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人生💯倍の励まし😊【聖書】列王記第一7章 心満ち足りる

2022年07月21日 06時16分23秒 | レビ記
1列王記7章 ソロモンの宮殿建設
1.ソロモンの宮殿
ソロモンは神殿建設の後、自分の宮殿を建設しました。それは、長さ46メートル、幅23メートル、高さ13.5メートルというのですから、神殿よりもさらに大きい建物です。「レバノンの森の宮殿」というのは、おそらく、「四列の杉材の柱」に因んだもので、森のような外観であったのでしょう。実際にこの宮殿は、王が裁きを行う場として用いられたのみならず(7節)、国の宝物庫としても用いられ、貢物の宝物が陳列されていました(10:16-17)。彼の家は王座の広間の後ろの庭にあったと言います。
しかし、ソロモンの宮殿の実際の位置についてはわかっていません。一般には、ダビデの町の北の端と神殿の間、つまり、神殿の丘の南端にあったとされています。しかし、テルアビブ大学の考古学者ウシシキン教授によれば、ソロモンは、一般に学者たちが主張してきた神殿の南側ではなく、北側に自分の宮殿を建てた可能性があると言います。つまり、南側であれば、ダビデの町から神殿を往来する人々の騒音に悩まされたと思われるからです。ただ北側とすると、地形的な特徴からすれば、敵が侵入しやすい場所なので、宮殿のさらに北側に堀が造られたはずとしています。
2.ソロモンの生活
ともあれ、実に素晴らしい神殿と宮殿を建て上げながら、ソロモンは決して満足はしていなかったと思われます(伝道者の書2:10、11)。どんなに生活が豊かになったとしても、それで満足する人はいません。様々な財、肩書、名誉、地位で自分を着飾ったとしても、満足できない、心の貪欲さというものがあるのです。あるご老人が、退職後は海外旅行を好きなだけやってみたいと思い、実際にそうしてみたものの、結局それも飽きてきた、満たされないと語りました。確かに人はモノでは満足できないのです。クリスチャンになって、信仰生活を重ねていくとわかってくるのは、人生がそのようなものだということです。物質的な豊かさ以上に、心が満ち足りていること、実は、それこそ大切なのだ、と否応なしにわかってくる時があるのです。パウロは「神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか」(エペソ1:18)を知る祈りをしていますが、まさにその祝福に気づき、その祝福を地上においても味わっていくことが、人間にとって最も大切なのです。そこがわかれば、この世も極楽と言うべきでしょう。
3.調度類
13節以降は、造作された神殿の調度類のリストになっています。ヤキンとボアズの柱、つまり二本の青銅の柱(15-22節)、青銅の海、つまり巨大な水盤(23-26節)、水盤を載せて移動させるための移動式台座(27-39節)など、神の宮の調度類が作られ、装飾が施された様子が記録されています。この仕事を完成させたヒラムは、ナフタリ族のやもめの子で、彼の父はツロ人であると紹介されています。古代の建築文献においては、建築家の名前が記載されることはよくあることでしたが、このような紹介のされ方は、ある意味で不名誉なもののような気もします。しかしながら、神の前に、やもめの子も異邦人の子もありません。むしろ、神は、生まれがどうであろうと、生い立ちがどうであろうと、その一人一人の賜物と才能をふさわしく用いてくださる、ということではないでしょうか。そのような意味では、人は、自分が自分らしく咲くことに徹すべきなのでしょう。自分自身を大切にするということはそういうことでしょう。人は、他人の真似事をして、人の上に秀でようとせず、ただ、信仰による満ち足りた心をもって、自分が喜んでできることに専心したいものです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。神殿が完成したのは、ブルの月と言います。それは、太陽暦では何月頃になるでしょうか?答えは、ヘブル暦の第8月。太陽暦の10―11月に当ります。これは、降雨の月で、小麦、大麦の種蒔きが行われ、遅ぶどうの収穫月となります。では、今日の聖書クイズです。バテは、液体の基本単位で、元々の原意は「娘」、そこから派生して一人の少女が運べる水の量を指すものですが、それは約何リットルでしょうか?①6リットル、②11リットル、③22リットル、答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

