おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

話がバラバラ・・・でもそれでいい

2007年10月08日 17時32分37秒 | Weblog
北方領土というのは、衆議院北海道7区に含まれるのだそうだ。日本漁船がロシア国境警備艇に銃撃され乗組員1人が死亡したことを受け、麻生太郎外務大臣は、ロシアのガルージン駐日臨時代理大使に「到底容認できない」と強く抗議した。北方領土は、その歴史的経緯から考えても日本国の領土である。尖閣諸島もまた、日本国の領土である。これがあるからこそ、国際紛争の要因にもなっている。

こういう事件がおきてくると、国境とはいったいなんなのかということをいつも考えさせられる。北方領土も尖閣諸島も、近代以前・明治維新前から日本人が住んでいるということで国際常識の面からすると、日本の領土といえる。樺太、朝鮮半島、台湾が日本の領土であったのは、戦争で勝ち進んできたからであり、第二次世界大戦に敗北した日本は、それを返還した。しかしながら、台湾に関しては、清国がいらないといったから日本が得たということもある。

では、北海道はどうか。江戸時代に蝦夷地が開拓されるが、それまではアイヌ民族の領土といってよい。
では、そのアイヌの人々はどうしているかというと、今では少数民族になっている。北米大陸はヨーロッパ人が侵略してできたのが、アメリカ合衆国である。ここでのインディアンはアイヌ人と同じ立場である。つまりは北海道自体が日本ではないということも言えなくもない。

また、一説によると縄文時代以前までにさかのぼっていくと、日本列島は北から南までアイヌ人が住んでいたが、中国大陸・朝鮮半島からやってきた人々に、北へ追いやられたというのもある。
人類の歴史から見ると、現代の領土紛争・領海紛争は、近代国家という歴史的な一瞬の正当性で考えすぎている。

北方領土の場合は、日本人が住んでいたから、故郷としての思い入れもある。竹島の場合は、とても住めるような環境にはないが、それでも国土として主張しなくてはならないということになるのは、領海の問題だ。すなわち、魚をとるという利権である。尖閣諸島の場合は石油資源である。人間はこうした経済的な問題に束縛を受けるのである。

戦争の要因は、宗教の場合を除いて、経済的なものにある。ここにメスを入れずして、反戦や反核を叫んでみても何の意味もなさない。では、ここでなぜそんなに多くの魚をとらなければならないかということを考えなければならない。ここに泳いでいる魚は、自分が日本の領海にいるかロシアの領海にいるかなどと考えているわけではない。自然は人為にまさるのである。だが、人間は今までの決められたことに縛られる。その漁師さんは、魚を腹いっぱい食べたくてわざわざ遠くまで船を出しているわけではない。その魚介類を売って、日本銀行券を得る事によって生活を安定させたいのである。

現代は飽食の時代。大量に残飯が排出され、それを処理するのにもお金を必要とし、廃棄物処理の産業が成り立ち、それがまた循環する。

つまり、世の中はお金を循環させる事が目的となっている。そのための環境破壊もいとわないし、国際紛争がおきようとも、お金がなければ生きていけないというただそれだけのことから始まっている。
平和党は戦争をなくすために、武力の放棄を提唱しない。
お金の放棄を提唱する。

そこで実現すべきが自然主義経済なのである。自然主義経済実現後に、国家に武力が必要なのかどうか、はたまた国家そのものが必要なのかどうかを考えればよい。とにかく、現代の全ての政策課題はお金に起因している。

先週、青森・六ヶ所村の原発に反対する人々の映画会・パネルディスカッションがあり、それに参加したが、これも原子力という恐怖をいくら喧伝してもまったく意味はなく、お金のありかたに問題があり、経済的活動から始まってきている。ここにスポットをあてるべきである。

先月末は、山梨・山中湖で食料自給率を上げようというイベントにも参加した。だが、やっていることは、大量の残飯を出して赤字を出して、産業廃棄物をたくさん出しただけだ。これもまたお金に起因している。

お金というものは、蓄えていくと減らない。だがモノは減ったり腐ったりする。お金は政府以外は発行できないから、モノをたくさんとってきて早くお金に換えようとする。自然主義経済を行えば、遠方までいって漁獲量を無理に増やさなくても、経済生活が成り立つ。自然循環型社会を形成できるからである。これは江戸時代にモデルがある。

