ふりかえれば、フランス。

かつて住んでいたフランス。日本とは似ても似つかぬ国ですが、この国を鏡に日本を見ると、あら不思議、いろいろと見えてきます。

セクハラで閣僚辞任・・・推定無罪は? フェミニズムは?

2011-05-30 21:13:48 | 政治
ドミンク・ストロス=カン(Dominique Strauss-Kahn)が性的暴行、強姦未遂の疑いで起訴され、IMF専務理事の職を辞したことは今でもまだフランス人、特にフランス政界にとっては大きなショックになっているようですが、そこへもう一件、現職の公務員担当大臣がセクハラで辞任に追い込まれるという、まるでフランス人男性政治家の評判悪化に追い打ちをかけるような出来事が起こりました。

辞任したのは、ジョルジュ・トロン(Georges Tron)。1957年生まれの53歳。パリ西郊、富裕層の多く住むヌイイ(Neuilly-sur-Seine)の、御多分に洩れず裕福な家庭で育ち、公法で修士号を取得。パリ市長のジャック・シラク(Jacques Chirac)、次いでバラデュール(Edouard Balladur)の近くで働き、バラデュールの首相就任に伴い、その秘書官に。1993年からはエソンヌ県(Essonne)選出の下院議員(内閣に入った2010年春まで議席を有していました)。1995年からはエソンヌ県にあるドラヴェイユ(Draveil)の市長(現在でも在職中です)。2010年3月からこの5月29日の辞任まで、公務員担当大臣として閣内に。与党UMP(国民運動連合)内では、“villepiniste”(ド・ヴィルパン:Dominique de Villepinに近い政治家)と見做されてきました。

辞任の背景は、ドラヴェイユ市役所に以前勤めていた二人の女性から、セクハラで訴えられたことでした。担当大臣としての職務をしっかり果たし、市長としても申し分のない市政運営を行っていれば、以前であれば大目に見られたかもしれないのですが、さすがのフランス社会もDSKの起訴・辞任の直後だっただけに、フランス国内だから問題なし、とは言えなかったようで、野党、メディア、フェミニズム団体など、多方面からの攻撃にさらされ、ついに辞任に追い込まれました。タイミングが悪かったという、相変わらず下半身に寛大なフランス的感想もあるようですが、いずれにせよ、担当大臣辞任に至りました。しかし、市長職は辞さないと、今のところは語っています。

ジョルジュ・トロンの辞任を、フランス政界はどう見ているのでしょうか。与党は、DSK辞任の突風に巻き込まれた社会党は、来年の大統領選挙を目指す他の政党は・・・29日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

ジョルジュ・トロンの辞任を多くの政治家が歓迎している。トロンはセクハラ(harcèlement sexuel)で訴えられているが、一部には推定無罪が形骸化してしまうことを危惧する声も聞こえる。トロンは、この1年弱の間にスキャンダルで辞任する5人目の閣僚となった。

与党UMP所属で現労働大臣のグザヴィエ・ベルトラン(Xavier Bertrand)は、難しい決定をよくぞしてくれたと、辞任を歓迎している。しかし同時に、推定無罪が政治家には適用されなくなっているのではないかという問いかけもしている。そして、「ジョルジュ・トロンが語ることに耳を傾けることも大切だ。彼なりの説明もあることだろう」と、多くのメディアを前に述べている。

社会党(PS)の大統領候補を目指す、前第一書記のフランソワ・オランド(François Hollande)も、辞任は最も良い決断だったとし、「大臣の職にある政治家にとって推定無罪や自己弁護を主張するには困難さが付きまとう。閣内にポストを有している政治家が司法に影響力を行使するのではないかという疑惑が常に持たれるからだ。数年前、取り調べを受けた大臣は辞任すべきという規則が取り決められたが、今では不十分なのではないかと思われる。ジョルジュ・トロンはまだ取り調べを受けていないが辞任に追い込まれた」と、テレビ局“France5”の番組で語っている。

来年の大統領選を目指す極右・国民戦線(FN)のマリーヌ・ルペン党首は、ジョルジュ・トロンの辞任をいち早く求めた一人だが、その辞任については半ば満足、半ば不満と言ったところだ。「同時に市長のポストも辞するべきだ。告発した二人の女性は市の元職員であり、トロンが市長のままではその影響力を直接行使することも可能だろうから」と述べている。

ドラヴェイユ市議会の野党勢力も同じく市長辞任を要求している。元職員の訴えによるセクハラ訴訟に関する取り調べで、証言にプレッシャーがかけられる恐れがあると指摘している。

イゼール県(Isère、フランス南東部Rhône-Alpes地方圏)選出の社会党議員、アンドレ・ヴァリーニ(André Vallini)は、「辞任は政府にとってもジョルジュ・トロンにとっても唯一の解決策だった。もちろんトロンにすれば推定無罪に反していると思えるだろうが」と、ラジオ局“RTL”の番組で語っている。

司法問題の専門家であるアンドレ・ヴァリーニはまたテレビ局“LCI”の番組で、「こうした問題を抱えると、良い解決策はない。大臣の職を辞すれば、政治キャリアの終焉を意味し、評判も地に落ちる。たとえ後になって無罪が証明されてもだ。一方、推定無罪を根拠にポストに居座っても、それは大臣としての行動や政府の活動にとって大きな障害となる」と状況を説明している。

共産党の全国書記であるピエール・ロラン(Pierre Laurent)はさらにはっきりと「今回の辞任は当然の帰結だ。司法は政治からの影響を受けず、あくまで独立してその任に当たるべきであり、女性差別は断固として糾弾されるべきだ。このような事件が頻発しており、もううんざりだ。政界を乱しているこうした状況については、ニコラ・サルコジがまずは責任を負うべきだ。この4年、取り巻き政権を作り、大臣の指名にしても、その能力や倫理観ではなく、従順さや付き合いの深さで選んでいる。与党はトロンの辞任により自らを守ろうとしたが、それは結局、DSK問題に悩む社会党に塩を送ったようなものだ」とコミュニケの中で表明している。

大統領選に出馬すると思われる左翼党(Parti de Gauche)の共同代表であるジャン=リュック・メランション(Jean-Luc Mélenchon)は、「ジョルジュ・トロンの辞任の裏では、フィヨン首相(François Fillon)が個人的信念に基づいて行動したに違いない。そうでなければ、トロンが辞任した理由が見いだせない。誰かを告訴することは容易であり、そのことによって起訴された側は失脚するが、もしその告訴内容が真実でない場合はどうするのだろう。かつては誰もが推定無罪を語っていたが、今や消え失せてしまったようだ。大きな様変わりだ」とメディアに対して述べている。

ヨーロッパ・エコロジー・緑の党(Europe Ecologie-Les Verts)の大統領選候補を目指すエヴァ・ジョリー(Eva Joly)は、DSKの件に引き続き、こうした女性への性的暴行が政界で起きたことに関し、「このような嫌疑をかけられれば、職にとどまれないことは当然なことだ。DSKの件と同じく、男性中心主義の痕跡を今回の件にも見ることができる。すでに時代は変わったと思っていたフェミニズムは、苦々しい思いで目を覚まされた」と、通信社“AFP”に語っている。

ジャン=ルイ・ボルロー(Jean-Louis Borloo)が党首を務める急進党(Parti radical;中道右派)の副党首、ドミニク・パイエ(Dominique Paillé)は、ジョルジュ・トロンの辞任を歓迎し、「今回の辞任は単なる驚きというわけではなく、賢明な決断だ。辞任により、ジョルジュ・トロンは自分を守ることに専念できる。今回の件は、その根拠がどのようなものであれ、政府の活動に汚点を残した」と、テレビ局“LCI”の番組で述べている。

・・・ということで、立場が違えば、当然見え方、意見も異なってきますが、男性政治家の性的事件にうんざりしていることと、推定無罪の危機を訴える声が大きいようです。

ジョルジュ・トロンの事件も、もしDSKの件がなかったらどうなっていたでしょうか。またDSKにしても、もし事件がフランス国内で起きていたらどうなっていたでしょうか。かなり変わった展開になっていたのではないかとも思えますが、それにしても、プライバシーの尊重も行き過ぎると、性差別まで見逃してしまうことになりかねません。この点は、フランス男性も考えないといけないのではないでしょうか。セクハラでは人後に落ちない日本人男性としては、あまり大きな声では言えませんが。

『世界の日本人ジョーク集』(早坂隆著)から、一節。

 会社からいつもより少し早めに帰宅すると、裸の妻が見知らぬ男とベッドの上で抱き合っていた。こんな場合、各国の人々はいったいどうするだろうか?
 アメリカ人は、男を射殺した。
 ドイツ人は、男にしかるべき法的措置をとらせてもらうと言った。
 フランス人は、自分も服を脱ぎ始めた。
 日本人? 彼は、正式に紹介されるまで名刺を手にして待っていた。

こういうイメージのフランス人、実際にも異性好きとは言われていますが、それでも自分の立場、権力を利用しての関係は、もはや許されない時代になっているようです。そのきっかけが、アメリカでの起訴という、まるで外圧のようなものであったとしても。また、たとえアルプスの向こう側では、まだ政治家がやりたい放題だとしても、です。

「シャンパン社会主義者」の面目躍如・・・DSKの新しい住まい。

2011-05-28 21:54:23 | 政治
ニューヨークのブロードウェイ70番地に仮住まいしていたドミンク・ストロス=カン(Dominique Strauss-Kahn)が新しい住まいに転居しました。