1 Kings Chapter 7 Construction of Solomon's Palace
1. Solomon's Temple
Solomon built his own palace after the construction of his temple. It is 46 meters long, 23 meters wide and 13.5 meters high, making it even larger than a temple. The "Palace of the Forest of Lebanon" was probably associated with the "four rows of cedar columns" and had a forest-like appearance. In fact, this palace was not only used as a place for the king to judge (ver.7), but also as a national treasure house, displaying tribute treasures (10:16-17). His house is said to have been in the garden behind the throne hall.
However, the actual location of Solomon's Palace is unknown. It is generally said that it was between the northern end of the city of David and the temple, that is, the southern end of the temple hill. However, according to Tel Aviv University archaeologist Professor Usshikin, Solomon may have built his palace on the north side of the temple, rather than on the south side of the temple, which scholars have generally claimed. In other words, on the south side, it seems that the noise of people coming and going from the town of David to the temple was annoying. However, considering the topographical features of the north side, it is a place where enemies can easily invade, so it is assumed that a moat was built further north of the palace.
2. Solomon's life
In any case, it seems that Solomon was never satisfied with the construction of such a wonderful temple and palace (Evangelist 2:10, 11). ” No matter how rich his life may be, he will not be satisfied with it. Even if he dresses himself up with various goods, titles, honors, and positions, he is unsatisfied with the greed of the heart. An old man said that he wanted to travel abroad as much as he wanted after he retired, and he tried to do so, but in the end he got tired of it and wasn't satisfied. After all, it’s the same wherever he go. Certainly, people cannot be satisfied with things. It is that kind of life that you will find that you become a Christian and continue your religious life. There are times when it becomes clear that a fulfilling mind is more important than a material abundance. Paul is praying to know” the hope to which he has called you, the riches of his glorious inheritance in the saints.” (Ephesians 1:18), and that is exactly the blessing. It is the most important thing for human beings to be aware of and enjoy the blessings on earth. If you understand that, you should say that the world is also paradise.
3. Furnishings
From verse thirteen onwards, it is a list of the furnishings of the temple that was created. The pillars of Yakin and Boaz, that is, two bronze pillars (verses 15-22), the sea of bronze, that is, a huge basin (verses 23-26), and a mobile pedestal (27-39) for mounting and moving the basin. It is recorded that the furnishings of the temple of the gods were made and decorated, such as the section). Hiram, who completed this work, is said to be a Naphtali widow and his father is a Tyre. In ancient architectural literature, the name of the architect was often mentioned, but this kind of introduction seems to be disgraceful in a sense. However, before God there is neither a widow nor a Gentile child. Rather, isn't it that God properly uses the gifts and talents of each and every one of them, regardless of their birth or upbringing? In that sense, one should devote himself to blooming in his own way. That's what it means for him to take good care of himself. People do not want to imitate others and try to excel on others, but just want to devote themselves to what they are willing to do with a full heart of faith. I pray that today will be a good day.

<Quiz corner>
First, yesterday's quiz. The temple was completed on the Bull Moon. What month will it be in the solar calendar? August of the Hebrew calendar. It corresponds to October-November of the solar calendar. This is the month of rainfall, when wheat and barley are sown and the late grapes are harvested. So, today's Bible quiz. Bate is a basic unit of liquid, and the original meaning is "daughter", which is derived from it and refers to the amount of water that a girl can carry. How many liters is it? ① 6 liters, ② 11 liters, ③ 22 liters, the answer will be tomorrow. I pray that today will be a good day.


ルツ記1章 あなたの神は私の神

2022年05月17日 07時03分50秒 | レビ記
1.ルツ記について
1節、「さばきつかさが治めていたころ」とあります。つまりルツ記は、士師記と同時代の作品です。ヨセフスという人の古代史という書によると、エリの時代の物語とされます。つまり士師記の時代でも後期のもの、ボアズから四代目にダビデが生まれていますから、年代的にはおおよそBC1150年頃の物語というわけです。しかしそこには、士師記に描かれた不法や争い、流血の風景はありません。一庶民の素朴な信仰の営みが描かれています。不信仰と無秩序な時代にあって、迷いながらも主に信頼して歩む、信仰者の歩みが記録されているのです。
2.エリメレク一家に起こった不幸
前置きはその程度にして、まず1章、イスラエルの地に飢饉が起こっています。そこで、エルサレムの南八キロ、ベツレヘムに住むエリメレクの一家が登場、彼は、妻と二人の息子と共に、モアブの野に移住します。そこはベツレヘムから約100キロ、ヨルダン川を渡った、死海の北東の高原地帯です。北は、アルノン川、南はゼレデ川に挟まれた地域です。トランス・ヨルダン屈指の農業地帯で、小麦や大麦を産出し、ぶどう栽培に適し、羊ややぎの牧畜が盛んでした。エリメレクは、そこで生活の立て直しを図ろうとしたのでしょう。しかしそんな夢もかなわず、妻ナオミを残して死んでしまうのです。寡となったナオミは、そのままモアブの地に住み続け、地元の女を二人の息子の妻として迎えました。モアブ人は、アブラハムの甥のロトとその姉娘との間に生まれた子どもの子孫で、イスラエル人やアモン人とも血縁関係にあります(創世記19:39)。こうして彼らは十年の歳月をそこで過ごしましたが、なんと二人の息子も先に死んでしまいます。二人の息子の名は、「病める者」を意味するマフロン、そして「消えうせる者」を意味するキルヨンで、まるでその人生を象徴しているかのようです。ナオミは、その時の心境を次のように語ります。「主の御手が私に下った(13節)。全能者がわたしを大きな苦しみにあわせた(20節)」と。そのような心境、わかるな、そうだよな、と思われる方もいるでしょう。神様、なんだよ、というわけです。
3.ナオミの転機
ストーリーは続きます。うなだれたナオミにベツレヘムから豊作の知らせが届くのです。ナオミは考えたのでしょう。故郷に戻れば、また新しい人生も開けるかもしれない。彼女は荷物をまとめて旅立ちました。すると二人の寡となった嫁もついてくる。そこでナオミは、あなたがたはまだ若いのだから、私のことなど気にせず、再婚して新しい幸せを掴みなさいと勧めました。実際、モアブ人の嫁が異国イスラエルの地に住み、生計を立てていくのは難しいことでした。ユダヤ人は律法によって外国人との結婚を禁じられていたからです(申命23:3)。彼女たちは寡のまま一生を終える、そんな危険すらありました。ナオミは二人を説得します。
4.ルツの信仰告白
こうして次男の嫁オルパは、この勧めに従いました。しかし、長男の嫁ルツは、ナオミについて行くと引かないのです。ルツにしてみれば、再婚するには微妙な年代であったのかもしれません。そこで彼女は、自分の幸せもさることながら、身寄りもなく置いていく義母の将来を案じたのでしょう。ただ、次男の嫁は、義母を見捨て、長男の嫁は見捨てなかった、というのではなく、長男の嫁ルツは、人生の成り行き上義母と共にいたかった、共に生活したかったのではないでしょうか。「あなたの民は、私の民、あなたの神は私の神です」というルツの返事は、よく信仰や義母に対する忠誠の模範という言い方がなされますが、それだけでは続かないのが人間関係ではないでしょうか。ルツは、自分が義母と同じ信仰、同じ価値観、感覚を持っていて、義母の側にいることが自然なのだ、それを取り去らないで欲しいと語っているのです。人生不思議な巡りあわせ、というものがあるものです。しかしそれも神が仕組んだもの、神によってもたらされた関係です。偶然ではありません。一人の老いた寡を異国人の兄嫁が愛し、ある意味で自分の人生を捨ててまで義母の面倒を見たいという心が起こる関係、それも神の不思議です。ナオミは、なぜ息子は?という疑問を小脇に抱えながら、なぜこの嫁は?という疑問を抱き、神がこの先どうなさるのか、と言う思いでベツレヘムへと向かったことでしょう。神のなさる不思議に思いを留めながら、先へ進む、それが私たちの日々でもあるのです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。イスラエルでぶどうが最もよく収穫された地はどこであったでしょうか?答えは、南方ヘブロンを中心にした地域です。その他、イズレエル平原、ゲネサレ平原、またシロやシェケムの山地、有名なエシュコルの谷、死海のほとりのエン・ゲディ等も、多くのぶどうを産する場所として知られています。は、今日の聖書クイズを一つ、モアブ人の起源は、アブラハムとどのような関係にある人でしたでしょうか?答えはまた明日、では、今日もよき一日となるように祈ります。

