。

ヴァリエール村では、サルコジ大統領の5年間の実績だけでなく、与党・UMPの候補者としてのその公約も支持されている。例えば、ニコラ・サルコジによって提案された国民投票がなぜ議論の的になっているのか、よく分からないという。「国民の意見、特に失業のような問題に関して国民の声を聞くことはむしろ良い施策だと思いますよ。大統領の改革案は適切なものだと思います。私の実家にもいるんですが、仕事を探そうともせずに失業手当の恩恵を受けている人たちを知っていますから」と、5歳の娘の手を引いてやって来た、33歳のイザベル(Isabelle)は語っている。

ヴァリエール村、アヌシー市やその周辺の町々から多くの人々がニコラ・サルコジとその公約への支持を表明しにやって来た。彼らは、今日、サルコジ大統領だけがフランスのために戦っているという深い信念を抱いている。

人々は候補者、ニコラ・サルコジをスターのように出迎えた。彼と挨拶をし、握手をし、運が良ければ言葉を交わすことができると、殺到したのだ。彼の勝利を確信している人も多く、25歳の青年は、フランソワ・オランド(François Hollande:社会党候補者)にはカリスマ性がなく、フランスを統治することはできないと語っている。47歳のセールスマン、エルヴェ(Hervé)も同じ意見で、「大統領に対する批判は知っているが、ニコラ・サルコジだけが大統領の地位にふさわしい候補者だ。左派の提案は、実現性のないものばかりだ」と述べている。

チーズ製造所の中では、人びとが熱狂していた。「大統領と握手したんだ。人生で記念すべき特別な日だ」と、ある従業員は夢中になって語っている。社長のリュック・シャベール(Luc Chabert)も、大統領の訪問は光栄なことであり、家族経営のチーズ工場にとって、特別なことだと述べ、ニコラ・サルコジに投票するかという問いに対しては、「そうすると思う。私は実務的な人間であり、同じような人を支持する」と答えている。

60歳で、書店で働いているカトリーヌ(Catherine)は、失業に関する国民投票は最良の解決策ではなく、用心深く扱うべき課題だと考えている。社会保障の将来に不安を抱いており、医療に関してはこの5年の間に状況はかなり悪化したと見做している。彼女の声が唯一のネガティブな意見だった。

・・・ということで、オート・サヴォワ県では、サルコジ大統領はヒーロー。もともと保守色の強い地域とはいえ、大統領と会えるだけで狂喜、お祭り騒ぎになったようです。こうした報道が、他の地域にプラスの影響を与えるのではないか、という期待があってこその選挙キャンペーンなのでしょうが、うまく行くでしょうか。

“Chacun a son goût.”・・・蓼食う虫も好き好き、という言葉があるように、“Chaque région a son goût”(表題は、アクサン記号を付けると文字化けしてしまうので、省略いたしました)、地域によって支持する政策や候補者も異なることでしょう。アメリカで行われている共和党の予備選挙でも、州ごとに強い候補者が異なっていたりしますね。日本でも保守王国とか、民主王国と言われる県があったりします。

さて、フランス国民の声や、いかに。国民の声にさらに耳を傾けるために、国民投票をより多くの機会に実施したい、というサルコジ大統領の提案ですが、人気取り、という意見も出ています。確かに、“Vox populi vox dei”・・・「民の声は、天の声」というラテン語もあり、朝日新聞のコラム、天声人語の由来になったとする説もあるほどですから、国民の声に真摯に耳を傾けることは大切ですが、さらに大切なことは、耳を傾けた後に、どのように政治に反映させるか、ですね。パフォーマンスや人気取りだけのポーズでは困ったもの。このことは、特に日本の政治に求められるのではないでしょうか。支援者を集めての集会やバス旅行が大切なのではなく、その声をいかに政策に反映させるか・・・その実績で、私たち有権者も政治家を評価したいものです。
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パリ、1962年2月8日。誰が、9人を殺したのか。

2012-02-09 21:30:15 | 社会
1962年2月8日、その時、あなたは・・・ま~だ、生まれてな~い! という方が多いのではないかと思いますが、中には、よちよち歩きだったとか、小学校生だった、あるいは中学でクラブに熱中していたとか、そうした記憶をお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんね。