江戸は100~150万人の人口を有する世界最大の都市であった。当時、どの世界でも百万人都市をつくることができなかったのは、近代以前の都市は廃棄物によって汚染されるからせいぜい十万人程度である。江戸はそれができたのは、極めて精巧なリサイクルシステムができているからである。

中心過密部に政治機構、商人がいてその人々の糞尿が、売買され中心過密部の周縁である田畑に利用され、中心部は食糧自給がなされていた。また、不要なゴミはありえず、すべてが利潤となる経済活動にまわされた。川の水は山から下り、田畑に水を注ぎ、町の人はその水を飲み、下流では排水し、その排水は江戸(東京)湾に注ぐ。現代と違って、合成洗剤も有害な化学物質もないわけだから、東京湾の海水が富栄養化になるといっても、この時代の富栄養化は魚のえさになる。遠方の魚もみなえさを目当てに東京湾に集まってくる。だから東京湾でも鯨がとれたわけだ。その魚を江戸前としてみなが食べ、サイクルができていたのである。これを全国の各地に築いていく。これこそが平和の活動である。

現代人の価値観からすると文字がまずはあることが人間の進歩であると考えがちですが、もしかしてここに落とし穴があるかもしれません。

つまり別の方法で記録・伝達方法があったということも考えられます。我々は今の現代の尺度で古代を分析しようとするからわからないことがいっぱい出てくるということもおそらくあるでしょう。古代エジプトの科学技術が現代で解明できないのと同じように。

だから、これまでアイヌや琉球を馬鹿にしてきた発想というのは大いに間違っている可能性は非常に高いと思います。

http://blogs.yahoo.co.jp/sun3sin/46592981.html

この方の考えによりますれば、アイヌや琉球こそが、真の大和民族ではないかということです。

私は今の政治・経済は、「考えられる範囲内」でしか考えられていないから、どうにもならなくなってきているのだと思います。

どの人も口を開けば、政治評論というのはありきたりなことを言っていますね。だいたいみなまで聞かなくてもわかるようなことを延々と繰り返しています。

それで、なんであの記事をここに掲げたかというと、ここには今までにない発想があります。

例えば、今、宇宙からとんでもないデカい隕石が落ちてきて、現代文明が滅んだとします。地球環境問題で滅んだとしてでもいいです。とにかく世の中が「北斗の拳」みたいなこととなったとします。

それで何百年後か、何千年後かに文明がまた発達したと。

そのときには石油も使わずに飛行機を飛ばす事ができたとしましょう。例えば、地球の磁力を使ってとか。

そのときに現代文明で遺跡となってしまった飛行機を発見した人が、石油で空を飛ぶということ自体が、その未来人には全く理解できないでしょう。いったいこれはなんのために存在したものなのだろうと考えることもあります。

ましてその未来の時代に翼を持って飛ぶということ自体が存在しなければ、さらにわからなくなります。

我々はインターネットを使っていますが、こういう電子のものは、電力を通さねば見ることができませんね。だから未来において、違う方法でエネルギーを使っていたならば、これらの遺跡となるべき情報は消えていくでしょう。

だからアイヌや琉球の残された遺跡をみて、我々は今そのような判断をしているかもしれません。

そしてこれらの文化というものは低いものだと差別されて、消えてしまったものが多くあるはずです。

「じゃあ、オマエ、石油を使わない飛行機って何だ!翼がなくてどうやって飛ぶんだ」「地球の磁力をどうやって利用するんだ」とほとんどの人が言うでしょう。だからこういう人には発想力の限界があるのだと私は考えます。

「仮に」の話ができない人というのは、「北朝鮮が攻めてきたらどうするんだ」との質問に対しては、「いや、絶対にそんなことはない」で終わらせようとしてしまうのです。

これは未来の予測についてもそうだし、過去の分析についても同じです。

例えば私などは足元にも及ばないくらい奇抜な発想を持っている経営者がいます。私はその人のことを知っているのですが、政党に書かれると彼は嫌な事もあるだろうから名前は言いませんが、彼の企画というものは、私でも「わけのわからんことを言っているな」と思うわけです。しかし、その商売というのはあたるんです。

