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北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都発幕間旅情】丸岡城(福井)丸岡藩五万石-映画"戦国自衛隊"銀幕の天守閣と丸岡城を巡る歴史たち

2022-03-23 20:22:00 | 旅行記
■丸岡藩五万石の城郭
 歴史は俺たちに何をさせようというのか!、映画戦国自衛隊のポスターに在りました台詞ですが成程丸岡城は銀幕にも出まして歴史に新しい一幕を加えました。

 丸岡の地は戦国時代、織田信長家臣で北陸の虎と畏れられた猛将柴田勝家の養子柴田勝豊の所領でした。そしてこの頃に天守閣は構築されたといい、現存天守閣の中では最古の建築物で、とは長らく称されていたものなのですが。柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで敗れる。

 青山宗勝青山忠元父子、太閤秀吉の安土桃山時代にはこの二人が丸岡の地を任されるのですが慶長5年こと西暦1600年、関ヶ原の戦いで西軍側として参戦した事で改易されます。こういう意味では丸岡城の城主は頻繁に変わるのですが、江戸時代には丸岡藩が置かれた。

 徳川家康の家臣で、鬼作左の名で知られた本多重次、その実子本多成重が4万石で入城しました。その後は内紛が在ったり家臣を粛清したり加増があったりなどで本多重能本多重昭と本多重益と続くのですが、本多重益は酒色に溺れて改易で飛ばされてしまうのですね。

 キリシタン大名で有名な有馬晴信、その曾孫にあたる有馬清純が本多重益の追放後、幕府により越後糸魚川藩から5万石で入城します。ただ、このあたりから安定して往きまして、第2代藩主有馬一準は正徳元年こと西暦1711年に外様大名から譜代格へ格上を果たします。

 藩は譜代 5万石となりまして、有馬孝純に有馬允純と有馬誉純に有馬徳純そして有馬温純と有馬道純、歴史を紡ぎ、明治維新を迎えます。一時は越前国南条郡のうち 2村と坂井郡のうち91村とを収めましたが、廃藩置県ののち暫くして福井県と統合、いまにいたります。

 戦国自衛隊、丸岡といいますと戦国自衛隊を思い出します。こう説明しますと1979年の千葉真一主演の角川映画を思い出すかもしれませんが、実は城郭にあまり知識が疎かった頃、丸岡といいますと原作の戦国自衛隊で60式装甲車の操縦士が、丸岡一士だったという。

 60式装甲車は車長が島田三曹といいまして、半村良の原作版とこれを忠実に劇画化した田辺節雄の作品では搭載する12.7mm機銃と相まって印象的な装備として活躍しています。映画版では短い尺で迫力を増させる為に60式装甲車は61式戦車となってしまうのですが。

 伊庭三尉。戦国自衛隊の主人公なのですが、この劇画版では直接に丸岡城は出てきません、しかし、1979年の千葉真一主演の角川映画版には、しっかりと出てくるのですよね。丸岡城ではなく春日山城役での出演というかロケ、よくぞ撮影させてくれた、というほどに。

 S-61ヘリコプター、航空自衛隊で昔救難用に使っていたものと同型機が陸上自衛隊機として出ているのですが、なんと丸岡城の天守閣真横にホバーリングさせてアクション、という出演となります。そんな意味で、映画愛好家の方には知られた城郭といえるのやもです。

 しかし、不思議なのは戦国自衛隊です。彼らは“戦いに明け暮れた戦国時代には最新装備を手にした自衛隊でも生き残る事は出来なかった”という主題なのですが、そもそもあのタイムスリップした自衛隊の連中がソ連軍の北海道侵攻で生き残れたのか、ということ。

 昭和の時代は平和、こう戦国自衛隊ではいっていましたが昭和の自衛隊を知る方というか61式戦車の時代から戦車乗員をやっていた方の話を聞きますと当時の北部方面隊なんかは開戦前夜の緊張が定期的に、という気風だったので、なにか自衛隊観が違うなあ、とね。

