おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

善悪中毒と自然主義経済

2007年03月14日 21時21分33秒 | 財務金融

永田町にいると汚いところが目に入りやすいです。年末年始にこうして、離れてみると世の中の美しいことがたくさん見えると毎年気付きます。政治の世界に入ると汚れたものばかりが目に飛び込んできます。さらに、野党的な立場の人は、現状の政権を批判するわけです。与党的な立場の人は、自分がいかに正しいかということをいろいろと取り繕うわけです。私は、そのようにはしないで生きてきましたが、永田町的には×だそうです。これをするのがいやだったから私は、一切やめようとしましたが、このような方法をとらなくても、十分やっていけるだろうと最近確信しました。 例えば、ブログというものは、政治ブログの人気ランキングなどを見ますと、かなり偏った政治思想の人が多いように感じられます。偏ったものは、偏ったものとしていいと思いますが、あまり倫理性のない方々が発言なされております。 もちろん、そのブログ管理主の人が一概にそうなのではなくて、そこにコメントしてくる人、掲示板に書き込んでくる人は匿名性が高いため、通常の政治活動ではありえないようなものいいをなされる方が極めて多く感じます。 おのれの政治主張をぶつけて、討論するのが議会の場でありますが、明らかにこれは国民のためではなくて、個人の怨念や、自分の支配欲、自己満足を満たすためだけのものが多いと感じます。 それをどのように判断するかですが、彼らの発言内容において、おおよそ判断が可能です。その人の言動を見ても判断できるのではないでしょうか。己の正当性を主張して、相手を全く無関係な内容で罵倒していたり、悪口雑言を吐いているのは、おおかた趣味でやっているか、自己満足のためです。世のためにやっているとは思えません。こういう方々が善悪中毒にはまっている人々なのです。この病気を一掃しないかぎりは、世界平和は不可能でしょう。 平和党の提唱する内容は、善悪是非論を超越したものを作り出そうとしています。政治に詳しい人は、そこがなかなか理解できないようですが、これは一般的な日本人にしてみれば、普通に存在するものではないでしょうか。国民のほとんどは、自民党支持者でもなく民主党支持者でもない。ましてや他の政党を特に支持しているわけでもありません。これが米国だったら共和党か民主党に入っていて、それぞれの大統領予備選挙に投票するわけで、白黒決まっているわけです。 だからむしろ、日本国民でどこかの党員をやっている人は、日本の国民性としてふさわしくないことをしているわけで、平和党は党員を増やさないようにしているわけです。 自民党の党員はどちらかというと、地域の拘束によって商店のつながりなどでやらされているケースが多く、自分が自民党員であることの意識は比較的少ないようです。自民党は自分党と呼ばれるゆえんです。各政治家の後援会の集まりが自民党と呼ばれています。 これに比べて、公明党・共産党の場合は、ガッチリとした党員意識があるでしょう。しかし、この公明・共産というのは、国民にとってアレルギーのある政党であり、それが組織型政党に対しての国民の一般的な反応なのだと思います。 保守政治家というものは、どちらかというと政策なんてどうでもよく、「まあいいじゃないか」的なる発想で細かい事は気にしなかったのが常で、左派側は同じ左でもよく対立するものでありました。しかし、今日をみますと、小泉内閣以降、保守でも「こうであらねばならないんだ」とする考えが強くなってきて、多くの善悪中毒を生み出していると思います。 小選挙区制度というものが生み出したものの一つが、善悪中毒だと思います。それによって、相手を思いやるという心を忘れてしまった社会になっています。もちろん小選挙区だけによってできたわけではありませんが、昨日のニュースでみた「夢がないといわれて妹を殺害した」事件など、多くの場合、こんなことでと思われる事が増えてきたのも、この善悪中毒による不幸社会であろうと思います。 善を自称するものが悪を叩ききる世の中ですが、実は、その善悪というものは、それを生み出す土台というものがあるわけで、そこに目をやらなくてはならないのです。そこに目をやらず悪だけを懲らしめようとすれば、さらなる不幸社会が続くばかりです。 その土台なるものが自然主義経済にあるわけです。これは単なる経済政策ではなくて、社会全体に変革をもたらすことなのです。時間とお金に縛られている、現代の限界間近にある資本主義経済は、善悪中毒を作り出します。ここからやらなければならないのです。 なにしろ、こうした善悪中毒に陥っている人には近づかない事です。彼らは社会に毒をまいています。毒だらけの場所が永田町です。政治の世界は善悪中毒の蔓延している野戦病院なのです。それでもここから変えない限りは、世の中に広がらないでしょう。  

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続・善悪中毒と自然主義経済

2007年03月14日 21時20分32秒 | 財務金融

北朝鮮は悪なのかという問題についての診断アンケート。

これは北朝鮮が悪であるとか、善であるとか、はたまたアメリカが善であるとか悪であるとか、

そういうことに問題の本質はないのです。

しかしながら、これをわかる人は非常に少ないと思っていたのですが、中には、

「俺は善悪中毒にかかっているようだから病院にでもいくか」とかいう人もいたりして、徐々に浸透してきているようです。

しかし、ほとんどの人は頑なに自分が善だと思っていますから、善悪中毒患者として、不幸社会の形成をしていくでしょう。中毒だから、自分がその症状にかかっていることにも気付いてません。正しいものは正しいし、悪いモノは悪いからなくなって当然という考えをします。