なぜかというと、彼自身がそれを絶対に実現可能だと思っているし、人の役に立つことになっているし、自然の摂理にもかなっていることだからです。その商売の方法というのを言いたいのですが、彼にとってはみんなにマネされると嫌がるだろうから言えませんが、とにかく「そんなもんは無理だろう」と誰もが思うようなことです。だからみんなやらないのです。とくに現実を知りすぎているとなおいっそうでしょう。

そして奇抜な発想をもって成功する人の共通性というのは、必ず打ち破るものの本質とは何かを熟知しているわけです。つまり、何が常識で、自分は今どのようなことでこの常識を打ち破ろうとしているのかを知っているわけです。

みんなに喜んでもらえる事というのが、既存のものではすでに出尽くしてしまって、もはや限界に達しているときには、こういうアイデアマンが活躍します。

しかし、みんな自分のことしか考えていない人が多いので、どうしてもありきたりな発想しか出てこない。こういう人というのは、常識を知りすぎていて、物事はできないと決めてかかる人です。それから、常識を知っているふりをしていて、実はまだほとんど把握できていない人からも生まれません。とくに、おごった人、自分はこれだけ勉強している。これだけいろいろなことを知っていると思っている人にはできません。

なぜなら人間がこの世の中で知ることのできるというのは、実に限定された小さな内容だけだからです。だからいくら大きな国際情勢を知っていても、そんなものは海岸の石ころ一つ程度にしかすぎないのです。

だからあの記事を読んで「何を馬鹿なことを!?」と思う人は多くいるでしょう。そう考えれば、そこで物事は終わります。あれは事実ではないかもしれないが、あれを事実だとして物事を考えてみると、生まれるものというのが多くあるのです。つまり、今後、人の世に役立つ事が。

ないと言い切ってしまえばそれで終わりだし、そんなことはテレビみながらでも誰でもが言えます。しかしそれでは何も生まれません。

私はこうしたことから物事は新たに発見されていくのだと思います。こいうふうに抽象的に聞いてみると、「ああ、そうだな。柔軟な考えが必要だな」と思う人は多いですが、いざ実際に具体的なものをみてみたりするとやはり首をかしげてしまう人が多いものです。でも、それを達成するための目的とはなんなのかをしっかり持っている場合は必ずできます。


革新右翼との対話

2007年10月08日 17時23分47秒 | 財務金融
226事件は統制派によるカウンタークーデターでした。処刑された北一輝と西田税は冤罪です。その真相は最近出版された『盗聴226事件』という本で明らかにされています。皇道派と北一輝は思想的には別物です。もしも皇道派が北一輝の思想を本当に理解していたならば、北一輝を殺していたかもしれません。何故ならば北一輝には尊皇精神がないからです。

右翼は天皇位に就く者に対して自分たちが望むような思想と態度を押し付けます。右翼を馬鹿にして自分は中道だと信じて疑わない人たちは天皇陛下の思想を自分と同化します。たまたま昭和天皇と今上天皇がリベラリストであったために、天皇陛下の思想と同化することが危険であると認識されてきませんでした。

例えば『昭和天皇は靖国神社にA級戦犯が合祀されていることに不快感を示されたのだから、右翼は靖国神社に参拝するべきではない。靖国神社に参拝することは不敬だ』というような思想は天皇という職種ではなく昭和天皇個人を神格化していることになります。昭和天皇がリベラリストだからそのことに気がつかないだけです。天皇機関説では天皇は機関であって個人ではないので、天皇は自由意志よりも国民が何を自分に対して望んでいるかを重んじなければなりません。

世論が右翼的であろうが左翼的であろうが、天皇は黙ってそれに従うのが天皇機関説です。天皇という位を神格化しているのが右翼で、天皇陛下個人を神格化しているのが中道派です。だから戦前の右翼が天皇機関説を唱えた美濃部達吉を攻撃したのは本末転倒でした。

