往生院の金堂落慶法要は、遅くとも1210年までかな。。
浄土院は、1230年頃になるかな、、やはり、同時というわけでは無かったかも。しかし、九條家が両方ともに関わりの深いことがわかった。
更に浄土院の開山の検討にて、往生院の中興開山についても誰であったのか、かなり絞れることにはなりそうだ。
重源、叡尊、忍性、慈円、信円、、信円はありえるかも。浄土院は、当麻曼荼羅を本尊としての落慶ならば、やっぱり証空が有力になるかな。
しかし、当麻曼荼羅銘文は本当に有り難い。まさに情報のタイムカプセルだ。
修復と修複はやはりちがうのだろう。。
原文は複なのである。
つまり、複写した、新しいものということであろう。
原本はやはり破損したわけだ。
修復不可、要は焼けるなどしたのではないだろうか。
ならば、1337年の後醍醐天皇が立ち寄られたことと無関係とは言えなくなる。
やはり、北朝側から何らかの攻撃を受けた可能性があるわけだ。
であれば、修複後、浄土院は再興されずに、当麻曼荼羅がそのまま、どこかで保管されたことで、現在にまで伝わったのかもしれない。
いずれにしても四條縄手の戦いで焼失する運命にはあったのだろうけど、逆にだからこそ当麻曼荼羅は残ったのかもしれない。
また、この「教仙」さんが、南北朝時代、少なくとも1339年には浄土院の住持であったと推測できる。
南北朝の争いで、浄土院は焼失してしまっていた可能性もあるが、、
仙ならば、禅宗系になるかな。
つまり、往生院と同様に鎌倉後期から東福寺の末寺となり、臨済宗になっていた可能性もある。やはり、往生院とは法類寺院だったのだろう。
ならば、もちろん、九條家、九條道家とも繋がりがあったということにもなる。
更には、教仙さん、往生院の兼務住持だった可能性もある。
浄土院すぐ近く(徒歩2分)の二つのお寺、現在は臨済宗と黄檗宗。醍醐寺と常光寺。
醍醐寺と常光寺、浄土院も、やはりつながりが色々とありそうだ。
浄土院は、1230年頃になるかな、、やはり、同時というわけでは無かったかも。しかし、九條家が両方ともに関わりの深いことがわかった。
更に浄土院の開山の検討にて、往生院の中興開山についても誰であったのか、かなり絞れることにはなりそうだ。
重源、叡尊、忍性、慈円、信円、、信円はありえるかも。浄土院は、当麻曼荼羅を本尊としての落慶ならば、やっぱり証空が有力になるかな。
しかし、当麻曼荼羅銘文は本当に有り難い。まさに情報のタイムカプセルだ。
修復と修複はやはりちがうのだろう。。
原文は複なのである。
つまり、複写した、新しいものということであろう。
原本はやはり破損したわけだ。
修復不可、要は焼けるなどしたのではないだろうか。
ならば、1337年の後醍醐天皇が立ち寄られたことと無関係とは言えなくなる。
やはり、北朝側から何らかの攻撃を受けた可能性があるわけだ。
であれば、修複後、浄土院は再興されずに、当麻曼荼羅がそのまま、どこかで保管されたことで、現在にまで伝わったのかもしれない。
いずれにしても四條縄手の戦いで焼失する運命にはあったのだろうけど、逆にだからこそ当麻曼荼羅は残ったのかもしれない。
また、この「教仙」さんが、南北朝時代、少なくとも1339年には浄土院の住持であったと推測できる。
南北朝の争いで、浄土院は焼失してしまっていた可能性もあるが、、
仙ならば、禅宗系になるかな。
つまり、往生院と同様に鎌倉後期から東福寺の末寺となり、臨済宗になっていた可能性もある。やはり、往生院とは法類寺院だったのだろう。
ならば、もちろん、九條家、九條道家とも繋がりがあったということにもなる。
更には、教仙さん、往生院の兼務住持だった可能性もある。
浄土院すぐ近く(徒歩2分)の二つのお寺、現在は臨済宗と黄檗宗。醍醐寺と常光寺。
醍醐寺と常光寺、浄土院も、やはりつながりが色々とありそうだ。