 映画“乱”、黒澤明監督の映画を見ますとセットの城郭は階段の位置から、ああこの天守閣のモデルは丸岡城だ、と直ぐに気付くことがありまして、なるほど、このお城は名優でもあったのだなあ、ふとそんな事を思わせるものでした。やはり、城郭巡りは愉しいものだ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都発幕間旅情】丸岡城(福井)日本最古か歴史議論呼んだ大入母屋二重三階天守閣は四間最上階を備える

2022-03-23 20:00:26 | 旅行記
■丸岡城天守閣探訪
 丸岡城天守閣は現存天守閣と云う事で急な階段を上り下りで探検のようにて実に愉快です。

 丸岡城、城郭は遠めに見える小城という印象とは百聞一見にという印象も、それも一見には写真が含まれず実際昇って眺めてみる重要性を云う事を改めて示してくれます。広々としているのです。もっともこの日は観光の方も少なく、広さに余裕が在った為でしょう。

 霞ヶ城の名でも親しまれる城郭は、考えてみますと周りの静かな佇まい、住宅街に学校という立地から小さく見えるものですので、霞といいますか、霧の中にふと浮いているような気象の日に朝日と共に眺めてみますと、案外居城の様な印象を受けるのかもしれません。

 独立式望楼型二重三階の天守閣、天守閣の最上階は四間と広々としていまして、これは安土桃山時代の天守閣、現存しない織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城と比較してみましても、最上階は安土城も大坂城も三間四方といい、実は丸岡城の方が広いという事実が。

 最古の天守閣ではないという福井県教育委員会福井城郭研究所年報研究紀要が2019年に発表されていますが、見た目が古い事もあり日本最古の現存天守閣であると信じられていたのですが、最古という割には、その時代の天守閣と比較し最上階の広さは一つ論点でした。

 織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城、実は天守閣の最上層を広く採るという設計は慶長時代後期のものであり、当初考えられた1576年造営の柴田勝豊建造による天守閣という検証に疑義を示す一つの根拠ともなっていたようです。一方、見た目という視点は重要です。

 大入母屋の二重三階という天守閣、現存天守閣の常として階段の角度は剣岳よりも急角度ですのでカメラバックを肩掛けしての登城、文字通りの上るのは若干バックの蓋を確認してしまいますが、不思議と中は広々としており、落ち着いて城下などを眺めても愉しい。

 大入母屋様式、見た目は重要だと記しましたが、その見た目と云うのは大きな御堂に天守上層を増築した様な大入母屋方式の建築様式というもので、これは古い天守閣の一つの建築様式でもあったとのこと。そして丸岡城天守には、大黒柱にあたる通柱もありません。

 天守台が広々としていることから一階平面部に冗長性を持たせて設計され、ここに天守台を被せるような腰屋根方式となっています。ここは犬山城天守閣と似ているのですが、犬山城天守閣は腰屋根方式部分を後年建築した一方、丸岡城は一体建築されたとされている。

 層塔型天守閣。現在の姫路城や再建された大阪城や名古屋城は高層建築の様な一体式の方式を採っていまして、これを層塔型天守閣といいます。この共通点は天守閣の広さなのですが、織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城は天守閣に関する考え方の違いが見て取れる。

 安土城や大坂城は天守閣は戦闘の為の城塞ではなく政治中枢と権力誇示のためのものであり、城主は天下人、天下人は眺望を独占するというかたちから多数の賓客を接遇する為の施設ではなかったのですね。対して層塔型天守閣は展望台ではなく、有事の備えでした。

 層塔型天守閣は有事の際の最後の防衛拠点であり、兵器倉庫など実用性を考えたものでした。すると、既に天下安泰を原則として造営された安土城や大坂城は、万一の備えたる層塔型天守閣に淘汰された。江戸城も明暦の大火以降再建されなかったのも安泰故でしたね。

 城郭、面白いのはこの現存天守閣である丸岡城も、正確な築城年度が判明したのは2019年という点でして、日本にはまだまだ不思議やなぞはあるのですが、天守閣の建造年度さえ研究の余地があるという事は、何か日本も広いものだと浪漫さえも感じてしまうのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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ゼレンスキー大統領は何を語るかー今夕衆参両院議員前で演説,ロシア外務省は日ロ平和交渉中止を一方的に通告

