人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生5(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読は、モノの見方を変え、イエスと共に前に進む気を起こさせてくれます。ご一緒にしませんか?

哀歌5章

2020年09月05日 07時14分59秒 | 哀歌
5章 神のめぐみによる回復
 おはようございます。人生には、何も変わらないと諦めの境地に陥ることはあるものです。しかし、神に懸ける人生に間違いはありません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.ありのままの祈り
 5章は22節から構成されますが、これまでの章と異なって冒頭はアルファベット順に揃えられたいろは歌とはなっていません。それは、この章が祈りとなっているためなのかもしれない。祈りは、真実な心の発露で、技巧的な形に収めることはできないからなのでしょう。詩人の心からの祈りが語られるところです。
 先に詩人は、神の「刑罰は果たされた(4:10)」と一つの結論を得ました。「だれにこのような仕打ちをなさったのか(2:20)」何もここまでしなくても、と嘆きながらも、これが終了、もう神の怒りは取り去られたのだ、と納得するわけです。それはイエスの十字架がすべて、私たちの罪が贖われるために何一つ加えるものはない、ということと同じです。
けれども、戦争に負けた現実は現実として迫って来るわけです。神がイスラエルに与えられた土地は他国人のものとなり(2節)、戦争孤児ややもめが生まれ(3節)、水や薪のような生活必需品も支配者から買い求めなくてはなりませんでした(4節)。「奴隷たち」(8節)つまり、ネブカデレザルの家来たちの横暴、そして、「荒野の剣」つまりベドウィンの略奪隊の脅威が回りを取り囲み、女性たちは辱められ(11節)、首長たちは縛り首となり(12節)、若い男性はひき臼をひかされ、幼い者も労働に駆り立てられていきます(13節)。そして灼熱の太陽。以前ラキシュで夏を過ごした時に、衣服を通して日が皮膚に照り付ける暑さを体験したことがありました。ともあれ、神よ、あなたは祝福を約束されるが、それは漠然としていて何も変わらないし、いや、神様あなたは何も変えようとしていないのじゃないか、やはりまだ根に持っておられるのか?「なぜ、私たちを長い間、捨てておられるのですか(21節)」と思うことがあるものでしょう。
2.信仰を働かせる
 しかし神を信じるならば、神が「終わった」というものを終わったとし、神が新しくするというものは、新しくなると待ち望むべきなのです。諦める所に救いはありません。ただ打ち破れた感傷に浸るのみです。だから詩人ととも告白しましょう。「主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの王座は代々に続きます(19節)」と。今置かれた状況がいかに惨めであろうと、神は人を裁いて終わらせるお方ではありません。アダム然り、カイン然りでしょう。裁きは悔い改めを目的とするものなのですから、そこに遜り主を呼び求める祈りがあるなら、神は私たちを不名誉なままに捨てておかれることはないのです。そして自業自得でしょ、と終わらせてしまうようなお方でもないのです。もう一度3章をゆっくり読んでみましょう。実に神に期待して間違いはありません。人はそうではなくても、神の優しさは確かなのです。大切なのは現実の厳しさを生きる勇気を頂くことでしょう。神の恵みなければ一歩も先に進めない、とヤコブのように願うことなのです(創世記32:26)。


