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小牧基地航空祭2016/2015年度オープンベース【1】 輸送機と航空管制・救難教育の一大拠点

2016-03-14 23:59:33 | 航空自衛隊 装備名鑑
■小牧基地航空祭2016
 日曜日、小牧基地航空祭へ行ってまいりました。今回からその様子をお届けすると共に小牧基地について、みてみましょう。

 小牧基地は航空支援集団隷下の第1輸送航空隊が飛行群と整備補給群に基地業務群を展開させ、飛行群隷下に第401飛行隊と第404飛行隊を展開しています。航空救難団隷下の航空救難団整備群と救難教育隊、航空保安管制群隷下の小牧管制隊、航空気象群隷下の小牧気象隊、航空教育集団隷下の第5術科学校、防衛大臣直轄の航空警務隊小牧地方警務隊、航空機動衛生隊が展開している基地です。

 小牧基地航空祭、名古屋空港と隣接する愛知県小牧市春日寺1-1に所在する小牧基地は、我が国国際貢献へ重要な輸送機部隊という位置づけにある基地です。その始まりは陸軍が1944年に建設した陸軍小牧飛行場に始まり、1500m滑走路へ第11飛行師団隷下部隊を展開させ中部地区防空に充てる戦闘機部隊基地として始まりました。戦後はアメリカ軍へ接収され、その後1957年に民間航空機の乗り入れが開始、そして自衛隊基地となりました。

 戦後の航空自衛隊小牧基地は第3航空団小牧基地、として戦闘機部隊を運用し中京地区の防空に当たる基地としてあゆみ始めました。現在は青森県の三沢基地に展開する第3航空団は、航空教育の拠点である松島基地にて臨時第3航空団が新編、要員充足を待って1958年に小牧基地開庁準備が進むへ小牧へ移駐、F-86D夜間戦闘機を運用する第101飛行隊も岐阜基地にて新編され、小牧基地へ移駐します。

 戦時中、第11飛行師団は大阪に司令部を置く陸軍飛行師団ですが、第47航空地区司令部が小牧に展開し、第42飛行場大隊が基地を運用しました、戦闘機部隊は三式戦闘機飛燕と四式戦闘機疾風に五式戦闘機を装備し、隷下には第23飛行団飛行第5戦隊、飛行第55戦隊、飛行第56戦隊、飛行第246戦隊を隷下に置き、中京地区防空には、小牧飛行場、浜松飛行場、明野飛行場、清州飛行場、から厳しい本土防空戦にあたりました。

 中京地区防空は第11飛行師団に加え、明野教導飛行師団と浜松教導飛行師団が戦闘支援に当たりまして、併せて阪神地区防空には第18飛行団が伊丹飛行場と大正飛行場を起点として防空任務に当たっています。伊丹飛行場は米軍が朝鮮戦争期に拡張し大阪国際空港となり、軍都として戦後も発展し、その後創設された陸上自衛隊中部方面総監部が置かれていますし、大正飛行場は現在の八尾駐屯地、元々大阪第一空港で、歴史のつながりを感じさせてくれますね。

 航空自衛隊としての小牧基地の歩みは、1959年の小牧基地開庁まで遡りますが、厳しい大戦中の本土防空戦は、限られた航空機を適切に航空管制する組織的防空作戦能力が技術開発と通信器材に戦術研究に限界があった為でした。航空自衛隊は1958年に要撃管制要員を養成する専門教育部隊として管制教育団を松島基地にて新編、小牧基地開庁とともにへ移動しました。

 小牧基地といえば輸送機という印象を受け易いのですが、航空管制教育の総本山であるわけです。管制教育団は1962年第5術科学校へ改編されます。限られた航空機であっても侵入経路と戦闘機部隊の適切な誘導を実施し組織的に防空戦闘を展開すれば、特に本土防空は防空管制網を予め予備施設と通信基盤共々整備できる強みがあり、対応できる、との米空軍の教育支援を受け、本土防空を独力で対応するべく構築されたもの。

 第5術科学校は、航空警戒管制や航空保安管制を主軸とした教育を実施していますが、航空警戒管制部隊及び航空保安管制部隊の運用に関する教育も担当し、更に要撃管制実習とバッジ正規課程及び電算機処理員課程と、教育範囲を順次拡大しました、高蔵寺や浜松に分校が置かれ量的充実を図った時代もありましたが、現在は小牧基地に集約され教育が実施されています。

救難教育隊の基地、という小牧基地の印象も広く認識されています。恐らく名古屋空港展望デッキから臨む小牧基地には、救難教育隊と大書された司令部庁舎が見えますし、中京地区では救難教育隊の厳しい訓練の様子が幾度もテレビで特集され、凄い厳しい鬼教官が、出演された鬼教官と紹介された方は、本人曰く優しい方との事ですが、強く厳しく逞しく、世界最高水準の救難員を養成している、という印象があるのでしょう。

 小牧救難分遣が小牧基地開庁と同時に展開し、1959年中に小牧救難隊へと改編されます。自衛隊救難教育部隊は1958年、浜松基地に日本で最初の航空救難組織である臨時救難航空隊が新編された事に遡ります、しかし、その翌年1959年9月26日に伊勢湾台風が上陸、高潮被害により名古屋市とその周辺を中心に犠牲者4697名と行方不明者401名という甚大な被害を及ぼしました、ここで臨時救難航空隊と小牧救難隊が派遣、ヘリコプターによる世界初めての大規模な災害救助任務が展開されました。

 この時点で小牧基地には小牧救難分遣が置かれていまして、入間基地航空救難団航空救難団司令部の隷下に置かれていた訳です。1958年10月1日の臨時救難航空隊新編と同時に救難航空隊と救難教育隊及び救難整備隊が編成されていたのですが、救難教育隊は創設以後長く浜松基地に置かれていた訳ですね。そして1971年、救難教育隊が小牧基地に移動します。小牧救難隊は浜松へ転地し、浜松救難隊へ改称、こうして小牧が救難教育の拠点となった訳です。

 第3航空団、1959年にF-86Dを運用する第102飛行隊が、1961年にF-86Dを運用する第103飛行隊が新編されました。F-86Dはレーダーとマイティマウス空対空ロケットを搭載し、レーダーにより敵爆撃機編隊を捕捉しロケット弾による弾幕で一撃で撃破出来る戦闘機でしたが、対戦闘機戦闘では主武装のロケット弾が使いにくく、航空自衛隊では機関銃を主武装とするF-86Fが草創期の主力でした。

 小牧基地の戦闘機部隊拠点としての位置づけですが、1978年、第3航空団は三沢基地へ移駐します。三沢海軍航空隊の基地として知られる三沢基地ですがアメリカ軍が接収し、1957年に航空自衛隊臨時北部航空司令部訓練隊、現在の北部航空方面隊が置かれたのですが戦闘機部隊としての基地は東北部では八戸基地へ置かれ、三沢基地は1971年に漸く日本へ管制権が返還された米軍基地でした。

 1978年第1輸送航空隊輸送航空団隷下で編成されます。これは第3航空団が三沢基地へ移駐した関係から、C-1輸送機を運用する航空部隊を小牧へ展開させるものとなった訳です。C-1輸送機は航空自衛隊にとって夢の航空機でした、それ以前のC-46輸送機は2tまでの貨物しか搭載出来ず、しかも側面貨物扉を採用したため車両輸送能力が基本的にありません。そのC-1輸送機もC-130輸送機へ改編され今に至ります。

北大路機関:はるな くらま
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