ふりかえれば、フランス。

かつて住んでいたフランス。日本とは似ても似つかぬ国ですが、この国を鏡に日本を見ると、あら不思議、いろいろと見えてきます。

あいまいな日本への、あいまいなイメージ。

2012-03-20 22:03:44 | 文化
『あいまいな日本の私』という本、覚えていますか。大江健三郎氏がノーベル文学賞を受賞した1994年、その受賞晩餐会で基調講演を行いましたが、そのタイトルが『あいまいな日本の私』。川端康成氏の『美しい日本の私』に掛けたタイトルですが、翌1995年に出版されています(英文タイトルは、“Japan, the ambiguous, and myself”)。

そのノーベル賞作家の大江健三郎氏をはじめ20名もの日本人作家が集合したイベントがフランスで行われました。「サロン・デュ・リーヴル」(“Salon du livre de Paris”)、1981年に始められたフランス語圏最大の書籍見本市。1992年からは15区、ポルト・ドゥ・ヴェルサイユ(Porte de Versailles)の見本市会場(Parc des Expositions)で行われています。今年は、3月16日から19日まで。

その「サロン・デュ・リーヴル」が、今年、特集した国(le pays à l’honneur)が日本というわけです。そこで、大江氏のほかに江國香織、萩尾望都、吉増剛造、綿矢りさ、島田雅彦、角田光代、平野啓一郎、辻仁成各氏など20名の作家がジャンルを超えて会場に集い、さまざまな講演やインタビューなどを行ったようです。日本のメディアも紹介していましたので、ご覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか。

しかし、大江健三郎氏のタイトルにもいう「あいまいな日本」・・・日本人から見ても曖昧な社会ですから、外からはいっそう分かりにくいのではないでしょうか。その「あいまいな国」に対して一般的にはどのようなイメージが持たれているのか、そうしたイメージにフランスの日本学者はどう反応しているのか・・・日本にスポットの当てられた「サロン・ドュ・リーヴル」を機に、そうした視点でまとめた記事を15日の『ル・モンド』(電子版)が伝えていました。

ある友人が、楽しそうに言っていた。イギリス人は、常軌を逸したもったいぶり屋(des guindés excentriques)。ドイツ人は、生粋のクラシック音楽愛好家(des brutes mélomanes)。イタリア人は、愛すべきうそつき(des menteurs sympathiques)。ポルトガル人は、メランコリックなお祭り大好き人間(des fêtards mélancoliques)。では、フランス人は? 傲慢な誘惑者(des séducteurs arrogants)。国民性を端的に述べる、こうした決まり文句のリストを作ることは至って簡単だ。しかし、対象が日本となると、世界の他の地域すべてよりも多くの表現が必要になる。伝統に満ちたウルトラモダンな国、テクノロジーと精神性の土地、やくざと優雅さが同居する国、不可解な人々の密集したコミュニケーション大国・・・こうした形容は果てるともなく続く。

フィリップ・ペルティエ(Phillipe Pelletier)は本当にやるべきことが多かったと言うべきだろう。このリヨン第2大学の教授で、日本専門家は、“La Fascination du Japon”(日本の魅惑)というタイトルの著作を出版したが、その中で日本へ貼り付けられた多くの形容を解体する試みを行っている。

最初の誤った理解は・・・日本は一つの島だ、というもの。誤解であり、日本は列島だ。四つの大きな島と数千の小さな島々からなっており、その内430の島に住人がいる。一つの島だという誤解は事実に反するだけではない。一つの島という誤解が、地形と社会文化、両面での均質化というイメージの形成に貢献してしまっている。豊かな多様性はしばしば無視されている。

別の受け入れられている誤解は・・・日本人はすべてにおいて我々西洋人とは逆のことを行っている、というもの。日本では、クルマは左側を走行し、人は文字を縦に書き、数を数える時には指を折る(フランスでは握った指を伸ばします)。こうした指摘は、1903年に出版されたエミリー・パットン(E.S.Patton)の“L’Art de tout faire à rebours chez les japonais”(『さかさまの国日本』)によって広められている。

しかし、シリーズの方針によるのか、他の作者たちは程度の差こそあれ受け入れているのだが、フィリップ・ペルティエは人口に膾炙している日本のイメージ、それが事実に即したものであれ、変更せずにはいられないと感じているようだ。そこで、「日本、ハイテクの天国」(La Japon, paradis de la haute technologie)という紋切り型のイメージを批判するために1章を割いている。しかし、残念ながら反証や理由によって読者を説得させるには至っていない。

彼が取り上げた別の定着しているイメージは、「日本は絶え間なく自然災害に襲われている」(Le Japon est sans cesse frappé par les catastrophes naturelles)というものだ。27,000人の犠牲者を出した1896年の津波、3,000人が亡くなった1933年の津波、6,000人以上が犠牲となった1995年の神戸での地震、そして、死者・行方不明合わせて2万人以上(実際には19,009人)となった2011年3月11日の悲劇。こうした悲劇的事実が単に受容されている誤ったイメージとして提示されることに、驚き、あるいは戸惑いを感じざるを得ない。

では、彼の手法とはどのようなものなのか。受け入れられているイメージの基には何があるのか。既存のイメージは間違いなく誤ったものなのか。そうしたイメージと常に戦わねばならないのか。彼が提示しなければしないほど、疑問が湧いてくる。

日本のイメージを分析するにあたって、彼が多少なりともエドワード・サイード(Edward Said:1935-2003、パレスチナ系アメリカ人の研究者)のオリエンタリズムとポストコロニアル研究の貴重な成果を活用するのだろうと思っていたが、まったく触れていない。西洋が植民地化しようとした日本は、植民地を持つ列強の一カ国になったのであり、このことがアンビバレントなイメージを生み出しており、このことはしっかり研究されるべきだった。フィリップ・ペルティエは日本をよく理解している一人だが、彼のこの著作は、論理的枠組みがないせいか、読者に物足りなさを残すものとなっている。

・・・ということで、日本を特集する「サロン・デュ・リーヴル」が行われただけに、日本に関するフランス人の著作にもさまざまな角度からスポットが当てられているようです。特に日本に関心のある層からは、批判的な意見も出てきやすいのでしょうね。

日本人にとっても、「あいまい」で分かりにくい日本社会。外から眺めれば、また別の視点で、中からは見えないものが見えてくるのではないかという期待もありますが、やはり理解しにくい、曰く言い難い社会なのかもしれません。「あいまいさ」の中に、「日本」がある・・・

しかし、それでも、まずは日本人が日本とはこういう国だと、説明できるようにすべきなのではないでしょうか。日本は複雑な国です、あるいは西洋人には理解しにくい国です、といってしまってはそれでおしまい。というか、逃げでしかないような気がします。自分はどういう人間か、ということを語るのが難しいように、自分の国はこういう国だと説明するのは難しい。難しいですが、それをやらないと、外国の人たちとの対話は成り立たないのではないでしょうか。論戦を張るにしても、敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。自分とはどのような人間で、祖国・日本とはどのような国なのか・・・逃げずに考えたいものです。

ドパルデュー、DSKを演じる!

2012-03-19 20:43:27 | 文化
一足早い春休みでした。といっても、管理組合の設立総会やら、いろいろとスケジュールは入っており、ゆっくりできたわけではないのですが、ブログはちょっとの間、休ませていただきました。

早熟少女のショックから覚め、気分一新、リフレッシュされましたかどうか・・・心許ないばかりなのですが、再開の一歩は政界と映画のコラボ。あの名優、ドパルデューが、あのドミニク・ストロス=カンを演じることになる、という話題です。伝えているのは、14日の『ル・モンド』(電子版)です。

3月11日、パリ郊外、ヴィルパント(Villepinte)で行われたニコラ・サルコジの集会にジェラール・ドパルデュー(Gérard Depardieu)の姿があった。サルコジ大統領が声をひときわ張り上げると、賛意を示すべく、親指を立てていた。アステリックス(Astérix)を演じたクリスチャン・クラヴィエ(Christian Clavier)と、その近くにいる堂々たるオベリックス(Obélix:アステリックス・シリーズの実写版でドパルデューはアステリックスの無二の親友、オベリックス役を演じています)は、もはやアーティストがあまり集まらなくなったガリアの村(アステリックスの舞台)の最後の抵抗者のようだ。

14日、今度はジュネーブで、ドパルデューは上演の後、ラジオ・テレビ・スイス(Radio télévision suisse)とのインタビューに応じたが、フランスの中央官庁もかくやと思わせる大理石と金箔でできたサロンが会場で、大勢の記者が集まった。ジャーナリストのダリユス・ロシュバン(Darius Rochebin:スイスのフランス語テレビ局・Télévision suisse romandeで“Pardonnez-moi”という有名なインタビュー番組を持っています)がドパルデューに関する噂について質問した。その噂とは、6月に撮影が始まるといわれているアメリカ人監督、アベル・フェッラーラ(Abel Ferrara:ジュリエット・ビノシュが出演した“Mary”という2005年の作品では、ヴェネツィア国際映画祭審査員特別賞を受賞しています)の次回作に、ドパルデューがDSK役で出演する、というものだ。