保釈される前に、いったんアッパー・イースト・サイドにあるアパートメントでほぼ決まりかけていたのですが、同じ建物や近隣の住民の反対などもあり、急ぎ仮の住まいとしてマンハッタン南部にあるアパートメントに腰を落ち着けました。しかし、手狭であり、警備上などの面からもよりふさわしい物件を探していました。

これまでの仮住まいにしても、同じ建物内の住民、特に女性はインタビューに答えて、どんな人か知らないけれど、性犯罪者が同じ建物に住むのは不安だわ、と言っていました。しかも道路をはさんで建物の向かいには多くのカメラが入り口にレンズを向けていました。住民はDSKが退去してホッとしているのではないでしょうか。

そして、DSKの新しい住まいとなったのは、トライベッカ(Tribeca:ソーホーの南西にある地区、Triangle below Canal Streetの略がその名の由来)にある豪奢なアパートメント。どのような住まいで、それをめぐりどのような反応が起きているのでしょうか・・・26日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

ドミニク・ストロス=カンが25日夜、20日に保釈されて以降住んでいたアパートメントを出て、トライベッカにある豪奢な住まいに居を移した。そこで、警察の監視下、ホテルの女性従業員に対する強姦未遂に関する裁判に備えることになる。

前IMF専務理事は、私服警官に付き添われて、ブロードウェイにある仮住まいをしていた建物を出、待たせていたクルマに乗り込んだ。手錠はされていなかった。彼が向かった先は、トライベッカにあるフランクリン・ストリート(Franklin Street)153番地。その一帯は、かつて倉庫や工場が立ち並ぶ地区だったが、1990年代にロフトなどに改装され、今やおしゃれなエリアとして人気を博している。DSKが住むのはその一角にある2階建てのエレガントな家だ。

メディアはさっそくこの新たな住まいの前に陣取った。不動産会社によれば、この住まいには、3つの寝室、4つのバスルーム、大きなロフト・スタイルの居間、ジャグジー、ビデオ・ホール、その他贅を究めた設備がそろっている。ニューヨーク・タイムズは、この家は有名な建築家、レオポルド・ロザーティ(Leopoldo Rosati)によってリノベーションが施され、1,400万ドル(約11億3,500万円)ほどで売りに出されていたと伝えている(DSKはこの家を買ったのではなく、賃借することにしました)。

「このような家賃、これほどに高い家賃を聞けば、多くのフランス人が驚くことも理解できる」と、社会党の報道官、ブノワ・アモン(Benoît Hamon)はラジオ局とのインタビューで語っている。ブノワ・アモンによれば、月ごとの家賃は35,000ユーロ(約400万円)だそうだ。

「ストロス=カンが夫人と非常に裕福な家庭を営んでいることは誰もが知っていることであり、それゆえこの家を借りることにしたのだ。しかしこの家賃が、我々フランス人にとって非常に高価なことは否定しようがない。」このように、ブノワ・アモンは言葉を継いだ。

「ニューヨークの判事は、25日の早いうちに、DSKがマンハッタン内で住まいを引っ越すことを認めていた。DSKはマンハッタンに住むよう居所指定を受けており、それに従っている。」司法関係者はこのように説明している。

新しい住まいからDSKは警官のエスコート付きで弁護士に会いに出かけたり、裁判所へ出向いたり、医師や宗教的施設(シナゴーグなど)へ赴くことができる。弁護士は、同じく25日、コミュニケを通して、性的暴行でDSKを訴えている客室係の女性やその家族には一切コンタクトを取っていないこと、DSKが完全に無罪であることを確信していることを、公表した。

ホテルの従業員に対する性的暴行と強姦未遂で告訴されているDSKは6月6日、有罪か無罪かを述べるために裁判所に出向くことになっている。DSKは起訴内容を全面的に否認している。

・・・ということで、新しい住まいの家賃は月額400万円! 年額でもすごいと思ってしまいますが、月額の家賃です。さすが、「シャンパン社会主義者」ですね。

しばらく前、DSKがいかに庶民とかけ離れた豪奢な生活を送っているかを、与党、UMP(国民運動連合)の息のかかったメディアが大々的に報道していましたが、やっぱり、ね・・・と思ったフランス人は多いのではないでしょうか。

プライヴェートに関しては、寛大なフランス人。ミッテランの隠し子についても“Et alors”と言われただけで認めてしまいました。DSKに関しても、フランスで起きた事件なら、DSKのいつもの女好きが今度はちょっと度が過ぎたね、くらいで済んだのかもしれませんが、アメリカでの事件だけに、起訴されてしまいました。しかし、いくらプライヴェートと言っても、こと「お金」に関しては、さすがのフランス人もそう寛大ではいられないのではないでしょうか。

寛大でないというよりは、厳しいかもしれません。ミシェル・アリオ=マリ(Michèle Alliot-Marie)が外相を辞任せざるを得なかったのも、チュニジアの前政権との癒着、特に親のビジネス絡みでの金銭的不明瞭さが指摘されたことが一因にありました。また、DSKの後任としてIMF専務理事に立候補したラガルド財務相(Christine Lagarde)も、金銭絡みの職権乱用で訴追される恐れがあります。

「ラガルド氏の関与が指摘されたのは、仏実業家ベルナール・タピ氏が保有株売却で損失を受けたとして、売却委託先で当時国営だったクレディ・リヨネ銀行に損害賠償を請求した訴訟。ラガルド氏は2007年、同銀の政府代表の資格で介入して訴訟を打ち切り、調停に持ち込んでタピ氏に有利な形で係争を終結させた。」(時事通信:5月25日)

*ベルナール・タピ(Bernard Tapie):実業家、政治家、俳優。サッカー・チーム、オリンピック・マルセイユの元会長。会長職にあった1993年、チームはUEFAチャンピオンズカップで優勝。その時の中心選手の一人が、現名古屋グランパス監督のドラガン・ストイコビッチ。タピ自身は、その後、八百長問題で辞任。

フランス人の「お金」に対する目は、日本人よりも厳しいかもしれません。その「お金」に関して、庶民とはあまりにかけ離れた優雅な生活を送るDSK。そのイメージは、他の社会党政治家にも影響するかもしれません。失脚したDSK、生ける社会党大統領候補を走らす、になるのでしょうか・・・

皮膚の色が違うだけで職務質問を受ける・・・どこが、自由と平等の国だ!

2011-05-27 21:29:48 | 社会
2005年の都市郊外での暴動。日本でも大きく取り上げられました。例えば、『現代思想』が「フランス暴動―階級社会の行方」というタイトルで臨時増刊号を出したほどです。それから5年以上が経過・・・すっかり平静を取り戻しているのかと思いきや、今また、一部のフランス人が、郊外は爆発寸前になっている、と警告を発するような状況になっています。

23日から、弁護士たちが、郊外が危ないという認識を広めるために、ある行動を始めました。どのような運動なのでしょうか。その具体的な背景は・・・23日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

23日から、50人ほどの弁護士が、アイデンティティ確認の職務質問が違憲性を帯びているという認識を一般に広めるために行動を起こすことにした。アイデンティティ確認のための職務質問は刑事訴訟法で認められてはいるのだが、23日から2週間、弁護士たちは、パリ、リヨン、マルセイユ、リール、ナンテ―ル、クレテイユの裁判所に提出された書類をチェックし、その職務質問の契機が対象者の皮膚の色によるものである場合には、合憲性の優先的照会(une question prioritaire de constitutionnalité:QPC)を要求することにした。

【註】QPC:「新たな司法審査制度を「合憲性の優先的照会」(Question prioritaire de constitutionnalité, QPC)と呼んでいる。従来の憲法院の審査は、議会で法律が成立したあと、審署・公布までの間に行う事前審査であったが、法律の事後的な審査、しかも具体的な訴訟事件の前提として審査する制度が設けられたのである。」(小梁吉章:『広島法学』34巻3号(2011年))

QPCのお陰で、憲法が保障する人権や自由を立法機関が侵害している場合には、司法関係者が警鐘を鳴らすことができるようになっている。

ヴァル・ド・マルヌ(Val-de-Marne)にオフィスをもつ弁護士のジェローム・カルサンティ(Jérôme Karsenti)によれば、「今回の弁護士たちによる行動の目的は、社会的連帯を脅かす問題、つまり郊外の若者がその犠牲となる人種差別に対して警察や市民の関心を喚起することにある。多くの人がもう2005年の暴動のことを忘れてしまっているが、今や再び爆発寸前の状況になっている。皮膚の色による職務質問は、拒絶、排除、周辺化という感情をもたらしている」のだ。“Open Society Justice Initiative”という、億万長者のジョージ・ソロス(George Soros)の支援を受け、今回の弁護士たちの活動にも関係している団体が発表したレポートによると、白人よりもアラブ人は6倍、黒人は7.8倍の頻度で警官による職務質問を受けている。

具体的には、弁護士たち、多くは弁護士組合のメンバーなのだが、彼らは特に憲法第78条の2を問題にしている。この条項が皮膚の色による職務質問を可能にしている。「この条項により、何か違法行為を犯すのではないかというもっともらしい理由があれば、誰に対しても職務質問を行うことができるのだ」とカルサンティ弁護士は語っている。2003年に修正されたこの条項により、主観的な理由で警官が職務質問を行うことが可能になったが、それ以前は重大で間違いのない兆候が職務質問の前提として求められていた。

「嫌疑をかけられた人は、有効な訴えを行う権利があるはずだが、ほとんどの職務質問はその後訴訟に発展せず、職務質問が頻発していることを証明することができない。この条項は、そもそも平等の原則に反し、往来の自由を制限することになる。法律の解釈や法律へのアクセスの容易さも、守られていない。」カルサンティ弁護士は続けてこのように述べている。

