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京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

新潟中越地震発災十五年-自衛隊災害派遣秘話,全村避難の衝撃と被災地へ急ぐ部隊や現場軋轢

2019-10-23 20:03:31 | 防災・災害派遣
■我に可能な事は全て実施せよ
 本日10月23日は新潟中越地震発災の日、あれから15年が経ったという。そこで本日は当時の自衛隊秘話などを振り返りまして、次の災害へ備える基点としましょう。

 はるな。第3護衛隊群の旗艦として日本海に君臨した護衛艦も災害派遣へ参加しました。ただ、地震発生当時は舞鶴地方隊の応急即応艦が護衛艦あぶくま、その護衛艦は満載排水量2800tとそれ程大きくは無く、即応艦という位置づけも1998年の能登半島沖不審船事件のような武装工作船対処を念頭としていた為にそれ程救援物資は搭載していませんでした。

 あぶくま、総監部はしかし兎に角いち早く被災地へ行け、という命令を出しまして艦内では被災者救援物資を当面搭載している物資だけで出来る事をやろう、と応急用の非常食を準備し湯煎する施設が足りないとかで科員浴室を最大限熱く沸かして湯煎したり、毛布を掻き集めたり、工夫だけを考えて新潟へ入港した次第です。ただ、あぶくま型はちいさい。

 はるな、舞鶴基地にて最大限物資を搭載し新潟へ駆けつけました。舞鶴基地で一番大きな護衛艦は当時イージス艦みょうこう、でしたがヘリコプター搭載護衛艦はるな、航空機格納庫という格好の物資貯蔵施設がありましたので、満載し駆け付けます。ただ埠頭は一杯、そこで仕方なく護衛艦あぶくま隣に係留したそうなのですが、救援物資受付は、あぶくま。

 あぶくま搭載の物資はかなり使い果たしていた為に、はるな入港は待ち望んだ増援だった、という構図ですが、物資は護衛艦あぶくま経由で被災者に手渡される為、一番乗りの手柄的な構図になっていまして、あぶくま乗員、はるな乗員共々苦笑を交えながら精一杯災害派遣任務に当ったというおはなし。災害派遣当時の護衛艦はるな乗員の方から聞きました。

 陸上自衛隊災害派遣、新潟県では山間部の山古志村が山岳崩壊により突如谷間に現れた土砂ダムにより全村避難する事となりまして、白羽の矢が立ったのがヘリコプターです。新潟県は群馬県の第12旅団管区でした。第12師団から旅団へ縮小改編となり、マンパワーが不足する中ではありましたが、改編で空中機動旅団としてヘリコプターが増えています。

 CH-47J輸送ヘリコプター、映画で“マリと子犬の物語”という全村避難の山古志村で置き去りにされたワンコさんの映画がありまして、十年以上前に相馬原駐屯地祭を撮影しました際に、ふとその話題に触れてみたのですが、映画に出ていました、という隊員さんが。映画ではUH-60JA多用途ヘリコプターでしたが実際にはCH-47Jが輸送の主力だった、と。

 土砂ダムは何時決壊するか分らず、なんでも九州の雲仙普賢岳での崩落型火砕流に似た緊張感が在ったという事ですが、映画では詰め込めばワンコくらい載せられそうな描写でしたが、あれは広報と安全性を天秤にかけた為といいまして、実際は実はかなり定員超過で輸送していた、という事です。もう十年経ったので紹介しますと定員倍近く乗せたという。

 子犬であればそのまま乗せていたと思う、親犬でも鞄に積めて居れば乗せていたと思う、というのが実際の現場だったようでして、流石にヘリの前で犬は無理とは言えないですよ、と前置きしつつ、しかしヘリコプターは満員以上でして、急ぎの避難とは言え手回り品がヘリコプターが想定する規模よりも在って、其処に定員超過で詰め込んだ、そんな状況で。

 CH-47は1982年フォークランド紛争でイギリス軍が短距離ですが210名を一機の機内に満員電車状態で詰め込んだ事はあったようですが、イギリス空挺兵のような詰め込みは被災者には何しろヘリコプターに慣れていないだけに危険で、しかし家財を棄てろとか置いて往くとかは出来ず、現場が後で懲戒を覚悟して輸送した。そんな状況だったようですね。

 航空自衛隊は、2004年が航空自衛隊創立50周年の節目でした。別に意味は無いように思われるかもしれませんが、実は入間ヘリコプター空輸隊、災害派遣での主力となるCH-47J輸送ヘリコプターが機体全体を50周年記念塗装、としていたのですね。後に聞いた話では、そんな、50周年おめでとう塗装で、災害派遣に駆け付けて大丈夫なのか、という悩みも。

 入間ヘリコプター空輸隊、しかし今できる事をやろう、という事で記念塗装のまま飛行したということでした。大きなことが大事なのですから小さなことに拘らず災害派遣を行う、そういった指針ですね。平時であれば一過性の特別塗装、CH-47は記念塗装そのままで災害派遣へ展開した事で報道写真に残り、50周年塗装はいまも新聞縮刷版で記録されている。

 うらが。掃海母艦が呉基地付近よりそのまま新潟へ派遣される事となりましたが、やはり掃海母艦も訓練を切り上げて緊急出動した為に、舞鶴基地へ物資を集積し積載した上で新潟へ向かう事となりました。そして舞鶴基地では総監から緊急の命令が、陸上自衛隊が実施している入浴支援、しかし供給量が足りないという。海上自衛隊でも何とかさせろ、と。

