気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

静内 御殿山公園を訪ねて

2012-07-10 20:47:31 | 旅行
2012年6月11日、道百選で有名な静内二十間桜の近くにある「御殿山公園」を目指したが、なかなか公園の入り口が見つからなかった。カーナビに「シベチャリ流域チャシ」があったので、その方向に進んだ。牧場の看板があり、進むと公園があった。誰もいない公園。しかし、目に入ったのは「北の零年」のモデルとなった静内開拓の稲田家のレリーフや北邊の礎の碑などであった。ここにシベチャリ流域のチャシ跡があるはず。
レリーフの後の広場に溝があり、越えて行くとメナシチャシの石碑があった。
写真は『北の零年』のモデルとなった稲田一族の様子のレリーフと稲田橋

北邊開拓の礎・・・移住の由来が刻みこまれ、「静内新冠の開拓は徳島の藩老淡路國本城、在藩の稲田九郎兵衛邦植の院引率した移民団体によって始められた。(静内の基礎を築いた。)


開拓記念碑

メナシチャシ跡
静内のメナシチャシを訪ねる目的があったが、道が判らず、諦めかけたが、稲田一族のレリーフに導かれて、所在確認できた。
チャシはアイヌ語の砦、あるいは儀式の場所と言われ、アイヌ文化を研究するうえで重要な遺跡です・・・。メナシチャシは、17世紀、静内上流に勢力を誇ったハエ(現門別町)のオニビシのチャシといわれています。
オニビシは、静内川を舞台に、下流に勢力を誇るシャクシャインと争い、ここで、シャクシャイン方に打ち取られたと伝えられています・・・と書かれている。


公園を去り、元の大きな通りに戻る際に、御殿山墳墓群があった。
この墳墓群は昭和27年静内高校郷土史研究会によって発見され、約八十個の墓壙が見つかった。この墳墓群の特色は手足を折り曲げた屈葬で埋葬した。墓石の上に大小の石を置き、墓の記としています。また、副葬品(死者と一緒に葬るもの)の種類、数の多さや墓地を設定している点など、考古学上たいへん貴重な遺跡です・・・と案内板に書いてあった。高校生の考古学部など、私の高校の先輩たちも司馬遼太郎著「街道を行く」に登場している。オホーツク編によると「モヨロ貝塚」の発掘調査で札幌や函館の高校生が作業していたことが記載されていたことを思い出す。その生徒から考古学者が出た・・・と司馬氏・・・高校生パワーと夢にロマンを感じた。