人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生5(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読は、モノの見方を変え、イエスと共に前に進む気を起こさせてくれます。ご一緒にしませんか?

御数記36章

2022年02月26日 07時19分03秒 | 民数記
36章相続地の例外規定(女性相続者の場合)
1.女性相続人の結婚(36:1-13)
 すでにモーセは、27章で、人の相続地は、男性の相続者がいない場合、娘に与えられる、という原則を確認しています(1-11節)。具体的に、ツェロフハデの娘たちの問題がありました。彼女たちの父は、罪の故に荒野で死に、その家族には息子がいなかったのです。そこで、家名を残すために、ツェロフハデの家では、娘たちが土地相続の権利を主張したところ、それが認められたという出来事がありました。しかし、この問題は、それで終わらなかったわけです。というのもツェロフハデの娘たちが、他の部族の男性と結婚した場合、その土地は、他の部族のものとなり、女性が所属していた部族の土地は減ってしまう事態が生じてしまうからです。その新たな事態に、神は、どのように答えられるのか。モーセが、神のみこころを取りついで言います。「彼女たちは、自分が良いと思う人に嫁いでよい。ただし、彼女たちの父の部族に属する氏族に嫁がなければならない。」(6節)。家名存続のためには、諦めなければならない部分もある、という常識的な判断です。
ただここでの強調は家名を残すこと、地境を移してはならないことです。「イスラエルの子らは、それぞれその父祖の部族の相続地を堅く守らなければならない」(7節)。イスラエルには、ヨベルの年には、土地が元の所有者、つまり売主に返されるルールがありました(レビ25:23-25)。しかしそれは、結婚の結果移転された土地については適用されません。ですから、女性が結婚すると、その土地は永遠に失われてしまうわけです。そこで女性相続人の場合は、結婚は部族内に限る、というルールが適用されることになるのです。
ツェロフハデの五人の娘たちは、主の命に従って、おじの息子たちに嫁ぎました。こうして彼女たちの受けた相続地は、彼女たちの父の氏族の部族に残ることになりました。
2.女性相続者のルールが最後に語られることの意義
 さて民数記の最後に、土地の割り当てについて、しかも女性相続者ツェロフハデの娘の例が上げられ、地境を移してはならない、と命じられていることの意義は何なのか、と思います。もっと繰り返し強調して書くべきことがあったはずではないか、と思うところです。考えてみると、民数記は、約束の地を目指したイスラエル人の、40年間の放浪の旅を記録するものです。かつて神は、「わたしは、…カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える」(創世記17:8)とアブラハムに約束されましたが、その神の約束は、40年かかったがついに果たされるところまで来たのです。イスラエルの民は、ついに約束の地を永遠に所有するところまで来た。であれば、何人も与えられる祝福は必ず手にし、永遠に守り抜きなさい、という強調がそこにあるのでしょう。
 神の約束が実るために必要なのは、イスラエルの民の積極的な応答でした。後に続くヨシュア記の記録にあるように、彼らはヨシュアと共に踏み出していくばかりでした。神の約束を手にすると腹を決め、前に一歩踏み出すばかりであったのです。
 この世の歩みを進めていく中で、私たちには神の賜物を放棄してしまいたくなるようなことが多々あるものでしょう。霊的な賜物よりは、やはり、世俗の誘惑の方が大きく、もともと私たちは世俗性の中にどっぷりと浸って生きて来たのだし、そのことで慢性中毒のような生活をしていたのであるから、神に新しい恵みを与えられるようなことがあっても、うっかりしていると、昔の生活の方がよかった、と恵みを恵みと思わぬようなこともあるでしょう。しかしそこで、この後の、イスラエルの歴史を確認していくなら、やはり神が与えようとしている霊的な恵みを覚えて、それを得るように進む努力が大事にされなければならないことがわかります。神が与えようとしているものはあるし、それを得たなら最後まで守り抜く心を持つことです。