ドパルデューはあっさりと認めて、「彼のことは好きではないのだが、だからこそその役を演じることにした」と語った。DSKのことは、傲慢で、思い上がった人物だが、だからこそ演じがいがあると評している。嫌いな人間を演じることは、刺激的な挑戦であるかのようだ。ドパルデューにとって、「DSKはある意味、フランス人の典型だ。ちょっと、傲慢で。そう、フランス人をそれほど好きではないのだ、特に彼のような人物は」と述べた。

また、気に入らないのは彼の行動のモラル面というよりは、彼の性格が垣間見えるその物腰なのだそうで、「彼を支持できないのは、そのモラル面ではなく、彼の存在自体、例えばその歩き方、手をポケットに入れて歩く姿なのだ。誰だって、恥知らずなことを思い浮かべたりできるものだが、しかし彼の場合は・・・。しかも、IMF(仏語では、FMI)やその他の大きな国際機関のトップたちが巨大な権力と巨万の富を持っていることは良く知られている。ラカン(Jacques-Marie-Emile Lacan:1901-81。フランスの精神分析医、哲学者。パリ・フロイト派のリーダー)はそうした人たちを飼いならすべく指導役を与えたのだが、しかし・・・」

DSKを受け入れることはできないのだろうか。手錠を掛けられた姿を世界中に晒すという屈辱でもダメなのだろうか。ノンだ。「いずれにせよ、威厳のない人間から感銘を受けたことは一度もない、決して」と、ドパルデューの答えはにべもなかった。

1カ月前、アベル・フェッラーラは、パリにやってきた際、『ル・モンド』とのインタビューで、「次回作は富と権力を手にした人々を描くものとなる。撮影は、パリ、ワシントン、ニューヨーク、つまり権力の中枢で行う」と語っていた。そのシナリオは報道とフェッラーラが独自のルートで入手した情報を基にすでに書かれているが、あくまでフィクション作品だ。そして、その作品にはもう一人のフランス人スターが加わる。イザベル・アジャーニ(Isabelle Adjani)がドゥパルデューの共演者として、アン・サンクレール(Anne Sinclair:DSK夫人で、テレビ・キャスター)の役を演じるのではないかと言われているのだ。フェッラーラ自身、『ル・モンド』に対し、「次回作のテーマは、政治とドパルデューとアジャーニのセックスだ。彼ら二人の映画となると言えるだろう」と語っていた。

・・・ということで、世界中で大きな話題となった、いわゆるDSK事件が、ドパルデューとアジャーニというすごい顔合わせで映画化されるようです。今から公開が待たれますが、この二人のセックスが大きなテーマのひとつ・・・どんな映像になるのでしょうか。

しかし、ドパルデューはフランス人なのに、フランス人嫌い(francophobe)なんだそうです。嫌いなところはどこかと言えば、その傲慢なところ。傲慢なフランス人・・・

 調査会社Mandala Research LLCが実施した観光客の評判に関するアンケート調査によると、日本人が「世界でもっとも歓迎される観光客」に選ばれた。中国国際放送局が報じた。
 調査会社Mandala Research LLCがクーポン共同購入サイト「リビングソーシャル(Living Social)」を通じてオンライン調査を実施した。日本人が「世界でもっとも歓迎される観光客」に選ばれた理由は、「マナーやエチケットをよく守り、礼儀正しく、物静かでつつましく、クレームや不平が少ない」などが挙げられた。
 一方、フランス人は「気が小さく、無礼、外国語が話せない」などの理由から、「最悪の観光客」に選ばれた
(3月6日:サーチナ)

傲慢で、無礼なフランス人。しかも、フランス語しか、話さない・・・これでは、世界の嫌われ者と言われても、仕方がないですね。「フランスは好きだが、フランス人は嫌いだ」とか、「フランス人がいなければ、フランスはもっといい国になるのに」といった声も、よく聞きます。しかし、だからこそ、フランスとフランス人は、おもしろい・・・と思ってしまうのは、へそ曲がりだからでしょうか。「肝胆相照らす」となるか、「同病相哀れむ」となるか、さて。

オスカー、映画誕生の地へ凱旋す・・・第84回アカデミー賞。

2012-02-28 22:15:01 | 文化
映画の都と言えば、ハリウッド。では、映画の父は・・・ご存知の方が多いと思いますが、フランス人のリュミエール兄弟、Auguste-Marie-Louis LumièreとLouis-Jean Lumière。1894年にシネマトグラフ・リュミエールを開発し、世界最初の実写映画『工場の出口』(La Sortie de l’usine, Lumière à Lyon)を翌1895年、パリで公開しました。50秒ほどの実写映画で、製作は弟のルイ・リュミエール。リヨンにあるリュミエール兄弟の工場を出てくる労働者たちを映したものです。

リュミエール兄弟が開発したシネマトグラフ映写機は、さっそく多くの国々に輸出されましたが、日本でも1897年2月20日、大阪の南地演舞場でリュミエール兄弟の製作したフィルムが公開されたそうです。当時から、関西には芸術や新しいものを受け入れる土壌があったのかもしれないですね。

「映画の父」、リュミエール兄弟が実写映画を上映してからわずか34年後、1929年5月16日に始まったのが、アカデミー賞の授賞式。今では、オスカー像を手にすることが、映画人にとって最高の栄誉と言われています。

24もの部門賞がありますが、その中でも最高の賞は、やはり作品賞。映画界最高の栄誉とは言われるものの、やはり「映画芸術科学アカデミー」(Academy of Motion Picture Arts and Sciences)というアメリカの映画人の団体が選定する賞だけに、外国映画の受賞は難しいようで、その分、外国語映画賞という一部門を創設しています。

だから、というわけでもないのかもしれませんが、今までフランス映画が作品賞を受賞したことがありませんでした。それが、ついに、今年、受賞!!! それも先祖返りではないですが、モノクロのサイレント映画での受賞となりました。「映画の父」がフランス人だったことを思い出させたのでしょうか。

いや、作品のレベルが高かったのだ・・・27日の『ル・モンド』(電子版)がフランス映画のアカデミー賞・作品賞受賞を伝えています。

ミシェル・アザナヴィシウス(Michel Hazanavicius)のフランス映画、『アーティスト』(The Artist)は、26日夜、ロサンジェルスで5つのオスカーを受賞し、伝説の仲間入りをした。作品賞とジャン・デュジャルダン(Jean Dujardin)が受賞した最優秀男優賞は、それぞれフランス映画初の受賞となった。すでに世界中で多くの賞を受賞したこの作品が、アカデミー賞を受賞するとの呼び声は高かった。何しろ、セザール賞6部門(フランスのアカデミー賞で、1976年から受賞が始まっています)、英国アカデミー賞7部門(英国映画テレビ芸術アカデミーが選定する賞で、British Academy of Film and Televison Artsの略“Bafta”で知られています)、ゴールデン・グローブ賞3部門(ハリウッド外国人映画記者協会が選定する賞で、1944年から授与されています)、インディペンデント・スピリット賞4部門(独立系映画のアカデミー賞とも言われています)を受賞していたのだから。

アメリカにおける映画の年間授賞式で、フランス映画がこれほどのオスカーを手にしたことはなかった。アカデミー賞の歴史で、初めてアングロ=サクソン以外の国の映画に作品賞が授与されたわけだが、その『アーティスト』は作品賞以外にも最優秀男優賞、監督賞、作曲賞、衣裳デザイン賞を受賞した。

しかし、『アーティスト』も期待されていた他の部門では、惜しくも受賞を逃している。助演女優賞は、セザール賞で最優秀女優賞を受賞していたベレニス・ベジョ(Bérénice Bejo)ではなく、『ヘルプ 心がつなぐストーリー』(La Couleur des sentiments:テイト・テイラー監督)のオクタヴィア・スペンサー(Octavia Spencer)、撮影賞はマーティン・スコセッシ監督の『ヒューゴの不思議な発明』(Hugo Cabret)、美術賞も『ヒューゴの不思議な発明』、編集賞はデヴィッド・フィンチャー監督の『ドラゴン・タトゥーの女』(Millenium : les hommes qui n’aimaient pas les femmes)、脚本賞はウッディ・アレン監督の『ミッドナイト・イン・パリ』(Minute à Paris)が受賞した。

『アーティスト』のプロデューサー、トマ・ラングマン(Thomas Langmann)は主催者の「映画芸術科学アカデミー」(Academy of Motion Picture Arts and Sciences)が彼に誰もが希う賞を授けてくれたことに感謝の言葉を述べた。また、父親である、監督・プロデューサーのクロード・ベリ(Claude Berri:『愛人 / ラマン』のプロデューサー)、そしてミロス・フォアマン(Milos Forman:『カッコーの巣の上で』や『アマデウス』の監督)、ペドロ・アルモドヴァル(外国語映画賞を受賞した『オール・アバウト・マイ・マザー』の監督)など著名な映画人たちへ敬意を表した。