哀歌4章

2020年09月03日 06時44分48秒 | 哀歌
4章 刑罰は果たされた
 おはようございます。2章に平行して神の裁きが詳述されます。そしてその凄まじい出来事は不可解な神の仕打ちではなく(2:20)、神の怒りの終了(4:10)であると明言されます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.技巧的な書の意味
 既に述べたように哀歌は、各節の最初の文字がヘブル語の22文字のアルファベット順に書き始められる「いろは歌」となっています。また章立ても、一章と五章、二章と四章が思想的に対応し、真中の詩3章に重点が来るキアスムス(交差配列法)構造を取り、非常に、技巧的にも完成された詩となっています。
なぜこのような形で哀歌が作成されたのか、色々な説があります。一つは、イスラエルがアレフからタウまで、つまりAからZまで、あらゆる罪を犯したことを意味しているというものです。また記憶を助けるため。そしてさらに、私には最も納得のいった理由ですが、深い感情を抑制し、冷静に自分たちの悲しみを振り返る歌にするため、というものです。そもそもこの哀歌は、忘れてはならない霊的な教訓として、公の礼拝で朗読されることを意図して書かれたのでしょう。ですから、深い悲しみを呼び覚ます内容を、非常に技巧的な詩にすることによって、いたずらに感情を刺激せず、むしろ冷静にその詩の内容から神の語り掛けを受けるようにした、と言うわけです。実際その内容は、古代イスラエルのものであるのに、時代を超えて、今なお私たちの心にも深くしみ込み、語り掛けてくるものがあります。
2.刑罰は果たされた
1節は、ネブザルアダンが神殿を燃やした出来事(2列王記25:9)を回想しています。イスラエルの国は、バビロンに踏みにじられ、辱められました(2節)。悲惨なのは、乳飲み子でした。食料が尽き、母親たちは子どもの腹を満たすことができないでいました(3、4節)。そして貴族も浮浪者も同じ運命を辿ったのです(5節)。さらに、母親が自分の子どもを煮て食べる最悪の事態(10節、2:20に対応します)。実に心痛む出来事ですが、技巧的な詩文であるために、淡々と読み進んでいくことができます。
 ともあれ、この凄まじい出来事は、AからZまで罪を犯し続けたイスラエルの指導者に対する神の刑罰でした(13節)。しかし、なぜこんな仕打ちをしたのか、ここまでしなくてもよいのに、と事の不可解さにとらわれるだけでは、そこには何の希望もありません(2:20)。注目しましょう。詩人は言います。「あなたへの刑罰は果たされた。主はもう、あなたを捕らえ移すことはなさらない」(22節)。この凄まじい状況は、神の怒りが終了したことを意味しています。罪の償いが必要ならば、それは十分償われた、もうすべては終わったのです。イエスの十字架も同じです。イエスは十字架上で「完了した」と語られています(ヨハネ19:30)。ですから、今なお、自分の過去を嘆きながら、神に呟いて生きている人は、イエスの十字架の苦しみが足りないと言っているようなものです。あなたの過去は閉じられたのです。過去を脱ぎ捨てて新しく前に進むのみ、と心得たいものです。