・・・ということで、QPCとか憲法院(Conseil constitutionel)など、法律用語も登場しますが、要は、皮膚の色による職務質問が自由と平等に反している、ということですね。アラブ人や黒人は、白人より6~8倍も職務質問を受けやすい。これは明らかに人種差別。同じ日に3度も職務質問を受ける人もいるとか。

“minorité visible”という言葉があります。外見上で分かるマイノリティ、つまり皮膚の色や姿形で少数派だと分かる人々のことで、アラブ人(フランスでアラブ人という場合、中近東出身者ではなく、一般的には北アフリカ出身者のことです)と黒人を指す場合が多いのですが、もちろん黄色人種も例外ではありません。

日本人でも駐在員の場合は、16区やヌイイーなど高級住宅地に住む場合が多いので、問題はないのでしょうが、“quartier sensible”などと言われる郊外に住めば、あからさまな差別に遭遇することもあります。しかも、フランス生まれの移民2世や、1世でも旧フランス植民地出身者にとっては、フランス語力で劣るアジア出身者は蔑みの対象。マイノリティの中にも新たな差別が生じてしまいます。

蔑みの対象を見つけては、そこに自らの不満解消のはけ口を見出す、あるいは庶民の不満解消のはけ口として政治が利用する・・・はけ口の対象にされたのは、ユダヤ人であり、黒人であり、アラブ人、アジア人・・・そのほかにも、多くのマイノリティが差別に苦しみ、今でも喘いでいます。

そこにあるのは、違いであって、優劣ではない、と考えることは無理なのでしょうか。どうしても自分より劣っていると思える人間を探しては、優越感に浸らずにはいられないのでしょうか。自分よりも劣った環境にいる人間の存在を確認して、少し胸をなでおろすことが、どうしても必要なのでしょうか。「人種差別」、いつになったらこの言葉が地上から消え去るのでしょうか・・・

教授資格試験の問題に不備が・・・問題だ!

2011-05-26 21:10:44 | 社会
アグレガシオン“agrégation”・・・日本では、大学教授資格とか、中高等教授資格、あるいは教授資格と呼ばれている、フランスの1級教授資格。定員が決まっている選抜試験で、合格すると“PRAG”(Professeur Agrégé)と呼ばれ、中学・高校・大学で教員として教えることができます。

この「アグレガシオン」が日本でも有名になっている一因が、サルトル(Jean-Paul Sartre)ですね。1929年の哲学教授試験で、見事にトップ合格。同年、2位で合格したのが、事実婚の相手となったボーヴォワール(Simone de Beauvoir)。さすが、すごい知的カップルだ! となったわけです。ただし、サルトルは前年も受験し、その時は落ちています。優秀だっただけに、周囲はみなその落第に驚いたとか。青春の蹉跌だったのかどうか。因みに、同年の哲学教授試験に合格した仲間に、『アデン、アラビア』や『陰謀』などでお馴染みの作家、ポール・ニザン(Paul Nizan)がいます。『帝国以後』などで知られる人口学者、エマニュエル・トッド(Emmanuel Todd)はニザンの孫にあたります。

また、翌1930年の合格者には哲学者のメルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)が、31年には哲学者のヴェイユ(Simone Weil)と社会人類学者で、構造主義の祖と呼ばれるレヴィ=ストロス(Claude Lévi-Strauss)がいました。錚々たる顔ぶれが並んでいますね。アグレガシオン=フランスの知性、といった印象を与えています。

今日では、中学・高校教員向けの中等教育アグレガシオン(les concours d’agrégation de l’enseignement de second degré)と大学教師資格のための高等教育アグレガシオン(les concours d’agrégation de l’enseignement supérieur)に分けられています。ただし、あくまで教員(教育職)であり、博士号を取得した教育研究職(Enseignant-chercheur)とは一線を画しているようです。

こうしたフランスの知性を選抜するようなアグレガシオン試験の問題に、不備が見つかりました。どのような問題なのでしょうか。その波紋は・・・24日の『ル・モンド』(電子版)が概略を紹介しています。

2011年の歴史教授資格試験が取り消される可能性が出てきている。4月初旬に行われた中世史の試験問題に不適切な個所があると指摘されたのだ。試験問題として引用されたテキストは、1415年に書かれた文書だとされていたのだが、実は1964年に出版された歴史家、パレモン・グロリュー(Palémon Glorieux)によるテキストであることが発覚した。

この混乱は、大学・学界の驚きと志願者の怒りを買っている。パレモン・グロリューはその序文でその著作の一部が多くの古い資料を参考にしつつ書かれたものであることを語っており、その出典も明記しているだけに、今回の試験問題のエラーはいっそう驚くべきものとなっている。

日刊紙“Libération”(リベラシオン)はブログ・サイトで次のように自問している。試験問題作成を担当した二人の歴史家、カトリーヌ・ヴァンサン(Catherine Vincent:Centre d’Histoire Sociale et Culturelle de l’Occident)とドゥニーズ・リシュ(Denyse Riche:リヨン第二大学)は、どうしてこのような驚くべき失態をやらかすことができたのだろうか。試験問題を作るのに、たぶんラテン語によるものだろうが、オリジナルが存在することをどうして確認もしなかったのだろう。

アグレガシオンの試験を担当する部署が、このような問題に直面するのはまったく初めてのことだ。国民教育大臣のリュック・シャテル(Luc Chatel)と高等教育大臣のヴァレリー・ペクレス(Valérie Pécresse)は、今回の試験が有効かそれとも無効とすべきかの決断を迫られている。スキャンダルにも関わらず、4月に実施した試験は有効だとすることもできるし、不備を指摘された部分のみを別の問題で再試験することも、あるいは試験すべてを作りなおして再受験させることも可能だ。いずれにせよ、批判をかわすために、いずれかの方法を取ることになる。

・・・ということで、文化大国、教育のレベルの高さを自慢するフランスで、それも教授資格試験で、問題に不備が指摘された。これは由々しき問題でしょうね。記事も指摘しているように、どうして著者の註に気付かなかったのでしょう。まさか、ネット上に出ていて、それをコピペしたため気づかなかった、などということはないでしょうね。

日本だけでなく、フランスでも学生のコピペが問題になっています。“le copier-coller”という単語がメディアなどにしばしば登場することでも、その「普及」ぶりが分かります。今では、コピペ部分を見つけ出すソフトウェアまで開発されています。大学よっては必需品になっているとか。人間は楽な方へ流れやすいものですが、若いうちの苦労は買ってでもしろ、とも言います。自分で考え、自分で書くことが、後々生きてくるのではないでしょうか。さぼったり、遊ばず、もう少し「知」を磨いておけばよかったと、50過ぎて反省する人間が言っているのですから、間違いありません。それにしても、後悔、先に立たず、です。

『共通歴史教科書』の現状が映し出す独仏関係。

2011-05-25 21:15:13 | 社会
日本語訳も出版されている『ドイツ・フランス共通歴史教科書』。長年相争ってきたドイツとフランスが、平和な時代を築こうとさまざまな試みをしてきましたが、その一環として作られた共通歴史教科書。両国の歴史家が、同一内容の教科書をそれぞれの言語で作ろうという画期的な試みです。世界的にも大きな話題となりました。日本語版の出版もその一例と言えるでしょう。

発端は2003年。2006年には第一巻が出版されました。現在では全三巻が刊行されていますが、教育の現場では実際、どのように活用されているのでしょうか。20世紀初頭から始まった共通歴史教科書をつくる運動の歴史と現状を、23日の『ル・モンド』(電子版)が紹介しています。

画期的なアイディアだ。費用も大してかからず、それでいて実にシンボリック。政治家にとっては、願ったり叶ったりだ。「エリゼ条約」(le traité de l’Elysée:戦後のフランス・ドイツの協力を定めた条約)の40周年を祝うため、2003年1月、ベルリンに集まったフランスとドイツの高校生たちが共通歴史教科書の作成を提案したのだった(リセ20校、ギムナジウム16校から、あわせて550名が集まりました)。しかし、教科書の採用はドイツでは16の州がそれぞれ受け入れるかどうかにかかっており、容易な試みとは思えなかったが、当時のシラク大統領(Jacques Chirac)とシュレーダー首相(Gerhard Schröder)が全面的に受け入れを表明した。

過去にも、同じような試みがあった。例えば、1930年代、ドイツの中世史家ケルン(Fritz Kern)とフランスの出版者ドパンジュ(Jean de Pange)が、歴史家のためのフランス・ドイツ関係教材を作ろうとした。しかし、ナチの台頭により、断念した。1951年には、歴史家エッカート(Georg Eckert)とブリュレイ(Edouard Bruley)が試みたが、やはりうまくいかなかった。

21世紀の試みは、フランス大統領とドイツ首相の支援を受けて、日の目を見ることになった。例外的なことだが、ドイツ全16州がそろって高校の歴史プログラムを統一することにした。委員会が設立され、次のような結論を導いた。作るべきは同一の教科書で、フランス・ドイツ史の教科書ではなく、フランス語・ドイツ語による共通「歴史」教科書にすること。全三巻とし、ヨーロッパの歴史に重きを置き、生徒が自習できる内容で、フランス・ドイツ両国にとって有益なものとする。そのために、比較研究、知識の移転、概念・理解・適合の特殊性を生かし、また専門用語の差異などに注意しつつ作成すること。このように、歴史家のフランソワ(Etienne François)は雑誌“Vingtième siècle”(『20世紀』)の中で説明している。