13節は、民数記全体の結びです。「これらは、…主がモーセを通してイスラエル人に命じた命令と定めである」これらの教えの背後に主がおられるのです。今日も目には見えなくても、共におられる主の命に従うしもべでありたいものです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。次の内、逃れの町ではないものはどれでしょうか?①ラモテ、②ケデシュ、③ラキシュ。答えは③ラキシュでした。逃れの町は、ヨルダンの東側に、ベツェル、ラモテ、ゴラン。西側にケデシュ、シェケム、キルヤテ・アルバ(ヘブロン)が割り当てられました(ヨシュア20:7-8)。では今日の聖書クイズを一つ。ヨベルの年には、三つのことが守られることが教えられました。第一に畑の休耕、第二に売却されていた土地を売主に復帰すること、そして第三に何でしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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民数記35章 土地を汚してはならない

2022年02月25日 07時00分19秒 | 民数記
35章  レビ族に与えられた町、逃れの町の意義
1.レビ族に与えられた町(35:1-8)
占領地をどのように、12部族にわけていくのか、昨日の34章は、その説明がなされていました。今日の箇所では、12部族の中で別格扱いのレビ族の割り当てについての説明です。レビ族は、神殿に仕える特別な役割を持ち、相続地を持つことを許されませんでした(18:20、23-24)。そのため、彼らの生活は、他の部族によって支えられる仕組みがありました。つまり、他部族がその土地から生産したものの、十分の一をレビ人に与え、その生活を助けるのです(18:21-24)。ただレビ族も、実際には住む場所が必要でしたから、7節、48の町に住むように、定められています。
 そしてちょっと何かなと思うのは、4、5節の、レビ族に与えられた放牧地です。彼らに与えられる放牧地は、町の城壁から外側に向かって「周囲一千キュビト」とあります(4節)。ところが5節では、二千キュビトとある、どっちなんだと思うところですが、おそらく、町の周囲の一千キュビトはレビ族のもの、さらに付け足した一千キュビトを含む二千キュビトは、その町に住む他部族も共有するところ、と理解したらよいののでしょう。そしてキュビトは、おおよそ、肘から中指の先までの長さで約44センチですから、一千キュビトは約450メートル、二千キュビトは、900メートルとなります。現代の日本の場合は、新幹線を乗り継いでいくと町の切れ目がなく家が建っている感じの場所が多いので、町の周囲一千キュビトと言ってもイメージがわきにくいところがありますが、古代イスラエルでは、城壁で囲まれた小さな町が、荒野に遠く点在している状態であったことを理解すると、そのイメージもわくはずです。なお、新共同訳は、単位に「アンマ」を使っていますが、これは、ヘブル語のアマーの音訳で、新改訳のキュビトは、英語の音訳で口語訳を継承しています。ギリシア語七十人訳の音訳ならペーキュスとなるからです。
2.逃れの町(35:9-34)
 続いて逃れの町について。聖書は殺人者を極刑、つまり死刑にするように定めていますが、過失致死にあたる場合、無用な復讐から守られるために、逃れの町が用意されました。それは、ヨルダン川の東側に三つ、西側に三つ、合計六つ用意されました(6節)。
1)逃れの町に入ることの意義
神は、意図的な殺人と過失殺人を区別しておられます。意図的な殺人は、凶器を使うか否か(鉄の器具で人を打つ、人を殺せるほどの石や木製の道具で人を打つ)、あるいは殺意のあるなし(憎しみ、悪意、敵意によって人を打つ)によって判断されました。そして、過失によって事件が起こった場合、殺人者は、近くの逃れの町に逃げ込んで、正当な審判を受けることが許されたわけです。ただ興味深いのは、過失による殺人者は大祭司が死ぬまで、その逃れの町に住んでいなければならなかった点です。大祭司が死ぬことにより、彼は自由を得るのですが、それは大祭司の死により血を流した罪が贖われるという理解のためです。これはへブル人への手紙の著者が言うように、イエスの十字架の予表です(ヘブル6:18)。つまり、イエスの十字架の死は、神の前に罪人であることを覚えて助けを求める者の避け所となり、私たちに罪の赦しを告げ、神の怒りの罰から、私たちを永遠に解放するのです。私たちは生まれながらの罪人で、その罪の性質を捨て去ることができません。エレミヤが、「クシュ人がその皮膚を、豹がその斑点を、変えることができるだろうか。それができるなら、悪に慣れたあなたがたも善を行うことができるだろう(エレミヤ13:23)」と語った通りです。しかしそうであればこそ、イエスの十字架の死が、私たちに神の前にあって罪の赦しを宣言し、神の怒りからかくまってくださるものであることを覚えるならば、その恵みと祝福の素晴らしさを覚えるところです。私たちが相変わらず罪人であるとしても、もはやそのようには扱われないということなのですから。