監督のミシェル・アザナヴィシウスは、妻の女優、べレニス・ベジョ(アルゼンチン生まれ、両親とともに3歳の時に軍事政権を逃れてフランスへ。アザナヴィシウスとの間には3歳の男の子と1歳の女の子がいます)に感謝の言葉を掛けるとともに、3人のアメリカ人監督に謝辞を述べた。3人とは、「ビリー・ワイルダー、ビリー・ワイルダー、そしてビリー・ワイルダー」(Billy Wilder:『麗しのサブリナ』、『七年目の浮気』、『昼下がりの情事』、『アパートの鍵貸します』などの監督)だ。

作品賞を受賞する少し前、監督賞を受賞した際、アザナヴィシウスはとても感動し、「今、世界で最も幸福な監督です」と述べるとともに、「あまりの興奮にスピーチを忘れてしまいました」と告白し、「時として人生は素晴らしい。今日がその日です」と語っていた。

フランス人俳優として初めて主演男優賞を受賞したジャン・デュジャルダンは、微笑みながら、彼の演じたジョルジュ・ヴァランタン(George Vlentin:『アーティスト』はサイレント映画です)が話すことができるなら、きっと“Oh, putain, merci ! Génial ! Formidable ! Merci beaucoup ! I love you”と言うだろう、と述べた。彼はまた、役作りの参考となったサイレント映画時代の大スター、ダグラス・フェアバンクス(Douglas Fairbanks:1915年から34年に、多くの作品に出演するとともに、監督・プロデューサーとしても活躍。「映画芸術科学アカデミー」の初代会長です)、そして妻で女優のアレクサンドラ・ラミー(Alexandra Lamy)に敬意を表した。

他のフランス映画も候補に挙がっていたが、長編アニメーション賞ではジャン=ルー・フェリシオリとアラン・ガニョルの『パリ猫の生き方』(Une vie de chat)が、ジョニー・デップが声優を務めた、虚言癖のあるカメレオンの話『ランゴ』(Rango)に屈した。

マーティン・スコセッシが監督をした、はじめての子ども向け3D作品、『ヒューゴの不思議な発明』(Hugo Cabret)も前評判が高かった。そして実際、5つのオスカーを受賞した。録音賞、美術賞、音響編集賞、視覚効果賞、撮影賞という技術関係の賞だ。

俳優部門では、メリル・ストリープ(Meryl Streep)がフィリダ・ロイド監督(Phyllida Lloyd)の『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』(La Dame en fer)で主演女優賞を獲得し、3つ目のオスカーを手にした。オスカー像よりもきらびやかな衣装に身を包んだ62歳の彼女は自らの説明し難いほどの素晴らしい経歴に対し列席者に謝辞を述べた。

今年の受賞シーズンに多くの賞を獲得していたオクタヴィア・スペンサー(Octavia Spencer)は、当然の結果として助演女優賞を受賞した。「このような素晴らしい恋人を賜りありがとうございます」と、小さく、筋肉質で、頭のつるつるしたオスカー像を恋人に譬え、涙にくれた。

カナダ人俳優のクリストファー・プラマー(Christopher Plummer)は、82歳にして助演男優賞のオスカーを手にした。マイク・ミルズ監督の『人生はビギナーズ』(Beginners)で、人生の黄昏にゲイであることをカミングアウトする役を演じた彼は、スピーチで「私より2歳しか年長でないのに、今までどこにいたんだい」と、ユーモアを交えてオスカー像に語りかけた。会場は総立ちで彼に喝采を送った。オスカーが誕生したのは1927年で、クリストファー・プラマーの生まれる2年前だった。(註:英語版の「ウィキペディア」によるとアカデミー賞の受賞式が始まったのは1929年5月16日です。これでは、クリストファー・プラマーと同じ年齢になってしまいますが、第1回授賞式の選考対象になったのが1927 / 28年のシーズンに公開された作品だったため、1927年に誕生したオスカーというプラマーのスピーチになったものと思われます。)

前評判の高かったもう一作、アレクサンダー・ペイン(Alexander Payne)監督の『ファミリー・ツリー』(The Descendants)は脚色賞を受賞。脚本賞は『ミッドナイト・イン・パリ』(Minute à Paris)の脚本を担当したウディ・アレンに授与された。彼にとって4つ目のオスカーだが、賞の授与式に反対するウッディ・アレンは従前と同じく欠席した。

外国語映画賞はイラン映画『別離』(Une séparation)が受賞した。2月24日に受賞したセザール賞をはじめ、すでに世界中で多くの賞を受賞しているこの作品を監督したアスガー・ファルハディ(Asghar Farhadi)は、「イラン国民にこの賞をもたらすことができて誇りに思う。イラン人はすべての文化・文明への敬意を忘れず、敵意や恨みを軽蔑する人々です」と語った。

アカデミー賞授賞式の模様は世界中にテレビ中継された。会場は「ハリウッド&ハイランド・センター」(Hollywood and Highland Center)。フィルム・メーカーのコダックがチャプター11(破産法)適用を申請したため、「コダック・シアター」から名前が変更になっている。なお、ビリー・クリスタルが9回目の司会を務めた。

・・・ということで、フランス映画が初めてアカデミー賞作品賞を受賞し、主演男優賞もはじめて手にしました。これで、映画発祥の地としても、やっと溜飲を下げることができたのではないでしょうか。しかも、授賞作が、第1回の「つばさ」以来、83年ぶりというサイレント映画。まさに祖先帰りですね。

しかし、同時に、3D作品が技術部門で5つのオスカーを受賞。新旧織り交ぜ、今後の映画の進むべき道を模索しているのが現状ということなのではないでしょうか。

ところで、映画のタイトル。原題、フランス語のタイトル、日本でのタイトル・・・確認が大変でした。同じ、あるいは直訳なら苦労も少ないのですが。しかし、タイトルで観客動員数が増減することもあるのでしょう。宣伝マンが知恵を絞って付けているタイトルですね。

そういえば、かつて淀川長治さんが、ユナイト映画の宣伝部に勤めていた時、苦労してタイトルを考えていたという思い出話をしていたのを記憶しています。しかし、残念ながらどの作品だったか、思い出せません。淀川さんを偲んで、今日は、この辺で。サヨサラ、サヨナラ。

何事も、道具じゃない、キミの腕次第だ!

2012-01-17 21:10:53 | 文化
例えば、スキー。どう滑るか(受験生のいるご家庭には、恐縮です)よりも、ウェアはどのブランド、板はどのメーカー、という方に話題が行ってしまう。ゴルフにしても、どこのクラブが良いか、それもウッドはどこ、アイアンはどこという話題で盛り上がってしまう。ブームに乗る、あるいは周囲に合わせるから、という背景もあるのでしょうが、私たちの周りには、どうも、道具やファッションに先に目が行ってしまうことがよくあります。

事は、なにもスポーツに限らず、音楽でも。楽器はどこのメーカーのものが良いのか、といった話題が先行してしまう場合もありますね。それも、アマチュアだけでなく、プロの演奏家を評する際にも。あのソリストはどこどこの楽器を使っているから、さすがに音色が違うとか、そんな批評を音楽ホールのロビー(foyer)でしているのを耳にすることがあります。

はたして、道具がパフォーマンスにどれほどの影響を及ぼすのでしょうか。こうした疑問に答えるべく、時々、「愛好家」にとってはちょっぴり意地悪な調査が行われたりするわけですが、最近、フランスの音響学者がヴァイオリンについての調査を行いました。そのターゲットになったのは、かの「ストラディヴァリウス」。

ストラディヴァリウスについては、改めてご紹介するまでもないと思いますが、概略だけ。

イタリア北西部、クレモナの弦楽器製作者、アントニオ・ストラディヴァリ(Antonio Stradivari:1644-1737)によって製作された弦楽器。特に名ヴァイオリンの代名詞として知られています。ヴァイオリン(violon)が600挺、チェロ(violoncelle)が50挺、ヴィオラ(alto)が12挺、ギター(guitare)が3挺、計700挺近くが、オリジナルを基に再現されたものも含め、伝わっています(“Dictionnaire Larousse de la Musique 1987”)。

その価格は、オークションに懸けられたヴァイオリンが12億円以上の値を付けたこともあるほど。従って、個人所有のものばかりではなく、団体や企業が所有し、名演奏家に貸与しているケースも多く、例えば、ベルリン・フィルのコンサート・マスター、樫本大進氏のストラディヴァリウスは、多くのストラディヴァリウスを保有する日本音楽財団からの貸与だそうです。

各楽器には、“Antoniusu Stradivarius Cremonensis Faciebat Anno 0000”(クレモナのアントニオ・ストラディヴァリ0000年作)とラテン語で記されており、そこからラテン語で「ストラディヴァリウス」と呼ばれているとか。

さて、では、どのような調査が行われ、その結果は・・・14日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

ついに名器ストラディヴァリウスの謎が明かされたのだろうか。いや、むしろ、ストラディヴァリウス神話が色褪せたと言った方が良いだろう。アメリカのインディアナポリスで、あるフランス人音響学者によって行われたブラインド・テストの結果は、かの有名な楽器に捧げられた称賛を痛烈に批判するものとなった。パリ第6大学の音響学者、クローディア・フリッツ(Claudia Fritz)は、2010年、(4年に一度開催される若手ヴァイオリニストを対象とした)「インディアナポリス国際ヴァイオリン・コンクール」を利用して、21人の腕の確かな演奏家によるヴァイオリンのブラインド・テストを行った。クレモナの名人の手による楽器は、そのテストで巷間言われている評判ほどの結果を得ることはできなかった。