ドイツのクレット(Klett)、フランスのナタン(Nathan)という出版社二社が決まり、歴史家が集められた。多くのテーマにおいて、異なる見解があった。例えば、啓蒙思想はライックな(laïque:脱宗教性の)運動なのか、プロテスタンティズム(le protestantisme)と結びついているのか。ナチズムは他の国々と同じ全体主義なのか。1945年以降のアメリカは、寛大な強国か、帝国主義か。共産主義は、独裁か、抵抗運動か。しかし、そうした差異はすぐに薄れていった。教え方に関する最大の違いは、フランスでは歴史は地理とともに教えられるが、ドイツでは哲学や文学と合わせて教えられるということ。しかしこの点に関しても妥協点が見いだされた。

政治的理由から、2006年の最初の刊行は1945年以降のヨーロッパと世界をカバーする、高校の最終学年向けの教科書になった(この巻が日本語訳され出版されています)。この歴史教科書に、メディアは騒然とし、世界が驚いた。特に、日本で、韓国で、アメリカで、大反響となった。2008年には、1815年のウィーン会議から1945年までを扱う高校第一学年向けの教科書が刊行された。そして現在、古代からナポレオンの失脚までをカバーする高校の第二学年向けの教科書が印刷中だ。

全三巻が刊行され、ハッピー・エンドを迎えることになるのだろうか。そうはいかない。なぜなら、期待したほどの成功を獲得していないからだ。かなりの地域圏(フランス)や州(ドイツ)が多くの高校に配布したが、それぞれの国で最初の二巻合わせて4万部ほどしか売れなかった。目標の10万部からは遥かに遠い数字だ。しかも、フランスでは、サルコジ大統領の過去との決別が厳しい状況に追い打ちをかけた。サルコジ政権が推し進める高校改革が大きな影響を与えたのだ。理科系クラスの最終学年では、歴史は選択科目でしかなくなった。フランス・ドイツ協会連合が政権に警告を発したが無駄だった。ナタン社は第三巻を7,000部しか印刷しない。初めの二巻の一定部分は高校生ではなく知的関心のある成人が買っていた。第三巻でも同じことを期待している、と出版社のトップは語っている。

ルートヴィヒスブルク(Ludwigsburg)にあるフランス・ドイツ協会の研究者であるセイデンドルフ(Stefan Seidendorf)は、この商業的失敗の原因を見極めようと試みている。両国で打ち合わせをすれば、フランスの高校改革が状況を悪化させたことは分かるが、原因はそれだけではない。フランスでもドイツでも、この教科書は例外はあるにせよ、一般的にはヨーロッパに関する授業でしか使われていない。社会的標識のようなものだとセイデンドルフは言っている。ドイツの多くの州では無料で配布されたが、補助教材としてしか用いられていない。一方、フランス側も、政府による教科書に不信感を抱いている。この教科書を理解し、自分のものとして活用している教員は稀にしかいないとセイデンドルフは語り、「80%のフランス人が、これはドイツの教科書だと言っている。そしてドイツでも同じ状況だ。両国ともに、教員たちはこの手の教科書を使う準備ができていない。ドイツでは、市民として教育すること、そして生徒に質問させることを重視している。一方フランスでは、小論文と知識の体系化が重視されている。フランス・ドイツ関係の重要性を理解している人々だけが、両国の教育の違いは対立するものではなく、補い合うものだということを理解している」と述べている。

この教科書は良いアイディアだが失敗したということなのだろうか。ドイツ側のコーディネーターであるゲイス(Peter Geiss)は、そう思っていない。「まだ緒に就いたばかりだ。歴史教育に関する相互交流をもたらし、政権による歴史に堕すことなくEUの建設に貢献する壮大な実験なのだ」と語っている。試みの最初の果実であるとともに政治に一部を害されている、世界から歓迎されるとともに想定した読者からは顧みられない・・・この教科書はまさにフランス・ドイツ関係のシンボルとも言える。

・・・ということで、世界が称賛した『ドイツ・フランス共通歴史教科書』は、期待されたほどには実用に供されていないようです。お互いの歴史観の違いを認め合うことによって、相互理解が一層進むのではないか。そんな期待もあったのですが、これは相手国の歴史教科書だ、という声が80%にも達するようでは、口で言うほど相互理解は進まないのかもしれません。

しかも、この教科書が物語るように、二カ国の共通歴史教科書ですら活用されることは難しい。ましてEU27カ国の共通教科書となると・・・

「最後に、『独仏教科書』が未来のヨーロッパ共通の歴史教科書作成に向けた第一歩になるか否かという点では、上記のような相互理解を基本とする姿勢は2国間だからこそ可能なのであり、たとえばEU27カ国全体でこの方法を取り得ないのは明らかである。ここに、統合の深化を目指す動きを反映したこのプロジェクトが抱える最大の課題が認められよう。それは同時に、この教科書が欧州統合の順調な発展ではなく、むしろその足どりの重さを表す存在であることを象徴的に示しているのかもしれない。」(近藤孝弘:『学術の動向』2009年3月号)

国民共通の記憶となっている過去をお互いに乗り越え、平和友好関係を強固なものにしていく・・・言うのは容易でも、実際に行うとなると、多くの困難が待ち構えているようです。しかし、宇宙規模で見れば、ごくごく小さな存在でしかない地球。そこで相争いながら暮らすよりは、協力して地球船「地球号」の豊かな自然を少しでも長く保ちたいものです。平和に暮らしていきたいものです。

ヨーロッパが難しいようなら、日中韓で、その壮大な実験に着手することは無理でしょうか。EU以上に困難なのかもしれません。しかし、だからこそ、知恵の発揮できる場が多いとも言えます。21世紀は、アジアの世紀、とも言われています。共通歴史教科書も、アジアで集大成できたなら素晴らしい、と思っています。

強制収容所の元看守、91歳。それでも、人は追い詰める。

2011-05-24 22:14:04 | 社会
言ったり、やったりした方は、すぐ忘れても、言われたり、やられた方は、けっして忘れない。日常のちょっとした事柄にも言えますが、それが民族の大殺戮ともなれば、そう簡単に時の彼方に追いやることなどできません。決して歴史の波間に消え去ることはありません。

ショアー(Shoah:ホロコースト)もその一つ。ナチの戦争犯罪人を執拗に追及するユダヤ人たち。例えば、ナチ・ハンターと呼ばれたサイモン・ヴィーゼンタール。彼の名を冠したユダヤ系人権団体、「サイモン・ヴィーゼンタール・センター」がロサンゼルスにあり、さまざまな活動を行っています。その報告書によると、

「現在も世界各地に住むナチス関係者の追及は続いており、2009年4月~10年3月に世界各国で実施された捜査は852件。このうちドイツ当局は08~09年の約6倍にあたる177件を捜査した。」(毎日新聞:5月13日)

ということですが、戦後も65年以上。逃げおおせた犯罪者たちも、かなりの高齢。すでにこの世を去っている場合が多いのではないでしょうか。そうした中、最後の戦争裁判のひとつと言われる裁判の判決が、先日、ミュンヘンで行われました。

ヴィシー政権下、多くのユダヤ人を国内の収容所に隔離したり、アウシュヴィッツへ送ったりした記憶をもつフランス。その裁判結果について、12日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

12日午後0時半、ジョン・デムヤンユク(John Demjanjuk)は禁固5年の判決を言い渡されたが、判決文の陳述が終えた3時半には拘束されることなく裁判所を後にした。この日、ミュンヘンの重罪裁判所は、18か月に及ぶ裁判の後、2時間の最終討議を経て、数十ページの調書に基づき、非常に難しい判決を下すことになった。

ジョン・デムヤンユクは、ウクライナ出身の赤軍兵士だったが、1942年にドイツ軍の捕虜となった。その翌年、ポーランドのソビブル(Sobibor)にあるナチの強制収容所で看守となっていたが、そこで28,060人のユダヤ人が殺害された。現在91歳のジョン・デムヤンユクは、その共犯として有罪宣告を受けたのだった。

しかし、裁判所は、ジョン・デムヤンユクの高齢、無国籍(1952年からアメリカに住んでいましたが、今ではその国籍を剥奪されています)を考慮すれば、ドイツ国外に逃亡する恐れはないだろうと判断して釈放した。ジョン・デムヤンユクはすでに2年間、ミュンヘンの医療刑務所に収容されているが、判決に従い再び刑務所に収監されるべきかどうかを、今後、司法当局が判断することになる。その決定までは、数カ月、あるいは1年以上かかるかもしれない。「判断が出る頃には92歳で、その年齢を考えれば、今更刑務所に収監するという判断がなされる可能性は低い。しかも、すでに5年という刑期の半分近くを終えているのだから」と、歴史家でバイエルン州の公共ラジオ局のコメンテーターも務めているライナー・フォルク(Rainer Volk)は語っている。

強制収容所送りになり、ソビブルで殺されたユダヤ人の子どもやその家族、30人ほどのオランダ人が今回の原告団なのだが、彼らは判決に満足し、明らかに感動した面持ちで裁判所から出てきた。「私たちにとって満足のいく判決だった。大切なことは、彼が有罪となったことだ」と、二人の肉親を1943年に収容所で失ったダヴィッド・ファン・ユイデン(David van Huiden)は静かに語った。ジョン・デムヤンユクの公判を最初に担当した裁判官のトマス・ワルター(Thomas Walther)は、「2008年にこの公判に取り組み始めた時には、裁判所が2年以上の禁固刑を彼に科すことになるとは想像もできなかった」と述べている。