わが党には、必ず右翼を名乗る人が「おまえら反日左翼は!」と、大きな勘違いをして、そしてまた左翼側からも「おまえらは右翼か!!」とまた勘違いされて、ののしられます。そして、右は左を悪として、左は右を悪とみます。日本国内の愛国という軸に寄らずとも、アメリカが善で、イラクが悪と国際社会ではそうなっています。

右と左を信じるものは善悪中毒に、アダム・スミスとケインズを信じるものも善悪中毒になっているわけです。原発建設の賛成と反対も、駐日米軍基地も、大規模店舗と商店主も、福祉カットの行革と手厚い福祉も、ありとあらゆるところで起きています。

「そんならおまえらはどっちなんだ!!中道なのか!」と言われますが、その尺度自体から抜け出せない人に言って理解される場合は非常に少ないものです。

戦争の原因は、精神部分では、善悪中毒にあります。そして、経済の停滞を招くのも、教育の荒廃もそうです。ここでは戦争に限定しますが、まずは善悪中毒とはいかなるものかについて意識をもつことから始まると思います。
戦争の物質的部分では、資源の争奪というものがあります。資源とはいかにストックを多くするかということです。

資源とは、食糧とエネルギーが根本です。であるなら、食糧が地球人類全てに過不足なく、供給されればよいのです。現状の資本主義経済は、しわ寄せを作らなければ成り立たない事から、これを実現する事は不可能であると思います。

そして、エネルギーは石油、天然ガス、放射性物質など、地球を汚染するものばかりです。これらを自然エネルギーに転換することです。我々人類は、自然エネルギーで十分まかなえるはずですが、それを科学的に証明しようとすることも、経済的になそうとすることも、政治的圧力によって封鎖されてしまうのです。電力会社が支援する自民党と、電力労組の支援する民主党の二大政党で果たしてこれができましょうか。エネルギー政策を転換する事は、今の利権にあぐらをかいている人たちを根本から覆す事になるので、現状では誰もやろうとはしません。そこにお金が発生し、そのお金で政治が動いているからです。

世界平和とは、核武装して軍事力を強化して他国に攻められないようにすることでもなく、軍備を放棄して丸腰になることを叫ぶことでもありません。それはあくまで、戦争に対する消極的な発想から生まれているのであって、人類の進むべき明るい志としては、食糧とエネルギーを作り出す政治です。そして、それがストックという一部の権力者が優位になるような制度ではなくて、フローだけで経済がなりたつことです。さすれば、領土・領海・領空の紛争もなくなるでしょう。

自然主義経済は、そのための人類史上初の試みです。そして、これまでの戦争は、善悪中毒という、自分だけが正しい、悪はこらしめよというところから残忍な人間性を生むということに、社会を持ってくることだと思います。

 

減価する通貨(自然主義経済)について研究している学者

2007年03月14日 21時19分18秒 | 財務金融

ハーノファー大学教授 マルグリット・ケネディ氏
http://www.olccjp.net/wiki/index.php?%A5%DE%A5%EB%A5%B0%A5%EA%A5%C3%A5%C8%A1%A6%A5%B1%A5%CD%A5%C7%A5%A3

専修大学助教授 泉留維氏
http://izumi-seminar.net/index.html

元通産省 2000年度「東洋経済高橋亀吉賞最優秀賞」受賞者 加藤敏春氏
http://blog.goo.ne.jp/kato-toshiharu/

北海道大学大学院経済学研究科・経済学部助教授 西部 忠氏
http://cc.econ.hokudai.ac.jp/





資本主義の限界

2007年03月14日 21時17分55秒 | 財務金融
別にわが党が「資本主義の限界」を発見したわけではない。前々から言われていることである。

資本主義経済はやがて限界をきたすということは、ケインズ、マルクス、シュンペーターといった名著を残した経済学者がいずれも予見をしていた。

マルクスは資本主義の高度化につれて、利潤率が低下し、資本蓄積が鈍化し、生産性の低下をもたらすと考えた。日本経済は今まさにそうなっている。

シュンペーターは、資本主義の原動力である企業が、新技術により市場を拡大していくと、企業は大組織となり拡大意欲を失い、経済停滞を生み、技術革新がなくなり、大企業化が官僚化していくと考えた。これもまた、日本経済はあてはまる。携帯電話の普及やハイビジョン放送テレビなどの新技術もあるが、どうなるかわからない。これらはいずれも、今までの技術に改良を加えたものであり、未開拓な産業ではない。

ケインズは、資本主義で豊かになると、消費が停滞することで、貯蓄に滞留し、企業の投資活動も冷えるため、政府の景気刺激策が必要だと説いたが、現代日本経済では、政府の景気刺激策すら効果がなくなった。

資本主義経済が立ち行かなくなることは、日本国内でも随所に現れてきている。価格破壊によるデフレ経済もその一つだ。これは経済循環上の不況ではなく、慢性的不況となるであろう。

さらに現代経済が構造を変えてきているのは、人類が科学技術を急速に発展させ、資本主義社会はコンピュータを発明したことによる。IT革命を進めれば、メーカーから直接、消費者が商品を買えるようになるダイレクトマーケティングが発達すれば、いっそうモノの値段は安くなる。新ビジネスの到来といわれるが、実際そうなってみると仲介手数料や流通経路の途中でマージンをとる形式の産業は食えなくなるだろう。

