気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

京極町の松浦武四郎の歌碑 2013年10月6日

2013-10-07 18:52:31 | 旅行
3年前の2010年10月に虻田郡京極町の温泉の付近に松浦武四郎の歌碑があるので、岩内方面に行ったときに歌碑を見てきたが、裏書を見てこなかったので何故、その地に歌碑があるのか確認できなかった。
今回、天気が良かったので「小さな秋を見つけようか・・・」と家を出て、紅葉のきれいなスポットである八雲町の雲石峠に行ってみようと思ったが、、まだ紅葉には早すぎた。
それで、気ままに、あちこち寄り道ドライブをすることになり、まず珍名の川がある国縫に行った。地図にはその名前ワルイ川の名が記載されているので、その場所に来て見たが・・・珍名を証明するもの見つけることが出来なかった。
それで、黒松内の方に向った。道の駅で黒松内のトワベールでこだわりのハムやベーコンなどを買い求め、更に、ニセコが近いので、羊蹄山をぐるりと廻って京極温泉の駐車場にあるその歌碑を再訪した。
  
    歌碑には「天津風 胡砂拂へ しりべしの
                千代ふる雪に 照る日陰見む」松浦武四郎 

歌碑の裏には

『安政五年二月 松浦武四郎が氷雪の中を虻田から札幌へ踏査する途中、後志羊蹄山を仰いでこの碑の一首を詠じた。
雄大、豪放、その格調の高さに於いて、稀に見る名歌である
 松浦武四郎弘は伊勢國一志郡須川村の人。文政元年二月六日生、十六歳の時、国内周遊を志、あまねく足跡を印したが、當時、蝦夷地の重大さを知り、前後六回に亘って縦横に踏査し、その結果詳細に日誌及び地図として天下に紹介し、その開拓方策を要路へ献じ、明治となるや、最高の蝦夷地通として新政府に用いられ、国郡の選定にあたった。北海道の名及び国郡名は実に武四郎の原案によったもので、北海道民としては忘れることのできない先駆者である。武四郎は又、国士 学者 画家 文人 宗教家として當代一流の人物であった。
深く羊蹄を愛し、前後三回に亘って後志川の全貌を明らかにしたばかりか、この山を中心に道を四方に開き、神を祀って蝦夷地空きたく精神の中心をここに於こうと努力した。終生僻地開拓のことを忘れず、、その熱意は明治二十一年三月十日七十一歳をもって東京の自邸に没するまでつづられた。』
    昭和39年9月撰文 北海道大学教授  農学博士 高倉新一郎・・・と刻まれている。再訪して京極にある理由が理解できた。

京極温泉でいい気分になり、北海道内の彼の足跡も残る場所は少し・・・。思えば2008年に摩周湖から見える摩周岳登山をした翌日、弟子屈町にある屈斜路湖湖畔の和琴半島を一周した際、偶然にも、松浦武四郎の久摺日誌だったかと思うのですが、その日誌に書かれている「オヤコツ地獄」についてや、「ヲヘライベ」という湖に生息する魚の絵(武四郎が書いたもの)を見てから、彼の足跡を訪ようと思ったきっかけになった。この数年間、休日利用や仕事を卒業してからは目的をもった旅として楽しみになっていた。武四郎についていろいろ教えて下さる方々のおかげもありました。三重県の松浦武四郎記念館の名誉館長高瀬氏や松浦武四郎研究会名誉会長の秋葉實氏や丸瀬布郷土資料館に武四郎の足跡マップがあるよ・・・とメールいただいた「一人歩きの北海道山紀行ホームページ」(http://sakag.web.fc2/index.html)管理者のsakag氏、女満別の教育委員長W氏、芦別の郷土資料館館長の長谷山氏、「道北の釣りと旅」にリンクして下さった方など、歴史を知るだけではなく、多くのご親切な方々との出逢いも大きな収穫と感じている。