おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

犬救出劇でのお金の問題

2007年03月18日 02時28分29秒 | 財務金融
がけっぷちワンちゃんの話で、この反応はブログを一巡してみたところ、意見が二つに分かれていると思うのです。

一つは、税金の無駄遣いばかりしている行政だが、こうした救出であるならお金をどんどん使えばいいと、それに比べてたくさん悪い事をしている政治家や役人がいて、嘆かわしい・・・・

もう一つは、役所はもっとすることがあるだろうにと。犬は個人がもっと管理すればいいし、飼い主の管理不行き届きなのであって、犬を愛すべき責務を怠っている。個人が捜索するなり救出するための費用を、みなの税金でやるとは何事だと。

支持されている数としては、あちらこちらのブログを見る限りにおいては、前者が圧倒的に多いわけですが、この二者択一論をはじめると、犬の命と人間の命のどっちが大事なんだとか、はたまた犬の命と人間の命とどっちが大事なんだという話になっていくかと思うのです。

平和党の善悪中毒に基づく理念から、考えますと、これはどちらが正義で、どちらが悪いということはないかと思います。

それよりも、むしろこの二つの考えの対立は、一つの土台にマインドコントロールされていることからおきているのではないかと思います。

つまり、お金の使い方をめぐって争われているのです。(まあ、この件に関しては、そんなに争ってはいませんが)お金の使い方として、どちらが正義なのかと。

命というものは大事だと皆わかっているけれども、お金の使い方をめぐって、どう使うかが分かれるわけです。


このように、ほとんどの問題は犬をどうするかという本質的問題を離れて、お金の問題について討論するようになってしまうのです。だからお金のあり方にメスを入れなければなりません。

なんでもかんでも、いつのまにかお金の話になっていて、命が忘れられてしまう時代というのは、このようなことを言うのではないかと考えます。

私は平和党ができるまでは、どちらかというと税金の無駄遣い・政治家役人の不正を追及する政治勢力にいましたから今でもこのような発想の議員仲間を多く知っているのですが、彼らの共通性は、追及されている政治家・官僚と全く同じ土俵に立っており、お金という点で一緒なのです。だからどちらが善でどちちらが悪かというよりも、その土俵を変えない限り、この問題は解決しないなと思うわけです。

例えば、どうして保健所は犬猫を殺していくのでしょうか。エサを食べさせて生かしつづけるのはコストがかかるからであり、放置すれば衛生上よろしくない。引き取り手がなければ殺すしか方法がない。

つまり、財源に限りがあるためにお金が命に優先されています。
なぜ引き取らないかといえば、そんなに大量の犬猫を国民全員が飼える訳もないし、動物の嫌いな人だっているでしょう。

動物の嫌いな人は、「保健所や犬の救出に税金を使うんじゃない!」と立場が異なります。動物が嫌いで、かつ社会的弱者・身寄りのない高齢者・障害者・貧困な家庭の児童など、その人たちもそんなことにお金を使って欲しくないと言うでしょう。外国には貧しい人たちもたくさんいます。これもまたお金を優先した考えがあります。

もちろん、お金そのものが目的ではないとどの人も考えるのですが、道具としてお金が必要になります。ようはお金の使い方をめぐって、ありとあらゆる問題が議論されているのです。

この場合は政府のお金を使っていいのではないか、この場合はだめだというふうに、わけて考える仕事が政治・行政の仕事だ・・・というのが今までの常識でした。
つまりお金を大前提とした正義が我々の中に植え付けられているのです。

現代政治の二つの無益な戦いというのもここにあてはまっています。これもお金が強いのだという前提に植え付けられています。

一つは、政府が税金を使って国民の弱い人などを助けるんだと。お金がなかなか回ってこない東京から離れた地方なんかにお金を回してあげるようにする。金持ちから多めにお金をとって政府が貧しい人、弱い人のところにまけば、これでなんとかなると。

もう一つが、最近の主流で、今までのこうしたやり方というのは、弱い国民を政府が甘やかすと経済に活力が生まれないから、みんなが徹底的に競争して良いものは勝ちあがって、いいものを作っていけばよい。劣るものは負け組みとしてなくなってしまう。だけど負け組みの場合でもなんとか再チャレンジできることを政府が施してやればいいと。

お金というのは、あればあるほど力を持ちます。この二つの戦いは政府にお金を集中させてなんとかするか、競争して強くなった企業にお金が集中する事によってうまくいかせるか、というのがあるわけです。

結果として、政府に集中させた場合、役人がカラ出張・カラ残業・カラ接待、天下りなどで使うわけです。民間で競争させた場合、コスト削減によって消費者に危険な製品が出回ったりすることにもなります。


いつもいつも、政府にするか、民間にするか、あるいは分野別にその複合型かとなります。どちらの両極端であれ、その間をとったにしろ、お金にとらわれているわけです。

平和党は、「お金が集まってこそ力を持つ」という法則を崩す政策があります。しかも、今までのように「それじゃあ誰も働かなくなるじゃないか」とか「無政府状態になるじゃないか」とかの心配がよくでてくるわけですが、これらを全て払拭できます。

これを自然主義経済と呼んでいるものですが、詳しい内容については、つねにここに書いていますので省きます。なにしろ、どの政党も提唱していません。しかし、今世紀に必ずや現代の全ての政策問題を解決する「魔法の政策」と言えるようになるでしょう。

このやり方をすると、今回のワンちゃん救出劇を例えるのなら、税金をつかわずにレスキュー隊活動をまかなえるようになります。「お金が集まってこそ力を持つ」というのを崩す必要がなぜあるのかと言えば、人間がお金にとらわれなくなれば、このように犬の命も人間の命も大切だと考えるようになるからです。

自然主義経済では物質経済よりも「お互いが助け合ったり、命を大事にしたり、人を思いやったり」できるようになります。今までのように形ばかりの「人格形成」などという机上の正義はなくなります。お金で全ての問題が解決できるのだという人、知識を身につけてそれを道具に他人を罵倒するような人、どんな素晴らしい発明をしても自己主張や富の独占をしてしまえば社会に害悪をもたらします。
自然主義経済を行えば、このような人よりも思いやりが重要視される社会になります。
 

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