気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

史跡旅:野幌の北海道開拓の村(その3)旧札幌農学校寄宿舎など

2018-07-26 21:36:26 | 日記
北海道開拓の村には廻りきれないほどの歴史的建造物や文化的な遺産といえるような場所もあった。
(1)旧札幌農学校寄宿舎
札幌農学校(現在の北海道大学)は明治9年(1876)現在の時計台付近に開学し、明治36年現在の北海道大学の構内へ移し、寄宿舎も新築され、「恵迪寮」と命名されたもの。


(2)旧有島家住宅
日本近代文学史上の代表的作家の一人である有島武郎、明治11年(1878)~大正12年(1923)が明治43年(1910)5月から翌年7月頃まで住んでいた建物。
旧所在地は札幌市白石区菊水1条17丁目
一般住宅にも上げ下げ窓などの洋風意匠を取り入れ始めた頃の建物であるとのこと。


(3)旧島歌郵便局
「北海道で今のような郵便物の取り扱いが始まったのは明治5年。
島歌には明治19年に郵便局がおかれた。この頃の島歌は鰊や昆布の漁が盛んだったため、人の出入りが多く郵便物の取り扱いも多かったという。

(4)旧近藤医院
「明治33年に函館病院から古平病院内科医長として近藤清吉が招かれた。古平の大火で病院が焼けてしまい、大正8年に新しく建てたもの。
 彼は患者がいれば例え夜中であっても走りまわったという。
時にはお金の無い人にも治療費は一握りの野菜や魚でも診ていたという。(まさに古平の赤ひげ先生・・・と私は感じた。)


(5)旧廣瀬写真館
「大正の終わりから昭和33年まで岩見沢市で営業していた。ガラスの屋根からは自然光がスタジオに入っていたという。

(6)旧小樽新聞社
「小樽新聞社は明治27年(1894)に創刊され函館新聞、北海タイムスとともに道内の代表的新聞社の一つであった。
この建物は木造の骨組みに札幌近郊で産出する札幌軟石で外壁に積み上げられた構造で、明治期石造建築の特徴を示している。」




史跡旅:野幌の北海道開拓の村(その2)旧札幌拓殖倉庫など

2018-07-26 14:59:20 | 日記
野幌の開拓村(1)に続き、また歴史的建造物を巡る。
(1)旧信濃神社
北海道の開拓には、いろいろな県から移住されてきている方が多い。
この神社も旧所在地っである札幌市厚別区中央にあったそうです。この厚別には長野県諏訪地方の出身者が多かったので「信濃開墾地」と呼ばわれ、神社建立にあたっては郷里の諏訪大明神の御分霊をいただき、明治30年(1897)信濃神社と命名したとのこと。
鳥居

社殿

2)旧山田養蚕板倉
 旧信濃神社の隣に小さな木造の蔵があった。
札幌の琴似へ最初の屯田兵として青森県から移住した山田家。建物は明治14年頃養蚕用としてえ建てたもの。
開拓使は屯田兵の授産事業として養蚕をすすめたとのこと。


(3)旧能内屯田兵屋
明治28,29年、能内に屯田兵が来た。この兵屋には山口県出身の村上という方の家族が5人移住。
屯田兵になるには家族で働ける人が3人以上いっそにいるという条件があったようです。
屯田兵制度というのは国を守る役目と土地を開墾する役目を同時に行う制度で兵屋には農具や食器が用意されていたので、一般の移民よりは恵まれていたが、毎日の開墾と厳しい兵隊の訓練を行うという。
兵屋


(4)旧札幌拓殖倉庫
明治40年頃、倉庫の顕在には軟石が使用されている。
石づくりの良さは火災や地震などの災害に強く、温度や湿度が変化しにくく、玉ねぎや雑穀、小麦などお農産物を新鮮に保つ。




(5)旧浦河公会会堂
 明治27年に建てられたもの。
神戸の北海道開拓会社「赤心社」の結社として浦河の地に移住。指導者の多くがキリスト教徒で明治19年に「浦河公会」が作られた。



(6)旧藤原車橇製作所
明治3年(1898)兵庫県出身の宮大工藤原信吉が深川に入植し、明治36年(1903)には妹背牛で車橇を開業した。以後、3代にわたり営業を続けた。この建物は開業以来使われてきた車橇を再現。作業所と住宅からなる木造切妻の構造と説明にありました。