気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

八雲 稲荷神社の松浦武四郎の木碑、境橋「蝦夷地・和人地」の境 跡

2013-07-13 15:00:55 | 旅行
 国道5号線を森方向から長万部方向に進むと海側に真っ赤な鳥居と神社が見えてくる。山越付近を通過する毎に気になっていた。
「蝦夷日誌 上」には「山越内領」の記録がある。『ここに稲荷(小社)と云有。余はいつも捧物をなし、道中の安を祈りて入けるに、或時此一首をぞ書附たりける。
   天地の 神も知りませ 國の為 千島の奥に 思ひ入る身を  
  (内地蝦夷の境という注釈があり・・・)
標柱(従 函館 十里十四丁)是を内地・蝦夷地の境とし、文化比迄夷家有しが、今は他へ移たり。(中略・・・)山越内、本名ヤムウシ内にて、栗多澤(ヤムウシナイ)の義。其の地今のサカヤ川也。昔し其の所に會所有し故、場所の惣名となる。此所の本名はバロシベウシとて、住吉関柵を結し時用ひし木の切り株多を以て名づけしと。元松前家臣青山某(園右衛門)給知也。(以下略』と記載されている。このところには山奥に諏訪明神(稲荷合殿)有。圓空鉈作り座像の薬師如来を安置す・・・と書かれているので、もしかしたら、この稲荷神社に圓空作の像があるのでは・・・と記録から想像するが、確かめてはいない。(もしかしたら・・・山奥の・・・とは熊石の太田神社のことか?)
由追神社と記憶していたが、最近、稲荷神社の新しい石柱が建立され、松浦武四郎の木碑は石柱の陰になり、以前の様には見れない。
 以前の撮影状態(2009年)
(旧神社)
2011年の撮影

(説明と詠んだ詩・・・写真は2009年のもの。現在は半分が石柱に遮られて真正面からの全面撮影出来ないのは武四郎ファンとしては少々残念)
説明によると『由追地区は、享和元年(一八〇一)年、山越内に関門が設けられたころから住民が増え始めた所です。嘉永元年(一八四八)頃には漁場へ働きに来る人や往来する人で春夏秋には大いににぎわい、番屋、宿屋、茶屋、仕立て屋、私塾などがあっち並び、山越内とともに東蝦夷地屈指の繁華なところとして栄えました。この稲荷神社は、文化二(一八〇五)年ころに建立されたものと考えられています。幕末の蝦夷地探検家で、地理学者であり
、北海道の名付けの親でもある松浦武四郎は数度にわたり蝦夷地を探検し、安政五(一八五六)年にも東蝦夷地探検の名を受けて、一月二十四日に函館から第六回の探検に旅立ちました。(前記の詩をしるしてある。)』八雲教育委員会
境橋と蝦夷地・和人地の境跡木柱の添え書きには『野田追場所と遊楽部場所の境であったこの場所は、享和元年(一八〇一)に小安、戸井、尻岸内、尾札部、茅部、野田追の六箇所が村並となったのにともなって定められた。江戸時代の蝦夷地と和人地の境です。』とある。

神社付近には「山越内関所跡の石碑や地名由来の説明の碑がある。

町名の由来は八雲開拓に徳川慶勝公が日本最古の和歌とされている「古事記」の載っており須佐之男命の歌「八雲たつ 八雲垣根 つまごみに 
八重垣つくる その八重垣を 」「八雲たつ」は出雲の枕詞になったことから。たくさんの雲がわき上がる出雲の国に、八重書きをのあの雲のような壮大な住まいを建てたい、国づくりも・・・と豊かな村の建設を願って「八雲」と命名されたとある。
 山越はもともとは酒屋川の流れている沢の名。語源はアイヌ語の「ヤム・ウク・ウシ・ナイ」で栗拾いをいつもする澤という意味であるとのこと。
山越内関所跡と会所の井戸跡