2)レビ部族の使命:贖い
最後に、この逃れの町の趣旨は、神の宿るイスラエルの聖なる地を復讐の流血による汚れから守ることにあります(34節)。本章はそういう意味で、ただレビ部族に逃れの町が割り当てられたことを教えているのみならず、流血の際の血の贖い方を教えています。古代オリエントでは、殺人者への報復として死刑の代わりに身代金を支払って示談にするのが通例でしたが、イスラエルではそうではありませんでした(31-32節)、故意の殺人者は処刑され、過失の場合は大祭司が死ぬまで逃れの町に幽閉されるのです(16-25節)。26-28節の記述は、万が一その逃れの町を出た場合の定めですが、原則は、目には目を、歯には歯を、死は死をもって償うという考え方です。ともあれ、レビ族は、民を罪から守り、贖いをする使命において、中心的な役割を果たしました。彼らの働きはとりなしの祈りのみならず、死においても、イエスの働きを指し示すのです。キリスト者の生も、また死も主の生涯を映し出すものでありたいところです。では今日もよき一日であるように祈ります。


<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。現代では、イスラエル全土を言い表すのに、「ダンからエイラート」までという言い方をしますが、旧約聖書では、どのような言い方が使われているでしょうか。答えは、「ダンからベエルシェバ」でした。では今日の聖書クイズを一つ。次の内、逃れの町ではないものはどれでしょうか?①ラモテ、②ケデシュ、③ラキシュ、答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。


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民数記34章 相続地を受け継がせるように

2022年02月24日 07時28分25秒 | 民数記
34章イスラエルの領地
1.約束の地カナンの境界線(34:1-15)
神がイスラエルに約束されたカナンの地の境界線が説明される章です。
(1)南の境界線(1-5)
まず南の境界線は、死海の南端から始まってツィンの荒野を通り、カデシュバルネアに至り、さらにアツモンを通り、海(地中海)に至ります。要するに、イスラエルの地図を思い浮かべ、死海の南端から、西側の地中海に向かって、外に向かって張り出した緩い弧を描く線です。
(2)西の境界線(6)
次に西側は、はっきりしていて、大海、つまり地中海沿岸が境界です。
(3)北の境界(7-9)
北側は、大海(地中海)からレボ・ハマテ、ツェダデ、ジフロン、ハツァル・エナンにまで横に伸びています。それはちょうど今のレバノン、シリアを横切っている線です。
(4)東の境界線(10-15)
最後に東側ですが、東側は、ハツァル・エナンからそのまま南下し、サルカからシリア砂漠を通って、地中海に向かいガリラヤ湖に達します。東側の境界線はイメージしにくいかもしれませんが、シリアの南端の境界に一致するような形です。
こうしてイスラエルの領土は、現在のイスラエル、レバノン、シリアの一部を含んで、ヨルダンを除外する地域が、神がイスラエルに約束されたカナンの地に当たると考えてよいでしょう。ただし、33章で見たようにルベンとガド、マナセの半部族は、ヨルダン川東側の土地を相続することを申し出た経緯があるので、神が与えられた土地には、ヨルダンも含まれている考えられます。なお13節以降は、この地を相続する者の族長たちの名前の記録です。
