ただっぴろい部屋で暖房をつけると、ほとんどきかない。
きかせるためには、大容量での暖房が必要になるが、限りなくただっぴろい場合は、その暖房では対応できない場合がある。
この対策としては、一つ一つを仕切り、それぞれに暖房装置をつける・・・これが大容量の暖房を全体にひとつ作るよりは効率のいい方法ではなかろうか。
世界がグローバルになってくると、こうした対策が必要だと思う。
これら一つ一つの仕切り内では、それぞれの自給自足が図られると、他の場所からの侵略、自然からの災害に備えられる。
最も自給自足が可能な組織、それは軍隊であり、日本では自衛隊である。彼らは隊員の食糧・栄養を管理できる。火をおこし水をひける、建築物を仮設できる、衣服も自分で修理する・・・などなど。
このようなサバイバルというのは、キャンプなどを経験すると身に付く。こうしたものは防災用品の使用と密接にかかわっている。
ところが、日本の安全保障は食料とエネルギーを自給することについて完全に無視しているといっていい。これが国家の安全保障の最も重要なポイントであるのに、さきに紹介した中川昭一元自民党政調会長なども「エネルギーは他国に頼る」としている。舛添要一厚生労働大臣なども同じ意見だ。だから国際社会の中で物事を逆らってはならない。日本の個性を出してはならない。大国の意思決定に異論を挟まず、へえこらと自衛隊を海外に送り出すことになる。自国の防衛をせずに、米国の言うなりに動くことが国際社会では自国の間接的防衛だなどと大きな勘違いをしている。これが日本を滅亡に導くことになろう。
「金さえ払えば自然万物はすべて調達できる」ただし、自然万物は他国から調達する。だからイラクにでも、アフガニスタンにでも自衛隊を派遣して媚を売っておけというものだ。日本は国際金融上強くなることが求められる。毎年経済成長を続けなければならない。株の世界に没頭し、いつ襲いかかるかわからない火の粉を避け、他国に負けてはならない。ここでの価値観とは、数字上のお金だけである。こうして、モノのありがたさを忘れ、自然の恵みを忘れていくことになる。自然を克服する精神も忘れられ、形式的な「国際貢献」こそが武勇と勘違いした人々を生み出す。これは守銭奴に屈服した不名誉なことをしている愚かなニセ武士道だ。
日本で石油の輸入が中断された場合、約二年ほどのストックはあるとのことだが、その後はどうするのかについて考えられていないのではないか。
食料が完全自給できない、エネルギーは完全自給できない・・・と、考えるのは、現代の西洋近代を常識とした価値観から物事を考えるとそのように結論づけられるのであって、サバイバル状況下では、そのような規定の価値観を一気に頭からはずして、生き残るための知恵を振り絞ることになる。
海外に輸入されるものに依存してしまう社会は、危機管理上、きわめて不利な状況に追い込まれる。石油もそうだが金属資源においてもそうだ。
江戸時代以前にも金属は使用されている。武士なら刀剣、女性ならかんざし、鍋など。いろいろと思いだしてみると、熱に対応するものや刃物として用いるものが多い。
ところが現代では、耐久性などの観点から安易に金属を使おうとする傾向が多いのではなかろうか。木材などでも利用可能なものが金属資源に依存している。金属はさびて使えなくなるが、木材は廃棄になれば土に戻すことができる。この点から考えて、もっと金属はここぞというところで活用すべきであり、安易に使うのは国際金融上、日本が力を持ってきたからで、サバイバル状況下では危機管理対策として考えておかなければならない点ではなかろうか。
戦時中は鍋でもやかんでも、金属類はすべて戦争に使うように国民は協力した。こんにちでは金属のリサイクルなど金にはならなくなったが、中国の経済発展により、町中の鉄柱などを盗んで売るという犯罪も多発してきた。現在、日本国内にある金属は、他国から運ばれてきたものばかりで、今後これらの金属は日本の資源として使いまわす必要がある。
金属を溶接するときにふと思ったのは、大坂家の血筋のこと。
私から六代前までは会津藩の武士であったそうだが、明治維新から皆、農家を経て大工になっている。太平洋戦争に出兵した私の祖父の代から溶接工になった。戦時中は飛行機の技師であり、戦後は金属工場での労働者。ただしいまだ健在の祖父の兄貴の家系はいまだに木材加工の大工である。
あとはパレートの法則にしたがい、東京で商業に携わっている。
まさに士農工商をワンランクずつ階段を下っている。
現代社会では工業イコール金属みたいなところがある。さきごろ東金市図書館で中学校の教科書が並べられているのをみた。「技術・家庭」の技術の教科書を見てみると、ほとんど木材加工についての知識習得ばかりで、技術実践がないように感じた。自分が中学生の時は、木材加工で本棚や折り畳み椅子をつくり、金属加工をやって、機械でエンジンの仕組みを知り、電気でラジオをつくり、そして栽培をやったと記憶している。
ところが、現代の技術科は、インターネットの部分が大きくなったり、産業社会全体の技術を見渡しているための学問となってしまっているようで、教育現場はどうなっているのかは知らないが、実践が少なくなっているのではなかろうかと思った。
その場に身近にある天然資源は木材であり、竹である。金属は必要なものではあるが、あまりこれに頼るといざというときに使えない技術になるのではないかと・・・金曜日の朝に金属のことを考えた。