2022-03-23 07:00:34 | 国際・政治
■臨時情報-ウクライナ情勢
 ゼレンスキーウクライナ大統領の国会におけるオンライン演説会が遂に実現します。

 ゼレンスキーウクライナ大統領の我が国国会における大統領演説が本日日本時間1800時よりWeb中継により衆参両院議員臨席の特別会議室にて執り行われます。ロシア軍ウクライナ侵攻から間もなく一ヶ月、ロシア軍という巨大な軍事大国の攻撃から果敢に抵抗を続け世界に驚きを以て受け止められている若き指導者は日本の国会に何を語るのでしょうか。

 ウクライナへ侵攻しているロシア軍は日本にとり隣国でもあるのですが、冷戦時代には北海道始め強大な軍事圧力を掛け、首都東京へ向けての爆撃機による示威飛行“東京急行”を繰り返しています。また太平洋戦争では不可侵条約破棄による参戦と非戦闘員殺傷、終戦後の捕虜に対する強制労働による大量の死者を出すとともに今へ禍根を残しています。

 ゼレンスキー大統領は、平和憲法を盾に世界危機への傍観を続けている日本の、手段として平和を用いるが結果としての平和実現は度外視する、この戦後日本をどのように見ているのか、また国内情勢と世論ばかりを注視する“一億総引き籠り”という実情を前に如何に世界の視点を突き付けるのか、現実主義の最前線で何を語るのか、関心はつきません。

 日ロ平和交渉中断がロシア外務省より一方的に通告されました。日本とロシアは1956年に日本とソ連のあいだで締結された日ソ基本条約がありますが、日本とソ連はその後の平和条約締結までは進まず、ロシアはソ連より国際法上の国家継承を行った後に、平和交渉をすすめ、安倍政権時代にプーチン大統領がその無条件調印を迫りましたが進んでいません。

 両国関係は戦争状態ではありませんが、日ソ基本条約締結までは日本は国連へも加盟できない状態となっており、一方で続く平和条約締結へ前進できなかった背景には、日ソ不可侵条約の一方的破棄と日本のポツダム宣言受諾後に進められたソ連の軍事行動による領土割譲への日本のソ連への不信感、そして何よりサンフランシスコ平和条約の解釈問題です。

 北方領土問題としていまなお日ロ間に大きな溝を構築している現状は、サンフランシスコ平和条約として北海道に帰属する離島がふくまれていたことから、千島列島南部の択捉島と国後島、そして北海道に隣接する歯舞諸島と色丹島について、ロシアの施政下から返還されるべきとの立場を日本が堅持している為ですが、今回一方的に中断を通告されました。

 日ロ平和交渉は一筋縄では行かない事は認識しています、特にロシアにとり北海道北方のオホーツク海は戦略ミサイル原潜の聖域であり、ロシアがウクライナに突き付けた中立化、事実上の衛星国化は北海道に対しても突き付けたい要素に他なりません。こうした中で、ロシアから見れば千島列島の一部である北方領土返還は現実的でない要求ともいえます。

 日ロ平和交渉、しかし同時に忘れてはならないのは、ロシアはソ連時代に、北海道の留萌-釧路以北のソ連割譲を要求していた事であり、今回ウクライナ侵攻に際して突き付けた意味不明の口実により北日本侵攻を行う可能性は否定できず、何よりロシア軍が実施しないのは平和愛好ではなく、単にロシア軍の戦力が整備されていない為という背景があります。

 ゼレンスキー大統領は今夕、我が国国会において史上初となる外国首脳のオンライン演説を執り行うのですが、これは同時にウクライナ情勢を遠い東欧の出来事として見るのではなく、実は我が国に及びかねない厳しい現実が、戦争の形で現在東欧で顕在化しているという認識で、もう少し世界における日本の立場を考えてゆく必要があるよう、思うのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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