これは天皇を政治的権威として扱うから生じる問題です。文化的権威としてのみ扱えば解決します。右翼は天皇をキングでありポープであると位置づけます。中道派はキングとしてのみ位置づけます、革新右翼の私はポープとしてのみ位置づけます。私に言わせれば江戸時代以前の日本では将軍がキングで天皇はポープでした。これを現代風にアレンジすれば神道の国教化と共和制への移行ということになります。ところがこの思想は日本では極右的であるとして馬鹿にされます。

中道派がいうところの皇室制度の偏狭さとはポープの部分です。彼らは皇室の欧州的なキング化を目標にしています。そして皇太子夫婦のそれを志向しています。だから彼らは相性がよいのです。もうじき王党派と彼らの間で深刻な対立が起きるでしょう。

2007/4/26(木) 午後 4:42 [ 蔵信芳樹 ]


右翼は自らの思想を押し付け、中道は陛下個人の思想を自分と同化しようとする。この場合、あなたはどちらを支持しますか。でもそうすると右翼は王であり教皇と位置付け、中道は王のみであるというのは説明は逆ではないですか。教皇は教えるというよりも文化の象徴的側面のほうが強いという意味ですかね。それから、キングとポープ、そしてさらに加えてエンペラーについての定義についてもお願いします。

2007/4/26(木) 午後 5:23 [ 大坂佳巨 ]

右翼が天皇陛下に思想を押し付けるのは天皇陛下がリベラリストだからです。もしも天皇陛下がナショナリストであったならば、右翼が天皇陛下に同調し、逆にリベラリストが天皇陛下に対して思想を押し付けようとするでしょう。したがって本質的には思想の押し付けか同調かという選択ではなく、ナショナリズムかリベラリズムかの選択です。私はナショナリズムを選びます。

キングは政治的権威、すなわち国家元首のことです。ポープは文化的権威のことで、宗教的権威はこの中に含まれます。エンペラーは絶対君主という意味ではなく、キングであり、なおかつポープでもあることです。

国家元首の定義は国家における最高責任者です。責任も権限もない現在の天皇を国家元首とするのは無理があります。天皇を国家元首にするには天皇に政治的権限を与えなければなりません。そしてもちろん責任を負わなければなりません。立憲君主制とは君主に一切の政治的権力を持たさないということではなく、法律で権限を規制することです。

日本国憲法は天皇の政治的地位をあいまいにしています。もしも実態に即した定義づけをするならばそれは名誉元首です。これは江戸時代以前どころか大日本帝国期においてもそうでしたし、現在もそうなのです。大日本帝国憲法には天皇は絶対君主として定義されていましたが、実際はそうではありませんでした。

では立憲君主制だったかといえば必ずしもそうではなかった。昭和天皇においてはそういう要素もあったけど、基本的にはほとんど名誉元首と言ってよいと思います。立憲君主制に基づくならば、天皇は第二次世界大戦の敗戦責任を取るべきです。何故ならば立憲君主国における国家元首は国王だからです。

私は天皇の政治的位置づけを明確にするべきだと主張しています。それはつまるところ名誉元首と規定せよということです。そうである以上、国家元首はどうするのかとなりますから、大統領が必要になってきます。そこで有名無実な象徴大統領制を導入すれば天皇の権威も保たれるでしょう。

2007/4/26(木) 午後 7:45 [ 蔵信芳樹 ]


私はポープはそのとおりだと思いますが、キングは軍人的権威、軍事力による成果の権威であると思います。政治的権威というのは、抽象的なものです。政治的権威は、こうした制覇した権威と、おっしゃられた文化的権威と、経済的権威とあると思います。エンペラーというのは、それらを超越的にとらえたものではないかと。 で、キングとエンペラーの違いというのは、その信頼されている年月だと思います。野蛮な行為によって権力を掌握し、それを子々孫々で維持していくと、そのうちにお坊ちゃま化するということです。

天皇を国家元首にするには天皇に政治的権限を与えなければいけないというのは、私はそう思いませんね。例えば、お父さんが働いて家にお金を入れて、みんながお父さんの言うことを聞くと。だけど、おじいちゃんが生きている場合、日本であるとやはり表札ではおじいちゃんが一番、上だし、お父さんは妻や子どもに対する扱い方とおじいちゃんに対しては違うでしょう。この場合、おじいちゃんは政治的権限はないけれども権威はあります。これが天皇であってもいいと思います。


