人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

詩篇57篇

2013年06月08日 06時24分30秒 | 詩篇
<朝のディボーション>
 逃亡中の歌が続く。表題を見ると、ダビデがサウルから逃れて洞窟にいた時とある。恐らく、詩篇56篇のガテから逃れて間もなくの作であったのだろう(1サムエル記22章)。
 ダビデは、サウルの攻撃を二つの形で表現している。一つは猛獣に追跡されているイメージ。槍と矢の歯、鋭い剣の舌で追い詰められているイメージである(4節)。そしてもう一つは、ひそかに罠を仕掛けて、獲物を待ちうける狩人のイメージである(6節)。望みを失うような状況である。しかし、人間社会にはこんなことがあるものだろう。そんな時にどう過ごしたらよいのか。
 一つのことばが印象的である。「まことに、滅びが過ぎ去るまで」(1節)。ダビデは、この危機がいつまでも続くものとは思っていない。必ず「過ぎ去る」ものであると理解している。希望が持てない時は、「いつまで」こんな状況が続くのか、と出口のない苦しみに悩むものだろう。しかし、そこで「過ぎ去る」という見通しを持てたら、後もうひと踏ん張りと思うこともできる。
「彼らは私の前に穴を掘りました。そして自分で、その中に落ちました」(6節)。これは、ダビデが、サウルの手から逃れようとし、たまたま隠れていたと洞穴に、サウルが用を足しに入ってきた出来事を言っているのかもしれない。サウルは着々とダビデを追い詰めていた。ダビデは、絶対絶命であると高度の緊張に立たせられていた。しかし、「王手」という所で、サウルはダビデに反逆の機会を与える窮地に陥っている。ダビデが部下を制することがなければ、サウルはその場で殺されていた。目に見える窮地は窮地ではない。たとえ罠がしかけられたとしても、神がお許しにならない限り、どんな危害も加えられない。むしろ、罠をしかけた敵が自ら罠にひっかかる、ということが起こる。
<夜のディボーション>
全ての状況は神が支配しておられる。そのように考えると、私達に加えられている危害など、危害と考えるほどのことでもない。ある意味で、敵と思われる人に、追われ、はく奪され、全てを奪われたとしても、それは奪われたことにはならない。自分の名誉が傷つけられた、と思われることがあっても、そうではない。滅びは一瞬であり、神はその滅びの全てを回復させてくださるのであるし、滅びにまさる祝福が後に続くからである。
 パウロは、語った。「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(2コリント4:8,9)。確かに、神は正しい者の味方であるし、正義を行われるお方である。その確信にはっきり立つことができる、これが信仰の成熟である。信仰はまさに望みえない時に望みを抱き、窮地にあって、心穏やかに神を仰ぎ、神を待ち望ませる。
ダビデは言う「私は暁を呼び覚ましたい」(8節)朝明けが待ち遠しいということだろう。神の救い、神が備えてくださる救いの日は、もうすぐそこに迫っている、そういう確信である。たとい今日がそうではなくても、朝があけるように確実にその日は来る。ダビデの信仰である。だから、ゆらがず(7節)、神を心においてほめたたえ(7節)、神に感謝し(9節)、神の栄光を待ち望む(11節)。これがほら穴に追い込まれた時に過ごし方である。逃げることを考えるのではなく、むしろ、「神の御翼の陰に身を避ける」時を、神の恵みを味わいながら過ごすことが大切なのだ(1節)。信仰は魂を祝福する。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 詩篇56篇 | トップ | 詩篇59篇 »
最新の画像もっと見る

詩篇」カテゴリの最新記事