すべてにわたって慎重な準備が行われた。実査への協力も、バラエティに富んだ演奏家に依頼した。コンクールへの参加者だけでなく、ソリストやベテラン演奏家にも加わってもらった。演奏家たちにはまず、楽器の種類が分からないように、溶接工が使うゴーグルを掛けてもらい、しかも、楽器に使われている古い木特有のにおいを消すため、香水をひと吹き。

なにしろ、ここが肝心な点。年代物の楽器か新しい楽器かを判断してもらうのだから。ホテルの部屋で、演奏家たちには2ステップの調査を行ってもらった。

まずは、現代の名工の手によるヴァイオリン3挺(平均価格25,000ユーロ:約2,450万円)と18世紀イタリア製の3挺(ストラディヴァリウスが2挺、ガルネリウス・デル・ゲズ〈Guarnerius del Gesu〉が1挺、3挺合計の価格はおよそ800万ユーロ:約7億8,400万円)を順不同に弾いてもらった。そして、6艇を演奏後、どのヴァイオリンが家に持ち帰りたくなるほど気に入ったかを尋ねた。

2番目のテストは、2挺のヴァイオリンを手にしてもらい、どちらが年代ものかを判断してもらった。

この2番目のテストでは、ほとんどの演奏家が間違ってしまった。音の深さ、緻密さ、音の反響、ムラのない音域、反応の速さ・・・そうしたすべての評価基準で、特別な存在と言われてきたヴァイオリンも現代の作品と差がないことが分かった。どちらが優れているかという質問では、少し良い結果になったが、それでも21人中8人だけが年代物の名器の方が良いという判断を示した。最も良い評価を得たのは現代に作られたヴァイオリンで、逆に最も悪い評価を得たのは1700年ごろに製作されたストラディヴァリウスだった。

昔の弦楽器製作者の手になる作品への評価を相対化するような研究は今回のテストが初めてではない。しかし、いつもの調査は、聴衆を対象に行われており、この点が今回のテストの新しさだ。演奏家を対象に行った今回の調査結果が聴衆を対象にした今までのテストと同じ結果になったことに、音楽関係者は驚いている。調査に加わった演奏家の一人も、“Artsjournal.com”というサイトで、そのような感想を述べている。

しかし、議論が終わったわけではない。今回の調査結果が1月2日にアメリカ・アカデミー紀要に発表になって以来、多くの名演奏家たちが調査への疑いを表明している。例えば、優れたヴァイオリンはホテルの部屋などで弾かれるものではない。あるいは、ヴァイオリンの傑作を弾きこなすにはもっと時間がかかる、など。クローディア・フリッツにとっては、いずれにせよ、ストラディヴァリウスの名器たるゆえんをイタリアのかつての弦楽器製作者が使った木質、接着剤、ニスに求める必要がなくなった、ということだ。彼女が『ニューヨーク・タイムズ』に語ったように、「傑出した楽器の秘密は演奏家の頭の中にある」ようだ。

・・・ということで、音楽愛好家が聴いても、プロの演奏家が弾いてみても、ストラディヴァリウスと現代の優れたヴァイオリンの間には差がない。差がないどころか、現代の作品の方が良い評価を得てしまう。しかし、それにもかかわらず、ストラディヴァリウスは別格だという声が多く、調査を疑う声まで聞こえてきます・・・ストラディヴァリス信仰。

「信仰」の対象は、なにも楽器だけに留まりません。先月、クリスマスを前に、フランスのテレビ局が、シャンパン好きを自認する3人に、ブラインド・テストをやってもらいました。1本は8ユーロ程度(800円弱)のシャンパン、もう1本は20ユーロ(2,000円弱)ほど、そしてもう1本は約100ユーロ(1万円弱)だったと記憶しています。さて、どのシャンパンが一番おいしいか・・・3人がこぞって選んだのは・・・言うまでもありませんね、8ユーロのシャンパンでした。

お墨付き、評判、思い込み・・・正しい判断をするには、そうした装飾を引き剥がして、自らの目、耳、舌などいわゆる五感で正直に判断すべきなのではないでしょうか。自分で、きれいだな、上手だな、美しいな、おいしいなと思うものが、「いいもの」なのだと思います。もちろん、自らの五感を鍛えることはおろそかにしてはいけないと思います。しかし、他人の判断に従っているだけでは、虎の威を借る狐、勝ち馬に乗っているだけなのではないでしょうか。

虚飾を捨て、「自分」に正直に・・・長い、長い、誤った道を歩いて来て、今、正直に、素直に、そう思っています。まさに、後悔、先に立たず。残念。

不滅のロックンローラー、復活す!

2011-12-06 21:33:24 | 文化
“Rock and Roll”が縮まって“Rock’n Roll”。ロックンロールというコトバは、1953年にアメリカのDJ、アラン・フリードが使い始め、定着させたのがその由来だそうです。

アメリカでロックンローラーと言えば、まず思い出されるのが、もちろん世代にもよりますが、エルヴィス・プレスリー。キング・オブ・ロックンロールです。1950年代から60年代初頭を中心に活躍し、1977年に42歳で亡くなってしまいました。

ロックンロールも歴史の中でさまざまに変容し、プレスリーの活躍した1950年代から60年代初めの初期の音楽をロックンロールと呼び、それ以降のロックとは別の音楽という解釈もあるようです。

しかし、日本のミュージック・シーンでは、ロックンロールへの憧れは根強いのでしょうか、Mr.Childrenも『ロックンロールは生きている』で、♪♪レヴォリューションと歌っていました。

そして、「ロックンローラー」は「ロック」以上に不滅。年齢を重ねてもその反逆的な生き方は変わらない! 日本では、「永ちゃん」こと、矢沢永吉。そして、最近では事業仕分けの会場に現れるなど、音楽以外で話題となる内田裕也。

そして、そして、フランスでロックンロールと言えば、後にも先にも、この人を置いては語れない・・・そう、ジョニー・アリディです。

Johnny Hallyday:1943年6月15日、パリ生まれの、68歳(因みに、私とは一回り違いの未年で、同じふたご座。関係ないですが・・・)。本名、Jean-Philippe Smet。生後8カ月にして両親が離婚したため、伯母に育てられる。その家庭のいとこ二人がプロのダンサーだったため、3歳の頃からショー・ビジネスを見て育つ。いとこの一人が結婚したアメリカ人ダンサーが、Lee Holliday。このリー・ホリディがジョニー・アリディという芸名の名付け親であり、ジョニーはリーを心の父と慕っている。

ジョニーは11歳頃からステージで歌うようになり、やがて、エルヴィスの歌にショックを受ける。リーの勧めもあり、このアメリカ発のロックンロールに熱中するようになる。そして、デビュー。フランスでロックをはじめて歌った歌手という確認は取れないが、少なくともフランスにロックンロールを広めた歌手ではあることは間違いない。

それからの活躍は、言うまでもない。アイドルから、大スターへ。今までに、スタジオ録音のアルバム47枚、ライブ録音のアルバムを26枚。180回に及ぶコンサート・ツアーで、動員した観客総数は2,840万人。今日でも、もっとも有名なフランス語で歌う歌手の一人であり、最もメディアに登場するフランス人のアーティストの一人である。

プライヴェートでは、さすが、フランス男、華麗な女性遍歴。お馴染み、シルヴィー・ヴァルタン(Sylvie Vartan)との結婚は1965年。一粒種のDvid Hallydayを儲けるも、1980年に離婚。それからは、1981年12月から1982年2月まで、1982年から86年、1990年から92年、1994年から95年、そして1995年から、と合計6人のパートナーとの生活を送っている。

政治的には、右派の支持者で、ジャック・シラク、ニコラ・サルコジの支持者として有名。また、節税に熱心で、現在は税率の低いスイスに居住。フランスの税務当局との法廷闘争も続いている。

さて、こうした経歴のジョニー・アリディ、2009年以降は、さすがのロックンローラーも寄る年波には勝てないのか、病気との戦いが続いています。まず、結腸癌の手術をしていたことを公表。この年の秋には椎間板ヘルニアの手術を受け、その後ロサンジェルスで入院生活。予定されていたコンサート・ツアーをキャンセルしています。

しかし、2年ほどの休養を経て、復活の日を迎えたようです。新たなコンサート・ツアーへ。そのスケジュールなどを語る記者会見の模様を4日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

国民的アイドルが復活の場に選んだのは、フランスでもっとも有名なモニュメントだった・・・ジョニー・アリディが3日夜、病魔から復活して初めて行うコンサートツアーの詳細をエッフェル塔で発表した。

