北方領土というのは、衆議院北海道7区に含まれるのだそうだ。日本漁船がロシア国境警備艇に銃撃され乗組員1人が死亡したことを受け、麻生太郎外務大臣は、ロシアのガルージン駐日臨時代理大使に「到底容認できない」と強く抗議した。北方領土は、その歴史的経緯から考えても日本国の領土である。尖閣諸島もまた、日本国の領土である。これがあるからこそ、国際紛争の要因にもなっている。
こういう事件がおきてくると、国境とはいったいなんなのかということをいつも考えさせられる。北方領土も尖閣諸島も、近代以前・明治維新前から日本人が住んでいるということで国際常識の面からすると、日本の領土といえる。樺太、朝鮮半島、台湾が日本の領土であったのは、戦争で勝ち進んできたからであり、第二次世界大戦に敗北した日本は、それを返還した。しかしながら、台湾に関しては、清国がいらないといったから日本が得たということもある。
では、北海道はどうか。江戸時代に蝦夷地が開拓されるが、それまではアイヌ民族の領土といってよい。
では、そのアイヌの人々はどうしているかというと、今では少数民族になっている。北米大陸はヨーロッパ人が侵略してできたのが、アメリカ合衆国である。ここでのインディアンはアイヌ人と同じ立場である。つまりは北海道自体が日本ではないということも言えなくもない。
また、一説によると縄文時代以前までにさかのぼっていくと、日本列島は北から南までアイヌ人が住んでいたが、中国大陸・朝鮮半島からやってきた人々に、北へ追いやられたというのもある。
人類の歴史から見ると、現代の領土紛争・領海紛争は、近代国家という歴史的な一瞬の正当性で考えすぎている。
北方領土の場合は、日本人が住んでいたから、故郷としての思い入れもある。竹島の場合は、とても住めるような環境にはないが、それでも国土として主張しなくてはならないということになるのは、領海の問題だ。すなわち、魚をとるという利権である。尖閣諸島の場合は石油資源である。人間はこうした経済的な問題に束縛を受けるのである。
戦争の要因は、宗教の場合を除いて、経済的なものにある。ここにメスを入れずして、反戦や反核を叫んでみても何の意味もなさない。では、ここでなぜそんなに多くの魚をとらなければならないかということを考えなければならない。ここに泳いでいる魚は、自分が日本の領海にいるかロシアの領海にいるかなどと考えているわけではない。自然は人為にまさるのである。だが、人間は今までの決められたことに縛られる。その漁師さんは、魚を腹いっぱい食べたくてわざわざ遠くまで船を出しているわけではない。その魚介類を売って、日本銀行券を得る事によって生活を安定させたいのである。
現代は飽食の時代。大量に残飯が排出され、それを処理するのにもお金を必要とし、廃棄物処理の産業が成り立ち、それがまた循環する。
つまり、世の中はお金を循環させる事が目的となっている。そのための環境破壊もいとわないし、国際紛争がおきようとも、お金がなければ生きていけないというただそれだけのことから始まっている。
平和党は戦争をなくすために、武力の放棄を提唱しない。
お金の放棄を提唱する。
そこで実現すべきが自然主義経済なのである。自然主義経済実現後に、国家に武力が必要なのかどうか、はたまた国家そのものが必要なのかどうかを考えればよい。とにかく、現代の全ての政策課題はお金に起因している。
先週、青森・六ヶ所村の原発に反対する人々の映画会・パネルディスカッションがあり、それに参加したが、これも原子力という恐怖をいくら喧伝してもまったく意味はなく、お金のありかたに問題があり、経済的活動から始まってきている。ここにスポットをあてるべきである。
先月末は、山梨・山中湖で食料自給率を上げようというイベントにも参加した。だが、やっていることは、大量の残飯を出して赤字を出して、産業廃棄物をたくさん出しただけだ。これもまたお金に起因している。
お金というものは、蓄えていくと減らない。だがモノは減ったり腐ったりする。お金は政府以外は発行できないから、モノをたくさんとってきて早くお金に換えようとする。自然主義経済を行えば、遠方までいって漁獲量を無理に増やさなくても、経済生活が成り立つ。自然循環型社会を形成できるからである。これは江戸時代にモデルがある。