自然を征服したと勘違いした人類は、自然資源に価値をもたない。人間の労働力や資本を貨幣化して、それを価値としてしまったため、資源から商品にいたるまでの加工処理過程で、価格に上乗せするのがこれまでの資本主義経済の基本であった。これが、インターネット流通などによって、上乗せ利潤は消滅、若しくは少なくなるということは、すなわち中間業者や仲介業者というものがなくなるのである。これは資本主義の崩壊の前兆であるとともに、大量の失業者を産む。



さらに、工業製品は海外で生産することによって安価にあがる。発展途上国以外にも旧共産主義諸国が、労働市場を担いはじめるようになってからは、なおのことである。ヨーロッパの場合でも、イタリアやスペインが担っていた安い労働力が、旧共産圏諸国に奪われ、不況に追い込まれている。旧共産圏の自由化と旧植民地国の先進国化が、世界同時デフレの要因の一つであろう。

日本の大手製造業は、東南アジア、中国、インドなどに低賃金労働を委ねている。これが、日本経済の空洞化となっている。

わが国は、資源がないといわれているため、勤勉な国内労働力を基礎として、外国から輸入した資源をもとに製造業を中心に円を強くしてきた。職人技術、匠の技術というものも、日本は優れていたことも起因している。日本は製造業立国であったが、いまや製造業は他のアジア各国に奪われるであろう。そうなれば金融立国を目指すしかないが、日本にその能力はないだろうし、製造業が衰えれば円は弱くなり、円に価値がなくなってしまった場合はいったいどうなってしまうのだろう。


通貨に価値がなくなってしまった場合、食糧とエネルギーという、人間にとって最も基本的に、必要なものを作り出す産業を興していかなくてはならない。

しかし、現在途上国の国々は、資本主義経済に追いつこうとしているので、経済的に非効率な食糧生産をしようとはしなくなるであろう。やがては、第二次産業・第三次産業を中心とした経済立国に移行し、外貨を稼いで、食料は輸入するという方策をとろうとする。生物に不可欠な「水」という資源が豊かなアジア諸国は、当然ながら食料資源が豊富である。


その利点を生かすことなく、アジア諸国が、農業を捨てて貨幣経済中心主義へと傾いていき、食糧生産量が減少し、皆がお金を追い求める世の中になったら、これは日本にも波及し、餓死するだけである。ましてや、日本は食糧生産の条件である水や土が整っていながら、食糧生産には不適であると、勝手に思われてきていたので、工業国化をすすめ、経済優先主義を続けてきたがゆえに、食糧自給率は低下した。

食糧生産をやめることは、農林水産業の問題だけでなく、自然環境問題も引き起こす。生命の尊さという道徳も失われる。

高度に発達した文明で生きていると考えている我々、すなわち自称先進国の人々は、生活するためにお金を稼いでいるという盲信宗教にとりつかれている。「衣食住がないと生きていけない」のが本当であるのに、「お金がないと生きていけない」と勘違いしている現代文明である。水道の蛇口をひねれば、水は出る。水はコンビニでも売っている。空気すらデパートで売っている。カブトムシが死んだら電池を入れれば、生き返ると信じ込んでいる子どももいるらしい。魂を救うはずの宗教団体ですら、お金をお供えすれば救済されると説いている。一政府の印刷した貨幣を神に献上するなど狂気の沙汰である。神が金を要求しているのではなく宗教家が要求しているのに他ならない。神という名目のもとに自己利益を得るのは神に対する恥ずべき冒涜である。



人間は貨幣を発明・利用していたはずが、金融や資本主義システムによって、文化や教育や科学技術、宗教や軍事すら経済の奴隷となっているのである。

紙でできたお金を、命の源のように錯覚するようになってきたのである。「世の中金だ」と言い切ってしまう人まで現れた。この紙幣が紙くずになるということは、日本人には容易に想像がつかないであろう。

そんなことはありうるはずがないと思い込んでいる。諸外国では、先進国であっても、貨幣のデフォールト(債務不履行)は幾度となく経験されてきているが、日本人にとってその意識は希薄だ。



今ここに金が何億円と積まれていても、空気がなければ五分もしないうちに、その人は死ぬであろう。酔っ払った勢いで一万円札と千円札を食べた友人がいたが、両方とも同じくらいまずいらしい(聞かなくてもわかるが)。人間は金によって生かされているのではない。太陽や水や空気や土によって生かされているのである。

人間にとって必要な物質資源の最たるものは、食料とエネルギー、さらには医療システムであり、貨幣はその手段に過ぎない。このようなごく簡単なことを人間は忘れ去っているのである。


近未来に必要な、人類の指標は、「自然に生かされる人間」「お互いの生命を大切にする」という共生の思想である。そのためには、近代西洋の生み出した、現代の経済至上主義、拝金主義、物質文明万能という価値観を脇に置き、どうしても必要なものは継続し、新たなる価値観に転換しなければならない。また、転換しなければ、ありとあらゆるネガティブな社会現象によって行き詰るであろう。この根本的価値観を転換しないから、経済以外の問題でも一つ一つの政策的課題がモグラ叩きのように噴出してくるのである。

資本主義と善悪中毒

2007年03月14日 21時14分54秒 | 財務金融
資本主義(政府式資本主義である社会主義・共産主義も含む)は、地球環境を悪化させなければ成り立たない。資源を枯渇させる速度が、速ければ速いほど競争に勝つことができる。この考えが常に礎にあり、政治・経済・社会を運営してきた。今までは経済によって環境を破壊してきたが、このままでいくと環境が経済を破壊してしまうだろう。