かく言う私は、小学校入学を直前に控えた、病弱な幼稚園児でした。病弱と言っても、風邪をひきやすいとか、すぐ熱を出すとか、お腹をこわすとか、そういった程度でしたが。それから50年。半世紀ですね。もう歴史の一部なのかもしれませんが、決して風化させてはいけない事柄もあります。

あの日に殺された9人を忘れてはいけないと、50周年に当たる2月8日にデモ行進を行ったのは、フランスの労働組合。そこには、左派の政治家も加わりました。

9人は、なぜ、誰によって、どのように、殺されたのでしょうか・・・8日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

平和裏に行われたデモをパリ警視庁が暴力で排除してから50年、この2月8日に労組・CGTは(Confédération générale du travail:1895年に設立されたフランスの主要労組、組合員数70万人、委員長はメディアによく登場するBernard Thibault)、メトロの「シャロン」駅(Charonne:9号線、Nationの近く)で警棒によって命を落とした9人の組合員を偲んでデモ行進を行った。

OAS(Organisation de l’armée secrète:反独立、特にアルジェリアの独立に反対するナショナリスト団体)によってパリで行われた新たな一連の攻撃の翌日、すなわち1962年2月8日、労組のCGT、CFTC(Confédération française des travailleurs chrétiens)、FEN(Fédération de l’éducation nationale)、SNI(Syndicat national des instituteurs)、UNEF(Union nationale des étudiants de France)は合同で反ファシズムとアルジェリアの平和を願うデモを組織した。しかし、パリには非常事態宣言(état durgence)が出されることとなった。

時の政府はデモを禁止した。「デモが禁止されていることはよく知っていたが、いつものように殴られる程度だろうという気持ちでみんな参加した。まさか殺されるとは考えてもいなかった」と、当時、高校生だった社会学者のマリーズ・トゥリピエ(Maryse Tripier)は事件を振り返っている。

大急ぎで組織されたそのデモは、いくつかの行進に分かれて進行したが、合計で2万人から3万人が参加した。そのうちのいくつかの行進はナシオン広場(place de la Nation)へと向かうヴォルテール大通り(boulevard Voltaire)で合流した。しかし、目的地のナシオン広場は、バリケードでブロックされていた。夜の帳が落ち始めた頃、労組側はデモの終結を発表した。参加者たちが解散を始めたその時、メトロのシャロン駅の近くで、警察が群衆に襲いかかった。

警棒を振り回し、メトロ駅の換気扇の蓋や街路樹の柵を投げつけてきた警察によって、駅へ降りる階段へ、出口へと殺到したデモ参加者たちは、折り重なるように押しつぶされた。その中で、女性3人を含む9人が死亡した。負傷者も多数出た。

警察に命令を出したのは、誰だったのか。時の大統領、ド・ゴール将軍(général Charles de Gaulle:大統領在職は1959-1969)なのか、首相のミシェル・ドゥブレ(Michel Debré:首相在任は1959-1962、その後財務相、外相、国防相を歴任)なのか、あるいは内相のロジェ・フレイ(Roger Frey:内相在任は1961-1967)か、それともパリ警視総監のモーリス・パポン(Maurice Papon:予算相だった1981年、ナチス占領下、ジロンド県でユダヤ人を強制収容所送りしたことが暴露され、1983年に人道に対する罪で起訴、1998年に有罪の判決を受ける。いわゆる、パポン事件・l’affaire Papon)だったのか。いまだ解明されていない。いずれにせよ、時の権力は、挑発と見做される行為に屈したくはなかったのだ。

歴史家のアラン・ドゥヴェルプ(Alain Dewerpe)は、2006年に自ら著した“Charonne, 8 février 1962, Anthropologie d’un massacre d’Etat”(シャロン、1962年2月8日、国家による虐殺にみる人類学)のタイトルにある「国家による虐殺」(massacre d’Etat)について、学際的季刊誌“Vacarme”(『ヴァカルム』)とのインタビューで、「内戦一歩手前の状況で起きたのだ」と語っている。FLNが(Front de libération nationale:民族解放戦線、アルジェリアの独立を求めて戦った政党で、現在の党首は、ブーテフリカ大統領・Abdelaziz Bouteflika)警察に対して行った活動で死者が出、一方、OAS(前出)によるテロが連続するという状況下、「政権側は共産党が力を誇示することには大きな関心を払わなかった」と、歴史家のオリヴィエ・ル=クール=グランメゾン(Olivier Le Cour Grandmason)は分析している。そして、こうした対応は完全な失敗となる。1962年2月13日、犠牲者たちの葬儀に、数十万人が参列したのだ。