江戸は100~150万人の人口を有する世界最大の都市であった。当時、どの世界でも百万人都市をつくることができなかったのは、近代以前の都市は廃棄物によって汚染されるからせいぜい十万人程度である。江戸はそれができたのは、極めて精巧なリサイクルシステムができているからである。
中心過密部に政治機構、商人がいてその人々の糞尿が、売買され中心過密部の周縁である田畑に利用され、中心部は食糧自給がなされていた。また、不要なゴミはありえず、すべてが利潤となる経済活動にまわされた。川の水は山から下り、田畑に水を注ぎ、町の人はその水を飲み、下流では排水し、その排水は江戸(東京)湾に注ぐ。現代と違って、合成洗剤も有害な化学物質もないわけだから、東京湾の海水が富栄養化になるといっても、この時代の富栄養化は魚のえさになる。遠方の魚もみなえさを目当てに東京湾に集まってくる。だから東京湾でも鯨がとれたわけだ。その魚を江戸前としてみなが食べ、サイクルができていたのである。これを全国の各地に築いていく。これこそが平和の活動である。
現代人の価値観からすると文字がまずはあることが人間の進歩であると考えがちですが、もしかしてここに落とし穴があるかもしれません。
つまり別の方法で記録・伝達方法があったということも考えられます。我々は今の現代の尺度で古代を分析しようとするからわからないことがいっぱい出てくるということもおそらくあるでしょう。古代エジプトの科学技術が現代で解明できないのと同じように。
だから、これまでアイヌや琉球を馬鹿にしてきた発想というのは大いに間違っている可能性は非常に高いと思います。
http://blogs.yahoo.co.jp/sun3sin/46592981.html
この方の考えによりますれば、アイヌや琉球こそが、真の大和民族ではないかということです。
私は今の政治・経済は、「考えられる範囲内」でしか考えられていないから、どうにもならなくなってきているのだと思います。
どの人も口を開けば、政治評論というのはありきたりなことを言っていますね。だいたいみなまで聞かなくてもわかるようなことを延々と繰り返しています。
それで、なんであの記事をここに掲げたかというと、ここには今までにない発想があります。
例えば、今、宇宙からとんでもないデカい隕石が落ちてきて、現代文明が滅んだとします。地球環境問題で滅んだとしてでもいいです。とにかく世の中が「北斗の拳」みたいなこととなったとします。
それで何百年後か、何千年後かに文明がまた発達したと。
そのときには石油も使わずに飛行機を飛ばす事ができたとしましょう。例えば、地球の磁力を使ってとか。
そのときに現代文明で遺跡となってしまった飛行機を発見した人が、石油で空を飛ぶということ自体が、その未来人には全く理解できないでしょう。いったいこれはなんのために存在したものなのだろうと考えることもあります。
ましてその未来の時代に翼を持って飛ぶということ自体が存在しなければ、さらにわからなくなります。
我々はインターネットを使っていますが、こういう電子のものは、電力を通さねば見ることができませんね。だから未来において、違う方法でエネルギーを使っていたならば、これらの遺跡となるべき情報は消えていくでしょう。
だからアイヌや琉球の残された遺跡をみて、我々は今そのような判断をしているかもしれません。
そしてこれらの文化というものは低いものだと差別されて、消えてしまったものが多くあるはずです。
「じゃあ、オマエ、石油を使わない飛行機って何だ!翼がなくてどうやって飛ぶんだ」「地球の磁力をどうやって利用するんだ」とほとんどの人が言うでしょう。だからこういう人には発想力の限界があるのだと私は考えます。
「仮に」の話ができない人というのは、「北朝鮮が攻めてきたらどうするんだ」との質問に対しては、「いや、絶対にそんなことはない」で終わらせようとしてしまうのです。
これは未来の予測についてもそうだし、過去の分析についても同じです。
例えば私などは足元にも及ばないくらい奇抜な発想を持っている経営者がいます。私はその人のことを知っているのですが、政党に書かれると彼は嫌な事もあるだろうから名前は言いませんが、彼の企画というものは、私でも「わけのわからんことを言っているな」と思うわけです。しかし、その商売というのはあたるんです。
