人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生5(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読は、モノの見方を変え、イエスと共に前に進む気を起こさせてくれます。ご一緒にしませんか?

エゼキエル書48章

2020年10月22日 06時33分23秒 | エゼキエル書
48章 契約に忠実な神
おはようございます。神がどのような方であるかを知ることは、人生において決定的なことです。エゼキエル書を通して、神の考えやご性質をしっかり読み取りたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.命の水の川
 エゼキエル書を読み終わりました。最終章は、47章に続く、土地の分割について語っています。聖地を挟んで、北と南にそれぞれ12部族に土地が分けられるのです。北から始まり南へと、ダン、アシェル、ナフタリ、マナセ、エフライム、ルベンと六部族に土地が割り当てられます(1-7節)。
 もはや捕囚となって25年が経ていたと思われます。そのような状況で語られるこのメッセージに、当時の読者は何を感じたでしょう。失われたものに対する思いは、強くあっても、故郷に戻り、かつてのイスラエルを再興するなど、どのようにして叶うものだろうか。しかしできれば、そうなればよい、漠然とそのように考える彼らに、実際の距離を加えながら細かくそのビジョンを語る本章は、そのようにしてくださる神がいる、ということへの信仰を引き出すものだったのではないでしょうか。
というのも、既に述べたように、イスラエルが戦争に負けたのは、イスラエルの神が弱かったからではなく、正しかったからです(39:24)。だから神は、これを嘲笑した者に復讐もし(25-32章)、かつ、裁きによって滅亡したイスラエルを回復させることもできるのでした(39:27、28節)。神は、破壊して物事を終わらせるような方ではありません。神に中途半端なやり残しはないのです。となれば、私たちが人生に失敗した、躓いたと思うような時には、それを神の裁きと素直に受け止めた方が、希望のあることです。というのも、神の裁きのもとに、悔い改めるなら、神はファイナライズ(最終処理)をなさるからです。つまり神の頭の中では、十字架と復活が常にセットであるように、裁きと回復は切り離せず、回復というプロセスを踏まずに、物事を終わらせられないのです。これが神にとってはお決まりなのです。
2.主はそこにおられる
 神の再興されるイスラエルの、部族配置を眺めながら思うことは、相続地の中心に主の栄光の臨在があることでしょう。つまり、今の私たちの状況に当てはめれば、やはり主を中心とする生活秩序の確立が期待されているということです。彼らにとってこの幻は、捕囚後のイスラエル再興を語るのみならず、それがそのまま永遠に守られるべき終末的な秩序として意識されるものでした。
エゼキエル書は、町の描写で最後を飾ります。その町は、一辺4千5百キュビトの正方形で、四方の城壁にはそれぞれ3つの門があります。合計12の門には、12部族の名が付けられていて、町それ自体の名は、『主はそこにおられる』(35節)でした。インマヌエル(イザヤ7:14、マタイ1:23)と同じく、契約の主が臨在される場所です。いのちの源となり、またいのちである神ご自身がともにおられる場に、私たちは永遠に住まうことになるのです。
神は、イスラエルの罪の故に、自ら神殿を去られました(10章)。しかし、神は今や再び戻って来て、ご自身の民を祝福してくださるのです(43章)。この世において、壊れた関係を築き直すことは至難の業です。しかし、神は、私たちとの関係を自ら回復される、私たちの滅びを自ら再建してくださる、と語ります。神を信じて何になる、神を信じたって何も変わらない、そのような不信仰な思いに望みはありません。しかし信仰によって神の裁きを受け入れ、神のファイナライズに期待するなら、神は動いてくださるでしょう。神を信頼しましょう。神は「そこにおられる」お方なのです。