 艦艇の入浴設備を開放、と行きたいところですが元々洋上では水が貴重でして、掃海母艦は掃海艇乗員の休息も任務の一つである為に多少、護衛艦よりは余裕はあるにしましても、一個連隊単位で入浴させる事を想定した陸上自衛隊の入浴設備と比べれば微々たるもの、人員数では一個普通科連隊は一個護衛隊群の乗員に匹敵するのですから、母艦にも限界が。

 総監命令は、海上自衛隊に陸上自衛隊の野外入浴設備に相当するものは無いので、現在ある装備を工夫して対応せよ、という。しかし舞鶴地方総監部には、当時の総務部長が機転の利く方だったらしく、要するに湯船だ、と着想したとのことで、用途廃止予定の膨張式救命筏を湯船とする、一寸破天荒に見えますが湯船に救命筏を活用する方法を検討します。

 はるな、既に現地に展開しています護衛艦はるな、は蒸気タービン艦でして調理にも蒸気窯を用いる等の蒸気に余裕があるものでした。方法はこう、救命筏を膨張させ真水を張る、真水は現地でも調達できる。そして救命筏に張った真水に蒸気管を沈めて高温蒸気を噴出させる事で一気に入浴できる適温まで加熱できます。こうして入浴支援を実施しました。

 自治体との軋轢、自衛隊災害派遣の話題となりますと自衛隊が到着してみんな助かっためでたし、と大団円となる印象があるのですが、実際には一つ軋轢が在ったというのは当時の新潟県庁の方から聞きました話題で。実は新潟県は土砂ダムの状況を把握したくとも陸路は山岳崩壊で通れず、防災ヘリコプターに当時充分な暗視装置が搭載されていません。

 FLIR,前方赤外線監視装置という夜間に多少の雨霧なども見通して画像情報を収集できる装備が必要なのですが、単なる高感度カメラや赤外線カメラを搭載した防災ヘリコプターはありますものの、FLIRは救難ヘリコプターや特殊戦ヘリコプター等一部の機体にしか搭載されていませんでした、なにしろ警視庁SATが運用する機体にもFLIRは後日装備です。

 UH-60JA,しかし陸上自衛隊の多用途ヘリコプターはFLIRと気象レーダ装置を搭載していまして、これは島嶼部間を飛行する為に必須の装備であった為なのですが、新潟県がのどから手が出るほど必要としていた情報を、新潟県は自衛隊ヘリのFLIRで得られたことを知らず、自衛隊も災害派遣用の部内情報として活用していたのみで、共有できませんでした。

 第12旅団の視点からはFLIRの画像は防衛秘密ではないとしましても、その解像度等は部外秘であり、これは夜間の作戦能力の多寡を積極的に示す事を第一線の旅団だけで判断できない為ではあるのですが、求められていない為に開示していません。ただ土砂ダムの危険域内での捜索や避難誘導など災害派遣を実施していた為、情報は活用されてはいますが。

 新潟県庁としては、どの程度に土砂ダム決壊が切迫しているかを文字通り身を挺してでも必要としていた為に陸路から得ようとした程でして、後日にFLIR画像が存在し、非常に鮮明である事を知り、何故県庁に教えてくれなかったのか、と軋轢があり、要請が無かった為、また積極的に要請が無くとも開示する情報ではない、と旅団から回答が在ったという。

 教訓、しかしその後こうした教訓は反映されたようで、大規模災害の際には自衛隊は自治体へ積極的にリエゾンオフィサーを派遣し、どういった需要があるのかを探し出すようになりました。その後は統合任務部隊として指揮系統包括化を図り、後の2011年東日本大震災では戦車から早期警戒機まで使えるものは全て動員する、という姿勢を更に高めている。

 今年も数多水害がありましたが台風10号災害では長期浸水となった内陸部への災害派遣へ海上自衛隊の水中処分隊が水中処分艇を派遣しました。実証実験なのかもしれませんが、海上自衛隊は今年、琵琶湖花火大会に置いて史上初の琵琶湖における海上自衛隊体験航海を実施し、特殊警備船の内陸部への展開実証も検証しています。柔軟になったといえます。

 新潟中越地震、その後の東日本大震災では世界でも初めての早期警戒機による多数の救難ヘリコプター航空管制を実施し、太平洋岸全ての空港が使用不能となった中で膨大な数の旅客機と救難の自衛隊や消防警察自治体のヘリコプター航空管制を行うという、離れ業をやってのけました。この点で教訓は活かされ、次の事態に備えている、という構図ですね。

 さて。実は2004年新潟中越地震や2011年東日本大震災の時点と比較しまして、自衛隊は予算不足によりヘリコプターの数が相当減少しています。また、新潟中越地震でも活躍しましたRF-4偵察機、自衛隊唯一の偵察機は後継機が調達されないまま老朽化で廃止され来年には全廃されます。自衛隊に対応できる事と出来ないことというものは今後増えてゆく。

 しかし、確実だと言い切れるのは新潟中越地震のような災害が最後ではなく、実際その後も何度も地震災害が、全く違う被害様相を伴って起きつづけています。そして地震災害を重点的に備えていますと、今年の連続した台風被害の様なものが生じ、これも台風によって洪水か暴風かその被害の様相は変わっています、防災対策に王道と決定打はありません。

 すると、やはり個人でできる防災は何処までか、自宅と周辺の安全性を確認し、減災に取り組むと共に危険地域に居住する場合には将来の転居と現在の退避を含め検討するべきですし、自治体も出来ない事は全て自衛隊任せ、とするのではなく公共事業の強化による避難施設や橋梁道路強靭化、通しての土建業育成等、社会全体で取り組む必要が、ありますね。最後に、新潟中越地震により犠牲となられました皆様の冥福を祈ります、次の災害に備えつつ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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