なぜかというと、彼自身がそれを絶対に実現可能だと思っているし、人の役に立つことになっているし、自然の摂理にもかなっていることだからです。その商売の方法というのを言いたいのですが、彼にとってはみんなにマネされると嫌がるだろうから言えませんが、とにかく「そんなもんは無理だろう」と誰もが思うようなことです。だからみんなやらないのです。とくに現実を知りすぎているとなおいっそうでしょう。
そして奇抜な発想をもって成功する人の共通性というのは、必ず打ち破るものの本質とは何かを熟知しているわけです。つまり、何が常識で、自分は今どのようなことでこの常識を打ち破ろうとしているのかを知っているわけです。
みんなに喜んでもらえる事というのが、既存のものではすでに出尽くしてしまって、もはや限界に達しているときには、こういうアイデアマンが活躍します。
しかし、みんな自分のことしか考えていない人が多いので、どうしてもありきたりな発想しか出てこない。こういう人というのは、常識を知りすぎていて、物事はできないと決めてかかる人です。それから、常識を知っているふりをしていて、実はまだほとんど把握できていない人からも生まれません。とくに、おごった人、自分はこれだけ勉強している。これだけいろいろなことを知っていると思っている人にはできません。
なぜなら人間がこの世の中で知ることのできるというのは、実に限定された小さな内容だけだからです。だからいくら大きな国際情勢を知っていても、そんなものは海岸の石ころ一つ程度にしかすぎないのです。
だからあの記事を読んで「何を馬鹿なことを!?」と思う人は多くいるでしょう。そう考えれば、そこで物事は終わります。あれは事実ではないかもしれないが、あれを事実だとして物事を考えてみると、生まれるものというのが多くあるのです。つまり、今後、人の世に役立つ事が。
ないと言い切ってしまえばそれで終わりだし、そんなことはテレビみながらでも誰でもが言えます。しかしそれでは何も生まれません。
私はこうしたことから物事は新たに発見されていくのだと思います。こいうふうに抽象的に聞いてみると、「ああ、そうだな。柔軟な考えが必要だな」と思う人は多いですが、いざ実際に具体的なものをみてみたりするとやはり首をかしげてしまう人が多いものです。でも、それを達成するための目的とはなんなのかをしっかり持っている場合は必ずできます。
こういう事件がおきてくると、国境とはいったいなんなのかということをいつも考えさせられる。北方領土も尖閣諸島も、近代以前・明治維新前から日本人が住んでいるということで国際常識の面からすると、日本の領土といえる。樺太、朝鮮半島、台湾が日本の領土であったのは、戦争で勝ち進んできたからであり、第二次世界大戦に敗北した日本は、それを返還した。しかしながら、台湾に関しては、清国がいらないといったから日本が得たということもある。
では、北海道はどうか。江戸時代に蝦夷地が開拓されるが、それまではアイヌ民族の領土といってよい。
では、そのアイヌの人々はどうしているかというと、今では少数民族になっている。北米大陸はヨーロッパ人が侵略してできたのが、アメリカ合衆国である。ここでのインディアンはアイヌ人と同じ立場である。つまりは北海道自体が日本ではないということも言えなくもない。
また、一説によると縄文時代以前までにさかのぼっていくと、日本列島は北から南までアイヌ人が住んでいたが、中国大陸・朝鮮半島からやってきた人々に、北へ追いやられたというのもある。
人類の歴史から見ると、現代の領土紛争・領海紛争は、近代国家という歴史的な一瞬の正当性で考えすぎている。
北方領土の場合は、日本人が住んでいたから、故郷としての思い入れもある。竹島の場合は、とても住めるような環境にはないが、それでも国土として主張しなくてはならないということになるのは、領海の問題だ。すなわち、魚をとるという利権である。尖閣諸島の場合は石油資源である。人間はこうした経済的な問題に束縛を受けるのである。
戦争の要因は、宗教の場合を除いて、経済的なものにある。ここにメスを入れずして、反戦や反核を叫んでみても何の意味もなさない。では、ここでなぜそんなに多くの魚をとらなければならないかということを考えなければならない。ここに泳いでいる魚は、自分が日本の領海にいるかロシアの領海にいるかなどと考えているわけではない。自然は人為にまさるのである。だが、人間は今までの決められたことに縛られる。その漁師さんは、魚を腹いっぱい食べたくてわざわざ遠くまで船を出しているわけではない。その魚介類を売って、日本銀行券を得る事によって生活を安定させたいのである。