東洋の思想は仏教、老荘思想、ヨガ、漢方医療に代表されるように「動き回らない」ことに価値を持つ。

取り入れる物質的エネルギーは最小限にとどめることによって、真理に到達するという思想である。必要以上に物事を進めれば無秩序と混乱を作り出すだけであるから自己と自然を調和させようとする。


物質的エネルギーは最小限に吸収すればよいと考えるのは、精神的エネルギーを取り入れようするからである。気、太極拳、漢方医薬、武道などがそれである。自然治癒力というものを大事にするため、肉体に故障が生じても部分的に治すことはしない。つねに全体の調和を図る。こういう価値観を、我々は捨ててしまったため、人類にとっての地球環境は悪化の一途をたどっている。


 「人間によって地球環境は悪化し地球は泣いている」などと言う人がいるが、地球は泣きも喚きもしない。人間がどれだけ、地球内の温度を上げようが、酸化させようが、石油を掘りつくそうが、そんなことくらいでは地球は痛くも痒くもないだろう。


地球は自己の自然回復機能によって火山を噴火させ、あるいは氷河に包み、海を暴れさせて洪水を起こし、陸上にいる人間という害虫を海中に流せばよい。地球を汚して被害を受けるのは人間をはじめとする動物・植物などの生物以外いない。地球環境は地球のために必要なのではなくて、地球人にとって必要なものである。


「競争によって人間は進歩する」というのは間違いであるのは、他を駆逐すると自己が滅びるからである。これは、地球環境が破壊されつつあることで証明される。癌細胞はまさに、競争によって他の癌細胞を駆逐することによって、強い癌細胞が勝ち残り、弱い癌細胞は死んでゆく。癌細胞は癌細胞同士で殺し合い、競争し、強くなっていくのである。強くなった癌細胞は次々と肉体のありとあらゆる細胞を倒し勝ち進んでいくが、そうすることで肉体の主たる人間は死に至る。人間の肉体が死に至れば、今までせっかく勝ち進んでいった癌細胞は自分自身も死んでしまうのである。


同じように、人類は他を駆逐することで地球環境を食い尽くす。癌細胞から見た人間の肉体は地球に相当するわけだが、これによって地球は死に至り、癌細胞に相当する人間自身が死んでゆくのである。
これに対して、癌細胞以外の正常な細胞は、他を生かす。このことによって肉体全ての組織、器官、個体が調和して生きてくるのである。競争によって強くなり、発展していくというのは癌細胞の話であるが、その行き着くところは全てを失うということである。人間は癌細胞であることもできるが、競争を正しいとしなければ、正常の細胞となることもできる。


プラトンの著作『国家』の第一巻には、正と不正の議論がなされている。登場人物トラシュマコスは他を凌ぐ不正こそが優れていると主張して、ソクラテスと議論するのであるが、不正は正に対して駆逐しようとし、また不正は自分以外の他の不正に対しても駆逐する。正は不正に対しても、他の正に対しても協調と友愛を求める。この結果、不正は生きていけないことがわかる。

 そして、現代では自らが正義であるとして、不正を殺していく、排他する・・・そんなことに快感を持って、非人道的な性格の人間を多く生み出している。

今、政治の世界で議論されていることに、一方では競争を善としながら、環境問題も解決しなければならないということがある。

それと逆の立場は、政府が環境を財政によって解決しようというものもある。環境税を課税することで政府が調整すべきだという考え方であるが、これは資本主義と社会主義の対立に似ている。

つまりは、お金の力によって地球環境を解決しようということであり、これは自然環境によって経済システムがあるということを忘れている愚かな政策である。経済に支配されているという現状の土台を覆し、競争に基づく経済優先主義を捨てなければ地球環境を解決できない。

自由に貨幣が発行され、自由に土地が供給されたのならば、自然と経済が融合するシステムとなり、競争も官僚も要らないのである。


人類は資本主義が作り出した競争からも、共産主義が作り出した官僚支配からも脱却しなければならない。

自然主義経済とは何か

2007年03月14日 21時12分23秒 | 財務金融
自然主義経済とは何か。
簡単に言うならば、貨幣を所持しているとその価値が時間とともに劣化するというものである。
これは銀行に預けていたり、投資したり、保険にしたりしても、この減価から逃れる事が出来ないというものである。
全ての物質が時間とともに腐敗・消耗していく以上、お金にもそういう機能を与えようというものだ。
これは今までの価値観・世界観を転換しなければ不可能。

なぜ、このようなことが必要かというと、人類社会がお金におぼれ、人間が人間としての価値を失ってきているからであり、これを目覚めさせる意味においてなされなければならないことである。
では、この方法をとると政策はどのように反映されるか。



●外交・防衛
戦争の要因は宗教・思想を除けば、資源の争奪が発端となる。食糧もエネルギーも自給できる国家を作ることで解決される。領土・領海の欲望は利権である。利権は資本主義を前提とした貨幣が発端である。

●財政
財政赤字はやがて限界に達する。この解決方法はリセット以外にはない。そのためには日本銀行券以外で経済活動できる手立てが必要。

●金融
増殖としわ寄せの機能を持つ金融も財政と同じく、限界に達する。物質経済と矛盾する数学的なバーチャル経済は崩壊する。そのためには実質的にモノ・サービスと転換できる自然通貨を必要とする。

