気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

オロロンラインの松浦武四郎の足跡~留萌、増毛

2012-12-03 21:40:03 | 旅行
2009年9月21日、小平の民宿から留萌、増毛、雄冬に向かった。留萌は再訪の地であるが木造の貴重な建物や最北の酒蔵国稀が有名。留萌の町をぶらりあちこち歩く。まずは目的の留萌地方の松浦武四郎の踏査の石碑を探す。
 港が見える丘望洋遊園内にあり、古い赤灯台も同じ場所にあった。(写真)
   
ルルモッペ踏査の石碑について
 留萌郷土史研究会の建立による石碑の中には武四郎の描いた運上屋の風景のスケッチが刻まれている。
松浦武四郎著、吉田常吉編「蝦夷日誌 下」西蝦夷日誌の中には「ルルモッペ(留萌)領・・・本命ルヽモヲツペと云、ルヽは汐、モは静、ヲツはある、入る、ぺは水の事也。此川自然と奥深く、汐入る故に號く(なづく)是運上屋元の名也。
信砂を超えてルルモッペに入ったということで、後日、浦臼郷土資料館を訪ね、信砂越えについての挿絵を訪ねた。
「海のふるさと館」を訪ねると、ロビーから海を眺めていたら、和服の女性が私たちに抹茶を立ててくださり、松浦武四郎の足跡を訪ねる旅の途中で、思いがけない接待をいただき、感動しました。留萌の温かさなのでしょうか  
   海のふるさと館 
海のふるさと館には留萌の歴史がわかる資料館があり、私たちの旅の目的である尊敬する松浦武四郎のことがパネルになってあった。
そこには「松浦武四郎と留萌」というテーマで次のように書かれている。

『北海道の名付け親であり、当時随一の蝦夷通といわれた松浦武四郎は弘化3年、安政4年、5年の3回にわたってルルモッペを訪れています。その記録は再航蝦夷日誌、丁巳日誌、回浦日誌、西蝦夷日誌六編に詳しく述べられています。また、彼の残した東西蝦夷山川地理取調日誌はその地名の豊富さと内陸部の様子を詳しく描いている点で貴重な資料となっています。』とあり、また松浦武四郎について『文久元年(1818)伊勢国(三重県)一志郡須川村に松浦時春野四男として生まれました。16歳より、10年あまり諸国漫遊の旅に出ましたが、長崎では重病になって九死に一生を得ました。また、長崎では、友人からわが国の北辺の外国より脅かされていることや、その土地の様子がわからないことを聞き、道の地「蝦夷」の探検を思い立ちました。弘化元年(184427歳で、初めて蝦夷地にわたり、その五41歳まで、計6回の蝦夷地探検を果たしました。明治元年(1868)明治政府より開拓判官に任命され、北海道の名付け親として知られるほか、道路の計画や、札幌に役所をつくることなどの意見をだし実行されました。
明治3年(1870)開拓しを辞めた後は東京で悠々自適の生活を送りました。明治24年(1891)享年71歳で死去しました・・・と彼の生涯を記していました。
 また、海のふるさと館の側に「日和山烽火台」が建立されている。 
 この石碑は『江戸時代末期、この地は北蝦夷地や奥蝦夷地に異変があった場合の連絡用の烽火台が設置された場所である。弁財船がルルモッペ(留萌)を出航する際に気象を観測した日和山として使われた由緒ある場所である』平成元年10月1日 留萌教育委員会・・・と書かれている。 
「信砂越えの木碑」

 松浦武四郎の日誌によると、ルウチシ峠を通過して、ヌプシャ岳銀碗を臥せし如くみゆれば、『のぼり来て 雪の峯近く 成るらん ひたすらに肌 寒くなりけり』と詠い、大笹などをかき分けて下り・・・「川端に出たり。是恐らくはヌプシャの左股か(後マシケにて聞きにルウクシツロテナイ也。・・・本流と思ふに出(ヌプシャ、川幅七八間)。」と記している。
 現在は国道231号沿い信砂と道道94号線との交差する草が生えている中に木碑が立っている。木碑の裏側には『安政三年五月箱館備行勤番手付けとして西エゾ地巡回のため石狩の国イタイベツから国領マシケに向け出発。この地は信砂前浜到着の地である』指定月日 昭和五十四年七月二十五日 増毛町教育委員会