現代は飽食の時代。大量に残飯が排出され、それを処理するのにもお金を必要とし、廃棄物処理の産業が成り立ち、それがまた循環する。
つまり、世の中はお金を循環させる事が目的となっている。そのための環境破壊もいとわないし、国際紛争がおきようとも、お金がなければ生きていけないというただそれだけのことから始まっている。
平和党は戦争をなくすために、武力の放棄を提唱しない。
お金の放棄を提唱する。
そこで実現すべきが自然主義経済なのである。自然主義経済実現後に、国家に武力が必要なのかどうか、はたまた国家そのものが必要なのかどうかを考えればよい。とにかく、現代の全ての政策課題はお金に起因している。
先週、青森・六ヶ所村の原発に反対する人々の映画会・パネルディスカッションがあり、それに参加したが、これも原子力という恐怖をいくら喧伝してもまったく意味はなく、お金のありかたに問題があり、経済的活動から始まってきている。ここにスポットをあてるべきである。
先月末は、山梨・山中湖で食料自給率を上げようというイベントにも参加した。だが、やっていることは、大量の残飯を出して赤字を出して、産業廃棄物をたくさん出しただけだ。これもまたお金に起因している。
お金というものは、蓄えていくと減らない。だがモノは減ったり腐ったりする。お金は政府以外は発行できないから、モノをたくさんとってきて早くお金に換えようとする。自然主義経済を行えば、遠方までいって漁獲量を無理に増やさなくても、経済生活が成り立つ。自然循環型社会を形成できるからである。これは江戸時代にモデルがある。
江戸は100~150万人の人口を有する世界最大の都市であった。当時、どの世界でも百万人都市をつくることができなかったのは、近代以前の都市は廃棄物によって汚染されるからせいぜい十万人程度である。江戸はそれができたのは、極めて精巧なリサイクルシステムができているからである。
中心過密部に政治機構、商人がいてその人々の糞尿が、売買され中心過密部の周縁である田畑に利用され、中心部は食糧自給がなされていた。また、不要なゴミはありえず、すべてが利潤となる経済活動にまわされた。川の水は山から下り、田畑に水を注ぎ、町の人はその水を飲み、下流では排水し、その排水は江戸(東京)湾に注ぐ。現代と違って、合成洗剤も有害な化学物質もないわけだから、東京湾の海水が富栄養化になるといっても、この時代の富栄養化は魚のえさになる。遠方の魚もみなえさを目当てに東京湾に集まってくる。だから東京湾でも鯨がとれたわけだ。その魚を江戸前としてみなが食べ、サイクルができていたのである。これを全国の各地に築いていく。これこそが平和の活動である。
現代人の価値観からすると文字がまずはあることが人間の進歩であると考えがちですが、もしかしてここに落とし穴があるかもしれません。
つまり別の方法で記録・伝達方法があったということも考えられます。我々は今の現代の尺度で古代を分析しようとするからわからないことがいっぱい出てくるということもおそらくあるでしょう。古代エジプトの科学技術が現代で解明できないのと同じように。
だから、これまでアイヌや琉球を馬鹿にしてきた発想というのは大いに間違っている可能性は非常に高いと思います。
http://blogs.yahoo.co.jp/sun3sin/46592981.html
この方の考えによりますれば、アイヌや琉球こそが、真の大和民族ではないかということです。
私は今の政治・経済は、「考えられる範囲内」でしか考えられていないから、どうにもならなくなってきているのだと思います。
どの人も口を開けば、政治評論というのはありきたりなことを言っていますね。だいたいみなまで聞かなくてもわかるようなことを延々と繰り返しています。
それで、なんであの記事をここに掲げたかというと、ここには今までにない発想があります。
例えば、今、宇宙からとんでもないデカい隕石が落ちてきて、現代文明が滅んだとします。地球環境問題で滅んだとしてでもいいです。とにかく世の中が「北斗の拳」みたいなこととなったとします。
