気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

苫小牧美々駅と美々鹿肉缶詰製作所跡地へ行く

2016-06-24 22:03:48 | 旅行
千歳市から苫小牧に向かって国道36号線から、横道に入り、カーナビに沿って進む。
JR千歳線の「美々駅」をカメラに・・・。ここは一応、秘境の駅にランク付けされている駅。
「北海道の秘境の駅」のランクには154位となっている。
国道から見えない所で、林の奥にある。秘境の駅という雰囲気ではないが、駅舎は無人駅で附近には住宅がないような雰囲気。
 開業は大正15年(1926)。駅舎の中は見てこなかったが、自転車が1台あった。学生が利用しているのかな
美々駅駅舎とホームへの階段が見える。



美々駅から国道36号線に戻り、「うえない」方向に少し進み、道道10号線を左折(苫小牧に向かって)
「史跡 開拓使美々鹿肉缶詰製造所跡」と「御駐蹕蹟」の石碑がある。

御前水の石碑(今でも湧水が流れている)

説明版には
『一八七四(明治七)年、開拓史(現北海道庁)はここに、一八七八(明治十一)年には、鹿肉罐詰製造所と脂肪製造所を設けました。
 また、製造技術を習得させるため生徒養成所および寄宿舎を附設しました。
 当時は積雪が少ないため、石狩地方などから沢山の鹿が集まりました。
この鹿の大群に着目した開拓使はこの産業化を図り、寛永(政府の営業)で鹿肉罐詰製造所を設置しました。
この鹿肉罐詰は輸出を考え、缶のラベルは日本語と英語で書かれていました。
 さらに、鹿皮は当時は高価で取引されていたため、毎年五万枚以上産出しました。しかし、大雪でによる鹿の大量餓死や乱獲で絶滅の恐れがあり、一八八〇(明治一三)年に事実上閉鎖され、ついに一八八四(明治十七)年廃止されました。なお、一八八一(明治十四)年、明治天皇は二度目の北海道巡幸(視察)のため、来道され、九月三日、その帰路札幌より車駕(天皇の乗る車。当時は馬車)で千歳から、この植苗村美々で御休憩されました。そのとき、ここの飲料水を差し上げたため、この地は「御前水」と呼ばれるようになりました。
 この明治天皇巡幸記念碑は一九一九(大正八)年に設置されました。
       平成二十一年十二月  苫小牧市教育委員会』と書かれています。
説明版の左側には、当時の製造工場と日本語と英語で書かれた罐詰のラベルがある。

ここからウトナイト湖道の駅に寄り、小休憩し、次の目的地勇払に向かった。

千歳会所跡の碑:松浦武四郎の当時のスケッチがある

2016-06-24 09:13:00 | 旅行
北広島島松駅逓所を訪ねてから、予約していた千歳市のホテルに宿泊。
前日に確認した千歳会所跡に向った。(時間的にうす暗くなっていたので・・・)
訪問日:2015年10月2日
場所は千歳市本町のホテルかめやの看板の元。
私の持っている松浦武四郎著、丸山道子訳の「夕張日誌」には千歳川番屋の図7月18日に千歳のことについて
『シュクバイ(祝梅)を渡り、赤楊(はんのき)の林の原に出るとようやく道の形らしいものに出合った。(一里半余り)この道をたどって行くと支骨川岸にでた。・・・・(中略)千歳川の東で千歳川と合流している所を渡って十七、八町で千歳会所である。・・・此の地には多くの蔵や建物があって、会所の前には千歳川の流れがあり(幅二十間ばかり)板橋が掛けてある。』と記載がある。
夕張日誌とスケッチ



「千歳橋」から千歳会所跡の方角を見る。(前日夕方撮影のため暗い)
                〇囲みが会所跡があるホテルかめやの看板

ホテルかめや前の会所のある風景
会所跡説明版と石碑

千歳川会所跡」の説明
『江戸時代、松前藩では藩士たちにアイヌの人々との交易をする独占的な権利を与えました。
やがて、藩士たちはこの権利を商人にあずけ運上金(税金)を納めさせます。
 権利のおよぶ範囲を「場所」といい、交易所として「運上屋」と呼ばれる建物が建てられました。
 寛政十一(一七九九)年、幕府は蝦夷地を直轄支配し、「運上屋」を「会所」と改名します。
 「会所」は幕府の役人もいて交易のほかに役所の出張所の役割もしました。
 千歳では文化元(一八〇四)年売場会所と買場会所の二ヶ所が立ち、蝦夷地で初めて鉄銭が交易に使われました。
文化六(一八〇九)年二つの会所は一つにまとめられ「千歳川会所」となりました。
 安政四(一八五七)年、七月十八日、蝦夷地探検家そして北海道の名付け親として有名な松浦武四郎(一八一八~一八八八)は千歳を訪れ、千歳川会所のにぎやかな様子を上図のように描いています。
 絵によると会所はちょうどこのあたりに置かれていたようです。   
           昭和六三年三月 千歳市教育委員会』と説明されている。