それに国家元首というのも、西洋こそが普通の国という発想から基づいています。だから西洋の連合国が国家元首と考えている人たちに、わが国の元首はこの方です・・・というのは、いいけれども、わが国においては天皇は独自のものがあると言ったっていいと思います。国際社会にあわせていかねばならないという意識からこういうものが生まれたのだと思います。国際社会をしらない封建時代までは、そんなこと考えていなかったわけですから。だから元首に政治的権限はなくてもいいと思います。

現在の天皇の政治的権限とは衆議院の解散とか、法律の公布とか、形式的なものがありますよね。天皇の歴史というのは、鎌倉時代からほぼずっとそういうものに近いと思いますよ。


タイでクーデターがありましたよね。あれは王様の権威が働いたと思います。つまり、国王に政治的権限が通常時に備わっていたら非常事態に機能しなくなる可能性があります。あのとき、非常事態であったから国王が首相を任命したのです。それはふだんから国王が文化的に認められていたからできたことです。したがって選挙がなくても国民は合意しやすい。憲法がなくても、このように機能するわけです。憲法は紙切れだからモノを申しません。

所詮、憲法を解釈するのは人間であります。9条を守りながら世界征服のための侵略戦争をすることは人間の屁理屈の都合でいくらでもできます。だからその人の都合でいかようにもとれます。でも天皇という政治的権限が少なくて、でも偉い・・・と普段から常設されている場合には、タイクーデターのようにうまくいくと思います。

だから平和党は天皇を名誉元首として位置付けよと言っているわけです。これは国外向けのためと私は認識しています。そして天皇と大統領が並立しているのはおかしいと誰もが考えるわけですが、王国と共和国のどちらかでなければいけないというのは、神様が決めたわけじゃないですから、別にあってもいいと思います。ただそうすると、フランスやドイツのように、大統領の下に首相がいるのかとか、アメリカのように大統領が首相も兼ねているような行政とするのかとかありますけどね。それについてはどちらがいいと思いますか。

2007/4/27(金) 午前 1:32 [ 大坂佳巨 ]


ドイツやイタリアのような象徴大統領制か、内閣総理大臣を役割はそのままで、大統領に改称するか。議院内閣制のほうが日本人の国民性にはあっていると思います。大統領を国民投票で選ぶとなると右か左かの選択になりますから平和党的にはよろしくないのでしょ?

2007/4/29(日) 午後 8:26 [ 蔵信芳樹 ]

日本には天皇がいるのに、独伊のような象徴大統領制度はいらないでしょう。独伊は戦後の反省からこのような方法をとっているのだと思います。大臣というのは、王様に仕えるという意味ですから、大統領制度にするならば当然、国民の直接投票によるのが望ましいでしょう。平和党は国家の重大案件は国民投票にして諮るべしとしています。

2007/4/30(月) 午前 3:07 [ 大坂佳巨 ]




それでは名誉元首ではなくて国家元首ではないですか?天皇陛下が名誉元首だとすると、国家元首は誰になりますか?総選挙に全国区を設けてれば事実上の首相公選制になります。

2007/4/30(月) 午後 3:44 [ 蔵信芳樹 ]


名誉元首が天皇で国家元首が大統領でいいんじゃないですか。総選挙を全国区でやってトップ当選した人が大統領もしくは首相公選で選ばれた内閣総理大臣ということですか。そういえば、誰だったか「市議会議員選挙でトップ当選した候補者が議長になるんだ」とかわけわからんこと言っていた人がいたなあ。

2007/5/1(火) 午前 6:57 [ 大坂佳巨 ]


ただそれだと、例えば得票数一位は小泉純一郎なんだけど、議席数は民主党のほうが多いというようなことが起こりえますね。そういう場合は民主党が政権を取って、民主党の中の得票数第一位が内閣総理大臣になって、小泉純一郎が象徴大統領をやるか、衆議院議長をやるというアイデアがあります。

2007/5/1(火) 午後 2:56 [ 蔵信芳樹 ]