いつものように、ジョン・デムヤンユクは平然としていた。公判の場でもベッドに横たわり、青いハンチングを頭に載せ、白い毛布を被っていた。判決の前に何か言いたいことがあるか尋ねられた際に、ウクライナ語で「いいえ」と答えただけだった。15年の禁固刑になる可能性もあったが、検察が求刑したのは6年の禁固刑で、弁護側はもちろん無罪を主張した。法廷を後にする際、カメラのフラッシュの中で、ジョン・デムヤンユクは始めて静かにサングラスを外した。有罪とはいえ釈放となった人間の、あたかも最後の虚勢であるかのように。

・・・ということで、「時間との戦い」となっているナチの戦争犯罪者追跡。今回のジョン・デムヤンユクの件は、ナチスの戦争犯罪を調査するドイツの団体 “Fahndungsstelle fuer NS-Verbrechen”がその追跡調査を担当したそうです。

戦争犯罪、決して風化させたくはありません。最後の一人になるまで追跡することはもちろんですが、その過去を後世に伝えて行くことも大切です。「負の世界遺産」に認定されているアウシュヴィッツの収容所跡、パリ4区にある“Mémorial de la Shoah”(ショア記念館)をはじめ、各地に多くの施設があります。

しかし、ホロコーストはなかったという意見も出てきます。あってほしいと願うことが幻として見えることがあるように、あってほしくないと念じると見えるものも見えなくなってしまうのでしょうか。大切なのは、真実を知り、そこから目をそむけないこと。真実から逃げず、しっかり受け止めることなのだと思います。簡単ではないですが、そうしたいと思います。そして、この真実を直視することは、私たちにとっても、決して他人事ではないのだと思います。

ライカーズ島は、現代のシャトー・ディフか・・・

2011-05-23 21:08:16 | 社会
沖合に浮かぶ小島が監獄として利用されることは、昔から、多くの国々であったようです。監視しやすく、受刑者にとっては脱獄しにくい。まして周囲の潮の流れが早ければ、たとえ脱獄しても生きて対岸へはたどり着けない。

例えば、サンフランシスコ沖のアルカトラズ島。あるいは、ドレフュス大尉(Alfred Drefus)が投獄された、仏領ギアナ沖の悪魔島(Ile du Diable)や、デュマ(Alexandre Dumas, père)作『モンテ・クリスト伯』(Le Comte de Monte-Cristo)の舞台、マルセイユ沖のシャトー・ディフ(Château d’If)などが有名ですが、ここにきて急に注目を集めることになったのが、ニューヨークのライカーズ島(Rikers Island)。

ご存知、IMF前専務理事のドミニク・ストロス=カン(Dominique Strauss=Kahn:DSK)が16日に収監され、20日に保釈されるまで、4泊5日で滞在した島です。島全体が巨大な拘置所・刑務所になっており、常時、1万人以上が収容されているとか。

ラガーディア空港近くのイーストリバーに浮かぶ小島で、島全体が金網で囲まれ、クイーンズと一本の端で結ばれているだけです。一般車両の侵入は規制されているようで、弁護士を含め、面会者はバスを利用しています。しかも、到着するまでに厳重なチェックを何度か受けることになります。

DSKが滞在したのは、3x4mの自殺防止用監視付き独居房。事件現場となったホテル・ソフィテルのスウィート・ルームとは雲泥の差があることは改めて言うまでもありませんが、アメリカでも悪名高きライカーズ島。どのような施設なのでしょうか。その塀の中は・・・

以前、ここに収容されたことのあるフランス人青年が、帰国後、メディアのインタビューに答えていました。その記事を改めて17日の『ル・モンド』(電子版)が紹介しています。どのような待遇を経験したのでしょうか・・・

2004年、機内でうその爆弾騒ぎを起こしたとして取り調べを受けたフランク・ムレ(Franck Moulet)は、20日間をライカーズ島の拘置所で過ごした。2004年2月2日の『ル・モンド』の記事で、釈放されてフランスに戻ったこの学生は、この悪名高き収容施設での体験を次のように語っていた。

ライカーズ島の施設内で、彼はフレンチー(The Frenchy)と呼ばれていた。他の収容者はアフリカ系とヒスパニックがほとんどで、白人のアメリカ人が二人だけいた。白人の外国人は、当時27歳で美術専攻の学生だったフランク・ムレだけだった。収容者の誰ひとり、彼がどうすべきか関心がないようで、彼だけがそれを知っているかのようだった。

彼の物語は、サント・ドミンゴ発ニューヨーク行きのアメリカン航空機の中で始まった。フランクはトイレの中でゆっくり時間を過ごし、結果として長時間閉じこもっていた格好になった。不審に思ったキャビン・アテンダントがドアを激しくノックした。腹の立ったフランクは文句を言い、席に戻ってからも、「ちきしょう、トイレに置いた爆弾が破裂しなかったんだ」と叫んだという。しかし、フランク曰くは、「爆弾という言葉は使っていない。“My shit don’t explose”(ママ)・(くそが出なかった)と言ったんだ」。しかし、このニュアンスは警察に受け入れられなかった。

うその爆弾騒ぎで逮捕されたフランクは、ブロンクス地区に係留されている船の拘置所“La Barge”に収容された。そしてその後、ライカーズ島に移送された。最終的には、クイーンズの裁判所で、罪を認め、非常識な振る舞いの咎として595ドルの罰金を支払い、釈放された

ライカーズ島での20日間の収容体験はまったく皮肉なものだった。フランク・ムレは、1月30日にロワシー(シャルル・ドゴール空港)に戻ったが、その夜は、テレビ局“Canal+”の番組に出演した。番組終了後の彼は疲れ切っており、その苛立ちは極限状態に達しているように見えた。しかし突然、話し始めた。ライカーズ島での体験を語らざるを得なかったのだ。眼は血走り、早口でまくしたてながら、すぐ涙ぐんだ。しかし、もはや口ごもらなかった。彼の語るライカーズ島での体験とは・・・

ライカーズ島、それは“La Berge”に拘留されていた者たちがいつも口にしていた名前だった。フランク・ムレはその意味を理解するとともに、ライカーズ島に収容されなかったことを喜ぶべきだった。クイーンズとマンハッタンの間にある、シャトー・ディフのような獄門島。そこに収容されているのは、4年以上の刑期が確定した軽犯罪者だ。「そこは、スペイン語では“La Rocca”、岩と呼ばれていた。そこを支配しているのは、ジャングルの法則(la loi de la jungle)、つまり弱肉強食だ。決して足を踏み入れるべきところではない。そこに移送されると言い渡された時、そして乗せられたトラックが橋を渡るとき、みんなが言っていたことを思い出した。そして、これが最後の日になると自分に言い聞かせた」と言ったきり、フランクは言葉を継げなくなった。喉から声は出ず、涙がとめどなく流れた。

気を取り直し、先を続けた。「大きな共同寝室があった。ドアのないトイレがその上にせり出していた。50人の受刑者がその部屋には収容されていた。僕が到着したとき、僕がその世界の人間ではない事をみんなは理解した。幸いなことに、ふたつのフレーズ、ふたつのアドバイスをもらった。ひとつは、“Don’t move and look”であり、もうひとつはスペイン語で、音を立てる者は、その報いを受ける、という内容のフレーズだった」。そして、フランクは、音を立てた者がどうなるのか、目の当たりにすることになった。

「あるヒスパニックが決められた時間以外に電話を使うという規則違反を犯した。そこではヒスパニック系が優先権を持っていたのだが、ギャングの構成員が多く、その部屋を牛耳っていたのは彼らだった。そして彼らの中にも序列があった。その他の民族はその下に位置している。許可なく電話を使用した奴は、リンチに遭った。属している仲間から痛めつけられたのだ。看守はその場にいて、すべてを見ていたが、『何かあったのか』と聞くだけだった。痛めつけられていた奴が立ち上がり、『何も』と言うと、看守たちは立ち去った。」そうした環境で、フランク・ムレはリンチに遭うのを避ける術を学んだ。飛行機から引きずり下ろされる際に警官から左の耳に一発お見舞いされたが、ライカーズ島では、“Don’t move and look”を金科玉条としてしっかり守った。「忠告に従った。周囲で何が行われているのか、理解しようとした。周りをつねに観察し、シャワーを浴びたり、洗濯をしに行く際に、しっかり見渡した。そしてそれ以外のほとんどの時間をベッドの上で過ごした」と、フランクは思い出しながら語った。

フランクを最も助けてくれたのは、アフリカ系アメリカ人だった。「食べ物を分けてくれ、仲間に入れてくれた。そして、どう答えるべきか、何をしてはいけないかを教えてくれた。あそこでは、慎むべき動作があった。一度、腰に手を当てたことがあるが、すぐに彼らの一人が叫んだ。『そんなことをしちゃいけない』と。刑務所内では、それは男らしくない動作だった。媚を売っているようなもので、痛い目にあわされてしまう振る舞いだ。また、刑務所内では、運動も欠かせない。毎日腕立て伏せを50回だ。強くあらねばならない、というのも生き抜く法則だ。性的暴行ではないが、力による暴力から身を守るためだ」、こう冷静に詳細を語ってくれた。

フランク・ムレの弁護を引き受けたオリヴィエ・モリス(Olivier Morice)は、どうしてフランクがブロンクスの刑務所からライカーズ島に移されたのか、決して説明しようとしない。ライカーズ島には一般的に重い刑に服する受刑者が収容されるのだが、フランク・ムレの場合は刑期すら決まっていなかった。フランス外務省は、イラク戦争開戦をめぐって悪化した仏米関係が影響したという見方には、何ら意味がない、と語っている。フランク・ムレはその後決してアメリカに足を踏み入れようとしない。

