気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

仁木町稲穂峠 松浦武四郎の歌碑

2013-07-17 22:01:52 | 旅行
2010年10月3日、早朝に自宅を出発し、落部ICから虻田洞爺ICまで高速利用で喜茂別を通過して国道5号線に出、国富の分岐を右折し、余市方面に向かった。稲穂峠にある「松浦武四郎の歌碑」を訊ねる目的。これは「西蝦夷日誌 下」の「岩内領の編」に武四郎の和歌が書かれている。
稲穂峠について『マッカリベツの支流に出て、余市川に出、シャックルベシベ(昔の余市のこと也に至る。)夏越道の義也。上りエナオ(稲穂)峠(ルベシベと云う)是境目なり。標識を立。(中略・・・)過ぎて本流(余市川)端に出る。其の幅五六丁間。水勢吼々と、中々舟し難し。其の振動の出来を感じて
  岩ほ切 木を伐り草を苅りそけて みちたひらけし 山のかけとも 』と詠っている。この碑は稲穂トンネルを抜け、仁木町方向に向かって左側の広場、駐車場の山寄りに建立されてある。

歌碑の説明版には
『幕末の蝦夷地探検家であり、北海道の名付け親でもあった松浦武四郎は、文政元年(一八一八)二月六日伊勢の国一志郡須川村(現三重県三雲村小野江)の郷士松浦桂介の四男として生まれる。本名は弘(ヒロム)幼名は竹四郎が通り名になった。(中略・・・)安政四年、箱館奉行より蝦夷地山川地理取調方の命を受け、同年五月十四日、その巡検の途に次、岩内から余市に至る新開の余市越え山道を見分しながら稲穂峠を越え、七曲、然別,オサルナイを経て余市に向かったが、まず振動の出来阿部を川に託し、次いで現在の仁木町に当たる地域の山野に着目して、その豊富な樹木や余市川の水利に恵まれていた広い沃野、それに余市や小樽をひかえた地理的高1などを挙げ、早期に開墾の必要性を研いでいる。・・・仁木町にとって松浦武四郎はその開拓の黎明を告げた参画者というべきである。』と書かれている。

歌碑の少し奥まったところに「まつうらの滝」と書かれているが・・・まつら・・・の滝か(草書なので・・・があるように読める)
歌碑と滝

また、松浦武四郎著の「丁巳東西蝦夷山川取調日誌 下」には「稲穂峠」について『ルベシベナイ・・・左本川は未だ其源遠しと、川源はハンケヘタヌ源と並び達するとかや。扨此処より支流ルベシベナイを上ること十七八丁にて峠へ至る。則此処を エナヲ峠 と云よし。頂上樺木多し。此処にて一同木幣を削りて天地の神に手向、また箬原を分けて下る。此辺清水涌き出でる。五丁計下り ルウトラシナイ の源え出る。』と記録している。
この後、岩内の郷土資料館を訪ねた。