きかせるためには、大容量での暖房が必要になるが、限りなくただっぴろい場合は、その暖房では対応できない場合がある。
この対策としては、一つ一つを仕切り、それぞれに暖房装置をつける・・・これが大容量の暖房を全体にひとつ作るよりは効率のいい方法ではなかろうか。
世界がグローバルになってくると、こうした対策が必要だと思う。
これら一つ一つの仕切り内では、それぞれの自給自足が図られると、他の場所からの侵略、自然からの災害に備えられる。
最も自給自足が可能な組織、それは軍隊であり、日本では自衛隊である。彼らは隊員の食糧・栄養を管理できる。火をおこし水をひける、建築物を仮設できる、衣服も自分で修理する・・・などなど。
このようなサバイバルというのは、キャンプなどを経験すると身に付く。こうしたものは防災用品の使用と密接にかかわっている。
ところが、日本の安全保障は食料とエネルギーを自給することについて完全に無視しているといっていい。これが国家の安全保障の最も重要なポイントであるのに、さきに紹介した中川昭一元自民党政調会長なども「エネルギーは他国に頼る」としている。舛添要一厚生労働大臣なども同じ意見だ。だから国際社会の中で物事を逆らってはならない。日本の個性を出してはならない。大国の意思決定に異論を挟まず、へえこらと自衛隊を海外に送り出すことになる。自国の防衛をせずに、米国の言うなりに動くことが国際社会では自国の間接的防衛だなどと大きな勘違いをしている。これが日本を滅亡に導くことになろう。
「金さえ払えば自然万物はすべて調達できる」ただし、自然万物は他国から調達する。だからイラクにでも、アフガニスタンにでも自衛隊を派遣して媚を売っておけというものだ。日本は国際金融上強くなることが求められる。毎年経済成長を続けなければならない。株の世界に没頭し、いつ襲いかかるかわからない火の粉を避け、他国に負けてはならない。ここでの価値観とは、数字上のお金だけである。こうして、モノのありがたさを忘れ、自然の恵みを忘れていくことになる。自然を克服する精神も忘れられ、形式的な「国際貢献」こそが武勇と勘違いした人々を生み出す。これは守銭奴に屈服した不名誉なことをしている愚かなニセ武士道だ。
日本で石油の輸入が中断された場合、約二年ほどのストックはあるとのことだが、その後はどうするのかについて考えられていないのではないか。
食料が完全自給できない、エネルギーは完全自給できない・・・と、考えるのは、現代の西洋近代を常識とした価値観から物事を考えるとそのように結論づけられるのであって、サバイバル状況下では、そのような規定の価値観を一気に頭からはずして、生き残るための知恵を振り絞ることになる。
海外に輸入されるものに依存してしまう社会は、危機管理上、きわめて不利な状況に追い込まれる。石油もそうだが金属資源においてもそうだ。
江戸時代以前にも金属は使用されている。武士なら刀剣、女性ならかんざし、鍋など。いろいろと思いだしてみると、熱に対応するものや刃物として用いるものが多い。
ところが現代では、耐久性などの観点から安易に金属を使おうとする傾向が多いのではなかろうか。木材などでも利用可能なものが金属資源に依存している。金属はさびて使えなくなるが、木材は廃棄になれば土に戻すことができる。この点から考えて、もっと金属はここぞというところで活用すべきであり、安易に使うのは国際金融上、日本が力を持ってきたからで、サバイバル状況下では危機管理対策として考えておかなければならない点ではなかろうか。
戦時中は鍋でもやかんでも、金属類はすべて戦争に使うように国民は協力した。こんにちでは金属のリサイクルなど金にはならなくなったが、中国の経済発展により、町中の鉄柱などを盗んで売るという犯罪も多発してきた。現在、日本国内にある金属は、他国から運ばれてきたものばかりで、今後これらの金属は日本の資源として使いまわす必要がある。
金属を溶接するときにふと思ったのは、大坂家の血筋のこと。
私から六代前までは会津藩の武士であったそうだが、明治維新から皆、農家を経て大工になっている。太平洋戦争に出兵した私の祖父の代から溶接工になった。戦時中は飛行機の技師であり、戦後は金属工場での労働者。ただしいまだ健在の祖父の兄貴の家系はいまだに木材加工の大工である。
あとはパレートの法則にしたがい、東京で商業に携わっている。
まさに士農工商をワンランクずつ階段を下っている。
現代社会では工業イコール金属みたいなところがある。さきごろ東金市図書館で中学校の教科書が並べられているのをみた。「技術・家庭」の技術の教科書を見てみると、ほとんど木材加工についての知識習得ばかりで、技術実践がないように感じた。自分が中学生の時は、木材加工で本棚や折り畳み椅子をつくり、金属加工をやって、機械でエンジンの仕組みを知り、電気でラジオをつくり、そして栽培をやったと記憶している。
ところが、現代の技術科は、インターネットの部分が大きくなったり、産業社会全体の技術を見渡しているための学問となってしまっているようで、教育現場はどうなっているのかは知らないが、実践が少なくなっているのではなかろうかと思った。
その場に身近にある天然資源は木材であり、竹である。金属は必要なものではあるが、あまりこれに頼るといざというときに使えない技術になるのではないかと・・・金曜日の朝に金属のことを考えた。