フランク・ムレの場合と異なり、DSKはライカーズ島において特別待遇の恩恵に浴した。西棟に収容されたが、そこは伝染病に犯されている受刑者用の施設だ。しかし、DSKは30人ほどいる受刑者からは遠く離された。「それは、人間と一切のコンタクトを禁じるということではなく、有名人に対する不要な苛め・迫害を避けるという意味だ」と、ライカーズ島の報道官は匿名を条件に語ってくれた。

・・・ということで、暴力が支配する、悪名高きライカーズ島。フランス外務省がどんなに否定しようとも、仏米関係の悪化という外交的背景がフランク・ムレをこの島に送り込んだのでは、という疑いは晴れず、DSKの場合には何らかの政治的背景があったのではと勘繰ることもできます。今回のDSK事件で有名になったライカーズ島、有名な獄門島のリストに加えられたのではないでしょうか。

ところで、フランク・ムレ青年の思い出すだけで涙が止まらないという経験。さぞや、性的なものも含めての暴行を受けたのではないか。苦痛、屈辱、恥辱の日々。そう思ったのですが、そこまでではなかったようです。不幸中の幸いだったのかもしれませんが、では何が涙にくれるような思い出なのでしょうか。何がそんなにつらかったのでしょうか。

動くな、音を立てるな・・・ということは、自由に振る舞うな、しゃべるな、ということですね。これがつらかったのではないかと、冷たいようですが、思えてしまいます。自由を愛し、しかも、いつでも、どこでもしゃべり続けているフランス人にとって、好きなようにしゃべることを禁じられるのは、拷問のようにつらいのではないか。他人事とはいえ、そんな気もしてしまいます。

翻って、私たちが、起きている間はしゃべり続けるように、黙ったら、ただじゃ済まないぞ、と言われたらどうでしょうか。これはこれで、つらい。相手に嫌われないように言い回しにいちいち気をつけながら話し続けるのは、これはこれで相当に疲れる。気疲れしてしまいます。

日本人とフランス人、つらい内容も異なるのかもしれないですね。一方、DSKは、ライカーズ島で、何かつらいことはあったのでしょうか・・・

DSK離脱。社会党優位も、大接戦へ・・・フランス大統領選挙。

2011-05-20 21:09:53 | 政治
ドミニク・ストロス=カン(Dominique Strauss-Kahn)がIMF専務理事の職を辞しました。その後、保釈金を納めるとともに、居場所を追跡できる電子ブレスレットを着用すること、国連のパスポートも提出すること、ニューヨークの住まいで24時間の監視下に置かれることなどといった条件付きながら保釈を認められました。次回の出廷は6月6日。罪状認否が行われるようです。

DSKの後任には、同じフランス人ですが、女性のクリスチーヌ・ラガルド(Christine Lagarde)財務相が有力と言われています。DSKが大統領選へ出馬するため、今年のいずれかの時点で辞任するだろうということで、その後釜を目指して以前から根回しが進んでいたようです。欧米がこぞって賛成のようですので、新興国からの抵抗はあるでしょうが、すんなり決まってしまいそうです。

DSKが目指していた大統領の椅子。多くの世論調査がDSKの勝利を予想していました。エリゼ宮(大統領府)にほとんど手が届いていたわけですが、社会党の予備選までに無罪が確定しそうもありませんから、出馬すら出来そうにありません。DSKという絶対的候補者を失って、社会党の戦略に変化が見られるのでしょうか。

そこで、DSKの逮捕直後にいくつかの世論調査が行われました。そのひとつ、調査会社“CSA”がメディア(BFM-TV、RMC、20 Minutes)の依頼で行った調査結果が18日に公表されました。その概略を18日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

DSKが逮捕された後の世論調査、その最初の結果が公になった。社会党の候補がフランソワ・オランド(François Hollande:前第一書記)の場合は、オランドとニコラ・サルコジ(Nicolas Sarkozy)が決選投票へ、マルチーヌ・オブリー(Martine Aubry:現第一書記)の場合も、彼女とサルコジ大統領による決選投票に。しかし、社会党候補がセゴレーヌ・ロワイヤル(Ségolène Royal:2007年大統領選の社会党候補)の場合は、サルコジ大統領と極右・国民戦線のマリーヌ・ルペン党首(Marine Le Pen)による決選投票になるという調査結果になった。

「もし来週大統領選挙が行われるとしたら、誰に投票するか」という質問。有権者の投票意向は・・・

●フランソワ・オランドが社会党候補の場合
   フランソワ・オランド:23%
   ニコラ・サルコジ:22%
   マリーヌ・ルペン:20%

●マルチーヌ・オブリーの場合
   マルチーヌ・オブリー:23%
   ニコラ・サルコジ:23%
   マリーヌ・ルペン:19%

●セゴレーヌ・ロワイヤルの場合
   ニコラ・サルコジ:23%
   マリーヌ・ルペン:20%
   セゴレーヌ・ロワイヤル:18%

いずれの場合も、他の候補者は一桁の支持率にとどまった。
・ジャン=ルイ・ボルロー(Jean-Louis Borloo:急進党;中道左派:8%)
・フランソワ・バイルー(Francois Bayroo:MoDem;中道:7%)
・ニコラ・ユロ(Nicolas Hulot:環境番組の司会・製作者:6%)
・ジャン=リュック・メランション(Jean-Luc Melenchon:左翼党;仏共産党と提携:5%)
・ドミニク・ドヴィルパン(Dominique de Villepin:共和国連帯:新ドゴール主義:4%)
・ニコラ・デュポン=エニャン(Nicolas Dupont-Aignan:EUDemocrats;主権主義:2%)
・反資本主義新党の候補者(Nouveau Parti anticapitaliste:極左:2%)
・ナタリー・アルノー(Nathalie Arnaud:フランス共産党:1%)

DSKの大統領レースからの離脱にも拘らず、社会党の予備選は有権者の関心を失っていない。回答者の37%が予備選の投票に参加すると答えており、この数字は1月の調査結果を4ポイント上回っている。

また、社会党候補にふさわしいのは誰かという問いには、
・フランソワ・オランド:33%
・マルチーヌ・オブリー:23%
・セゴレーヌ・ロワイヤル:20%
という回答結果となっている。

社会党候補がDSKでなくとも、来年の大統領選挙で社会党が勝利するだろうと予測するフランス人は、54%に達している。社会党は勝てないと予想するのは36%であり、10%が分からないと答えている。

DSKが立候補できないことは誰に有利に働くと思うか、という問いには、
・ニコラ・サルコジ:29%
・フランソワ・オランド:16%
・マリーヌ・ルペン:16%
・マルチーヌ・オブリー:10%
・ジャン=ルイ・ボルロー:2%
という回答になった。

4月26日に調査会社“IFOP”が行った世論調査は、ニコラ・サルコジは第2回投票へ進出はするが、社会党候補が誰であっても、その社会党候補に決選投票で敗れる、という結果になっていた。ただし、DSK以外の3人の場合は僅差の勝利であり、サルコジ大統領との差はわずか。一方、DSKであれば、8ポイントも現職大統領を上回っていた。

・・・ということで、いずれの場合も、サルコジ大統領は決選投票に進出できそうです。DSK事件の前までは、DSKとマリーヌ・ルペンの決選投票を予想する世論調査が多かったのですが、状況は一変。社会党候補者対サルコジ大統領の決選投票という図式になりそうです。しかも、大接戦が予想されています。どう転ぶか分かりません。

選挙は水もの、そして、政治は魑魅魍魎。この先、何が起こるか分かりません。しかし、来春までフランス政治から目が離せないことだけは、確かなようです。

魅惑の国のアメリカ人。征服の国のDSK。

2011-05-19 21:37:59 | 社会
『パリのアメリカ人』と言えば、ガーシュイン作曲の有名な交響詩ですし、『巴里のアメリカ人』と漢字になると、1951年製作、ヴィンセント・ミネリ監督、ジーン・ケリー主演のミュージカルになります。こちらも名作で、アカデミー作品賞などを受賞しています。

21世紀の今日では、「魅惑の国のアメリカ人女性」となっているようです。18日の『ル・モンド』(電子版)に掲出されている記事のタイトルなのですが(“Une Américaine au pays de la séduction”)、どうしてこのようなタイトルになったかというと、西洋と一口に言っても、大西洋の西と東では、さまざまな違いがある。その違いの一端が、IMF専務理事を辞任したドミニク・ストロス=カン(Dominique Strauss-Kahn:DSK)の逮捕勾留をめぐって現れているからだそうです。

ここで、突然、思い出すのが、歌手・野坂昭如の代表曲、『黒の舟唄』です。♫男と女の間には深くて暗い川がある。誰も渡れぬ川なれどエンヤコラ今夜も舟を出す・・・思い当たることが多々ある、などと言えば、ジェンダー論やフェミニズムを専門にしている方々からは、叱責を受けそうです。

しかし、そのような深くて暗い川が、アメリカとフランスの間にはあるということを、フランス社会とフランス人を調べれば調べるほど実感したというアメリカ人作家を、『ル・モンド』の記事が紹介しています。どのような違いであり、DSK事件とどのように関わっているのでしょうか・・・

大西洋を挟んでの対立は、折り合いがつきそうにない。ドミニク・ストロス=カンの逮捕をめぐって、お互いに非難の応酬をしている。「厳格過ぎる」、「寛容すぎる」、「なんと粗野な!」、「偽善者め!」・・・フランスの社会党はメディア、司法の過熱ぶりを批判している。例えば、ジャック・ラング(Jack Lang:文相や文化情報相を務めた下院議員)は、DSKの保釈を認めず勾留を言い渡したニューヨークの判事は、フランス人、それも有名なフランス人にこの時とばかりに思い知らせてやろうとしているに違いない、と語っている(その後、条件付きでの保釈が認められました)。