それから50年後、労組・CGTは、フランス共産党書記長のピエール・ローラン(Pierre Laurent)、パリ市長のベルトラン・ドラノエ(Bertrand Delanoë:社会党)の参加も得て、長年国家が無視してきたこの歴史的事件を風化させないために、悲劇の舞台となったシャロン駅でデモ行使を行った。

・・・ということで、荒れる60年代の一端を垣間見ることになりました。フランスは内戦一歩手前の状況。パポン警視総監のもと、言ってみれば「弾圧」が繰り返され、68年には「五月革命」が。

その時、日本では・・・60年安保でデモ参加者側に死者が出、岸首相が重傷を負い、浅沼社会党委員長が暗殺されました。70年安保では、新左翼が台頭。東大紛争で、1968年度の東大入試が中止になりました。

しかし、その一方で、『鉄腕アトム』、東海道新幹線、東京オリンピック、霞が関ビル、川端康成のノーベル文学賞受賞、そして高度成長。ビートルズの来日、ミニスカートの流行もありました。荒れることもありましたが、明日が見えていました。明日は、今日より豊かになる・・・

そんな時代がありました。もう、半世紀も昔のこと。両手に掬った砂が落ちていくように、記憶の中から消え去っていくものも多いのですが、それでも、忘れていけないことはある。風化させてはいけないことがある。

はたして、語り継ぐべき相手は、いるのか。語り継ぐ勇気はあるのか。かく言う、お前はどうなのか・・・い~え、世間に負けた。唇に浮かぶのが、『昭和枯れすすき』だけでは、哀しいものがあります。
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メルコジの関係は、どこまで進むのだろうか。

2012-02-07 21:48:15 | 政治
「メルコジ」と言われるのは、ご存知、メルケル独首相とサルコジ仏大統領のカップル。その関係といっても、もちろん男女の関係ではなく、その盟友関係。そして、ドイツとフランスの関係です。普仏戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦と刃を交えた両国。しかも、第二大戦では、ドイツに占領され、傀儡政権ができ、解放もレジスタンス運動があったとはいえ、アメリカを中心とした連合国軍によってなされた、という過去を持つフランス・・・

21世紀になったからといって、ドイツ、フランス両国がどこまで平和裏に共存できるのでしょうか。それも、中華思想の強い、つまり自尊心の強いフランスが、ドイツに助けられてのヨーロッパにおける大国という地位をどう受け入れるのでしょうか。

そうした想いを抱かざるを得ない会見・・・メルケル首相とサルコジ大統領の共同会見が、フランスのテレビ局とドイツのテレビ局による共同制作というカタチで、6日夜のニュースで放送されました。

まずは、その概略を伝える6日の『ル・モンド』(電子版)の記事、“Angela Merkel va soutenir Nicolas Sarkozy “quoi qu’il fasse””です。

メルケル首相とサルコジ大統領は、フランス大統領選へ向けたキャンペーン真っ盛りの6日、第14回仏独閣僚会議を主宰した。フィヨン(François Fillon)首相も交えた会談の後、仏独の両首脳は記者会見に臨んだ。

メルケル首相は、「サルコジ大統領がどのような対応をしようと支持する。私たちは盟友関係にある政党に所属しているのだから。友党を支援するのは至極当然のことだ」と語り、2009年に彼女が首相の2期目を目指していた際にサルコジ大統領が応援に来てくれたことに言及した。

昼食会の後、両首脳は同日夜にフランスのFrance 2とドイツのZDFで放送されるインタビューの録画を行った。

その中で両首脳は、ギリシャに対しメッセージを発した。「公約をきちんと守るべきであり、選択の余地はない。時間も差し迫っている。今や決断を下す時だ」とサルコジ大統領は語っている。ギリシャは今、二つの交渉に携わっている。一つは債権者である民間セクター、中心は銀行であるが、彼らに対しギリシャ政府が負っている債務のかなりの部分を帳消しにしてもらう交渉であり、もう一つは新たな融資をしてもらうために「トロイカ」(troïka:EU、ECB、IMF)と行う交渉だ。

