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京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】福知山城,明智光秀から細川藤孝とそして有馬豊氏から第7普通科連隊へ紡ぐ

2021-01-19 20:11:41 | 写真
■福知山城築城から歴史を辿る
 福知山城の城郭は複雑な防御を秘めて且つ湛えていましたが、築城から今日の自衛隊も駐屯する街へと辿った城郭と城下の歴史も複雑です。

 福知山という地名は、舞鶴まで京都から鉄道にて探訪する際に途中の綾部駅にて福知山方面と東舞鶴方面へ乗換、特急たんばまいづる号もこの綾部駅で切り離し作業を行います。実際、舞鶴線へ乗り入れる東舞鶴行普通列車も始発駅は福知山駅だったりするのですが。

 舞鶴と福知山の関係、城郭を巡る京都府北部の二つの街の関係を見ますと、実は近しい関係である事に驚きます、明智光秀が本能寺を経て天王山の敗北の後に討たれますと、福知山城主は羽柴秀吉、続いて羽柴秀勝、杉原家次、小野木重勝と主は移ろってゆくのですが。

 細川幽斎こと細川藤孝はこの頃、田辺城、今の西舞鶴駅前に在る田辺城主としてこの地を収めていたのですね、細川藤孝は明智光秀と最も深い盟友であるとともに、本能寺の変を経て明智軍に何故か呼号せず中立を維持したという、歴史を紐解く鍵を握る一人ではある。

 関ヶ原の戦い。豊臣秀吉の没後に政権主導か方向性を巡り日本が再び二つに分かれた合戦に際し、当時の福知山城主小野木重勝は西軍の一員として、東軍の細川幽斎居城田辺城を攻める田辺城の戦いが繰り広げられます。当時の城主は実子細川忠興、関東へ参陣中です。

 田辺城には留守居役の細川幽斎が寡兵もって小野木重勝の猛攻に何とか持ちこたえようとするも和議にて開城を強いられます。しかし、関ヶ原の戦いが東軍優勢と西軍の瓦解敗走と決着がつくと共に細川忠興は東軍の将徳川家康に直訴、福知山城への逆襲を始めました。

 関ヶ原の戦いを経て細川忠興は福知山城を攻略、暫く細川氏が占領の期間を経て、福知山は有馬豊氏、徳川家御伽衆の一人で関ヶ原の戦いでは岐阜城攻めの勲功があった有馬豊氏が六万石の石高を以て転封され、福知山の城下町形成を本格化させた、と歴史は進みます。

 有馬豊氏の治世は穏やかで城下町には明智光秀時代に計画が示された由良川治水等も大きく進みましたが慶長19年こと西暦1614年からの大坂の陣でも勲功は大きく、元和6年の西暦1620年には筑後久留米21万石に加増転封されることとなり、福知山を去りました。

 福知山藩の歴史は、有馬豊氏の治世の後は足繁く藩主が入れ替わる時代となりまして、亀山城岡部長盛が3年間、摂津国中島藩より稲葉紀通が24年間、刈谷藩から松平忠房が20年間、これらを経て寛文9年こと西暦1669年に北関東土浦城の朽木稙昌が藩主となります。

 朽木氏の入城と共にようやく藩政は安泰となり、以後幕末まで200年間、朽木氏の時代は13代に渡り継承されてゆきます。この頃には福知山城は軍事拠点でも兵站拠点でも無く、文字通りの行政中枢となり、明治時代を迎え廃藩置県と廃城令まで、歴史を紡ぐのですね。

 特急たんば号車内からは迫力ある城郭ですが、なんと元々は本丸と二ノ丸の繋がる縄張りが明治時代の廃城とともに削り取られてしまい住宅地へ、また伯耆丸と内記丸間に至っては鉄道線建設に伴い削られたといい、これを知るとなにか電車の車窓が複雑になるのです。

 福知山城、この城塞は軍事拠点としてよりも上掲の通り兵站拠点としての色彩が強いものではありましたが、規模の大きさから江戸時代には行政中枢として機能し、これが明治以降、連隊区が置かれる軍都や鉄道拠点として整備、今日の福知山市が形成されたのですね。

 今日の福知山城は、美しい石垣が印象的です。元々の石垣は転用石として墓石や灯篭などが流用され、中でも日本最古の転用石がある事でも知られるのですが、大変な美観維持への除草作業は、福知山駐屯地第7普通科連隊のレンジャーが支援し、今日も美しさが保たれています。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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