DSKの事件によって、言い古されたことが再び脚光を浴びることになった。例えば、フランス人は享楽的で、社会の暗黙の同意のもと、つねに女性の尻を追いかけ回している。「その洗練さは大したものだ」と『ウォール・ストリート・ジャーナル』は揶揄している。一方、アメリカの粗野な司法制度は罰を与えることしか考えず、保安官は『ロー&オーダー』(Law and Order:NBCで1990年から2010年まで放送された、人気刑事法廷ドラマシリーズ)の主人公になった気でいる。また、フランスでは手錠をかけられた容疑者の映像を放送することは法律で禁じられているが、そのことをアメリカ人が知ったなら、さぞやびっくりすることだろう。何しろニューヨークでは、警察が容疑者を撮影するように連行する時間をメディアに連絡するほどなのだから。逆に、フランス人は、容疑者、つまりDSKが今だに自己弁護をする機会を与えられていないことに納得がいかない。

エレーヌ・ショリーノ(Elaine Sciolino:ジャーナリスト兼作家、『ニューヨーク・タイムズ』初の女性外信部長などを歴任)の新著が絶好のタイミングで出版される。その本の中で彼女は、フランスの習慣をアメリカ人に説明するとともに、それを聞いたアメリカ人の反応をフランス人に紹介しようとしている(ただし英語版で、フランス語訳はまだ出ていない)。『ニューヨーク・タイムズ』のパリ支局長でもある彼女は、イランに関するスクープでよく知られている。近著“La Seduction, How the French Play the Game of Life”において、彼女はフランス人の奥底にあるものをえぐり出そうと試みている。ヴァレリー・ジスカール=デスタン元大統領(Valéry Giscard d’Estaing)は、こうした無謀な試みをやめるよう彼女を説得しようとした。「フランス社会がどのように回転しているのか本当に理解できたアメリカ人には、誰ひとり会ったことがない。フランスは外部からでは計り知れないシステムを保持しているのだ」と彼女に忠告した。

「魅惑」(la séduction)がフランス精神の核にあるとエレーヌ・ショリーノは考えている。非公式な「イデオロギー」だと言っても良い。彼女は、魅惑をキーワードに、社会的関係や会話術から外交までを貫いて共通するフランス人の行動・態度をできる限り集めようとした。植民地が減って以降、フランスは「ソフト・パワー」に自己の生きる道を見出そうとしたのだ。つまり、魅惑し、惹き付ける能力のことだ。

エレーヌはまず、大手広告会社“Publicis”のレヴィ会長(Maurice Lévy)から手にする口づけ(baisemain)の手ほどきを受けた。レヴィ会長は「私はあなたに直接触れはしないが、私がすぐ近くにいることをあなたが感じる程度にすることが大切だ」と教えてくれた。次いで、エレーヌは、元シャネルの専属モデル、イネス・ド=ラ=フレッサンジュ(Inès de La Fressange)に意見を聞いた。新しいヘアスタイルにし、関節炎になる前に(歳を取る前に)可能なら愛人を持つことが大切だとアドバイスをもらった。

クレージーホース(Crazy Horse)で踊るアリエル・ドンバル(Arielle Dombasle)は、「魅惑するとは、戦争のようなものなの」と語り始めた。戦場記者であるエレーヌは、思わず自分の得意分野だと思ったのだが、そうではなかった。「裸で夫の前に行くですって。とんでもない。そんなことをしたら、二度と食事に誘ってもらえなくなるわよ」とアリエルは叫んだ。彼女によれば、フランス人にとって、裸体とは野卑なものではないのだ。裸体に関するフランスとアメリカのギャップを知りたければ、アメリカでジムの更衣室に入るだけで十分だ。そこには、堂々と人目にさらされた裸の肉体があふれている。

ランジェリーを中心としたファッション・デザイナーのシャンタル・トーマス(Chantal Thomass)は、気を惹く術を教えてくれた。「ミニスカートか、胸元を大きく開けた服か、どちらかを身につけること。同時に両方をまとってはいけないわ」。エレーヌはまったく異なる考えをもっていた。肌を露出すれば露出するほど男性を惹き付けるのではないかと思っていたのだ。

エレーヌはついに、喜び、楽しみ、魅惑といったものを至る所で目にするようになった。エヴィアン・レ・バン(Evian-les-Bains)では、社会保険を利用して温泉治療にやってきている労働者たちに驚いた。コンピエーニュ(Compiègne)への途上では、“Auto Séduction”(魅惑自動車)という名の修理工場の前で立ち尽くしてしまった。修理工場の社長に聞いてみたところ、“Auto Prestige”(名声自動車)という名前が既に使われていたので、“Auto Séduction”という名前にしたそうだ。「フランス人は、勤勉で超資本主義のアメリカ人が認めようとしない喜びとか楽しみといったことを自らに許しているのだ」と彼女は書いている。

エレーヌ・ショリーノは、すべてを理解しようとする。フランス人女性は、どうして近くのパン屋にバゲットを買いに行くためだけにもおめかしをするのか。この質問に、フランス人は、どうしてかなんて知らない、と答えている。また、どうしてフランス人女性たちはみな、人前で男性からちやほやされたり、口笛を吹かれても怒らないのか。エレーヌは、フランスにあまりにフェミニズムがないことに驚く。フランスでは、外交官があからさまな性差別の本を出しても、世間を騒がせることがない。その本とは、ピエール=ルイ・コラン(Pierre-Louis Colin)の本(“Guide des jolies femmes de Paris”パリの美人ガイド)のことで、カルチエごとに女性の美しい脚と胸元を調べて紹介している。

公人と魅惑の章では、有名なエピソードを集めている。シラク前大統領の愛人たち、ミッテラン元大統領の隠し子、DSKの女性問題に関する噂。「フランス人は喜びの権利を認めている」とエレーヌは書いているが、喜びの権利を認めることで、フランス人は他人の行動に寛大でいることができる。政治家はパパラッチなどに追い回されることもなく、国民も政治家の私的問題を暴露しろなどとは要求しない。アメリカでの目標は、最も効率的に相手を征服することだが、フランスでは達成の満足感よりも欲求そのものの方が重視されているようだ、と彼女は語っている。

・・・ということで、DSKの逮捕を機に、フランスとアメリカの価値観、生き方といったことの違いがクローズアップされているようです。

政治家のプライベート部分に寛大なフランスと、厳しいアメリカ。DSKがもし同じことをニューヨークではなくパリで行ったなら、DSKも好きだね、相変わらずあんなことをやってるよ、という噂話で済んだのかもしれません。しかし、政治家など社会のトップにいる人物に厳格な人間性を求めるアメリカではそうはいきません。逮捕、即キャリアの終了。『ウォール・ストリート・ジャーナル』の記事が語っていたように、郷に入れば、郷に従えで、告訴内容が事実なら、DSKもアメリカ流で振る舞うべきだったようです。

アメリカとフランスの違いには、人生の楽しみ方の差が影響しているようです。いかに効率よく目標を達成するかを重視し、達成感に満足を覚えるアメリカ。一方、欲求そのもの、あるいは欲求を満たすプロセスに喜びを見出すフランス。ラクロ(Pierre Choderlos de Laclos)の『危険な関係』(Les Liaisons dangereuses)などフランスのいわゆる心理小説を読んでいても、そのような印象を受けます。

そして、気になるのは、人生を楽しむことを認めるがゆえに、他人の行動に寛容でいられる、という部分です。お互いに人生を楽しもう。だから、少々のことには目をつぶる。目くじらを立てない。一方、異質を排除する我らが日本。他人の行動をひっそりと障子の陰から覗き見し、本人のいない所で悪口として広める伝統。また、人生は、辛抱だ。我慢して刻苦勉励すべし。休みたいとか、怠けたいとか、もってのほかだ・・・

いつものように、どちらが良いとか悪いではなく、違いがあるということです。国民が長い歴史の中で育んできた人生観であり、生き方です。自信を持っていいと思いますが、人生は楽しむためにある・・・羨ましい気もします。しかし、日向があれば、日陰もある。表があれば、裏もある。良い所だけではないのでしょうね。フランスも、決して天国ではありません。天国だと勝手に思い込み、住み始めてからがっかりする日本人が多い、と日本人にフランス語を教えているフランス人女性が言っていました。この世にパラダイスはない、ということなのでしょうね。

DSKの逮捕と好対照をなす、サルコジ夫人の妊娠狂騒曲。

2011-05-18 21:06:24 | 政治
IMF専務理事のドミニク・ストロス=カン(Dominique Strauss-Kahn)が性的暴行などの容疑で逮捕され、保釈も認められず、イーストリバーに浮かぶ小島、ライカーズ島(Rikers Island)にある拘置所に収容されたことは、引き続きフランス中の大きな話題になっています。「シャンパン社会主義者」と揶揄されるほど優雅な生活を送っていたDSKが収容されたのは、3x4mの独房。24時間、自殺防止監視下に置かれているそうです。

そして、DSK一色だったメディアに新たに加えられた話題が、サルコジ大統領夫人であるカーラ・ブルーニ=サルコジ(Carla Bruni-Sarkozy)の妊娠。彼女の妊娠騒動は以前から幾度となくありましたが、ついに本当の妊娠であることが、サルコジ大統領の父親によって、それもドイツの日刊大衆紙「ビルト」(Bild:311万部というヨーロッパ最大の発行部数を誇る新聞)とのインタビューで公にされました。

