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詩篇65篇

2010年03月15日 06時03分05秒 | 詩篇
「神よ。あなたの御前には静けさがあり」朝毎に、神の前に出る度に、確かにそうであると思うところがある。これが無くては一日が始まらない。まず神の御前に静まる。それが一日の始まりであろうと思う。しかしそのように思えるまでには、やはり随分と時間がかかった。
子どもが勉強が面白くない、何のためにしているかわからないと言う。語って聞かせた。成績がトップになった時にどう思ったか。何かそれなりに報われた思いがしたのではないか。やればそれなりに成果が出るのが勉強だ。しかし、成果を出すにはそれなりに時間をかけなくてはいけない。時間をかけなくてはいけない時期にあるときには、面白くないと思うこともあるし、何のためにしているかわからなくなることもある。今はそういう時期だと思えばいい。面白くないが、乗り越えなくてはいけない時期である。何のためにしているか目標が見えなくなる、そういう時なんだと思えばよい。しかしそこを突き抜ければ、後から成果がついてくる。そして身についたものを生かせる場もついてくる。たとえば通訳をして人に感謝されれば、嬉しいと思うだろう。人間は人の役に立って、初めて自分の持つ力に喜びを感じるものだ。けれども、人の役に立つには、それなりの力を身につけなければ役には立てない。力を身につけるためには、それなりの時間と努力を必要とする。時間をかけること、努力すること、面白くないことを突き抜けることは、当たり前だと思うことだ。
聖書を読むこともそうだろう。いつでも、聖書から素晴らしいみことばの味わいを得るとは限らない。今日はなかなか頭に入ってこない、みことばが咀嚼できないと思うこともある。何かスランプのように、ずっと表面をなぞっているようなディボーションに思える時が続いたりもする。しかしそれはそれで、よしとして、とにかくその日その日、神の前に静まり祈り、何かをいただくように求めていく。その継続の中で、形作られてくるものがあるというべきだろうか。継続の中で幾多の試練を乗り越え、神は、まことに真実であり、この方こそ、真に称えられるべきお方であり、真に祈りをささげるべきお方であると深い確信をもって、神の前に出ることを喜びとする時が来るものである。
ダビデのこれまでの詩篇は、逃亡の中での苦しみ、叫びを歌うものが多かった。しかしこの詩篇は違う。むしろ、神の前で祈りの中で、心安らいでいる。静まり、神の前にあり、神を仰ぐことを喜びとしている。おそらく、この歌は、何らかの国家存亡の危機から守られ、その後にもたらされた豊かな収穫時に、感謝をささげた歌であろうとされている。つまり神と共に乗り越えて、安らいでいる時の詩である。
静けさというのは、聴覚的に静かだというのではない。むしろ、魂が静かにされているということである。ダビデは、神の前に自分が肉なる者であることを認めている。神の前にふさわしくない者でありながら、神の前に立つ、その矛盾を認めている。しかし、神は罪を赦すお方であり、私たちをその大庭に呼び寄せられるお方である。そして私たちによいもので満ちたらせてくださるお方である。神は私たちに祈りの中で語られるだろう。私たちの人生のあれやこれやがみな神の計画の中で、神の守りの中で起こってきていることを。そして、私たちの身の回りで起こっていること、自然の営み、開墾、種蒔き、成長、収穫のサイクルがみな、神の御手の業としておこっていることを。イスラエルは農耕社会であったから、これがよい例示であったと思うが、近代社会の都会に住む私たちにとっては、通勤、労働、会社、など自分の歩む道筋の一つ一つに、神は恵みと祝福を用意しておられたということを、祈りの中で悟らされるのである。しかしそう思えるには、時がある。神の時を過ごすことが、神への感謝をもたらす秘訣である。今日も、神の御業がはっきり見て取れる、自分のなしていることの意味のすべてが解き明かされ、神の前に静まり安らぐ時が来ることを期待しつつ、歩ませていただこう。

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