それで何百年後か、何千年後かに文明がまた発達したと。
そのときには石油も使わずに飛行機を飛ばす事ができたとしましょう。例えば、地球の磁力を使ってとか。
そのときに現代文明で遺跡となってしまった飛行機を発見した人が、石油で空を飛ぶということ自体が、その未来人には全く理解できないでしょう。いったいこれはなんのために存在したものなのだろうと考えることもあります。
ましてその未来の時代に翼を持って飛ぶということ自体が存在しなければ、さらにわからなくなります。
我々はインターネットを使っていますが、こういう電子のものは、電力を通さねば見ることができませんね。だから未来において、違う方法でエネルギーを使っていたならば、これらの遺跡となるべき情報は消えていくでしょう。
だからアイヌや琉球の残された遺跡をみて、我々は今そのような判断をしているかもしれません。
そしてこれらの文化というものは低いものだと差別されて、消えてしまったものが多くあるはずです。
「じゃあ、オマエ、石油を使わない飛行機って何だ!翼がなくてどうやって飛ぶんだ」「地球の磁力をどうやって利用するんだ」とほとんどの人が言うでしょう。だからこういう人には発想力の限界があるのだと私は考えます。
「仮に」の話ができない人というのは、「北朝鮮が攻めてきたらどうするんだ」との質問に対しては、「いや、絶対にそんなことはない」で終わらせようとしてしまうのです。
これは未来の予測についてもそうだし、過去の分析についても同じです。
例えば私などは足元にも及ばないくらい奇抜な発想を持っている経営者がいます。私はその人のことを知っているのですが、政党に書かれると彼は嫌な事もあるだろうから名前は言いませんが、彼の企画というものは、私でも「わけのわからんことを言っているな」と思うわけです。しかし、その商売というのはあたるんです。
なぜかというと、彼自身がそれを絶対に実現可能だと思っているし、人の役に立つことになっているし、自然の摂理にもかなっていることだからです。その商売の方法というのを言いたいのですが、彼にとってはみんなにマネされると嫌がるだろうから言えませんが、とにかく「そんなもんは無理だろう」と誰もが思うようなことです。だからみんなやらないのです。とくに現実を知りすぎているとなおいっそうでしょう。
そして奇抜な発想をもって成功する人の共通性というのは、必ず打ち破るものの本質とは何かを熟知しているわけです。つまり、何が常識で、自分は今どのようなことでこの常識を打ち破ろうとしているのかを知っているわけです。
みんなに喜んでもらえる事というのが、既存のものではすでに出尽くしてしまって、もはや限界に達しているときには、こういうアイデアマンが活躍します。
しかし、みんな自分のことしか考えていない人が多いので、どうしてもありきたりな発想しか出てこない。こういう人というのは、常識を知りすぎていて、物事はできないと決めてかかる人です。それから、常識を知っているふりをしていて、実はまだほとんど把握できていない人からも生まれません。とくに、おごった人、自分はこれだけ勉強している。これだけいろいろなことを知っていると思っている人にはできません。
なぜなら人間がこの世の中で知ることのできるというのは、実に限定された小さな内容だけだからです。だからいくら大きな国際情勢を知っていても、そんなものは海岸の石ころ一つ程度にしかすぎないのです。
だからあの記事を読んで「何を馬鹿なことを!?」と思う人は多くいるでしょう。そう考えれば、そこで物事は終わります。あれは事実ではないかもしれないが、あれを事実だとして物事を考えてみると、生まれるものというのが多くあるのです。つまり、今後、人の世に役立つ事が。
ないと言い切ってしまえばそれで終わりだし、そんなことはテレビみながらでも誰でもが言えます。しかしそれでは何も生まれません。
私はこうしたことから物事は新たに発見されていくのだと思います。こいうふうに抽象的に聞いてみると、「ああ、そうだな。柔軟な考えが必要だな」と思う人は多いですが、いざ実際に具体的なものをみてみたりするとやはり首をかしげてしまう人が多いものです。でも、それを達成するための目的とはなんなのかをしっかり持っている場合は必ずできます。