エゼキエル書48章

2020年10月22日 06時32分57秒 | エゼキエル書
48章 契約に忠実な神
おはようございます。神がどのような方であるかを知ることは、人生において決定的なことです。エゼキエル書を通して、神の考えやご性質をしっかり読み取りたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.命の水の川
 エゼキエル書を読み終わりました。最終章は、47章に続く、土地の分割について語っています。聖地を挟んで、北と南にそれぞれ12部族に土地が分けられるのです。北から始まり南へと、ダン、アシェル、ナフタリ、マナセ、エフライム、ルベンと六部族に土地が割り当てられます(1-7節)。
 もはや捕囚となって25年が経ていたと思われます。そのような状況で語られるこのメッセージに、当時の読者は何を感じたでしょう。失われたものに対する思いは、強くあっても、故郷に戻り、かつてのイスラエルを再興するなど、どのようにして叶うものだろうか。しかしできれば、そうなればよい、漠然とそのように考える彼らに、実際の距離を加えながら細かくそのビジョンを語る本章は、そのようにしてくださる神がいる、ということへの信仰を引き出すものだったのではないでしょうか。
というのも、既に述べたように、イスラエルが戦争に負けたのは、イスラエルの神が弱かったからではなく、正しかったからです(39:24)。だから神は、これを嘲笑した者に復讐もし(25-32章)、かつ、裁きによって滅亡したイスラエルを回復させることもできるのでした(39:27、28節)。神は、破壊して物事を終わらせるような方ではありません。神に中途半端なやり残しはないのです。となれば、私たちが人生に失敗した、躓いたと思うような時には、それを神の裁きと素直に受け止めた方が、希望のあることです。というのも、神の裁きのもとに、悔い改めるなら、神はファイナライズ(最終処理)をなさるからです。つまり神の頭の中では、十字架と復活が常にセットであるように、裁きと回復は切り離せず、回復というプロセスを踏まずに、物事を終わらせられないのです。これが神にとってはお決まりなのです。
2.主はそこにおられる
 神の再興されるイスラエルの、部族配置を眺めながら思うことは、相続地の中心に主の栄光の臨在があることでしょう。つまり、今の私たちの状況に当てはめれば、やはり主を中心とする生活秩序の確立が期待されているということです。彼らにとってこの幻は、捕囚後のイスラエル再興を語るのみならず、それがそのまま永遠に守られるべき終末的な秩序として意識されるものでした。
エゼキエル書は、町の描写で最後を飾ります。その町は、一辺4千5百キュビトの正方形で、四方の城壁にはそれぞれ3つの門があります。合計12の門には、12部族の名が付けられていて、町それ自体の名は、『主はそこにおられる』(35節)でした。インマヌエル(イザヤ7:14、マタイ1:23)と同じく、契約の主が臨在される場所です。いのちの源となり、またいのちである神ご自身がともにおられる場に、私たちは永遠に住まうことになるのです。
神は、イスラエルの罪の故に、自ら神殿を去られました(10章)。しかし、神は今や再び戻って来て、ご自身の民を祝福してくださるのです(43章)。この世において、壊れた関係を築き直すことは至難の業です。しかし、神は、私たちとの関係を自ら回復される、私たちの滅びを自ら再建してくださる、と語ります。神を信じて何になる、神を信じたって何も変わらない、そのような不信仰な思いに望みはありません。しかし信仰によって神の裁きを受け入れ、神のファイナライズに期待するなら、神は動いてくださるでしょう。神を信頼しましょう。神は「そこにおられる」お方なのです。

エゼキエル書47章

2020年10月21日 06時42分18秒 | エゼキエル書
47章 いのちの水の川と新しい相続地
おはようございます。本章の鍵となることばは、「水」と相続地です。まことのいのちである神に対する信仰と、その信仰による相続の祝福があることを覚えたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.命の水の川
47- 48章は、新しい神殿を中心としたイスラエルの相続地について語っています。重要なのは、神殿の敷居の下から東の方へと流れ出るいのちの水(前半)と、相続地の境界です(後半)。まず水は、どんどん水量が増し(3-5節)、アラバに下り、死海に入ります(8節)。アラバは、ヨルダン川が死海に入る地域を指していますが、本来この地域は、雨期を除いてほとんど水利がなく、乾燥しており、死海そのものはいのちを宿すことのない塩の海です 。しかし、神殿から流れるその水は、死の海をいのちの海に変える力を持つのです。また、土地を豊かに潤し、実を結ばせています(12節)。それは、実際にはあり得ない状況を物語っています。となるとこの幻は、ヨハネが黙示録で語った幻に通じる内容があるようにも思われてきます。ヨハネは言いました。「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた」(黙示録22:1、2)。こうしてエゼキエルの最後の幻は、微妙にヨハネの幻と重なり、象徴的に終末的状況を語っているかのようです。
しかし、当時のユダヤ人は、そのようには読まなかったでしょう。彼らは、これらを同じように象徴的に受け止めながら、捕囚帰還後のエルサレム回復の豊かなイメージを読み取ったはずです。つまり、エゼキエルは、捕囚先のバビロンにて、ユーフラテスの豊かな水の流れを見ながら、荒れ果て、乾いた都エルサレムの回復されたイメージを抱いているのです。というのも、その都は、全く新しい都ではなく、古い塩の海のイメージを引きずっています。死海は死海として残るわけですから、それを完全に新天新地のイメージに重ねることはできません。やがてエルサレムは回復される、豊かに、というのがこの箇所に込められたメッセージであり、読者は、いのちの源である神に心を向けさせられたのです。彼らが信じる神は、天地創造の神であり、死を命に、闇を光に変える神である、そこにエルサレム再建の希望がありました(ヨハネ7:37,38)。
2.土地の割り当て
次に後半の13節からは、回復された土地の割り当てが語られています。不思議です、バビロンにいたエゼキエルは、その版図をメソポタミアにまで伸ばすこともできたことでしょう。しかし神の都を示すその版図は、大ぶろしきに拡大されることもなく、オリジナルのイスラエルの区域に限定されていました。つまり、大雑把に言えば、北側は地中海(「大海」15節)沿いのツロから、ダマスコの南西あたりまで(15-17節)。そして南側は、死海の少し南から、エジプトの川の河口と地中海に至るライン(19節)。西側は地中海(20節)、東側はヨルダン川と死海(18節)です。この地をイスラエルの部族ごとに割り当てる、と言うのです。そして、そこに集められる住民に、また注目されます。そこには生粋のイスラエル人だけではなく、改宗した在留異国人も受け入れられています(22-23節)。もはや、新しいイスラエルは、血肉のイスラエルの枠を超えているのです。明らかにそれは捕囚期以前とは違う、他民族多文化的な国家のイメージを伝えています。もはや、肌の色、血筋の違い、ことばの違い、出身の違いは問題にされず、ただ、命の源である神を信じる信仰、そこに一致した者が集められるのです。大切なのは、ルツのように、唯一まことの神を、我が神、我が主として認めるかどうかでしょう(ルツ1:16)。そうすれば、「寄留者」と見なされる者もその地を相続できます(23節)。つまり、主を信じる者は皆疎外されることなく受け入れられ、自分の分を受ける祝福があるのです。

