◆1952年4月26日横須賀田浦に海上警備隊発足
海の護り60年。海上自衛隊は明日、創設60周年を迎えることとなり、横須賀基地において記念式典が行われます。
海上自衛隊創設60周年記念行事は、横須賀基地第2術科学校において1000時から1350時まで行われます。執行者は海上幕僚長、部内行事との形で一般非公開行事として行われ、横須賀地方隊HPには掲載されていませんでした。一般公開行事としては秋の自衛隊記念日行事として観艦式が行われることになっています。
式典は、国歌斉唱、黙とう、式辞及び来賓祝辞が行われ、付帯行事として記念撮影、記念植樹式と意見交換会が行われます。海上自衛隊創設50周年記念行事では東京湾において国際観艦式が挙行されましたが、60周年記念行事はこうした規模の行事となっていました。
式典が執り行われる第二術科学校は旧帝国海軍水雷学校跡地、海上自衛隊の前身である海上警備隊は水雷学校跡地において1952年4月26日に発足しています。第2術科学校は、横須賀サマーフェスタにおいて施設が一般公開されることがあり、今年夏の一般公開も期待したいところです。
草創期の海上自衛隊は、かつて空母機動部隊を太平洋狭しと展開し、巨大戦艦群を決戦兵力としつつ潜水艦駆逐艦による苛烈な海上戦を展開、海軍航空隊も戦闘機を駆使し攻撃と防空に活躍、陸上攻撃機による長距離攻撃など大きな成果を挙げつつ圧潰した帝国海軍の伝統のみを引き継ぎ、米軍供与の小型艦と旧海軍の特務艇などにより誕生しました。
しかし、新生日本の独立と繁栄へ、シーレーン防衛と本土防衛に重点を置く編成をめざし、着実に艦艇と航空機を整備し、それら装備の能力を最大限に引き出すべく要員の養成と戦術の研磨を続け、海洋国家として海を国境とし海洋を通商路とする日本の基盤を維持し続けてきたわけです。
1950年代にはじまった手さぐりまたは遮二無二というべき着実な能力の整備と教育訓練の研鑽は、供与艦と供与航空機を基盤に、日本海軍が欠いていた部分を徹底して組織変革を果たし、如何に進むべきか、いかなる装備を有するべきかを検討と研究に明け暮れました。
特に極東地域は核戦争に直面しうる朝鮮半島、そして脆弱な環太平洋地域の当時対立の防壁を前に、北方からの直接的軍事圧力、西方への間接的軍事圧力を抱えることとなり、第二次世界大戦において必死を以て避けた本土決戦の災厄を如何に防ぐか、現在では想像できぬほどの努力が払われていたこと、想像に難くありません。
1960年代には国産艦が数的充実を果たし、対潜戦闘部隊の基盤を陸上と洋上に復興させ、併せて米海軍からの最新装備の供与と国内での技術開発を併せることで日本の防衛を達成するうえでの戦略戦術の基盤を構築するに至りました。水上戦闘艦は一部がようやく旧海軍の大型駆逐艦の域を超えたのもこのころです。
また、ターターミサイルや無人機ではありましたがヘリコプターの艦上運用の模索が行われ、巨大な北方からの脅威を太平洋の防壁として支えるには決して十分な予算も人員も、一部には理解さえも得られない中で、文字通り懸命な努力が積み重ねられたのもこのころに他なりません。
1970年代には、躍進が待っていました。はるな型、しらね型。我が国固有のヘリコプター搭載護衛艦による大型対潜機の集中運用体系を構築、海上航空部隊の再建が始まると共に併せてミサイル護衛艦の量産が開始され、沿岸基盤の部隊編制は再び遠く大洋を任務地とするシーレーン防衛の延伸基盤が構築されてゆきます。
艦隊航空艦隊防空に重ね、併せて潜水艦勢力の近代化が進みかつて攻撃の長槍としての任務は極東地域の自由主義陣営勢力圏への防壁として海峡監視にあたる装備となり、沖縄返還と共に快復した日本列島の防備に能力を最大限発揮したことも忘れてはならないでしょう。