●教育
経済史上主義下の社会では、いかなる教育政策を施そうとも、その手本は示せない。物質と精神の双方が両立する社会を作ることが教育の最も効果的な方法である。自然主義経済は人間関係を豊かにし、心豊かな社会を築くことができる。

●福祉・医療
政府に依存した社会福祉は、利権をもたらす。社会主義的資本主義と言われる日本はこれを今やめようとしているが、それもまた充実した福祉社会にはならない。第三の方法である自然主義経済を用いて、民間オンリーによる福祉・医療を築く。

●農林水産業
経済の基本であるにも関わらず、貨幣が力を持つ社会は第一次産業が衰退する。食糧の自給は勿論、自然有機栽培による生産効率を可能とするのが自然主義経済である。

●商工業
諸外国からの輸入を停止し、全て自国で自給できる工業を行えば自然調和型の産業におのずからなる。商業においては、自然主義経済の採用により、その流通速度は増し、誰もが好きな職業で生活ができるようになる。地産地消型経済になっていく。

●国土インフラ
これまで公共事業を優先せざるを得なかったのは、貨幣に依存し、政府に依存してきたからである。自然主義経済では民間のみで公共事業を行うため、いらない公共事業はなくなる。

●エネルギー
石油・原子力を使わなくなり、太陽・風力・地熱・バイオなどの力が主流となる。一箇所で大量に発電するよりも地域ごとに発電する方が効率がよいということになる。


国会では、一つ一つの政策についていろいろと論じられているが、実は問題の糸口は一つなのだ。
ここにメスを入れない限り、いかなる政策を論じても全く無駄なのだ。
以上の政策を実行に移せば、おねしょがとまらないとか、女房に浮気がばれて大変だとか、馬券があたらないとかいう個人的な問題以外はたいがい解決できる。
 
 

自然主義経済が可能だとする理由

2007年03月14日 21時10分47秒 | 財務金融
当ブログのゲストブックに、自分の政治思想も国家を消滅する考えがあると書いてきた人がいた。
彼の言わんとすることは、既存の政治学の枠組みに平和党をあてはめようということだ。

彼は、レーニンが国家消滅を唱えていたことを、私が知らないのだろうと解釈して、彼はそのことを「やーい知らないんだ」的に、そのことをムキになって追求してきた。


彼にとっては、それを知っているか、知らないかが、大きな問題であると考えているようだ。

つまり平和党をレーニン主義に引っ張り込みたいということか。国家をなくすことイコール「レーニン思想」であるという既説に封じ込めたいのはよくわかる。

だが、彼は人々を幸福にするために政治を論じているのではなく、自分自身が自分のために知的好奇心を満たすための自己満足のために政治を論じているようだ。それは彼がわが党以外のブログにおいても、無礼なる態度で、コメントしているのをあちらこちらでしているからよくわかる。彼は、ほうぼうのブログで人を小ばかにしたようなものいいをしている。

このような儀礼を欠く人間は、誠実に国家の諸問題を考えることは、できはしまいだろう。

そのコメントを私が書いて以来、反省したのか、反発したのかは知らないが、彼は当ブログでの彼が書いたゲストブックを削除したようである。

頭を鍛えることに偏り、ハートを忘れた政治活動家を私はよくみてきているが、最近はとくに若年層(政治家を志す大学生や20代の政治家)に多いような気がしている。

私はつい先日、日本平和党予定党首を名乗る大泉氏とチャット討論をしたが、結局のところ、あまりにもものを知らなさ過ぎて議論にはならなかった。彼には、情熱もなかった。だが、しかし、彼は誠実であった。だから私は物足りなくても議論に応ずることができる。

だが、冒頭の某氏は、近年よく見る「政治家を志す大学生」に多い。

それから、「2ちゃんねる」などのネット上での政治討論も下劣で、チンピラ的な言い回し、自己満足に政治主張を通すだけで、世の中の幸福、便利さ、向上を考えているとは到底思えないような低レベルなる罵りあいが行われているのも多く見る。

数ヶ月前も、くだらない書き込み攻撃をされた。人間性欠如の人々が、自らの正義性を主張して、悪をさばいているという自己満足。こうしたものを得たい人が増えてきたと思う。

もう一つは、彼らの考え方が未だ、既存の政治学ないし経済学に拘束された範囲内でしか、物事を考えられないこともある。

若気の至りで行動に走る、はみ出したことをする、若いからこそ、今までの常識をぶち破る勇気すら持ち合わせていない。命を賭けるなんてことは全く無縁だろう。

自ら血も汗も流すことなく、本で読んだことを口に出したり、文書にしたりして、能書きをたれているだけだ。あまりにも知が優先していて、他人への思いやりがなくなってきている。

したがって、こういう人々が育つと人を殺すことなど、容易にできるようになってくる。息をする人間、肌と肌がぶつかりあう人間を経ずに、空論だけが先行するのはよろしくない結果を生み出す。


 たとえば現代では、科学技術が発達し、ボタン一つでいとも簡単に大量虐殺ができる。ボタンを押した人間は、その着弾点には、何千人もの内臓が飛び出した人々、両親を失った幼い子どもたちの顔をみることもなく、兵士は冷静に職務を遂行できるだろう。人種が違う、そんな低次な民族は殺しても構わないだろうという考えになり、女がいれば強姦する。次第に剥き出しの肉や骨をみてもなんとも思わなくなる。