哀歌2章

2020年09月01日 07時20分46秒 | 哀歌
哀歌2章 主に向かって祈れ
 おはようございます。教会の祈祷会の参加者が減り続け、久しくなりました。しかし今や祈りの炎を再燃させるべき時代です。共に熱い祈りをささげたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.成し遂げられた神の計画
 バビロン軍の猛攻によって、エルサレムは破壊し尽くされました。「これが、美の極み、全地の喜びと言われた都か」(15節)。実に、その惨状は筆舌に尽くし難いものであったと思われますが、それは難攻不落の町が滅びたという以上に、神の都が滅ぼされた事を意味しました。神が選び、神が共に住み、神の祝福が命じられた都が滅ぼされたのです。ただそれは、イスラエルの神の負けを意味したわけではありません。
しばしば古代では、敗戦はその国の守護神の負けを意味しました。しかし、イスラエルの敗北は、言わば守護神によってあらかじめ計画されていたことでした。彼らが背を向けた守護神の裁きとして起こったことだったのです(17節)。イスラエルは、バビロン軍を敵と見なしていましたが、本当の敵は、そのバビロン軍を送り込んだ、彼らの守護神であったというわけです。長い間、まことの神に対する信仰を捨て、偶像崇拝に陥り、神との契約をないがしろにしたイスラエルが、その契約どおりに、裁かれたのです。こうして、イスラエルの民は、何も可も失い、そして、偽りの平和と繁栄の希望を語る者たちは、沈黙し(14節)、エレミヤのことばの正しさが明らかにされました。
2.主に向かって祈れ
 ただ契約を破り、その契約の報いを受けたとしても、それはあまりにも悲惨な現実でした。エレミヤは言うのです。「主よ、よくご覧ください。誰にこのような仕打ちをなさったのかを(20節)」。戦争であれ、自然災害であれ、その惨状に面と向かうなら、そのあまりの痛ましさに、人は、これを単純に神の裁きと口にすることを憚られるものです。事実、子を煮て食べる母親、虐殺される祭司、食べ物もなく力尽きていく年寄りや子ども、剣に殺められた若い者たち、エルサレムにはまさに地獄絵図の様相がありました。神が裁いたと言うのなら、神が無慈悲にこれらのことをしたのです。神よ、なぜここまでに、否ここまでしなくても何か手はなかったのか、とエレミヤの心は悲しみに打ち震えているのです。けれども警告し続けてこられた神に不正はなく、行き過ぎもなかったのも事実です。
だからこそ、二度とこのようなことを繰り返さないためにも、信仰者がどれだけ真剣に、これから先神の前に祈らねばならないか、と思わされます。裁きを警告し実行された神は、予め、悔い改めによる回復をも約束されておられました。この惨状がまことの神を認めなかったことによるものであること、神がご自身の支配をわからせるためのものであったことを、素直に遜って受け入れ、神に立ち返って、回復のために心を注ぎだして祈ることが求められています。今や祈祷会はそのような熱き祈りの場となっているのでしょうか。今こそ共に誘い合って集まり、まことに心から神を仰ぎ、神よこの日本と世界を癒し、再び平和を来たらせよ、と祈り合おうではありませんか。

哀歌1章

2020年08月31日 07時22分30秒 | 哀歌
哀歌1章 素直に敗れを受け止める
 おはようございます。今日から哀歌に入ります。節数からしてこれが技巧的なアルファベット詩であることは、予測がつくことでしょう。実に重要な、深く心に留めるべき詩です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神のみこころに沿った悲しみを歌う詩
ヘブル語の旧約聖書をギリシャ語にした70人訳聖書では、その序文に、「イスラエルが捕囚となり、エルサレムが荒廃して後、エレミヤは座して泣き、エルサレムのために哀歌を歌って言った」と記されています。そのため、この哀歌は、伝統的に、エレミヤによって書かれたものと考えられてきました。既に私たちは、52章にわたる、エレミヤの預言を読んできたのですが、エレミヤはその預言通りの結末になった状況に接して、悲しみの歌を歌ったと言うわけです。しかしそれは単なる嘆きや後悔を歌っているのではありません。使徒パウロが言うように(2コリント7:10)、救いに至る悔い改めを生じさせる、神のみこころに沿った悲しみを歌うものとなっています。それは、いのちを与える重要な詩ですから、誰もがこれを記憶し、歌うことが期待されたのでしょう。各章は、ヘブル語の22のアルファベット順に冒頭が揃えられた、実に技巧的なアルファベット詩となっています(3章は3節ごとにアルファベット順となるので66節)。
2.打ち破れた女エルサレム
 エルサレムは女王にたとえられている。その女王は、1-11節では、三人称単数で描かれ、今や見捨てられ、寂しく座っている。まるでやもめのように、悩みさすらっている。彼女に残されたのは、過去の繁栄の記憶だけである。しかし、その記憶が濃ければ濃いほどに、痛みも深い。今の打ち敗れた悲惨さが、身にしみてくるというものなのだろう。9、11節、12節以降、彼女の心の悩みが、一人称で言い換えられている。というのも、既に述べたように、これが、読者が自らの罪を告白し、神に祈る書とされるためでした。いわゆる「呪いの詩篇」が、神の前に正直になり、私たちの怒りの感情が取り扱われる効用を持つように、哀歌は、罪に打ち破れた者が、詩人とともに、回復の祈りを祈ることを助けるのです。
4節「シオンへの道は喪に服し」、既に昨日理解したように、彼らが巡礼の旅を楽しみ、目指したエルサレムの神殿は破壊され、そこにあった祭儀用の器物は跡形もなく没収され、失われて、彼らの礼拝も安息も取り去られたのです。しかしそれは、彼ら自身の罪のため、神に背を向け、神を捨て去った罪の故でした(8節)。その結果なんと惨めな状況に陥ってしまったのか。「卑しい女(11節)」「荒れすさんだ女」、「病んでいる女」(13節)詩人は自らの現状を、様々に言い換えています。
コロナ禍にあって思うことは、今や教会は、人集めのイベントから解放されて、まさに礼拝と祈りという教会の本来的な機能を守ることに集中させられていることです。しかし、果たしてこの礼拝と祈りは、どれだけ大切にされ、神に喜ばれる献身的なものとして守られて来たのでしょうか。いよいよ霊とまことによる礼拝と、まことのとりなしの祈りが盛んになり、そのことのゆえに教会が注目され、人を引き付ける時を過ごしたいものです。