メルケル首相は、もしギリシャがEU、IMFとの交渉をまとめることができなければ、どうしても必要な追加資金援助を得ることはできないだろうと予測しながらも、ギリシャがユーロ圏に残ってほしい旨、改めて語った。

欧州委員会(la Commission européenne)、ヨーロッパ中央銀行(la Banque centrale européenne)、国際通貨基金(le Fonds monétaire international)からなるギリシャへの公的債権者、「トロイカ」との交渉がまとまらなければ、新たな資金援助プログラムはあり得ないと、メルケル首相は明言した。

・・・ということで、記事の中心は最大の関心事、ギリシャ問題になっていますが、それでも冒頭の、サルコジ大統領が何をしようと支持をする、というメルケル首相の発言は、いくら党首を務めているキリスト教民主同盟(CDU)とサルコジ大統領が実質主導している国民運動連合(UMP)が盟友関係にあるとはいえ、ずいぶん思い切ったものだと思わずにはいられないのですが、果たしてこうしたドイツ首相による支援発言がドイツをラインの向こう側と呼ぶフランス国民にどう受け取られるのでしょうか。なぜ、メルケル首相は、ここまでサルコジ大統領に肩入れするのでしょうか・・・

同じ6日の『ル・モンド』(電子版)の記事、“Pourquoi Angela Merkel fait campagne pour Nikolas Sarkozy”です。

メルケル首相はサルコジ大統領を支持するために、選挙戦に身を投じた。仏独閣僚会議の後、両首脳はエリゼ宮において、同日夜のニュース番組でFrance 2とZDFが放送するインタビューに臨んだ。メルケル首相は、世論調査で劣勢を強いられている盟友を救いにやってきたのだ。今や、フランスは政治、経済両面でドイツに対して後塵を拝している。

仏独両国においては、確かに連帯がしばしば行われてきた。2003年1月、当時の仏外相、ドミニク・ドヴィルパン(Dominique de Villepin)が国連でイラク戦争反対の演説を行う1月前にあたるが、時のシラク(Jacques Chirac)大統領とシュローダー(Gerhard Schröder)首相がテレビでの会見を行っている。1992年9月には、東西ドイツの統一を達成したコール(Helmut Kohl)首相が、マーストリヒト条約(le traité de Maastricht)批准を目指すものの苦戦する盟友ミッテラン(François Mitterrand)大統領を支援すべく二元放送に同意した。

そして再び、フランスは自己防衛態勢にある。特に、格付け会社“Standard & Poor’s”がフランス国債をトリプルAから引き下げて以降、その傾向は顕著だ。欧州の首脳たちはベルリン詣でを行い、一方、サルコジ大統領は自身の大統領選挙に傾注している。しかし、両首脳は仏独両国の関係が以前と変わらず機能していることを示そうとしている。サルコジ大統領は自分が欧州をリードしていると示そうとし、メルケル首相はそれとは異なる立場を自らに望んでいる。「ドイツの支配的地位は一目瞭然だ。しかし、仏独両国が並び立っているという考えはドイツを守るのに役立っている。ドイツ人はフランスのサポートが必要なのであり、彼らだけでヨーロッパをリードする術を知らない。メルケル首相もドイツの主導する欧州ではなく、一貫した政策が各国によって共有されていることを示そうとしている」と、社会党政権時代の外相、ユベール・ヴェドリン(Hubert Védrine)は語っている。

ヨーロッパは決してドイツではなかった。「現在の信用不安がドイツを欧州の中心に据えたのだ」と、シンクタンク(le cercle de réflexion)“Bruegel”の主任研究員でエコノミストのジャン・ピザーニ=フェリー(Jean Pisani-Ferry)は述べている。欧州は、欧州通貨制度(le système monétaire européen:1979年から1999年まで欧州経済共同体加盟国の間で維持された地域的半固定為替相場、英語表記ではEMS)が優勢であった1980年代の状況、そしてユーロがなくなると思われるという状況に立ち至った。ドイツとドイツ国債が解決の鍵を握っており、ドイツ国債が各国の基準となっている。フランスも確かにまずまずの働きをしている。国債発行は年初から順調に推移している。しかし、民間資本は南ヨーロッパから逃げ出しており、その中にフランスも含まれている。