さて、この境界は、イスラエルの歴史のどの時代の実際の境界線とも一致していません。つまり、イスラエルは、神に約束された土地を、歴史上一度も完全に占領したことはなかった、ということです。それはイスラエルが力不足であったのか、それとも、力はあったものの、神の与えられている恵みを十分理解しておらず、そこに向かう努力が足りなかったのか、どちらかと言えば、後者でしょう。「神はいつでも、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」ですが、人は、神もビジョンも小さく見て、そのご計画の実現に失敗していることがあるのではないでしょうか。
確かに、人生を振り返り、あの時もっとこうしていれば、ああしていればと、後で悔やまれることはあるものでしょう。その時の器が小さかったというべきか、ある程度のことを経験しないと、本当に大事なもの、勇気をもって踏み出すべきものがわからないことが人にはあるわけです。ですからパウロが次のように祈るのも理由なきことではありません。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ1:17-19)私たちの目は十分に開かれていない現実があるのです。神が与えられようとしているものの豊かさをしっかり把握できないでいるのです。ですから私たちが、本当に神の祝福を受け継ぐには、神が今日も私たちに豊かな識別の目と霊的な深い洞察力を与えてくださるように、私たちの受け継ぐべきものをはっきりと見させてくださるように、と願う必要があるのです。
2.土地の分配者の指定(34:16-29)
34章後半は、占領地の分配について書かれています。すでにヨルダン川に土地を取得したルベンとガドを除き、全部で10部族の指導者たちの名があげられています。これらの名は、これまでのどのリストとも一致するものがありません。ただ、カレブのみが、13章の斥候のリストに重複します。また、リストは、南のユダとシメオンから始まり、北のアシェルとナフタリで終わり、ほぼ、定住した順に記されています。「相続地を持たせるよう主が命じたのはこの人々である」(29節)と、主ご自身が分配者を直接任命されました。この任命は、始まりに過ぎません。彼らはこれらを戦いによって勝ち取るのです。それぞれに信仰の戦いが与えられています。であればこそ、霊的な力を求める以上に、霊的な目を開かせていただくように祈ることが大切です。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。イスラエルが放浪の旅で二度滞在したカデシュは、どの国の国境にあった町でしょうか?答えは、エドムでした(民数記20:16)。では今日の聖書クイズを一つ。現代では、イスラエル全土を言い表すのに、「ダンからエイラート」までという言い方をしますが、旧約聖書では、どのような言い方が使われているでしょうか。答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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民数記33章 出発し、宿営した

2022年02月23日 07時06分39秒 | 民数記
33章出エジプトからカナンまで,総括 わたしがそれを与えたからである
1. 40年に渡る旅の奇跡
 33章は、一種の総括です。イスラエルがエジプトのラメセスを出てから、モアブの草原に到着するまでに宿営した40カ所の旅程が、記録されています。約40年に渡る旅の軌跡であり、それは、出エジプト12-17章と民数記10-21章を合わせたまとめとなっています。
これらの経路は便宜的に四つに区分して考えることがよいでしょう。つまり①ゴシェンから紅海まで、②紅海からシナイ山まで、③シナイ山からカデシュまで、④カデシュからモアブまでです。
このうち、最初と最後の二つの区分はよいとして、その間の紅海からカデシュまでの旅程は実際にはよくわかっていません。というのも古代の地名は、その場所に人々が定住し続けてこそ残るものですし、荒野の住民が遊牧民であったことから、聖書時代の地名がそのまま現代まで残るのは難しかったためです。実際地名は、社会的、政治的、宗教的理由によって変わり、かつてとは違う場所に残っていく場合もあります。
(1)ゴシェンから紅海まで(3-8節)