これが戦争のパターンだ。これを知っていて、タカ派を称していた政治家はほとんど生きていない。

今の政治家では、国防積極派は、拳の喧嘩すら経験したこともなく、ただ日本が平和ボケで、「米国が主導の国際社会の秩序」に遅れているとして、現状を「ただ単に変えたい」だけのところから、人間のぬくもりを知らない教育環境が、これを生み出す。

議員の名前を列記したいが、このブログに書くとすぐヤフーやグーグルの検索で出てきてしまうのでやめておく。

 経済についても「利権」から「市場競争経済」に「ただ単に変えたい」のである。松下政経塾出身の決められた改革方程式しかしらない人ばかり。横浜市や杉並区にいる。それはそれで進んだものではあるが日本が将来的に生きていく光の方向ではない。

改革の方法は、すでに大学で教えている学問にすでにお膳立てされていて、それを実行さえすればよく、あとは詳細部について、ああでもない、こうでもないとこれまた既存の定説に基づき、小さな枠の中で話をしている。彼らにとって、それが生きがいであるのは一向に構わないのだが、社会を幸福にすることよりも、自分の理論を押し通すことが重要であると考えているからたちが悪い。


わが党は、この小さな枠からはみ出した未常識の分野に大きく足を踏み出しているため、わが党のようなものが出てくると、自分たちの常識の範囲内にある既存の学問の枠組みに無理してでも、はめたがるのだ。

はめたがること自体が、単に自分たちの知的エクスタシーを得たいというだけで、彼らは現代社会の行き詰まりを打破することは目的としていない。

私がこのブログで、政治とは全く無関係の話を書いたり、全く違う分野のブログをお気に入りにしているのも、すでに政治を知っている人の95パーセント以上は、既存の政治の考え方しかできないために、他
分野の人々を募るしかないと考えているからだ。


私は先ほど、政治家を志す大学生や、20代の政治家のほとんどが改革者にはなれないと言ったが、むしろ政治とは関係のない、あるいはこれからも自分にとっては、政治など無縁だろうと考えている20~30代の世代の人ほど、平和党の自然主義経済と善悪中毒の考え方はよく受け入れられる。「それはごく当たり前の話」という反応もけっこうあるのも事実だ。

平和党の主張が受け入れられないタイプは、政治家(世代を問わず)や経営者である。しかし、逆に「すでに経営者としての役割を終えた人」や「戦前を経験している人」などには理解されやすい。私は、平和党の考え方が、中間世代においては、なかなか理解されないということは早くから気づいていたが、最近では確信に変わりつつある。受け入れられるのは、ニート、フリーター、ごく少数の斬新な経営者、主婦、団塊世代以上の高齢者。
むしろ逆に農業に携わっている人には、なかなか受け入れられない。農薬や化学肥料を使うのはやむを得ないことというのを肌身で感じている人は、理解できないようだ。だが、それも現代経済社会のマインドコントロールにあることを知れば、理解してもらえるだろうと思う。

とにかく、今の時代は、世界観の転換を求めている。この時代に大事なことがある。それは「基本を覚えない、身につけない」ことである。

私は社員に指導するとき、マニュアルは一応あるが、これを見ないようにしろと言う。選挙のときにウグイス嬢に対しても同じようにする。いきなりマイクで喋らせて、徐々に修正していくというやり方だ。

基本ほど難しいことはない。これは掘り下げればいくらでも、探求しなければならないことになる。だから、今の目の前に突きつけられたものから処理していくようにする。基本は教わるのではなく、自分でみつけるようにする。常識というものも、基本というものも、探求すればするほど難解になる。
1+1=2 を数学的に細かく証明することは難しいのと同じだ。

だから基本などというものは後から、自分一人で考えるものなのだ。
そうでないと創造力が育たず、すでに誰かが作ったものだけに頼るようになる。そうなってくると、今までのルールはなしにしましょうと言われたときに、何も対応できなくなるからだ。

だから平和党のように、今までのルールはなしにしましょうなんてことを言われると、ムカッ腹が立つ人が多いのである。

憲法の廃止もそうだし、国連の脱退もそうだし、ほっといたら金が減るというのもそうだ。

無税国家も実現できるとしているが、これには税理士がくいっぱぐれる。

法律も簡単にしようと主張しているが、弁護士がくいっぱぐれる。

経済学も根底からひっくり返そうとしているが、経済学者は今まで学んだことはなんだったのかとなる。


日本共産党のように、今までのルールはやめて、共産主義にしましょうと言われた方が、まだ前例が、他国にはあるからマニュアルが想像できる。

平和党の場合は、政治学上にも経済学上(ごく一部にはある)にもないことをしようと言うのだから、さらに腹が立つであろう。あるいは「平和党は資本主義には反対しているから社会主義の分類にいれておけ」という暴論もよくある。

自然主義経済は我々が知的好奇心を満たすためにやっているのではなく、日本の問題を全て解決するためにはどうしたらいいのかということを考えて、到達した考え方である。目的は自然主義経済ではないからいつ放棄しても良い。