エゼキエル書46章

2020年10月20日 07時36分18秒 | エゼキエル書
46章 君主と礼拝の規定、料理場
おはようございます。新しい神殿での新しい役割と行動が、流れとして語られています。捕囚帰還後の新しい生活に対する希望のメッセージであり、心備えを与えるものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神殿の新しい利用方法
「内庭の東向きの門」、つまり神殿の正門は、普段は閉じられていますが、週と月の最初の日に開放されます(1節)。そこで君主、また一般の人々が、それぞれささげ物を携えて礼拝をするわけですが、その際の出入りの方法が定められています。君主は、東門から入り、そこから出ていきます(8節)。しかし一般の民は、北から入った場合は南へ、南から入った場合は北へと整然と流れるように定められています(9節)。神殿の混雑を回避する意図があったのでしょう。これまでの文脈からすれば、新しい神殿の様式(40-42章)、新しい調度品(43章)、そこに仕える奉仕者の新しい役割(44章)、そして神殿の新しい利用方法(46章)、というわけでしょう。
そこで次に、神殿で献げるべきものが定められています(11-15節)。三種類あります。一つは、主要な祭りと安息日や新月の祭りでのささげ物(11節)、また毎日の朝のささげ物(13-15節)。そして君主によって献げられる定時以外、必要に応じて進んで献げられるささげ物です(12節)。興味深いのは、礼拝が、基本的に献げることとして語られていることでしょう。礼拝は、神の栄光を仰ぐと同時に、神に自分自身を献げる行為です。毎週、礼拝に集い、私たちは新しい献身を表明しているのです。しかしここでは、毎朝とありますから、朝毎に、新しい献身を表明して一日を始める、これが新しい捕囚後の読者に期待されたと言うべきでしょう。そして同じように、本書の読者である私たちにも期待されていることです。
2.君主のささげ物
また興味深いのは、君主が必要に応じて進んで献げるささげ物です。彼は交わりのいけにえを献げるように命じられていますが、それは、基本的に執り成しを目的とします。つまりいつでも彼は、とりなしの必要があれば、神殿に赴くことができました。彼のために東向きの門はいつでも開け閉めされたのです。
そこで16-18節、相続地を相続以外の形で譲渡することを禁止し、君主の財産相続は、身内のみに限られること、また君主も一般の人の土地を没収してはならないことが確認されますが、何か唐突な文脈のように感じられます。しかし、これは、とりなし手としての君主の役割を強調する意味があったのではないでしょうか。つまり、土地没収に関して思い出すのは、ナボテの事件(1列王21:1-29)。君主たるもの、民の権利を守るのみならず、民のために進んでとりなす、善良な民の管理人と言うべきでしょう。そのような意味で、現代的に適応すれば、牧師、教会役員は、常に教会の羊に気を配り、進んで神の前に出て、とりなしの祈りをする者であることを覚えたいところです。
3.神殿の聖性
19-24節は、神殿の構造を説明する補足のようで、祭司用(19、20)と一般用(21-24)の料理場が区別されていることを語っています。神殿には祭司だけが食べることのできるささげ物を料理する場と、一般の民が食べることのできるささげ物を料理する場が、別に設けられました。その目的は「民を聖なるものとしないためである」(20節)、つまり神殿の神聖性を意識し、強調するためでした。やはり、神殿は神のおられるところ、神の栄光の満ちるところ、人間の不注意や配慮の欠落によって、人間的な場に堕してしまうことのない心構えは重要です。罪深き者であることを覚えつつ、聖なる場に出ることが許されている幸いを肝に銘じて、まず朝毎にささげ物をもって、主にお仕えしたいものです。

