パスターまことの聖書一日一生3⇒4(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書を一日一章読み進み、一日一生を得ることを目的に、既に四回目の通読に入りました。三年半で聖書を読み終えます。

創世記28章

2018年09月20日 06時16分12秒 | 創世記
ヤコブは、エサウの恨みを買い、自分の身を守るためには家を出ざるを得なかった。混乱した家庭の中で、父イサクの我に返ったような祈りがささげられている(3,4節)。イサクは、母リベカと一致して、ヤコブを母の父ベトエルの家に送りだし、全能の神の名によってアブラハムの祝福を祈った。イサクの祈りには、ヤコブを通して地の民が祝福される発想はないが、信仰によってふたたびヤコブが約束の地に戻ってくるように祈られている。不思議なことであるが、神は、イサクの一家の霊的な無知や暗さを、そのまま用いて、歴史的なご計画を進められ、最終的にはイサクの祈りに応答してくださった。
さて兄エサウの怒りは激しかった。「あなたののろいは私が受けます」(27:13)と度胸のよさを見せた母リベカの最善の策はヤコブを逃がし、エサウから遠ざけ、その後のヤコブの歩みを神に委ねることであった。リベカには何もできなかった。ヤコブの孤独な旅が始まる。ヤコブが受けた祝福の祈りは、思わぬ不確実な未来へとヤコブを押し出したのである。エサウは、父イサクの関心をかうためにイシュマエルの家に行き三人目の妻を迎えた。イシュマエル人はヘテ人よりはましであったかもしれない。しかし、イシュマエル人は神の約束の民ではない。エサウには、依然として神の選びと祝福という霊的な事柄についての理解がない。生まれながらの人間の限界がそこにある(1コリント2:14)。霊的なことを理解するためには霊的な力が必要である。それはまさに神のあわれみと恵みによって備えられるものであり、神は求める者に、それを惜しまれない。
 カナンの地を後にするヤコブの思いはどんなものであっただろうか。日が沈んだ。ヤコブは硬い石をまくらにして疲れた体を横たえた。悔しさを胸に、いつの間にか眠りこけてしまった。何とも哀れである。だがヤコブは一人のようで、一人ぼっちではなかった。またイサクの祝福の祈りも、口先だけで、空しく思えるものであったが、実際にはそうではなかった。主がヤコブの傍らに立っておられた。そしてイサクに授けられた祝福は真実であるという約束を得るのである。ヤコブにとって、神の語りかけを直接聴く経験である。人から聞かされて信じる信仰ではなく、自ら神に直接語られ信じる経験である。実に、頭で考えていても信仰はわからない、議論していても信仰はわからない。自ら聖書に向かい、耳を傾け、聞くことから信仰は生じるのであるし、信仰の歩みもついてくる。
ヤコブは朝早く起きると、自分がまくらにした石を立てて、油を注いで聖別した。夢に応答して、神がおられるこの地を礼拝の場所とし、必ず収入の十分の一をささげると約束し、請願を立てた。神の語りかけを真剣に受けたヤコブの姿がそこにある。ヤコブは神の祝福のことばを聴いて、そうなればよいと楽観的に生きたのではない。そうなると信じて、生きる決心をしたのである。神を信じる者には、神がともにおられると確信し、人生を踏み出しゆく覚悟が必要である。私たちの信仰の原点となり、人生に転機をもたらすベテルにしっかりと立っていくのである。ヤコブにとって、体を横たえたルズの荒野は、「神の家」「天の門」とはとうてい思われなかったことであろう。私たちにも同様に「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」ということがある。しかし、何の可能性もなき所、何の希望も見出しえないところに、神はともにいてくださる。だから神を信じるならば、神を信じない人と同じように望みのない人生を生きることはない。万物の主を信じるならば、そこに私たちの思いを超えた可能性があることに、私たちの目が開かれるからである。
後にヤコブはディナの事件で家族が窮地に立たされた時、そこに赴き、祭壇を築きエル・ベテルと呼んでいる(創世記35:6-7)。そこは神が現れた地で、ヤコブにとって生涯忘れえぬ地となった(48:3)。ルズは、エルサレムの北21キロに位置し、その町の遺跡はAD1934年、W.F.オールブライトによって発掘されている。