腰を手術し、ロサンジェルスで長い入院生活を送ったため、ジョニー・アリディは前回のツアー“Tour 66”の終盤をキャンセルせざるを得なかった。

3日の記者会見で、68歳のジョニー・アリディは、フランス国内外での32回のコンサートを行う、デビュー以来181回目となるコンサート・ツアーのスケジュールを明らかにした。そのスタートは、来年4月24日、ロサンジェルスでのコンサートで、その後、モンペリエ(Montpellier)、ナンシー(Nancy)、ジュネーヴ(Genève)、ソショー(Sochaux)、アンヴェール(Anvers)、ボルドー(Bordeaux)、ナント(nantes)、ルマン(Le Mans)で行う。また、6月15日から17日まで、パリ郊外のフランス競技場(Stade de France)でも3回のコンサートを予定している。

一方、ロシアのモスクワ、イスラエルのテルアビブでも初めて歌うことにしている。さらには、10月15日・16日にはロンドンのロイヤル・アルバート・ホール(Royal Albert Hall)での2回のコンサートをスケジュールに組み込んでいる。「以前は、海外でのコンサートを好まないプロデューサーと組んでいたから」と、ジョニーは後悔しているが、記者会見場でのジョニーは元気そうで、饒舌だった。今回のコンサート・ツアーはプロデューサー、ジルベール・クリエ(Gilbert Coullier)との初めての仕事になる。

今回のツアーで、ジョニーは最近のヒット曲と共に、ファンのお気に入りだが、長い間コンサートなどで歌ってこなかった曲も歌うことにしている。コンサートは特殊効果も交え、素晴らしいスペクタクルになると確約しているが、ジョニー自身がどうやって舞台に登場するかは明かさず、めくるめくようなものになるとだけ語り、ファンの期待を膨らませている。

ジョニーはまた、「特別病気だったわけではない。多くの人と同じように、腰に問題を抱えていただけだ。この1年ほど運動を続けているし、タバコも止めた。今度こそは、禁煙に成功した」と、語っている。

2012年末には新たなアルバムを発表することを明かし、常により良い曲作りを目指していると述べている。“Autoportrait”(自画像)というタイトルの新曲をすでにネット上で公開し、無料でダウンロードできるようにしている。ジョニーはこの曲を「ファンにとってのクリスマス・プレゼントであり、ファンに対する愛の歌だ」と紹介している。

記者会見の後、23時30分、ジョニーはエッフェル塔の2階で非公式のコンサートを行った。その模様は12月22日からネット上のサイト“Liveathome”で公開され、また12月31日にはテレビ局・TMCでオンエアされることになっている。

・・・ということで、フランス版「キング・オブ・ロックンロール」は今なお健在。癌にもヘルニアにも打ち勝ち、大した病気ではなかったと平然と語り、68歳にて、新曲発表とコンサート・ツアー。まだまだ意気軒高です。

有名人の人気ランキングで必ず上位に顔を出し、また高額納税者としてもアーティストとしてはトップクラス。どんな障害も弾き飛ばして、ロックンロールの道をまっしぐら。その生き方や、よし。その生き方こそが、衰えを知らない人気の秘密なのかもしれません。生涯、ロックンローラー。頑張れ、中高年の星。Bon courage !

死亡した状況がはっきりしない・・・独裁者も、画家も。

2011-10-21 21:34:08 | 文化
42年間、リビアに君臨したカダフィ大佐が死亡しました。その死は、それこそ世界中で報道されていますが、死亡した状況がいまいちはっきりしません。

生きて捕らえられたのは間違いないようで、存命中の映像も公開されています。捕らえられた時には、背中と足に被弾してしたという報道もありますが、確認は取れていないようです。その後、民兵によって殺害されたという情報もありますが、トラックで他の場所へ移動中、カダフィ派との戦闘で死亡したという説もあります。しかし、国民暫定評議会(le Conseil national de transition)のジブリル(Mahmoud Jibril)暫定首相が、「カダフィ大佐を殺害した」と発表したという報道があり、どうも民兵によって射殺されたのかもしれません。情報がまだ錯綜しています。

生きたまま捕らえると国民暫定評議会は言っていたのですが、いざ捕らえてみると、現場にいる民兵の積年の恨みが強すぎた、ということなのかもしれません。排水管に逃げ込んだものの、発見され、引きずり出された。殴る蹴る、そして銃殺。その死体は引きずり回される。独裁者の末路・・・かつて、東欧でも、銃殺された独裁者がいました。今後、他の中近東の国々にも広がるのでしょうか。

フランスは、独裁者・カダフィ大佐の死を祝福しています。数年前には、カダフィ大佐をパリへ招待し、至れり尽くせりの厚遇をしたフランスですが、「アラブの春」がリビアに波及するや、一転、反カダフィ派を支援。イギリスとともにNATO軍の先頭に立ち、トリポリ陥落後には、サルコジ大統領がイギリスのキャメロン首相とともに、トリポリとベンガジを訪問。熱狂的な歓迎を受けました。国民暫定評議会をいち早く承認し、パリでの会談も行っています。その裏では、リビアの石油利権の30%を獲得したとも言われ、フランス外交の勝利と、自画自賛する向きもあります。

政治、外交・・・昨日の友は、今日の敵(仏語:L’ennemi d’hier est aujoud’hui ami. 英語:A friend today may turn against you tomorrow.)。ナイーヴでは生き抜いていけないようです。

さて、さて、為政者と同じく、その死の状況がはっきりしない画家がいます。フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Van Gogh)。あまりに有名な画家ですが、オーヴェル・シュール・オワーズ(Auvers-sur-Oise)で自殺した、というのが通説になっているものの、死の状況から自殺では不自然だという意見が根強く残っています。未公開の多くの資料をもとに、ゴッホの死は事故死だったと述べる本が出版されました。

どのような根拠で事故死だったと言えるのでしょうか・・・17日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

伝記作家のスティーヴン・ネイファー(Steven Naifeh)とグレゴリー・ホワイト・スミス(Gregory White-Smith)は(『ル・モンド』は二人とも伝記作家と言っていますが、より正確には、前者は美術史家、後者は作家で、このコンビが著したアメリカ人画家、ジャクソン・ボロックの伝記はピューリッツァー賞を受賞しています)、フィンセント・ファン・ゴッホの人生に関する新たな本を出版した。その本によれば(原題は“Van Gogh : A Life”です)、ゴッホの死は自殺ではなかった。ゴッホもよく知る二人の男と一緒にいる際、誤って発射された銃弾により死亡した事故死の可能性がある。ゴッホはオーヴェル・シュール・オワーズで1890年7月29日、37歳の若さで死亡した。

BBCによれば、二人の作者は今まで研究者が手にすることのできなかったゴッホの手紙を数多く、綿密に調べたそうだ。

ゴッホはラヴー亭(l’auberge Ravoux)に滞在し、作品を描くために周辺の麦畑を歩き回っていた。通説は、7月27日に畑で自殺を試みたが怪我を負っただけで死にきれず、宿泊先に戻り、2日後に死亡した、というものだ。

スティーヴン・ネイファーは、次のように語っている。ゴッホが自殺したのではないということは調べ始めてすぐ分かった。ゴッホを知る人たちの間で信じられている別の説がある。それは、ゴッホもよく知る二人の若者によって誤って発射された銃弾により重傷を負ったが、ゴッホは二人を守るため自殺というカタチで事故の責任を自分で負うことにした、という説だ。

ネイファーはさらに、次のように続けている。著名な美術史家、ジョン・リウォルド(John Rewald:1912-1994)は、1930年代にオーヴェル・シュール・オワーズを訪問した際に、上記のような説を検討していた。その説を裏付けるような新たな資料も見つかっている。中でも、ゴッホが腹部に受けた銃弾が、斜めの弾道を取っていたことが挙げられる。自殺なら、一般的には真横から垂直に撃ち込まれるはずだ。

二人の若者のうち一人は、その日、カーボーイの格好をし、手入れの行き届いていない銃をもてあそんでいた。その二人はゴッホと一緒に酒を飲んでいたと言われている。こうした状況であれば、事故死ということは十分に起きうることだ。若者二人がゴッホを意図して殺そうとしたと考えることには無理がある、と二人の作家は新著で述べている。

グレゴリー・ホワイト・スミスは、次のように語っている。ゴッホは自ら死のうとしたのではない。しかしこの事故の後で、自殺という状況を受け入れたのだった。彼の存在が重荷になっていた弟・テオ(Theo)を思ってのことだ。テオはまったく売れない画家、ゴッホを金銭面から支えていたのだが、ゴッホの死後わずか6カ月後に、後を追うように亡くなっている。

・・・ということで、ゴッホの死は、事故死だった、ということなのですが、よし、これだ、これで間違いないとも言えない所があります。例えば、『ウィキペディア』によれば、

「なお、死因は一般には自殺と言われているが、自殺するには難しい銃身の長い猟銃を用いたことや、右利きにも関わらず左脇腹から垂直に内臓を貫いていることから、他殺説も存在する。」

ということで、銃弾は垂直に撃ち込まれている!? スティーヴン・ネイファーとグレゴリー・ホワイト・スミスの説とは異なっています。同じく自殺ではないというものの、その根拠となる銃の弾道が異なっています。一方は、垂直だから自殺ではない、他方は、斜めだから自殺ではない!! 真実は、どこにあるのだ! と言いたくなってしまいます。

素人考えでは、腹部に銃弾を受けていること自体、自殺とは言えない理由になるのではないか、と思えてしまいます。自殺するなら、頭部(こめかみ)か心臓を狙うのではないか・・・そう思ってしまうのですが、それは20世紀後半や21世紀に生きる人間の常識であって、19世紀は腹部を狙ったのだと、もし言われてしまえば、反論のしようがありません。素人の哀しさです。何しろ、切腹は腹を掻っ捌いたわけですから、銃弾を腹部に受けていたからと言って、自殺ではないとも言い切れないのかもしれません。

すべては藪の中。『羅生門』の世界なのかもしれません。だからこそ、多くの人の関心を惹きつけ続けているとも言えましょう。少々、曖昧なところがあるほど、人は関心を寄せる・・・しかし、政治はそうあってほしくないものです。旗幟鮮明、はっきりした政治をお願いしたいものです。

なお、ゴッホ終焉の地については、『50歳のフランス滞在記』の2008年5月14日をご覧ください。写真とともに紹介しています。

フランスのレストランの評価が低い・・・評価方法が間違っているからだ!