3節、初めにイスラエルはラメセス(ゴシェン)からスコテとエタム、つまり南東に向かって旅立ちました。そこから彼らは「向きを変え」ピ・ハヒロテの前で宿営しました。彼らは荒野に向かって真っすぐ東へ進まず、南下したのです。こうして彼らは苦湖のほとりにやってきて、天来の助けによってその湖を渡る奇跡に与りました。おそらく、古代において苦湖は、直接紅海とつながっていたと考えられ、イスラエルが渡った「海の真ん中」は、紅海そのものではなく、紅海とつながっていた苦湖であったと考えられています。
(2)紅海からシナイまで(8-15節)
 偉大な神の業を経験したその後の経路については、シナイの所在を巡って複数説があります。伝統的にシナイ山は、シナイ半島の南、ジェベル・ムサに位置するとされてきました。しかし、出エジプト3:18などによると、そのシナイ山は、エジプトから三日の道のりであるとされること、漁獲に適した場所なのに、民の中に魚を食べたいという不平が起こったこと(民数11:5)など種々の理由から、他の場所を考えるのが適当とされてきました。つまり伝統的には、シナイ半島の先端に向かってスエズ湾に沿って南下し、ジェベル・ムサからアカバ湾に沿って北上してカデシュに到達する経路が考えられてきたのですが、実際には、南下や北上はなく、ジェベル・ムーサに代わるジェベル・シン・ビッシャーを通って、カデシュに向かってそのままシナイ半島を東に向かって横断する経路がとられたのではないかと考えられているのです。
(3)シナイ山からカデシュまで(16-36節)
ここは民数記10:33-13:25の詳述です。民数記では、主の山(シナイ)からパランの荒野にあるカデシュまで、タブエラ、キブロテ・ハタアワ、ハツェロテの三つの滞在地を記録するのみですが、ここでは、22の滞在地が記録されています。またスタート地点と終着地点の場所を除いて、一致しているのは、キブロテ・ハタアワとハツェロテだけです。そこで、申命記1:19で「あの大きな恐ろしい荒野」と要約されるこの旅程は、実際には速やかに移動されて(約30日間)、本章にある多くの滞在地は12部族が放浪していた38年間に宿営した場所と考えるのがよいのでは、という説もあります。
(4)カデシュからモアブまで(37-49節)
カデシュの後の最初の宿営地はホル山で、古い伝承によればペトラの近くのジェベル・ハルンとされてきました。しかし実際には、その山は、カデシュに近く、そのまま真東に進んだ経路も考えられています。
ともあれ、40年の旅程は示されていますが、それが現在のどの地点に相当するのかはよくわかっていません。ただ、それらを特定することはあまり重要ではなく、むしろ本来ならば2週間で移動可能な場所を40年かかった、ということであり、また40年はかかったが、やり遂げたということでしょう。
そのような意味では、私たちの人生にも本来は3年で完成するはずのものが、30年かかってしまう、そんな現実があったりするものです。しかし、大切なのは、3年でできるものを終わらせられなかっただけではなく、そこからさらに無為無目的な人生に彷徨い込んだとしても、それをまた思い起こした時に、やり遂げることは、変わらぬ神の御心と考えるべきでしょう。つまりいつでも、何か未完成なことがあり、思い起こすことがあるなら、それが10年後であれ、20年後であれ、取り組むべきことです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ルベンは、ヤコブの12人の子どものうち、何番目の子であったでしょうか?答えは長子でした(創世記29:31)。では今日の聖書クイズを一つ。イスラエルが放浪の旅で二度滞在したカデシュは、どの国の国境にあった町であったでしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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民数記32章 先頭に立って急ぎ進みます

2022年02月22日 07時13分49秒 | 民数記
32章ガド・ルベンの土地相続,誓い
1.ガド・ルベンの申し出(32:1-15)
 イスラエルが、カナン征服に向かって突き進む歩みが始まりました。しかし、もともとは、約400年も前に、彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブが住んでいた土地、そして彼らの永遠の所有として約束されていた土地でした。ですからこの戦争は侵略戦争という性質とはまた違うものでしたが、400年間留守の間に住み着いた異民族に土地を返してもらうためには、戦わざるを得なかったわけです。
