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【京都幕間旅情】清水寺,春夜間特別拝観(後篇)本堂改修と四〇〇年の未来へ繋ぐ本堂用建材

2017-04-26 23:14:03 | 写真
■清水寺,いまこの時代の情景
 清水寺、本文がながくなり写真特集も前篇中篇後篇と三度に亘りました特集、いよいよ大団円へ。

 清水寺散策、本堂、音羽の滝から見上げますとケヤキの樹齢400年以上という18本の柱がかけ造りにて組み上げられ、12mもの高さの柱が立っていますが、清水の舞台から飛び降りるという言葉の元は、願掛けのために飛び降りるという事、実際に行われていました。

 夜の特別拝観ですが、本堂が覆いにおおわれているのは昼間に見ますと少々残念な印象を受けるものですが、これは昼間の印象でして、夜に拝観しますと足場の木目が暖かな光を反射していまして、逆に今この瞬間に敢えて参拝してよかった、との印象を新たにします。

 清閑寺という隣の寺院があり、かつては清水寺を参詣した後にこの参拝へ向かうという経路もとられていたとのこと。ただ、今足を運ぶと同じ東山区でも少々距離があります、願掛けの一つの経路であったようですが、一日の一つの参拝経路としては、興味深いところ。

 清水寺と清閑寺、滝行と三十三度の本堂参拝よりは二つの寺院拝観のほうが成就への本来の努力へちからを残せるのかもしれません、ね。南部仏教と平安仏教でこの二つの寺院は対立した歴史がありまして、この二つで満願成就を祈念することで御利益を期待した、と。

 本堂は樹齢400年の木々を用いて構築されているのですが、本堂が再建されたのは400年前、木造建造物は樹齢の倍の寿命ということですから、あと400年は清水の舞台は大丈夫、ということになります。そして清水寺では400年後の再建へ、清水寺の準備は進みます。

 新しくケヤキの木々の植林を行っていまして、2000年頃にケヤキが植えられ、まだ2017年、このケヤキはまだ直径十数cmですが、400年の大木となるにはかなりの時間を要しますが、400年後、木々は大木となり、清水寺の継承と再建へ貴重な建材となるのでしょうね。

 木造と云いますと清水寺と共に思い出すのは西方の守り、姫路城です。このほど姫路城の修復成った白鷺城の美麗を拝見しましたが、その大修理には姫路城主所縁の神社御神木が供せられ、平成の大修理に応用されたとの事、こうした話は古の熊本城でも聞く話です。

 歴史、というものを考えますと修復と重ねて寺院の美麗は維持されているのですね。しかし、ひと月になるのは400年後の清水寺修理が行われる頃の京都の姿です。多くの寺院も修復を重ねている頃なのでしょうが信仰と文化財保護、何処まで続いているのでしょうか。

 清水寺を拝観し、清水の舞台を望見しますと忘れがちですが奥の院の舞台も見事なものです。室町時代には舞台はもう一つあり、本堂の舞台、奥の院の舞台が並んでいました。そして室町時代にはもう一つ、本堂の裏にももう一つ舞台があったのであると伝わります。

 朝倉堂、として今日残るお堂ですが、室町時代にはここに舞台があり、もう一つの眺望を朝倉貞陰がきょうしていました。しかし、こちらは応仁の乱を生き残ったものの江戸時代初期に火災、舞台は焼失してしまいました。ここは今、清水寺を見上げる池となっている。

 朝倉堂と舞台は建物がこの火災の出火元となった為、江戸時代、徳川家光の時代に再建された際、舞台の再建を断念し池として水を貯め弁天様を祀り火災に備えたといわれる。この池から三重塔を見上げ、夜間特別拝観の経路は完了、次の夜間特別拝観は八月中旬です。

 清水寺夜間特別拝観は、平成の大修理開始と共に毎年その開催を報じる写真に本殿の清水の舞台が描かれているのですが、本年は大修理中故に本殿ではなく三重塔が輝く情景が描かれています。しかし、修復進む本堂の夜間拝観も、これはこれで、見事なものでした。

北大路機関:はるな くらま
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