人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生5(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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レビ記7章

2022年01月01日 07時45分03秒 | レビ記
新年のご挨拶を申し上げます。今年もよろしくお願いいたします。旧年は、初めて旧約聖書を読み通すことができた、1年間通読を継続できた、わかりにくかった書のメッセージが心にストンと落ちてきたなどなど、多くの声を寄せていただきました。ありがとうございました。また、聖書を読むのは初めてという方が、千代紙のお手製のクリスマスツリーを送ってくださいました。色々とありがとうございました。今年も、皆様と共に、しっかり神の言葉に向かい合ってまいりたいと思います。お祈りに覚えてくだいますと感謝です。二子玉川の初日の出です。今年は、とてもクリアでした。コロナも一掃される年であることを期待します。皆様の上に、主の恵み豊かな一年であるように祈ります。福井誠

●7章 代償のささげ物、交わりのいけにえに
1.代償のささげ物の補足(7:1-11)
 代償のささげ物、交わりのいけにえについては、すでにそれぞれ、4、5章でその献げ方の手順が述べられていました。7章は同じことの繰り返しのようでありながら、実際にはいくつか新しく補足説明されているものがあります。つまり既に4、5章において、罪のきよめのささげ物の血は、祭壇の角に塗られ、その土台に全部注がなくてはならないと説明されていました(4:25、30、34、5:9)。しかし代償のささげ物についての説明はなかったわけです。そこで血は、「祭壇の側面に振りかける」(7:2)と指示されています。また、ささげ物の残りは、祭司が食べることができる、祭司のものになる、という追加説明があります。使徒パウロは、この箇所を取り上げ、祭壇で仕える者は、ささげ物の一部を受けることができると指摘しています(1コリント9:13)。つまり、主の働き人は、その働きによってふさわしい経済支援を得ることができる、と言うのです。確かに祭司たちはこれによって生計を成り立たせ、彼らは自らの時間と労力を、主の奉仕に集中させることができたのです。この原則は今日も変わることはありません(1テモテ5:17-18)。
2.交わりのいけにえの補足(7:11-21,28-36)
 次に11節からは、交わりのいけにえについての補足です。ここではその目的を三つ述べています。感謝、請願、そして自発、つまり進んで献げるものがあると言います。「請願」は、苦難の中にあってなされた誓いを完成させるために献げられるもの、「自発」は、いつでも願いや祈りと共に献げられるものであると言います。そのような意味では、今日毎週献げる献金も、何気に献げるのではなく、感謝、請願、任意、といった目的意識をしっかり持ちながら献げることは重要です。やはり信仰は、心遣いが大事で、パウロが教えるように週毎に準備して献げることはもちろんのこと、備えたものをどんな目的意識で献げるのか、細やかな意識と自覚をもちたいものです。主が喜ばれるのはそのような献金でしょう。なお感謝を目的とする場合は、献げた日のうちに食べなければなりませんが(15節)、誓願または任意を目的とするなら、翌日に食べてもよいとされます(16節)。また食べ残された分は焼かなければならないと言います。私は、お礼は直ぐにしなさい、と教えられたものですが、やはり心からの感謝をもって行うことであれば、理に適った定めです。
神がどんな方であるかを覚えるならば、罪の自覚も深く生じるようになります。罪を覚えるなら、キリストの赦しを求める以外に、神と和解する方法もないことがわかるでしょう。そして、代償のささげ物に続いて交わりのいけにえを献げる気持ちにもさせられるのです。感謝、誓願に乏しいのは、キリストにある罪の赦しの深さを味わっていないためです。「少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」(ルカ7:47)とイエスが語ったとおりです。罪の赦しと感謝は結びつきのあるものなのです。
3.血と脂肪の禁止(7:22-27)
脂肪と血は、決して食べてはいけないものでした。ことに血はいのちの中心であるとされます(17:11)し、いのちは神が与えてくださったもの、神のみにお返しするものです。もちろんここには神学的意味合いのみならず、衛生的な意味合いもあったと考えられています。血は、病をも運ぶからです。これは今日のコーシャ規定(ユダヤ教の掟に従って料理された)に通じるものがあります。
4.まとめ(7:37,38)
これらの儀式は、AD70年に、ローマ帝国によってエルサレムの神殿が破壊されるまで続きました。それ以降、いけにえをささげる諸規則は、過去の文化となっていくわけですが、ここに書かれた諸規則の意義は今日においても変わることはありません。神は聖であり義なるお方であり、決して罪に対していい加減な態度をおとりになる方ではないからです。神は罪を憎んでも、罪人を憎まないお方であるので、神は交わりを回復する手段として罪を取り除く贖いの業を求められます。そのために、神は、もはや繰り返しささげられる五つのささげ物ではなく、ただ一度限りのイエス・キリストの十字架による罪の赦しを計画されました。しかも、旧約時代においては、赦される種類の罪は、誤ってなされたものであり、故意的な罪に対しては寛容ではありませんでした。しかしイエスの十字架にある罪の赦しに対する唯一の制限は、「聖霊に対する冒涜」つまりキリストにある罪の赦しを受け入れるように促す聖霊の働きを拒むことに対するものです。ある意味で、聖霊を拒まない限り、神の前に赦されない罪はもはやない、と考えてよいのです。誰であれ、どんな罪であれ、神に赦しを請い、新しい歩みへと出て行くことができるのです。では今日もよき一日となるように祈ります。


<クイズコーナー>


最初に、昨日のクイズです。レプタは、最小の銅貨として用いられましたが、おおよそどのくらいの価値があったと考えられるでしょうか?答えは推定約200円程度です。マルコは、レプタ銅貨2枚が1コドラントに当たると説明しています(マルコ12:42)。当時ローマの銭湯の入浴料1回分は1コドラントとされていました。となると、単純な言い方ですが、現代の一般の入浴料で考えるとその1/2と考えられるのです。では、今日の聖書クイズを一つ。ささげ物の肉の部位で、決して食べてはいけないとされているものは何でしょうか?答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。


<天草さんのフォローアップ>
パスターまことの聖書通読一日一章をフォローし、さらに掘り下げにチャレンジしている、天草さんのサイトはこちら⇒「天草幸四郎」http://progress-to.jugem.jp/
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