いろいろ述べたが、最も重要なことは、「自説を主張し貫き通す」ことよりも「全ての人々が貧しくなく、安全に暮らせる世の中を作る」ことにある。頭がどんなによくても心が腐っていたり、利己的なものはダメだ。したがって、自説を主張するためだけのものには、お付き合いしないが、自然主義経済よりも、納得のできる「全ての人々が貧しくなく、安全に暮らせる世の中を作る」案があるのなら、いつでもそれに乗り換えてもいい。然しながら、ここに喧嘩を売ってくる人間は、「自然主義経済は無理だ」という論破のためだけの人ばかりである。彼らの共通点は、幸福になる結論に至らせようとはしないのだ。

「日本が食糧を完全自給するのも無理」 「石油以外の方法を使ってエネルギーを自給させようとするのも無理」「平和党が政権をとるのも無理」などについて論じてくる人は数多くいた。

私は、その「無理」だとする側に立っても、論じることは可能だ。無理な理由はいくつでも挙げられる。

だが、それが何になるというのか。

可能なことを見つけ出すのが、価値観の大転換期にすべきことである。

できないというのは「今までの考え方では」できないということだ。

できないというのは「現在の事情では」できないということだ。

こうしたカギカッコに隠されている、非常に重要な部分が意図的に省略されているのである。

全て、政治でも企業でもスポーツの新技でも科学技術でも、不可能とされてきたことが可能とした努力した人間がいたからできたのである。

自然主義経済のマニフェストを今回の統一地方選挙にあわせて、各地方自治体の予算から、作ろうとしたわけだけれども、党内の諸事情によって今回は見送られた。統一地方選挙後の各地の自治体に目を向けて作成していきたい。


第三の選択案

2007年03月14日 21時09分32秒 | 財務金融
経済政策はおおまかにいって二つの方法がある。

一つは、政府の規制を軽くし、自由に市場競争させることである。

この結果、金持ちはますます強く、貧乏人はますます弱くなる。

もう一つは、政府の規制を厳しくしたり、高所得者からより多くの税金をとり、福祉等を充実させる。

この結果、経済活動は鈍くなり、税収は減るから福祉の充実は結局のところ不可能となる。

社会党・共産党などの革新が躍進した60年代に誕生した「革新自治体」が今、赤字だらけになっているのをみたら明らかだろう。やる人が変わっても、時代が変わっても、所詮自分たちの利益ためだけにやっているから変わらない。

すでにやって失敗している事を今さら提案しているのは、共産・社民も安倍首相も同じである。
時代が違うから? 人間にとって必要な価値観ものというのだけは、変わらない。
55年体制崩壊、米ソ冷戦終焉といっても、いまだにこの戦いが社会に根付いている。

この二つは、その根底には、金持ちは貧乏人に対しての見下し、貧乏人は金持ちに対しての妬みがある。

近年の歴史の中で、世界の主流派を自称してきた米英の二大政党制度はこの両方を代表する政党によってなりたっている。

ところが、日本は自民党・社会党という中途半端な二大政党で、つねに自民党が社会党的な政策をすることによって中道が守られてきた。

所得税の累進課税制度によって、金持ちから多く取り、低所得者からはあまりとらない。

財政出動によって、あるいは利権政治によって、弱者保護はなされてきた。

だが、小泉内閣以降、アメリカのような格差拡大となり、そろそろ貧富対決となろう。

政治とは無縁な若者にも「勝ち組」「負け組」という言葉が浸透してきている。


金におぼれた資本家・経営者らは、ますます市場競争促進を唱え、金がなくておぼれている労働者・派遣労働者・無職・ニートは騒ぎ出すだろう。


しかし、この双方は自分の私利私欲から物事を考えているため、よい世の中にはならない。

また、そこまで発動できるパワーもないし、大義もない。


この両者は同じ土台で物事を考えている。

それはお金というものがなんでもできる、日本銀行券という大きな力を認め、それに隷属しているということ。

よって、心を失う。社会に不満を抱くというよりは、その心底をみれば、ただの自分勝手である。

これが社会での精神病理を生み出している。教育も廃れているのは、教育の立場に立つ人間が、平然と自己利益の追求を言うからである。戦後教育によって、このようなことになったのだろうか。


アダム・スミスは「一人一人が自分のためだけに経済活動をすれば、自動的に調整され、調和された経済社会になる」と言った。だが、これは間違い。当時としては必要な発見だったかもしれないが、今世紀には必要とはしない理念だ。

「強いものが生きて、弱いものが自然淘汰される」という方法は、人間は死のうとも経済構造というマシンが発達するからいいのだという論になる。

「政府が弱いものを助け、強いものから金を取る」という方法は、いくら頑張ろうとも政府というマシンが公正に判断するからいいのだという論になる。果たしてそうなっているだろうか。


金持ちは貧乏人の気持ちはわからず、貧乏人もまた自分のことしか考えないから何もみえてこない。

これでは永久に誰も幸せにはしないのである。

いつもここでいう左右両派の永遠なる戦争責任などと同じことがここでも起きている。


この二つの方法は、よいものを生み出さないという事について、冷戦終焉から何も学んでいない。

最も問題なのは、この二つの経済政策を支持する人々には、利他精神がないということである。

自分と同じくらいの立場の人間であるなら、助けてやろうというのは、社会構造全体にしてみると、ひいては自分に反作用が還ってくるのである。

平和党はこの二つの方法を選択せずに、自然主義経済という方法で住宅が無償で提供され、教育・医療・福祉なども現行のお金を通じなくても可能な社会を実現できる。

大企業に税負担を大きくかけても、何の意味もない。
全国民一律に消費税を20%にあげようとも、何の意味もない。
問題なのはお金という制度だ。

資本は集中してこそ力を持つ。だから、東京というところにお金は集まる。
この大前提を無視して、地方分権などできるわけがなかろう。経済の問題を論じられるとき、必ず誰もが、今までの常識に呪縛されて考えている。