2011-04-23 20:42:31 | 文化
美食と言えば、フランス。フランスには有名シェフも多く、ミシュランの星を獲得しているレスランも多い。日本人シェフも、修行に出かけますね。グルメと言えば、フランス。フランス人自身もそう思い込んでいるのでしょうが、そのフランス人が怒っています。こんなランキングはおかしい。絶対受け入れられない!

何に腹を立てているかというと、イギリスの雑誌“Restaurant Magazine”が発表した「サン・ペレグリーノ賞」(le prix S. Pellegrino)。「料理界のアカデミー賞」とも言われる権威ある賞で、世界のレストラン・ベスト50を認定しているのですが、フランスのレストランのランク・インが少ない・・・これは、おかしい! 評価の仕方が間違っているのではないか!!

では一体、どのようなランキングで、フランスのレストランはどのような状況になっているのでしょうか。19日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

2010年と同じように、今年もデンマークのレストラン「ノーマ」(Noma)が世界のベスト・レストランに選ばれた。審査をしたのは、世界の美食に関する批評家、専門家800人で、「ノーマ」は2年連続でベスト・レストランの栄誉に輝いた。コペンハーゲンの再開発された港湾地区にある倉庫を改造したにレストラン・「ノーマ」を率いるのは、32歳の若きシェフ、René Redzepi(ルネ・レッゼピ)で、その類まれな創造性が高く評価されている。彼はまた、北欧料理大使であり、地元の季節の素材を上手に生かしている。牛乳、フェロー諸島で獲れたヨーロッパアオザエビ(ラングスティーヌ:langoustines)、栗の実、黒パン、自家製ヴィネーグル・・・

スペインからは2店がトップ・ファイブに入っている。「エル・セジェール・デ・カン・ロカ」(El Celler de Can Roca)と「ムガリッツ」(Mugaritz)で、トップ・テンにはもう1店、「アルサック」(Arzak)が8位に入っている。一方、同じスペインのレストランで、2006年から2009年まで4年連続で1位に選ばれた「エル・ブジ」(El Bulli:世界一予約が取れないレストランとして有名、ミシュランの3つ星)は、ランク・インしていない。伝説のシェフ、フェラン・アドリア(Ferran Adria)が、充電のため、今年7月からしばしの間、閉店するからだ。2014年に再開されることになっている。

上位にスペインのレストランが並ぶ中、ブラジルの“D.O.M.”が昨年から11位も順位を上げ、7位にランク・インした。サンパウロにあるレストランで、シェフはアレックス・アタラ(Alex Atala)。賞の主催者も驚く上昇ぶりだ。

イタリアン・レストランは、2店がトップ・ファイブ入りしている。「オステリア・フランチェスカーナ」(Osteria Francescana:立地はイタリアのモデナ、シェフはマッシモ・ポットゥーラ)と「ファット・ダック」(the Fat Duck:立地はイギリスのバークシャー)。“Fat Duck”のシェフは、フェラン・アドリア同様、分子ガストロノミー(分子美食学:調理を科学的視点から社会的・芸術的・技巧的に解明しようという試み)を信奉するヘストン・ブルメンタール(Heston Blumenthal)だ。

アメリカからは、2店がトップ・テン入りしている。“Alinea”(シカゴ)が6位、“Per Se”(ニューヨーク)が10位。

昨年、トップ・テンに1店もランク・インしなかったフレンチだが、今年はパリ(11区)にあるビストロ「ル・シャトーブリアン」(Le Chateaubriand:シェフはInaki Aizpitarte)が9位に入り、トップ50には、8店が入った。「アストランス」(L’Astrance:パリ)が昨年の16位から13位に、「アトリエ・ド・ジョエル・ロブション」(L’Atelier de Joël Robuchon:パリ)が29位から14位に、それぞれ順位を上げた。一方、「ピエール・ガニェール」(Pierre Gagnaire:パリ)は13位から16位へ順位を下げた。アラン・パサール(Alain Passard)の「アルページュ」(L’Arpège:パリ)は19位、「ブラス」(Michel Bras:オーブラック)が30位。そして「ラ・メゾン・トロワグロ」(La Maison Troisgros:ロアンヌ:多くの日本人が修業したレストラン)は44位を守ったが、ホテル「プラザ・アテネ」(Plaza Athénée)にあるアラン・デュカス(Alain Ducasse)の店(Alain Ducasse au Plaza Athénée:パリ)は41位から45位に後退した。

世界のベストレストラン50は昨年、フランスのシェフや美食評論家たちから、時代の流行を反映しているだけで、ランク付けの基準が明確でないと非難されたが、今年のランキングもまた同じ批判の対象になることだろう。

・・・ということで、日本からは、フレンチの「レ・クレアシヨン・ド・ナリサワ」(Les Créations de Narisawa:南青山:成澤由浩シェフ)が12位、和食の「龍吟」(六本木:山本征治シェフ)が20位にランク・インした「世界のベストレストラン50」。日本のメディアも報道していましたから、ご存知の方も多いかと思います。

気になるのは、『ル・モンド』の最後の段落です。フランスから聞こえてくる批判の大合唱。基準がなってない、流行の後追いに過ぎない、美食の本質が分かってない・・・どうしてそう言えるのでしょうか? 

ランク・インしているフランスのレストランが少ない。しかも、上位に少ない。そんなわけがない。フランスこそ美食の本場。その伝統に裏打ちされた繊細にして華麗な味は、世界中の美食家を唸らせている。伝統を守りながら、常に新しさに挑戦している、フランス料理。それなのに、どうして、評価が低いのだ。納得できない。こんないい加減なランキングは、受け入れられない。主催者がイギリスの雑誌だからではないか。フィッシュ&チップスとローストビーフくらいしか生み出さなかった、味覚の分からない国が美食を評価するなんて企画をすること自体が間違いだ!

そんな噴飯やるかたないフランス人の憤りが聞こえてきそうです。もちろん、私の想像ですが、そんな気にさせる、「最後の晩餐」ならぬ「最後の段落」です。

反ユダヤ主義ゆえ、黙殺される画家・・・フォラン。

2011-04-14 20:11:33 | 文化
ジャン=ルイ・フォラン(Jean-Louis Forain)、本名ジャン=アンリ・フォラン(Jean-Henri Forain)。1852年ランス生まれ、1931年パリに死す。画家、イラストレーター、版画家。

ご存知の方はあまり多くないのではないでしょうか。しかし、東京の国立西洋美術館(『踊り子』、『聖アントニウスの誘惑』、『お目見え』)や東京富士美術館(『伊達男』、『傘を持つ女』)にはその作品が所蔵されています。美術展でも、ときどき印象派の作品に交じって、展示されることもあります。しかし、知名度は、高くない。しかも、日本でだけではなく、フランスでもそれほど有名という訳ではないようです。しかし、生きていた当時は有名で人気があり、多くの名誉にも浴しました。しかし、あることが理由となり、死後、反感を持たれ、人びとの話題に上ることが少なくなってしまいました。

まずはその人生を“Wikipédie”を参照しつつ振り返ってみましょう。

1860年代にパリに出て、画家のジャン=バチスト・カルポーや風刺画家のアンドレ・ジルなどに私淑した後、エコール・デ・ボザールに入学。画家・彫刻家で、芸術アカデミー会員のジャン=レオン・ジェロームの指導を受ける。

1870年の普仏戦争に従軍。その後ヴェルレーヌやランボーと交友関係を結ぶ。社交界にも出入りするようになり、マネ(Manet)の『扇を持った女』(la Dame aux évantails)のモデルとなったニーナ・ドゥ・カリアス(Nina de Callias)のサロンや第二帝政・第三共和政に影響力を持ったロワイヌ伯爵夫人(la comtesse de Loynes)の文学・政治サロンなどに足繁く通うようになった。そこで多くの作家たちやドガ(Degas)、マネといった画家たちの知遇を得ることとなった。

画家としてのスタートは印象派の一員としてだった。1879年から1886年にかけての展覧会には積極的に出品していた。当時オペラにのめり込み、踊り子やその常連たちを作品のテーマに選ぶようになる。