エゼキエル書45章

2020年10月19日 07時32分35秒 | エゼキエル書
45章 土地の分配と君主の務め
おはようございます。新しい神殿に続いて、新しい町の秩序が語られます。大切なのは、正しい度量衡を持つこと、そして礼拝を中心とすることです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.土地の分配
 長き捕囚が終わり、エルサレムに帰還したエズラ、ネヘミヤたちがおこなったことは、神殿の再建と町の再建でした。まず538年、ゼルバベルによる第一回帰還があり、神殿が再建されました。実際に神殿が完成したのは、516年か5年とされていますが(エズラ6:15)、その後、458年に、エズラによる第二回帰還(エズラ7:1、8-9)があり、礼拝の改革がなされ、445年、ネヘミヤが帰還し(ネヘ2:1、6、11)町が再建されています。その流れを預言するように、エゼキエルは、神殿の幻を語った後に、新しい国家の土地の分配について語ります(1-8節)。各部族に対する土地の分配については、47、48章で再び取り上げられ、ここでは、まず君主と祭司たちのための土地の分配が語られるのです。
 イスラエルの中心に、まず聖なる区域が確保されます。長さ2万5千キュビト(約11キロ)、幅1万キュビト(約4.4キロ)の長方形で、その中心に聖所が、聖所の回りには空き地が確保されます(1-4節)。その北側に祭司の割り当て地、さらに北側にレビ人の割り当て地が確保され、そこに「20の部屋」を確保します(5節)。ヘブル語本文に忠実に訳せば「部屋」となるのですが、この箇所については、ギリシャ語訳(70人訳)が「住む町々」と訳しています。文脈からすればそうなのかもしれません。聖なる区域を挟んだ反対側(南側)に町の所有地が割り当てられています(6節)。そしてそれら三つの割り当て地の両側に(東はヨルダン川、西は地中海に至るまで)、君主の土地が割り当てられています。十分な土地が与えられた君主は民を搾取する必要もなくなるというわけです(8節)。これらの外側に、各部族の土地の分配(38章)がなされていきます。
2.新しい国の中心事項
9節からは、新しい国の指導者の権利と義務が語られる。君主は「二度とわたしの民を虐げることなく、この地は部族ごとに、イスラエルの家に与えられる」(8節)と言います。これまでは、君主の強欲によって土地が搾取され、民が虐げられることもありましたが、新しく回復されたイスラエルにおいては、もはやそのようなことは起こらないと言います。いや起こしてはならないのです。聖なる主の臨在を中心とし、主の土地を相続地として委ねられた主の民の間に、もはや不正や暴虐が横行し、主の聖さを汚すようなことがあってはならないのです。ですから君主には、権力の乱用が禁止されます(9節)。そして、単に悪を行わないだけではなく、正義を貫くように命じられます。実際に、まず公正さの象徴である正しい度量衡を守ることです(10-12節)。そして民を代表して主に奉納物を献げることです(13-17節)。これは、19節からもわかるように、祭司との共同作業なのでしょう。君主はこの新しい国のために、率先して新しい祭りを開かなくてはなりません。新年の祭り(18-20節)、過ぎ越の祭り(21-24節)、仮庵の祭り(25節)と、新しい国は、正義が行なわれる場であると同時に、主の救いを祝い、主に礼拝を献げる場なのです。
それにしても、食べるためにではなく、主に献げるために、たくさんの牛、羊がささげ物とされるイメージに、いささか圧倒される思いを持つのは私ばかりでしょうか。エズラ、ネヘミヤの記録を読むと、彼らは困窮の中にあり、このようなささげ物を命じられても献げることはできない状況にあったように思います。しかし、神あっての今であることを思えばこそ、まず神への感謝(貧しければ貧しいなりの)そして自分たちの日常ということになるのではないでしょうか。正しい度量衡に礼拝の優先、まず何が正しいのか、というところから今日の一日も始めさせてまいりましょう。