こうした支配的地位は、ドイツがパートナーたちとの差を広げた結果の帰結だ。「危機が進展すればするほど、その危機は北欧と南欧の競争力の危機的差として見えてくる」と大統領府は認めている。サルコジ大統領は、フランスは経済危機からさらに強大な国となって抜け出すことができると言い続けてきたのだが、反対のことが起きてしまっている。

投資銀行・ナティクシス(Natixis)のエコノミスト、パトリック・アルチュス(Patrick Artus)によれば、フランスが需要を喚起する政策を行ったのに対し、ドイツは供給を刺激する政策を行った。「フランスは、1998年以降、市場占有率喪失の世界記録を保持している」とアルチュスは分析している。ドイツにおける、押さえられた給与、厳格な社会ルール、生産能力の30%もの向上・・・原因は火を見るより明らかだ。フランス企業は、例えばルノー(Renault)がダシア(Dacia)の生産をルーマニアに移転させたように、付加価値の少ない製品の製造部門を海外移転させたが、ドイツは付加価値の高い製品の製造を東欧に移転させ、ポルシェがスロヴァキアに進出した例のように、レベルの高い熟練工を独り占めしている。「ドイツ企業は、製品の品質を下げることなく、ハイ・エンド製品のコストを下げている」とアルチュスは語っている。

サルコジ大統領とメルケル首相は両国における共通税制度(la convergence de l’impôt)を始めようとしている。その手法はドイツ・モデルの長所を示すことになる。サルコジ大統領は社会付加価値税(la TVA sociale)や週35時間労働のフレキシブルな運用(la flexibilisation des 35 heures)などと同じように、ドイツのシステムをコピーしようとしている。

フランソワ・オランド(François Hollande)が大統領選候補である社会党はフランスの競争力低下という主張に異議を唱えている。ある大統領府顧問は、「ドイツは牛乳をフランスに輸出しているが、それはドイツの技術力の優位性によるものではない」と憂鬱な表情で語っている。前出のエコノミスト、ピザーニ・フェリーは、「主題は一目瞭然だ。オランドに対するメルケルのメッセージは、かなり厳しいものとなるだろう」と見ている。メルケル首相は、財政規律強化をヨーロッパに根付かせる欧州協定(新財政協定)について、受け入れ難く再交渉したいというオランドの意向に、反対を表明した。社会党の元外相、ヴェドリンは、「メルケル首相はオランドを怖がっているようだ。オランドならおそらく精神的に優位を占める両国関係を再構築できるだろう」と述べている。

目下のところ、欧州はイタリアの二人の教授、つまり欧州中央銀行のドラギ(Mario Draghi)総裁とイタリア首相になったマリオ・モンティ(Mario Monti)が渦中に入ることで均衡を再び取り戻している。「モンティ首相は、仏独両国の間で漁夫の利を得よう(être le toisième larron)としているが、フランス大統領とドイツ首相の間では妥協が成立してしまっている」と大統領府顧問はこっそり指摘している。

仏独伊の三首脳はストラスブールで会談を行い、月末にはローマで会うことにした。ベルルスコーニ(Silvio Berlusconi)のいなくなったイタリアと比較することはフランスにとって一層容易ならざることになっている。「フランスは500億ユーロの貿易赤字を出しているが、イタリアは500億ユーロの黒字を計上している」とアルチュスは指摘し、フランスとイタリアの間にある格付けの差は信じ難いことだと述べている。フランス人にとって一縷の望みは、ドイツが疑いようもなく競争力の峠に達しているということだ。完全雇用に近いこの国で、給与が2012年には4%も上がることになっているのだ。

・・・ということで、なんだかんだと言いながら、ドイツ主導の現状は認めながらも、ドイツの天下は終わりが近い、次はやはりフランスだ、それもフランソワ・オランドならいっそう精神的にも優位に立てる、と言っているようです。中華思想、自尊心の強いフランスらしい主張ですね。