物事は、大元の発想を少し切り替えるだけで、見方は大幅に変わり、解決方法も生まれる。

だが、そういう勇気と努力を持ち合わせる人間は数少ない。

お金が貯蓄・増殖機能を持つというこの力をそぐ方法、これが自然主義経済だ。


東京都知事選挙の予想

2007年03月14日 20時44分13秒 | 安全保障
●石原慎太郎候補予定者が多く得票しそうな区市町村



千代田区→江戸っ子は石原慎太郎に投票。
中央区→江戸っ子は石原慎太郎に投票。
港区→江戸っ子は石原慎太郎に投票。しかしマンション増加により新住民多く浅野氏にも。
新宿区→都庁を設計したのは黒川紀章氏だが、新宿区民には都庁に対する地元意識なし。
文京区→江戸っ子は石原慎太郎に投票。しかしマンション増加により新住民多く浅野氏にも。
台東区→江戸っ子は石原慎太郎に投票。千束のソープ嬢は石原知事の風俗取締りに怒りを覚え浅野氏に。
品川区◎→地元選挙区。三男・宏高代議士が活動。
大田区◎→地元の田園調布で石原氏圧勝
渋谷区→中途半端な保守層多く、石原知事に投票。尻軽セレブは石原、知識偏重セレブは浅野。
練馬区→農業続く地元民は石原氏に。増加してきた新住民は浅野氏・石原氏に五分。
板橋区◎→民主党の土屋たかゆき都議が石原氏を応援する。土屋都議と石原知事は戦後歴史観を共有。
北区→利権に弱い区民によって現職に投票。
荒川区→保守層が強いと見られてきていたが、住民の転入多くなり変化の途中。
墨田区→もはや不破哲三地元との意識なく。錦糸町あたりは石原強い。
江東区→埋立地を中心に新住民多いが、豊洲に築地市場を移転させたいために石原氏。
江戸川区→千葉県に近くなるほど石原氏有利。肉体労働者は石原。
葛飾区◎→知事には東京以外の人間を許さない体質あり。ただし地元を徹底的に回る平沢勝栄は別。
立川市→横田基地を民家人利用の飛行場にしてほしいから石原氏。
昭島市→横田基地を民家人利用の飛行場にしてほしいから石原氏。というよりもここで民主系は無理。
府中市→微妙。半々か。学者層は浅野。
町田市→やや石原有利。
八王子市→浅野氏を当選させるまで、石原都政に対しての批判はない。
青梅市→絶対石原。東京の地酒・沢乃井を都庁食堂に置いてもらっているので石原。
福生市→絶対石原。米軍基地によって生活している人は石原。
あきる野市→絶対石原。
羽村市→絶対石原。
西多摩郡◎→絶対石原。
大島支庁・八丈支庁・小笠原支庁◎→ヨットの石原。松島には人が住んでいませんから浅野氏は無理。




●浅野史郎候補予定者が多く得票しそうな区市町村



目黒区→新住民による浮動票大量区。生粋の目黒ッ子の場合は石原慎太郎に。
世田谷区→ミーハー区民、そのまんま東知事誕生の影響を受けそう。
中野区→なかのZEROホールで集会・好評。石原陣営は青山やすし前副知事の応援が必要。
杉並区→長男・伸晃代議士がいるものの、区民はそのまんま東知事誕生の影響を受け浅野氏に。
武蔵野市→土屋前市長(現代議士)が菅直人憎しであるが、ここは菅王国によって浅野氏か。
三鷹市→菅直人地盤により浅野氏に。
小金井市→財政赤字バリバリの小金井市だが、情報公開の浅野に。
西東京市→菅直人・末松義規により浅野
小平市→菅直人・末松義規により浅野もしくは保守層により石原。やや石原有利か。
国分寺市→とにかく今を批判する市民多く、斬新な政治家を求めるため浅野氏かも。
国立市→とにかく今を批判する市民多く、斬新な政治家を求めるため浅野氏かも。
清瀬市→埼玉県に囲まれ、都民としての意識ない。創価学会強くどうなるか不明。
東久留米市→池田はるお市議はどちらを応援するのかが見もの。
東村山市→市民意識高く、石原知事に代わるものが浅野氏であれば浅野氏に投票も。
東大和市→よく考えたら石原氏有利かも。
武蔵村山市→日産跡地など石原有利かも。
日野市→もともと革新が強く、浅野・吉田に分散して石原有利になるか、それを避けて浅野氏に投票。
調布市→ほぼ世田谷区民と投票行動は似ているが、やや保守強い。
狛江市→小さすぎてよくわからない。市長がギャンブルで逃亡したときに共産党市長を選んだ。
稲城市→不明。なんとなく浅野氏かも。
多摩市→市民意識強く、浅野氏かも。



●吉田万三候補予定者が多く得票しそうな区市町村
足立区 ?→そうはならないけど、しいて言えば。



●黒川紀章候補予定者が多く得票しそうな区市町村
わかりません。



●ふくろう博士・古川のぼる候補予定者が多く得票しそうな区市町村
ありません