やがて、風刺画をさまざまな新聞に発表するようになるが、そこで類まれな皮肉の才をいかんなく発揮することになる。特に1887年からは“Le courrier français”(クリエ・フランセ)がフォランの風刺画を定期的に掲載するようになり、そして1891年からは“Le Figaro”(ル・フィガロ)と組むようになり、フィガロ紙上に35年に亘って風刺画を発表し続けることになる。

多くの新聞がフォランの辛辣きわまる風刺画を競うように掲載したが、1889年には毎日の生活を描き、その中で、苦しみに隠された可笑しさ、喜びの裏にある悲しみを表現したいと、自らの新聞(Le Fifre)を発刊した。

1891年には画家で彫刻家でもあるジャンヌ・ボス(Jeanne Bosc)と結婚。ベル・エポック時代の社交界のために多くのポスターを描く。この頃、カトリックへの信心に再び目覚め、ルルド(Lourdes)への巡礼をたびたび行った。

その後、ブランジスム、パナマ・スキャンダル、ドレフュス事件に遭遇し、社会的テーマ、政治的な話題についての風刺画を描くようになる。1898年に、同じく風刺画家のカラン・ダシュ(Caran d’Ache)とともに、新たな新聞“le Psst...!”を発刊。ドガや作家のモーリス・バレス(Mauris Barrès)らの積極的な支持を受ける。

第一次大戦に際しては、愛国心を称揚し、1915年1月9日には“―Pourvu qu’ils tiennent. ―Qui ça ? ― Les Civils”(彼らが頑張ってくれればいいのだが~彼らって、誰のこと~フランス市民だよ)という有名な台詞付きの作品を発表。戦場においても塹壕にまで兵士とともに赴き、デッサンを描き続けるとともに、士気を鼓舞した。こうした行動も相俟って、当時、フォランの人気は非常に高かった。

第一次大戦後、1920年の冬、ジョー・ブリッジ(Joë Bridge)、アドルフ・ヴィレット(Adolphe Willette)、フランシスク・プルボ(Francisque Poulbot)など芸術家たちとともに、「モンマルトル共和国」(la République de Montmartre)を創設した(慈善活動と文化活動を行う伝統の番人で、会員の服装は今でも、黒い帽子、黒いケープ、赤いマフラーというロートレック描くところのアリスティッド・ブリュオンの服装そのままです。モンマルトルの丘に残るブドウ園の収穫祭に、こうした服装で集まり、パレードに加わっていますから、ご存知の方も多いと思います。そのブドウ園は1933年にプルボが始めたものです。なお、モンマルトル共和国の設立は、日本語のホームページによると1921年5月7日となっています)。

その後フォランは芸術アカデミー会員(1923年)、「モンマルトル共和国」大統領(1923年から死亡するまで)、ロイヤルアカデミー会員(1931年)に推挙されるという、栄光に包まれた晩年を過ごした。

という人生を送ったフォランが、今なぜかつての輝きを失い、話題にすら上らないようになってしまったのでしょうか。3月12日の『ル・モンド』(電子版)です。タイトルは、“L’esprit antisémite”(反ユダヤ精神)・・・

ジャン=ルイ・フォランがあまり話題に上らないとしたら、その理由はいたってシンプルだ。ドレフュス事件の最中に、カラン・ダシュとともにドレフュスを攻撃する雑誌“Psst...!”を創刊したからだ。その雑誌で、ドレフュスを擁護する判事や作家のゾラ(Emile Zola)を醜い戯画で描いている。フォランの描く風刺画の多くが反ドレフュスだった。フォランは、当時としては情熱的なアヴァン・ギャルドな芸術家だった。しかし同時に、反ユダヤ主義の持ち主で、芸術家としての大きな功績も反ユダヤ的という罪を隠すことはできず、その罪のエクスキューズとなることもない。

展示の中でひとつだけどうもすっきりしない点がある(3月10日から6月5日まで、プチ・パレ(Petit Palais)で、“Jean-Louis Forain 1852-1931 : La comédie parisienne”というタイトルのフォラン展が行われています)。ベルトラン・ドラノエ(Bertrand Delanoë、パリ市長)がパンフレットの序文に書いているように、フォランとカラン・ダシュの二人だけが「嘘と嫌悪という影の部分を代表している」として断罪されている。しかるに、“Cassation”(『破棄』)という見るに堪えないデッサンはドガからの熱狂的な称賛の手紙をフォランにもたらした。ドガ曰く、フォラン、我が高貴なる友よ、あなたのデッサンはなんと美しいことか。ドガは反ドレフュスだったが、ルノワール(Auguste Renoir)、ロダン(Auguste Rodin)、セザンヌ(Paule Sézanne)、ヴァレリー(Paule Valéry)もそうだった(フォランとカラン・ダシュだけが反ドレフュスだったわけではない、ということですね)。

このリストは、何も目新しいものではない。1987年にアメリカの美術史家リンダ・ノックリン(Linda Nochlin)がその著書“Degas et l’affaire Dreyfus:portrait de l’artiste en antisémite”(『ドガとドレフュス事件:反ユダヤ作家の肖像』)でこのリストにある芸術家たちの名前を挙げている。彼女はその著作の中で、最も高揚した芸術家としての野心とユダヤ人への嫌悪という最も卑劣な感情がどうして美術史における巨匠であるドガやその同時代人たちの心の中で同居できたのだろうか、と問うている。フォランとは異なり、彼らは新聞で反ユダヤ主義者であることを公表しなかった。そのことが彼らを守っているのだ。

従って、2009年にグラン・パレで行われたルノワールの回顧展では、彼の反ユダヤ主義については一言も触れられなかった。この点を扱えば、ルノワールの全てをより正確に見ることになっただろうに、残念だった。

・・・ということで、いいぞ、その通り、頑張れ、と周りは囃し立てても、最終的に責任を取るのは、踊らされた人間、はしごを上まで登った人間。気がついたら、はしごを外されていた、なんていうことは、我々庶民の生活にも時々あることです。だから、賢い人は、必ず囃し立てる側に回る。決してはしごを登ったり、踊ったりはしない。もちろん、ドガを始め当時の芸術家たちが意識してそうしたという確証はありません。単に新聞等で自分の反ユダヤという主義主張を公表する機会がなかっただけなのかもしれません。

一方、新聞とのつながりが深かったフォランは、自分の主張であり、当時の芸術家仲間の傾向でもある反ユダヤを風刺画を通して繰り返し公表してしまった。そのために、今でも批判され、黙殺されることが多い。

「時代」とは恐ろしいものです。フォランが生きていた当時は、反ユダヤが幅を利かせ、結果として栄光に満ちた人生だったわけですが、「時代」の歯車が進むと、一転。反ユダヤを公然と表明することはタブーとなり、新聞に公表していたフォランが批判の対象となってしまった。

はたして、フォランは『ル・モンド』の記事が言う通り、心底、反ユダヤだったのでしょうか。それとも、時代の風を風刺画に凝縮させ、「時代」にサービスをしてしまっただけなのでしょうか。「芸術家」と「時代」、面白いテーマではあります。

フランス人は、地震もマンガで知る。

2011-04-13 20:22:08 | 文化
“Manga”という日本語のままでフランスでも浸透している日本のマンガ。しかし日本では以前、巨匠・手塚治虫を除けば、なんとなく百害あって一利なし的に見られてきました。マンガなんか読んでいる暇があったら、勉強しろ!

その立場に大きな変化が生じたのは、欧米での評価でした。外圧に弱い日本は、欧米でのマンガ人気によって、ようやくマンガをサブカルチャーと見做すようになりました。サブがつくものの、一応カルチャーの仲間入り。そして今日では、ポップカルチャーとして認識されるようになりました。サブからポップへ格上げされたわけです。そして、輸出できる文化のひとつとしてスポットを浴びる存在に。利益を生み出すものは、何であれ、素晴らしい! マンガはようやく、裏通りから表通りへ歩む道を替えたようです。

そうしたマンガの素晴らしさをすぐに認めた欧米、特にフランスでは多くの日本マンガが出版されています。フランス滞在中にモデムの修理を依頼したのですが、その際やって来たプロバイダーの技術者も、日本のマンガに非常に詳しかったのを思い出します。また、マンガを原作で読みたくて日本語の勉強を始めたという学生も多くいます。パリ第7大学の日本語学科にお邪魔したことがありますが、学生の大半が日本語に興味を持ったきっかけはマンガだったと言っていました。

さらには、マンガを通して日本の社会や日本人の生活ぶりを知ったというフランス人も多くいます。そうしたマンガ通のフランス人に大きな衝撃を与えたのが、東日本大震災。マンガには、地震や津波がしばしば描かれていますが、フランスではめったに起きない災害です。それを映像で目の当たりに。そこで調べたのが、大震災とマンガの関係・・・大震災発生直後の3月15日に、『ル・モンド』(電子版)が伝えていました(大震災発生から1カ月が過ぎましたので、まとめてみます)。