1980年代には、ミサイル時代、情報通信能力の向上と共に海上自衛隊の能力は一挙に飛躍を果たしました。これは今日に至る汎用護衛艦体系の源流となる護衛艦はつゆき型量産開始、ハープーンミサイルの実用化が行われ、世界的にも高い能力を有する大型水上戦闘艦が一挙に中枢部隊を構成するに至りました。
もう一つ、1980年代はP-3C哨戒機の装備開始となったもので、情報収集と情報集約とともにデータリンクという概念を一挙に普及させた高性能哨戒機は二機で護衛艦一隻分に匹敵する高価な装備でしたが一挙に数十機を揃え、遠く百機体制を構築、1980年代には海上自衛隊の能力は世界に大きく貢献されるものとなった訳です。
1990年代、画期的艦隊防空能力を有するイージス艦の量産開始とともに八八艦隊完成。東西冷戦が終結しロングピースと表現された緊張下の平和から緊張緩和下の騒乱へ世界が転換する中、護衛艦八隻航空機八機を基幹とする護衛隊群四個の編成という大事業が遂に完成するに至ります。四個護衛隊群体制が確立してより二十年、積年の願いは結実をみたのです。
そして1990年代は平和下の騒乱という激動を背景に、国際貢献の時代へ、我が国は専守防衛列島要塞という概念から、積極的に世界への貢献をめざし、世界の安定を以て我が国の安寧を得るという新しい安全保障観に基づき、防衛政策の転換が行われたということも忘れてはなりません。
2000年代は、新しい国際秩序模索と共にインド洋海上阻止行動給油支援、イラク派遣支援、ソマリア沖海賊対処任務と、海上自衛隊の任務範囲は遠くインド洋アラビア海へと広がり、旧海軍が為し得なかった規模での海上護衛戦を展開、2000年代は海上自衛隊の活動範囲が抜本的に拡大した時期でもあります。
同時に2000年代は1990年代末期の北朝鮮ミサイル危機を契機に世界有数の弾道ミサイル防備網を構築するに至り、加えて中国原潜対処海上警備行動など日本海沿岸と南西諸島への防衛が冷戦時代来の規模で切迫していることを痛感させ、その整備へと転換した時代でもありました。
2010年代。海上自衛隊に撮りこの新しい時代は、2000年代から整備が開始された全通飛行甲板護衛艦が護衛艦ひゅうが、いせ、二隻体制となり、22DDHの建造と共に数年以内に全通飛行甲板護衛艦は四隻体制となり、航空機の能力により多くの能力を発揮できる全通飛行甲板型護衛艦四隻によるパワープロジェクションの時代となることが考えられます。
そして日本史に刻まれた東日本大震災。我が国は、外敵への備えと共に内憂として巨大地震への備え、そして大震災の災厄を転機とした我が国の産業社会構造の転換による海上交通路への依存度の増大にも直面することとなり、海上自衛隊の任務にもより高いものが求められています。
これに加え、南西諸島に突き付けられた周辺国の軍事的圧力。冷戦終結後の国際秩序は緊張下の平和から緊張緩和下での騒乱へと発展しましたが、再度転換し緊張下での騒乱へと変化しつつあり、極東地域においては大国間の軍事的軋轢が既に冷戦時代に並ぶ規模で展開しているのは、多くの報道から片鱗を読み解くことが出来るでしょう。
こうした脅威へは隣国が航空母艦を以て脅威を及ぼす可能性があり、護衛空母、原子力航空巡洋艦、ヘリコプター巡洋艦、巡洋艦隊、全通飛行甲板巡洋艦、VTOL機搭載護衛艦と検討が進められた抑止力としての大型護衛艦について、今後より現実的に検討されることもあるやもしれません。
我が国は不透明な時代、見知らぬ明日に向けて歩み続けていますが、こうした中、アフリカ沖任務、南西諸島防衛、巨大地震対処と新しい任務への期待を背負いつつ、明日海上自衛隊は創設60周年を迎え、海の護り60年を達成しつつ次の時代へ船出することとなります。
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
海上自衛隊は、我が国日本国民の財産、大切に共に歩んでゆきたいですね。