そもそも総選挙を全国区にしていいのかということがありますよね。定数300にしても、立候補者は1,000人以上になるでしょう。そこから一人選ぶのですか。


国会での第一党から首班候補を出さなければいけないということもないと思います。戦前は第2党から出すこともあったし、外国では今でもあるでしょう。上位当選者が議長になるというのは馬鹿げていると思いますよ。議長なんて議決権が可否同数の時以外は議決権がないわけですから、やりたくない人もいるでしょう。それに議員経験の浅い人間が議長になったって、議会の中で調整役としてのものがなければいけないわけだから、何もできないでしょう。

だから封建時代までの朝廷と幕府のように、京都御所に皇居を移転して、江戸城を復活させた大統領府を作ればいいと思います。大統領は任期七年で公選により指名され天皇に任命される。内閣制度は廃止し、天皇の下に右大臣・左大臣などを置き、宮内庁としての公務をするのみ。というのはどうでしょうか。

2007/5/1(火) 午後 3:47 [ 大坂佳巨 ]



全国区と比例区の併用。まず予備選挙をやって、人気のないのは比例区に回る。衆議院議長は三権の長の一人だから、本来ならばそれなりの権力を持ってなきゃならないのに、そうなってない。これは制度が悪い。発議権を与えるのはどうか?例えば平和党所属の国会議員は1人しかいないから、発議権はないけど、議長が認めれば発議できるというシステム。

右大臣・左大臣は宗教的な行事を司るのですか?現在の米国みたいに大統領と議会第一党が別々になったために政権がレイムダック化した場合はどうしましょうか?そういう場合のみ内閣総理大臣をおいて、大統領を有名無実化するとか?

2007/5/2(水) 午前 2:01 [ 蔵信芳樹 ]


党内で予備選挙をやって、勝った人が全国区に立候補し、負けた人は比例区で立候補するということですか。

立法機関というのは、議員全体で意思を表示するわけです。だから内閣や裁判所のような長とは違うでしょう。議会の最終的な決定について、運営するのが仕事だと思います。ただし発議権については、それはよいと思います。何十人以上いないと法案の提出権が与えられないなどとしているのは、日本くらいのものです。

そうですねぇ、大臣の役割は儀式的なことになるでしょうね。

大統領と議会第1党が違うというのは、日本では地方議会でたまにあるでしょう。だから首相はいらないんじゃないですか。カナダの場合ですと、州知事がいて、州議会から選ばれた州首相がいるみたいですけど、あまり機能的ではないと思います。

2007/5/2(水) 午後 3:43 [ 大坂佳巨 ]

大統領と議会第一党が別政党の場合、あるいは議院内閣制において第二党から首相を出した場合、三権の長の一人としての衆議院議長が俄然意味を持ってきますね。ある意味、これこそが三権分立の理想なのかもしれません。


小選挙区では、一部の顔の売れた候補者以外は、事実上、自民党か民主党かの、政党で選びます。しかし、政党で選ぶのならば、比例区があるじゃないかと思うのです。私が主張しているのは党内予備選挙ではありません。なんちゃって候補者を振り落とすと共に、本選挙全国区で当選確実な候補を見極め、予備選挙の得票数を比例名簿順位の参考にします。あるいは全国区を予備選挙ではなく、一次選挙として、二次選挙を比例区で行うという方法もありえるかと。

2007/5/2(水) 午後 7:24 [ 蔵信芳樹 ]


そうすると三権分立はうまくいくかもしれませんね。しかし、果たして三権分立というものが本当にいいものかどうかとも疑ってみる必要はあります。もともと東洋では政治家と官僚を区別するような文化はなかったからです。

おそらくドイツの小選挙区比例代表併用性のことを言っておられるのかもしれませんが、現行の日本の選挙制度ですら、四回もやっているのに、まだわからない人は多いわけですから、複雑にするのはどうかと思いますよ。選挙制度というのは、政治をやっている側だけが詳しくて、国民一般にはよくわからないというのが現状だと思います。一般国民が候補者を選択するのだから、もっとわかりやすい方法がいいと思います。

2007/5/3(木) 午後 0:19 [ 大坂佳巨 ]