『北斗の拳』(作・武論尊、画・原哲夫:仏語タイトル・Ken le survivant)、『AKIRA』(作画・大友克彦:仏語タイトル・Akira)、『新世紀エヴァンゲリオン』(マンガ・貞本義行、アニメ・GAINAX&庵野秀明:仏語タイトル・Neon Genesis Evangelion)・・・大惨事はその様相がどうであれ、マンガの主要テーマのひとつになっている。日本のマンガはいつも人気があり、驚くほどにダイナミックだ。そして津波や地震のシーンは多くの作品に登場している。そうした惨事は話の筋立ての道具であったり、おセンチなストーリーの背景になったり、戦いの場であったり、大惨事の後にも世界が存在することを確かめるために旅立つ背景になっている。

『東京ミュウミュウ』(作・吉田玲子:Tokyo Mew Mew)では、大地震に遇った後、主人公は超能力と猫のような外見を身にまとってしまったことに気づく。『東京マグニチュード8.0』(作・橘正紀:Tokyo magnitude 8)は、日本列島を破壊する巨大地震の影響をしっかり調べたうえで真に迫る描写を行っている。この作品では、地震に襲われた人工島の廃墟に残された二人の生存者(姉・弟)の我が家への帰還が描かれているが、救援体制についても詳細に描写している。

大惨事を描いた多くの作品の中で、ひときわ異彩を放っているのが、かわぐちかいじ作の『太陽の黙示録』(Spirit of the Sun)だ。物語は、本州を二分してしまうほどの巨大な地震の発生から始まる。地震の後に大津波が襲い、国土の多くが破壊され、水没する。中国軍が人道救助を口実に北日本を占領し、南日本はアメリカ軍が支配下に置く・・・

悲劇的な大惨事の後(post-apocalyptique)の世界を描くマンガの例にもれず、『太陽の黙示録』も2000年代の日本の姿を批判的に、そして詳細に描いている。例えば台湾へ流れ着いた日本人難民の困難な状況が、現在日本政府が採っている厳しい移民政策を反映して描かれている。

地震と津波は、しばしば採り上げられるテーマだが、しかし影響のない無難なテーマという訳ではない。『X』(作・CLAMP;大川七瀬、いがらし寒月、猫井椿、もこな、という4人の女性漫画家集団)は、『聖書』、特に「黙示録」に着想を得たファンタスティックな作品だが、1995年、数カ月にわたって出版が延期された。この作品は多くの地震を描いているが、そのことから世界の終末が近いというメッセージと捉えられ、特に6,500人もの被害者を出した阪神淡路大震災の後だけに、読者の神経を逆なでしてしまったようだ。

東日本大震災直後の今日、同じように、多くのマンガの出版がしばらく延期されるに違いない。アニメ化された『東京マグニチュード8.0』の再放送はすでに延期が決定されている。また津波の場面が登場するアニメも放送が延期されたり、そのシーンが修正されたりしている。

・・・ということで、『ル・モンド』の記者の中にもマンガ通はいるようです(上記の記事を執筆したのは、Damien Leloup氏)。

「序破急」とか「起承転結」とか言われますが、その「序」や「起」の部分に大地震や大津波を持ってくるマンガ作品が多くあります。地震列島と言われるくらい地震の多く国ですから、誰にとっても身につまされる自然災害であり、それだけ、ストーリーに惹き込むにはもってこいの題材なのかもしれません。

しかし、震災の先にどんなに明るい未来を描こうと、やはり現実に大震災が起きた直後では放送や出版を延期せざるを得ない、ということですね。

フランスのメディア、日本の大震災をさまざまな視点から伝えています。

フランス自らフランス語を捨てる!?

2011-03-25 21:26:01 | 文化
世界の多様な文化を守るためという大義名分を掲げ、フランス語の普及に努めるフランス。語学学校も多くの国で運営しています。日本にも、日仏学院やアリアンス・フランセーズなど、多くのフランス語学校があります。

確かに目的は世界の多様性を守るためですが、実際はフランスの栄光、世界語としてのフランス語の輝きを守るための自国中心主義ではないかとも、一部では言われていますが、それでも政府予算をかなり割いてフランス語教育を推し進めています。

そのフランスで、それも大学の学長を務めている大学人が、フランスの高等教育は英語で行うべしという提言をしています。どうしちゃったの、という感じですが、どのような背景でそう言っているのでしょうか。24日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

3月1日の『ル・モンド』に掲載された記事の中で、大学人であるピエール・タピ(Pierre Tapie:グランゼコールのひとつである、経営大学院“ESSEC”(Ecole supérieure des sciences économiques et commerciales)の学長を2002年から務めており、また2009年からはグランゼコール協議会の会長も兼務しています。ご本人は、理工科大学校(Ecole Polytechnique)の出身で、博士号とMBAを持っています)は、外国人学生を惹き付けているフランスの魅力について語っていた。特に、フランスは今や世界第3位の留学生受け入れ国であり、英語圏以外ではトップの地位にいる、と読む方にとってうれしい内容を紹介していたが、読者は現状に至った努力を今後も続ける必要性についても理解したことだろう。

しかし、奇妙なことにタピ氏はまったく逆のことも提言している。フランスも英語圏のひとつとしてより多くの学生を惹き付けていくことを願っていると述べている。そのためには、授業のかなりの部分を英語で行うべきであり、当然「ツーボン法」(la loi Toubon:1994年に成立した法律で、フランス語の使用を義務付けている)は高等教育機関において廃止されるべきだと語っている。3月9日の教育関連別冊“Le Monde Education”(ル・モンド教育)にも寄稿し、大学の自治確立はもちろんだが、英語による授業の推進を繰り返し述べている。

しかし、タピ氏の文章には矛盾が認められる。ヨーロッパは文明と科学の地であり、多言語の地だと述べている。それでいながら、フランスのような国において大学の授業が英語によって行われることが一般化すれば、大学などの高等教育機関での主要言語のひとつが消滅してしまうことになる。多言語のヨーロッパということをないがしろにすることであり、他のヨーロッパ諸国も追随するかもしれない。

タピ氏の提言にはいくつかの「放棄」が読み取れる。

まずは、学術界での主要言語としてのフランス語の立場を放棄しようとしている。世界的に見れば、学術分野で使用される言語としてはフランス語は第2位の地位にいる。それをタピ氏は放擲しようとしている。

また、フランス語圏を見捨てようともしている。フランスで学ぶ留学生の62%がモロッコ、アルジェリア、チュニジア、カメルーン、セネガルという義務教育でフランス語が教えられている旧フランス植民地の国々出身の学生で占められるというのに、大学での授業を英語で行おうと提言している!

更には、平等の概念を捨て去ろうとしている。しかも、学生に対してのみならず、成人のフランス国民に対してもだ。学生にとっては、英語の使用が世界的に広がれば、ヨーロッパの大学においても英語を母国語とする学生にとって何かと有利になる。一般国民にとっても、給与や生活レベルで恵まれた英語のできるエリート層が誕生することは、フランス語だけを話す人たちとの格差を急激に拡大させることになる。

極右政党の国民戦線にとって、何というプレゼントだろう。タピ氏の提言に反し、ツーボン法を維持し、この法律に背くことの多い大学において、しっかりとこの法律を適用するよう要求すべきだ!

・・・こう述べているのは、国立科学研究センター(CNRS:Centre national de la recherche scientifique)の研究員、ベルナール・セルジャン氏(Bernard Sergent)です。

セルジャン氏に批判されているタピ氏は、ESSECの学長。この経営大学院はすでに英語による授業を始めており、その影響でより幅広い国々から留学生を集めています。日本からの留学生が増えたのも、英語による授業開始以降だと言われています。今では、早慶、大阪大と提携をしているようです。パリに留学して、英語の授業に出席する!

しかし、日本でも英語の授業を行っている高等教育機関はそれなりにありますね。日本に留学して、英語の授業に出席する!

英語の世界共通語化には、歯止めがかからないようです。私がパリにいた頃、メトロには“Change your life with Wall Street English !”といった広告がたくさん掲出されていました。英語ができれば、エリートの仲間入り!

日本でも入社条件にTOEICのスコア何点以上という条件をつける企業もあります。英語ができることで就職氷河期も少しは暖かくなる!

こうした状況で、まだフランス語の勉強を続けますか?

実際には、まだフランス語の必要性は失われていないようで、国際機関では、英語+フランス語が少なくとも求められているようです。バン・キムン国連事務総長もちょっとしたスピーチをフランス語でしていますし、日本人の中にもOECD副事務総長を務めた重原氏をはじめ英語・フランス語に堪能が方々もいらっしゃいます。

国際機関で主要ポストを得ようとするなら英・仏語が必須・・・とは言うものの、日本の一般企業ではまず英語。社内の共通語を英語にした企業もあるほどです。そして最近ではプラスアルファとして管理職に二つ目の外国語習得を求める企業が出始めています。しかし、必要とされるのは、たぶん、中国語、韓国語、タイ語、インドネシア語、ベトナム語、スペイン語などで、フランス語はどうなのでしょうか。

それでも、人生はビジネスだけではない。他人に迷惑をかけない範囲でなら、好きなこと、関心の向くことをやってもいいはず・・・とは思うものの、フランス自体が英語化しては、痩せ我慢にしか聞こえなくなるようで、困った!