ただ一点、気になったのが、フランスとドイツの生産海外移転の手法の違い。安い単純労働力を求めて、あまり技術力を必要としない製品の海外生産を進めるフランスと、高い技術が求められるハイ・エンド製品の生産を海外移転させ、新興国の熟練工を抱え込むことで、技術力は維持しつつ、コストだけを低減させることに成功しているドイツ。その結果が両国の経済力に反映されている・・・

さて、我らが日本がとっているのは、どちらの手法でしょうか。言うまでもなく、フランス型。単純労働によるコモディティ生産は労働力の安い新興国などに移転し、国内生産は高い技術を要する高級品に特化する。その結果は、どうもフランスと同じ経過を辿っているのではないでしょうか。市場シェアの喪失。家電製品などに顕著ですね。

エマニュエル・トッド(Emmanuel Todd)の言う「直系家族」(la famille souche)社会に属するドイツと日本。サッカーだけでなく、日本が目指すべきはドイツ型「生産の海外移転」、あるいは「生産の海外・国内棲み分け」なのではないでしょうか。一考の価値ありと、思うのですが・・・
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今や、戦闘機の輸出が、フランスの誇りだ!

2012-02-02 23:12:00 | 社会
ワイン、チョコレート、フレンチ料理、スイーツ・・・「フランス」と言ってすぐ脳裏に浮かぶのは、今日では、こうした食文化。日本では変わらぬ人気を誇っていますが、、どうもこうした食の文化だけで終わってしまっているような気がしてなりません。昔は・・・そう、歳を取ると、すぐ「昔は」という話になってしまい、また始まった、と言われてしまいそうですが、それでも、敢えて・・・昔は映画、文学、演劇、美術など、さまざまなフランス文化が脚光を浴びていたのですが、今やどうしてしまったのでしょう。

グルメも立派な文化ですから、味覚を批判するつもりは毛頭ありません。何しろ、サヴァラン(Jean Anthelem Brillat-Savarin:1755 - 1826)の『美味礼讃』(“Physiologie du Goût, ou Méditations de Gastronomie Transcendante ; ouvrage théorique, historique et à l'ordre du jour, dédié aux Gastronomes parisiens, par un Professeur, membre de plusieurs sociétés littéraires et savantes”:味覚の生理学、あるいは、超越的美食学に関する瞑想録;文学・教養学界の会員である教授によりパリの美食家たちに捧げられた理論的、歴史的、トレンディな著述)という立派な学問書もあるくらいなのですから。

ただ、残念に思うのは、フランスへの関心が、ちょっと偏ってしまっていることです。もう少し広い分野でフランスを捉えると、いっそう「フランス」に近づけるのではないかと、浅学の身ながら、思ってしまうわけです。

それなら、なにも文化に限ることはない、経済、政治、社会・・・いっそう間口を広げれば、さらにフランスの実相が見えてくるのではないか、とご指摘をいただいてしまいそうです。

そうなんですね、フランスは文化だけで生きているわけではない! そうした思いをさらに強くするニュースが伝わってきました。フランスがインドへ戦闘機を輸出することになりました! その機種は何か、どれくらいの商談なのか、どことの競合だったのか、フランス国内の反応は・・・そうした事柄について、1月31日の『ル・モンド』(電子版)が紹介しています。

インド政府による戦闘機126機という巨額な入札において、ダッソー・グループ(le groupe Dassault)が選定されたと、31日、通信社“Trust of India”が伝えた。120億ドル(91億1,000万ユーロ:約9,100億円)と見積もられているこの契約により、インド政府は18機の戦闘機を購入し、108機をインドにおいて現地生産することになる。ダッソー・グループにとって戦闘機の輸出は初めてであり、快挙と言える。

ボーイング(Boeing)、ロッキード・マーチン(Lockeed Martin)というアメリカの有力メーカーやスウェーデンのサーブ・グリペン(Saab Gripen)、ロシアのミグ(MiG)を競合から蹴落とし、ダッソー社の“Rafale”とユーロファイター社(EADS ; European Aeronautic Defence and Space Company・オランダ、BAE Systems ; British Aerospace・イギリス、Finmeccanica・イタリアの合弁企業)の“Typhoon”が最終選考に残っていた。そして、31日、インド政府の情報筋は「ラファール」が最低価格で応札したことを明らかにした。

