ふりかえれば、フランス。

かつて住んでいたフランス。日本とは似ても似つかぬ国ですが、この国を鏡に日本を見ると、あら不思議、いろいろと見えてきます。

死亡した状況がはっきりしない・・・独裁者も、画家も。

2011-10-21 21:34:08 | 文化
42年間、リビアに君臨したカダフィ大佐が死亡しました。その死は、それこそ世界中で報道されていますが、死亡した状況がいまいちはっきりしません。

生きて捕らえられたのは間違いないようで、存命中の映像も公開されています。捕らえられた時には、背中と足に被弾してしたという報道もありますが、確認は取れていないようです。その後、民兵によって殺害されたという情報もありますが、トラックで他の場所へ移動中、カダフィ派との戦闘で死亡したという説もあります。しかし、国民暫定評議会(le Conseil national de transition)のジブリル(Mahmoud Jibril)暫定首相が、「カダフィ大佐を殺害した」と発表したという報道があり、どうも民兵によって射殺されたのかもしれません。情報がまだ錯綜しています。

生きたまま捕らえると国民暫定評議会は言っていたのですが、いざ捕らえてみると、現場にいる民兵の積年の恨みが強すぎた、ということなのかもしれません。排水管に逃げ込んだものの、発見され、引きずり出された。殴る蹴る、そして銃殺。その死体は引きずり回される。独裁者の末路・・・かつて、東欧でも、銃殺された独裁者がいました。今後、他の中近東の国々にも広がるのでしょうか。

フランスは、独裁者・カダフィ大佐の死を祝福しています。数年前には、カダフィ大佐をパリへ招待し、至れり尽くせりの厚遇をしたフランスですが、「アラブの春」がリビアに波及するや、一転、反カダフィ派を支援。イギリスとともにNATO軍の先頭に立ち、トリポリ陥落後には、サルコジ大統領がイギリスのキャメロン首相とともに、トリポリとベンガジを訪問。熱狂的な歓迎を受けました。国民暫定評議会をいち早く承認し、パリでの会談も行っています。その裏では、リビアの石油利権の30%を獲得したとも言われ、フランス外交の勝利と、自画自賛する向きもあります。

政治、外交・・・昨日の友は、今日の敵(仏語:L’ennemi d’hier est aujoud’hui ami. 英語:A friend today may turn against you tomorrow.)。ナイーヴでは生き抜いていけないようです。

さて、さて、為政者と同じく、その死の状況がはっきりしない画家がいます。フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Van Gogh)。あまりに有名な画家ですが、オーヴェル・シュール・オワーズ(Auvers-sur-Oise)で自殺した、というのが通説になっているものの、死の状況から自殺では不自然だという意見が根強く残っています。未公開の多くの資料をもとに、ゴッホの死は事故死だったと述べる本が出版されました。

どのような根拠で事故死だったと言えるのでしょうか・・・17日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

伝記作家のスティーヴン・ネイファー(Steven Naifeh)とグレゴリー・ホワイト・スミス(Gregory White-Smith)は(『ル・モンド』は二人とも伝記作家と言っていますが、より正確には、前者は美術史家、後者は作家で、このコンビが著したアメリカ人画家、ジャクソン・ボロックの伝記はピューリッツァー賞を受賞しています)、フィンセント・ファン・ゴッホの人生に関する新たな本を出版した。その本によれば(原題は“Van Gogh : A Life”です)、ゴッホの死は自殺ではなかった。ゴッホもよく知る二人の男と一緒にいる際、誤って発射された銃弾により死亡した事故死の可能性がある。ゴッホはオーヴェル・シュール・オワーズで1890年7月29日、37歳の若さで死亡した。

BBCによれば、二人の作者は今まで研究者が手にすることのできなかったゴッホの手紙を数多く、綿密に調べたそうだ。

ゴッホはラヴー亭(l’auberge Ravoux)に滞在し、作品を描くために周辺の麦畑を歩き回っていた。通説は、7月27日に畑で自殺を試みたが怪我を負っただけで死にきれず、宿泊先に戻り、2日後に死亡した、というものだ。

スティーヴン・ネイファーは、次のように語っている。ゴッホが自殺したのではないということは調べ始めてすぐ分かった。ゴッホを知る人たちの間で信じられている別の説がある。それは、ゴッホもよく知る二人の若者によって誤って発射された銃弾により重傷を負ったが、ゴッホは二人を守るため自殺というカタチで事故の責任を自分で負うことにした、という説だ。

ネイファーはさらに、次のように続けている。著名な美術史家、ジョン・リウォルド(John Rewald:1912-1994)は、1930年代にオーヴェル・シュール・オワーズを訪問した際に、上記のような説を検討していた。その説を裏付けるような新たな資料も見つかっている。中でも、ゴッホが腹部に受けた銃弾が、斜めの弾道を取っていたことが挙げられる。自殺なら、一般的には真横から垂直に撃ち込まれるはずだ。

二人の若者のうち一人は、その日、カーボーイの格好をし、手入れの行き届いていない銃をもてあそんでいた。その二人はゴッホと一緒に酒を飲んでいたと言われている。こうした状況であれば、事故死ということは十分に起きうることだ。若者二人がゴッホを意図して殺そうとしたと考えることには無理がある、と二人の作家は新著で述べている。

グレゴリー・ホワイト・スミスは、次のように語っている。ゴッホは自ら死のうとしたのではない。しかしこの事故の後で、自殺という状況を受け入れたのだった。彼の存在が重荷になっていた弟・テオ(Theo)を思ってのことだ。テオはまったく売れない画家、ゴッホを金銭面から支えていたのだが、ゴッホの死後わずか6カ月後に、後を追うように亡くなっている。

・・・ということで、ゴッホの死は、事故死だった、ということなのですが、よし、これだ、これで間違いないとも言えない所があります。例えば、『ウィキペディア』によれば、

「なお、死因は一般には自殺と言われているが、自殺するには難しい銃身の長い猟銃を用いたことや、右利きにも関わらず左脇腹から垂直に内臓を貫いていることから、他殺説も存在する。」

ということで、銃弾は垂直に撃ち込まれている!? スティーヴン・ネイファーとグレゴリー・ホワイト・スミスの説とは異なっています。同じく自殺ではないというものの、その根拠となる銃の弾道が異なっています。一方は、垂直だから自殺ではない、他方は、斜めだから自殺ではない!! 真実は、どこにあるのだ! と言いたくなってしまいます。

素人考えでは、腹部に銃弾を受けていること自体、自殺とは言えない理由になるのではないか、と思えてしまいます。自殺するなら、頭部(こめかみ)か心臓を狙うのではないか・・・そう思ってしまうのですが、それは20世紀後半や21世紀に生きる人間の常識であって、19世紀は腹部を狙ったのだと、もし言われてしまえば、反論のしようがありません。素人の哀しさです。何しろ、切腹は腹を掻っ捌いたわけですから、銃弾を腹部に受けていたからと言って、自殺ではないとも言い切れないのかもしれません。

すべては藪の中。『羅生門』の世界なのかもしれません。だからこそ、多くの人の関心を惹きつけ続けているとも言えましょう。少々、曖昧なところがあるほど、人は関心を寄せる・・・しかし、政治はそうあってほしくないものです。旗幟鮮明、はっきりした政治をお願いしたいものです。

なお、ゴッホ終焉の地については、『50歳のフランス滞在記』の2008年5月14日をご覧ください。写真とともに紹介しています。

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