平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

認知症(2006年1月)

2006年02月01日 | バックナンバー
 社会の高齢化が進む中、認知症患者が増えている。以前は痴呆症と呼ばれていたが、その言葉はよくないということで、最近では認知症という言葉が用いられる。筆者の周囲にも、認知症の家族をかかえて、苦労している知人がいる。

 人間は年齢とともに自然に肉体諸器官が老化し、衰え、やがて死亡する。これは、人間も生物の一種である以上、避けられない運命である。脳も肉体器官の一部であるから、やはり加齢とともに衰える。それが極度に進んだ状態が認知症である。最近では、まだそれほどの年齢でないにもかかわらず、認知症になる人もいるという。それは、車やコンピュータや電化製品などの文明の利器に依存しすぎた、不自然な生活に起因しているのかもしれない。

 多くのお年寄りの願いは、「家族に迷惑をかけずに、ぽっくり死にたい」ということである。その願いを叶える「ぽっくり寺」や「ぽっくり地蔵」なるものまで存在するという。認知症になって自分の人格が崩壊し、家族や周囲の人々に大きな迷惑をかけることは、誰しも避けたい。また社会全体としても、認知症患者が増えることは、介護のための経済負担が増大することを意味する。

 昨年十一月二十六日のNHK教育テレビは、脳科学者・川島隆太教授(東北大学)の認知症研究について報道していた。川島教授の研究によると、文章の音読や簡単な計算を毎日、短時間でも続けると、大脳前頭前野の血流が増大し、脳機能が回復し、認知症が大きく改善するという。いくつかの具体的なケースも報告されていた。川島教授は、「脳は鍛えることができる」と述べている。筋肉は使わなければ衰えるし、使えば鍛えることができるが、脳も同じなのである。それが、音読と計算という簡単な訓練でできるというのが、ありがたい。この事実は、認知症患者をかかえる家族ばかりではなく、いずれは認知症になるかもしれない可能性がある老年世代にとっても、大きな福音であろう。

 長年、修行を積んでいる仏教僧の中には、高齢になっても驚くほど健康で、頭脳明晰な方が見うけられる。規則正しい生活と質素な食事のほかに、読経や瞑想もよい影響を与えているのだろう。読経はまさに、脳を鍛える音読の一種であるし、坐禅などの瞑想も、大脳前頭葉の活動を活発化させることが知られている。

 私たちは、老化による病気や認知症の発生をいたずらに恐れる必要はない。日頃の生活習慣と努力によって、死ぬまで健康を保ち、脳の力を維持することができるのである。筆者もそろそろ若いとは言えない年齢になったが、肉体と脳を健全に鍛え、他人に依存することのない老年を迎えたいと思っている。