哀歌5章

2017年06月03日 05時21分06秒 | 哀歌
5章も22節から構成されるがアルファベット順とはなっていない。それは、5章が祈りとなっているためなのかもしれない。祈りは、真実な心の発露であるとすれば、技巧的な形に収めることはできない、ということなのかもしれない。
 ともあれ、著者は、神の裁きを認め、それを十分受け止めながら、神のあわれみを願い祈っている(1節)。自分たちの身に一体何が起こっているのか、神が目を留めて、あわれんでくださるように祈っている。神がイスラエルに約束として与えられた土地は他国人のものとなり(2節)、水や薪のような生活必需品も支配者から買い求めなくてはならなくなった(4節)。「奴隷たち」(8節)つまり、ネブカデレザルの家来たちの横暴、そして、「荒野の剣」つまりベドウィンの略奪隊の脅威が回りを取り囲んでいる。女性たちは辱められ(11節)、首長たちは縛り首となり(12節)、若い男性は、普通女性がする仕事、つまりひき臼をひかされ、幼い者も労働に駆り立てられた(13節)。戦争に負けたイスラエルの悲惨な状況が語られる。まさにそれは「心から喜び」が消えたわざわいの時である。
 そんな時に、私たちの心から起こることは何であろうか。神の裁きを覚え、自業自得の運命を歩んでいるという諦めであろうか。諦める所に救いはない。ただ打ち破れた状況に浸るのみである。大切なのは、神をどういうお方であると考えるかである。
 「しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御座は代々に続きます。なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。私たちを長い間、捨てられるのですか。主よ。あなたのみもとに帰らせて下さい。私たちは帰りたいのです」(19,20節)。打ち敗れた状況がいかに悲惨であろうとも、神は裁いて終わらせるお方ではない。裁きの後に、必ず導きを与えられるお方である。裁きは悔い改めを目的とするものであるから、そこに遜りがあり、主を呼び求める祈りがあるなら、神は私たちを不名誉なままに打ち捨てられることはない。
 自業自得ということは確かにあるのだが、自業自得で片付けられてしまうものは何一つない。「主のあわれみは尽きない」(3:22)「主はいつくしみ深い」(3:25)「主はいつまでも見放してはおられない」(3:31)。「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない」(3:33)。「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか」(3:38)。
 実に神に期待しうる人生がある。たとえ自業自得の打ち敗れた人生であったとしても、神は、私たちの再生の願いを厚かましいとは思われない。神の深い愛に甘えることが許されている。社会はそうではないかもしれない。隣人はそのようには受け止めてくれないかもしれない。しかし、その厳しさをそのまま神に訴えてみよう。神の裁きの厳しい現実をそのまま神に語ってみよう。そして、神の憐れみを願い、神がどのように取り計らってくださるか、神の愛のいかんばかりかを教えていただくことを、これからの人生とさせていただこう。