ところで、その初めに、ガド、ルベン族、そしてマナセ族の一部の者が、この先には進まなくてもよい、ヨルダン川を渡らずに、今いるこの土地に住み着きたいとモーセに願いました。しかしこの土地はそもそも、先祖たちに約束された地の外側にあったものです。皆がヨルダン川を越えて、これから約束の地を手に入れようとしている時に、彼らは、またしても神のご計画に沿わない行動をとったわけです。モーセはこのような申し出は災いである、と語りました。それは、40年前カデシュで、約束の地を偵察しながら、入って行かなかったように、イスラエル人の士気を低める古い世代の人々と同じ態度でした。しかも、彼らがこの土地に住み着きたいというのは、すでに占領したこの土地が、自分たちの羊のために適していると考え始めたからでした。今の自分の状況にそこそこ満足し、神が与える祝福を小さく考えてしまう、これが罪人というものでしょう。そして、自分の関心に埋没することにより、これから苦労する仲間を傍観し、無関心になっていく危険性もそこにありました。
2.ガド・ルベン族の修正提案とその後(32:16-42)
こうした態度に、主の怒りが燃え上がったと言います。まあ、当然と言えば、当然です。そこでガド、ルベン族は、修正提案をしました。これからヨルダン川西側の土地を征服するにあたり、自分たちが先陣を切る代わり、征服出来たら、今のこの東側の土地を自分たちのものにしたい、と言うのです。その提案は受け入れられました。実際の彼らの進軍の順番は、第二グループになるのですが、ここで彼らは、皆が納得する思いきった提案をしたわけです(2:16)。モーセは、その約束を破らないように、約束を破れば重い刑罰が科せられると念には念を入れて確認しています。その後実際にはどうだったのか。後のヨシュア記を読むと、彼らが約束を守り、主な敵を征服し、土地を皆で分割するまでは、先頭に立って戦ったことがわかります。
 ともあれガド、ルベン族が引き起こした問題は、私たちにも起こりうることでしょう。罪人というのは、自分のことを真っ先に考えるものです。罪深い性質は、いつでも、今ここにある物質的な祝福を求めやすいものです。信仰によって見えない、全体の祝福を考える力に乏しいものです。そして、自分が神の民の一人であることを忘れ、目先のことであくせくしてしまいやすいものです。まずは自分の思いや都合を優先し、家族、職場、教会のことは後回しとなるのです。人間は、身近な人間関係のつながりを抜きに存在しえない、共に生きているからこそ、今の自分もありうるという単純な事実を忘れやすいものです。
 キリスト者というのは、他人と関わることもなく、一人で信仰を持ち、神のきよさに生きているような者ではありません。キリスト者は、まさに、神の愛に生きる者、人と人の関係の中に生きる者です。そして関係の中に生きる時に、キリストにあって罪悔い改めたことを大事にする者、つまり絶えず自分には、自分のことしか考えない自己中心な罪深い心があることをよくよく心得、そのような心に流されない思いをしっかり持って生きる者です。ガドやルベン族が、これから苦難の中に飛び込んでいく、他の部族のために意を決して先頭に立って戦いを戦うことを申し出たように、苦難の中にある人々に対する心遣い、また支えをしっかり意識化していく者たちです。
 ガド、ルベン族のこうした態度が、イスラエルに、またガド、ルベン族自身にも大いなる祝福をもたらしたことは確かです。人との関りを深く考えずに歩みやすい罪人の性を心得、そのような自己中心性を悔い改めた者として、自分が置かれた共同体、たとえば教会あっての自分であることも考え、教会の戦いを先頭を切って戦う、そのような心構えも持ちたいところです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ミディアン人は、創世記ではしばしば別名何と呼ばれることがあったでしょうか?答えはイシュマエル人でした。ヨセフの兄弟たちがヨセフを奴隷として売りつけた隊商は、ミディアン人ともイシュマエル人とも呼ばれています(創37:28)では今日の聖書クイズを一つ。ルベンは、ヤコブの12人の子どものうち、何番目の子であったでしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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