今回の入札は2007年に始められたが、アジア第3の経済大国・インドが行った最も巨額な入札の一つであり、航空軍事産業にとっても当時最も重要な入札の一つであった。

ダッソー社とそのパートナーであるタレス社(エレクトロニクス担当)とサフラン社(エンジン担当)は、インド政府の決定に謝意を表すとともに、インドの防衛に長きにわたって貢献することができる誇りを表明した。この情報が公になるや、ダッソー・グループの株価は20%も急上昇した。

サルコジ大統領も今回の発表を喜んだ。「126機のラファールがインドでの入札の最終段階にある。このことは、直接担当するメーカーや航空産業だけでなく、フランス経済全体に対する信頼の証だと言える」と述べている。同じ31日、大統領府はコミュニケを発表し、契約の最終交渉は間もなく始まるが、フランス政府はそれを全面的に支援する。また、フランスによって認められた重要な技術移転も含まれる」と述べている。

フィヨン(Françcois Fillon)首相は下院議会で、「今回の決定はダッソー社にとっても、フランスにとっても、フランス産業界にとっても、実に良い知らせだ」と述べるとともに、この入札はサルコジ大統領の望んだ戦略的パートナーシップの一環であることを強調した。そして、「非常に困難な競合を経ての今回の勝利によって、フランス航空産業のクオリティ、産業界、政府両者の粘り強い対応が報われたことになる」と付け加えた。

「インドからの30~40年にわたる長期契約だと言える。古くからの信頼関係が確認され、フランス産業界に対する信頼の証となった」と、ロンゲ(Gérard Longuet)国防相は述べている。発注はおそらく12年以上にわたって分割されることになるだろう。当然、業務提携と技術移転が行われるが、ダッソー社はインド側にパートナー企業をすでに持っている。

貿易担当大臣、ピエール・ルルーシュ(Pierre Lellouche)は、「入札を勝ち得たが、最終交渉がまだ必要だ。独占交渉の段階にいるということだ」と語り、慎重であろうとしている。

フランスの戦闘機は、これまで1機も輸出されたことがない。1980年代末にラファール計画が始められ、2006年にフランス空軍に配備されたが、ダッソー社は国際市場では失望しか味わってこなかった。2001年にはオランダ、2002年に韓国、2005年にはシンガポール、2007年はモロッコ、2009年にはブラジルと、肘鉄を食わされ続け、昨年11月にはアラブ首長国連邦、直近ではスイスから拒絶されている。

しかし、フランスはラファールを今でもブラジルに売り込もうとしている。ブラジルはラファールか、ボーイング、サーブ・グリペン連合のF / A-18 Super Hornetのいずれかを選定することになっており、アラブ首長国連邦も同じ状況だ。国防相によれば、クウェートやカタールもラファールに興味を示しており、ダッソー社はマレーシアに対しプレゼンテーションを行った。

・・・ということで、文化の国、人権の国、フランスが商談に成功したのは戦闘機、苦難の末の、126機。しかし、決して意外な状況ではありません。フランスは世界有数の武器輸出大国なのですから。

しかも、武器輸出に絡む政治スキャンダルにも事欠きません。台湾へのフリゲート艦輸出に端を発するクリアストリーム事件、アフリカの旧植民地への武器輸出に絡む疑惑・・・今回のインドへの戦闘機輸出、裏で何らかの利権が動いているのでしょうか。

また、アフリカなどで、内戦や紛争が絶えないのは、武器輸出先が必要な欧米の軍需産業が裏で暗躍しているという説も、一部にはあります。さもありなんとは思いますが、確証する術を持っていないのが残念です。

他国の人権侵害を批判する一方で、軍需産業を育成し、武器を輸出している。さらには、武器を買い求める国や部族などを絶やさないために、紛争を生み出すことも厭わない・・・こうした国々がうごめく国際社会。とても“naive”、仏語で“naïf”、つまり世間知らずのお人好しでは、生き抜いていけないと思います。

「(中東を中心とする)現在の状況について、資源や領土、影響力をめぐって各国が争っていた19-20世紀をほうふつさせる」という指摘(2月2日:ロイター電子版)もあります。知力、姦計、陰謀術数の渦巻く国際政治の荒海を、日本外交はどう航海して行くのでしょうか・・・頑張れ、日本外交、とエールを送りたいと思います。応援しかできないのが、残念ですが。
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