しかし、単にめでたいだけのニュースなのでしょうか。裏に何か隠されてはいないのでしょうか。

まずは、ここで、カーラ・ブルーニ=サルコジに関してのおさらい。1967年12月23日、イタリアのトリノに生まれる。父親は名門の出で、実業家にしてオペラ作曲家、母親はピアニスト。しかし、これは公式の記録であり、実の父親は、現在ブラジルに住む実業家、Maurizio Remmert。つまり母親の浮気相手との間に生まれたことになります。

当時イタリアでは赤い旅団などによる誘拐事件が多発したため、彼女が7歳の時に一家でフランスへ。1987年にモデルとしてデビュー、その後シンガー・ソング・ライターに。

華麗な世界に身を置いたせいか、プライベートでも華やかな経歴を持っています。恋の相手と噂されたのは、ミック・ジャガー、エリック・クラプトンといったミュージシャンから、最近アメリカ大統領選予備選への立候補を断念した実業家のドナルド・トランプ、1984年に37歳の若さでフランス首相の座についた社会党のローラン・ファビウス(Laurent Fabius)・・・そして、文学編集者のジャン=ポール・アントヴァン(Jean-Paul Enthoven)と暮らしていた際、ジャン=ポールの息子、ラファエル(Raphaël Enthoven)と恋に落ち、既婚者のラファエルとの間に息子を一人もうけています。

2008年2月2日にニコラ・サルコジと結婚。ニコラの3度目の結婚相手となるとともに、フランスのファースト・レディに。フランス国籍を取得。ニコラ・サルコジと出会うまでは社会党支持者だったと言われ、2007年の大統領選でもサルコジ候補ではなく、社会党のセゴレーヌ・ロワイヤルに投票したのではないかとも言われています。正式にはCarla Bruni-Sarkozyですが、音楽活動などを行う際には、今でもCarla Bruniの名前を使用しています。

さて、彼女の妊娠が正式に判明するまでの、ここ1月ほどの狂想曲を、『ル・モンド』の電子版(17日18時05分)が次のように紹介しています。

ニコラ・サルコジの父親、パル・サルコジ(Pal Sarkozy)がドイツの日刊紙「ビルト」で大統領夫人の妊娠を認めた。パルは「孫ができるのがうれしい」と語っている。ここ3週間に及ぶ噂がついに確認された。

芸能週刊誌“Closer”が4月22日の夜、ツイッターでカーラ・ブルーニ=サルコジの妊娠をスクープとして伝えるや、興奮と半信半疑が交錯する書き込みがネット上に一気に拡散した。その情報は確認されず、単なる噂の域を出なかった。彼女の妊娠という噂は、それ以前にも、2008年、09年と幾度となくメディアを賑わせた。2008年7月、日刊紙“Metro”とのインタビューに答えて、カーラは「子どもはほしいけれど、もし今お腹が膨らんで見えるとすれば、それはビールの飲み過ぎのせいよ」と語っていた。22日から始まった今回の騒動に対して、大統領府は認めることも否定することもなく、勝手に言わせておくという広報戦略を取った。

4月22日夜にツイッターで公表したカーラの妊娠を、“Closer”は翌日発売の誌面でもトップニュースとして扱った。しかも、あいまいな表現ではなく、断定している。このカーラ妊娠の情報は多くのメディアで引用された。“Closer”は「大統領夫婦に近い、確かな筋からの情報であり、男の子か女の子かはまだ分からないが、大統領夫人が妊娠していることは間違いない。ただし大統領夫婦は、近親者たちに情報を漏らさないように頼んでいる」と伝えている。

別の芸能誌“Gala”は、4月23日、ライバルの特ダネに対して、カーラの母親、マリザは“Closer”のスクープは間違いだと語っていると紹介した。“Gala”はまたホームページ上でも、大統領府が何らメッセージを出していないのが腑に落ちないと語っている。「大統領府は、この件に関してコミュニケを出さないことに決めた。大統領夫妻のプライベートは2007年末以来、常にメディアのターゲットになっているが、大統領府は夫婦に関する情報が出れば素早く何らかの反応を示すのが常だった。それが、今回はいっさいメッセージが出されていない。しかも、“Closer”が間違いないとして伝えた情報を一般のメディアがまったく伝えていない」と、誤報だという自誌の判断の背景を説明している。

しかし、一般のメディアもこの件に対して関心を示してはいる。大統領府がこの手の話題に関してはコメントを出さないと言っていると伝えたり、ネットユーザーたちは仮想空間でカーラ・ブルーニ=サルコジの仮想妊娠に湧きかえっているといった、いかにもメディアらしい視点で、騒動を伝えていた。

“Closer”の役員であるピオ女史(Laurence Pieau)は、24日、日刊紙“Parisien”のインタビューに答えて、「我々は確かめもせずスクープを公表したわけではない。いくつかの情報源から裏を取ってあり、あの情報は正しいと確信している。カーラは妊娠初期だが、慎重を期すべきだ。リスクがある。なにしろ彼女が43歳だということを忘れてはいけない」と語っていた。

また、カーラ・ブルーニ=サルコジの周辺だけでなく、閣僚たちもこの件に関しては、ノーコメントを貫いている、と伝えたメディアもある。

有力誌“Paris-Match”あたりが妊娠に関する正式発表を掲載するのではないかと見られていた。しかし27日に出版された号で10ページにわたって大統領夫人に関する記事を載せたにもかかわらず、“Paris-Match”は冒頭文でわずかに噂について紹介しただけで、インタビューにおいては彼女の妊娠について一言も触れなかった。

状況を進展させたのは、一般週刊誌の“VSD”だった。28日売りの号で、「妊娠情報を25日の電子版で伝えたが、ある大統領顧問はこのオフレコ情報を認めた。公式発表はまだ出されていないが、23日、カーラ・ブルーニ=サルコジがホテル・リッツから出てくる際、誰も彼女だとは気付かなかったほど、彼女はふっくらとしていた」と書いている。

5月2日の日刊紙“Parisien”とのインタビューで、カーラ・ブルーニ=サルコジは質問をかわすかのように、「私は口を閉ざすことにしているのです。傲慢だからとか、秘密主義だからというわけではなく、いろいろ大切なことやニコラの仕事を守るために口を閉ざすことにしたのです。家族や個人的な夢、あるいはその他の事柄について女性同士で話したいと思っているし、私は元来おしゃべりな方で、他人のプライベートに関する記事があれば、読んでみたいと思います。しかしそうした記事は私の家族や私のプライバシーを守ってはくれないのです。いろいろお話したいのですが、それは今ではありません。もし話せば、多くの人を巻き込んでしまうので、お答えはできません」と語っていた。

16日、文盲の問題に取り組むカーラの財団を紹介するテレビ局“TF1”の番組に出演した際、彼女は噂を認めなかったが、否定もしなかった。インタビューの最後で、番組のキャスターが「プライベートについて語られることが嫌いなのは知っていますが、ただ、おめでとうとだけ言わせてください」と何に対する祝福かを言わずに語りかけると、カーラ・ブルーニ=サルコジは「私からもあなたへおめでとうを」と返した。

そして17日、ニコラ・サルコジの父がカーラの妊娠を認めた。孫の誕生を楽しみにしていると語った後、「ニコラもカーラも事前に男の子か女の子かを知ろうとしないが、自分はきっとカーラのようにかわいい女の子だろうと思っている」と付け加えている。一方、カーラの母親、マリザ(Marisa Bruni Tedeschi)も家族の集まりで、もうすぐ孫が生まれると語ったと、トリノの日刊紙“La Stampa”が伝えている。

・・・ということで、ニコラ・サルコジとカーラ・ブルーニ=サルコジ夫妻に子どもができたようです。新しい命の誕生ですからおめでたい話なのですが、状況が状況なので、純粋な祝福気分になることは難しいようです。

10月頃に子どもが生まれるというタイミングが、まず一つ目の問題です。この時期、各党は大統領選への公認候補選びを行います。与党・UMP(国民運動連合)の候補者はサルコジ大統領になるのでしょうが、その決定が病院で子どもを抱くニコラ・サルコジの映像とともに伝えられれば、やはり支持率をあげることに繋がるのではないでしょうか。イメージ戦略ですね。妻の妊娠を選挙に利用しようとしているのではないか、という声が一部メディアや野党議員から上がっているのも頷けます。

しかも、なぜ今というタイミングでの発表なのか、というのが二つ目の問題点です。社会党候補になれば圧倒的国民の支持で大統領に選ばれるだろうと多くの世論調査が予想していたDSKが性的暴行という罪で逮捕され、手錠をされたやつれた姿が多くのメディアによって国民の目に焼き付けられた直後の妊娠発表です。社会党にとっては一層大きなダメージとなり、与党には追い風になるのではないでしょうか。

フランスでは、プライベート面は、政治家の評価に影響しないとも言われてきました。隠し子、朝帰り、女性問題・・・多くの大統領にこうした問題がありましたが、隠し子を問われたミッテラン元大統領は、“Et alors?”(それがどうかした?)の一言でおしまいにしてしまいました。自分の職務・仕事を全うすれば、プライベート面は関係ない。大統領に限らず、そうした風潮のあるフランスでしたが、最近は幾分変わって来ているようです。しかも、DSKの場合は、逮捕です。数週前から噂になっていたカーラ夫人の妊娠ですが、のらりくらりとかわしてきて、逮捕直後の発表。タイミングが良すぎやしませんか・・・

逮捕があったから、今がチャンスと発表を早めたのか、逮捕の時期を知っていたからこそ、この日まで遅らせたのか・・・疑えば疑うほど、政治の世界は魑魅魍魎、百鬼夜行。とんだ見当違いの邪推で終わってほしいものです。