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レビ記27章

2022年01月21日 07時00分15秒 | レビ記
27章 主へのささげ物 
 レビ記をようやく読み終わりました。今日の箇所には、神に対する誓いや自発的なささげ物について語っているのですが、それらがもし難しくなった場合に、どうしたらよいのか、その考え方が述べられています。
1.請願のささげ物(27:1-25)
まず神に、しもべとして聖所に仕える、いわば主に身を献げる、と誓ったものの、やはりそれが難しいとなった場合、その人は「銀」の支払に替えることができました。その金額は、身分や階級によらず、年齢と性別に基づくものです。つまり20歳から60歳の男性は50シェケルと最も高くつき、60歳を超えると男性は15シェケル、女性は10シェケルと値が下がるのです。また、幼い男子は5シェケル、女子は3シェケルとされました。またその人が貧しく、50シェケルに評価されても、それを支払う能力がない場合には、評価額を調整してもらうことができました。大切なのは、評価額がいくらであるにせよ、神に対して自発的に誓いを立てたなら、それは実行されなくてはならない、ということです。思い付きの行為や非現実的な誓いは戒められなくてはならなかったわけです。
そのような理解で、イエスがユダに裏切られた際に、銀30シェケルで値積もりされた事を考えると、それは、単にイエスの価値を低く見た、つまり女性の値段で評価した、というのみならず、イエスを十字架上で葬りさることで、イエスが神への誓いを守りきれなかったことを思い知らせようとしたユダヤの宗教家の悪意があったと思わされるところです。しかし、イエスは、十字架の死をもって、神との誓いを果たしたというべきです。
また16節、財産つまり家屋と土地を神に献げると言ったものの、これを取り消したい場合には、その評価額と同等のものにプラス五分の一の評価額を加えて献げるとされます。これも献げると誓った以上、思い直して別のものを献げたり、知らぬふりをしたりすることがあってはならない、ということです。伝道者の書には「神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。愚かな者は喜ばれない。誓ったことは果たせ。誓って果たさないよりは誓わないほうがよい」(5:4、5)とも語られています。
何よりも覚えるべきは、神は人格的なお方であることです。私たちは、石や木で出来た物言わぬ偶像に祈りを献げ、誓いを立てるわけではないのです。たとえ目には見えないとしても、神を敬い、神の心を大事にするなら、その報いは豊であると心得るべきでしょう。
2.ささげられない物(27:25-29)
 なお、代償が許されないものもありました。家畜の初子(26節)と聖絶のもの(28節)です。これらは初めから主のものだ、とされています。
3.十分の一の買い戻し(27:30-34)
30節以降は、十分の一についての定めであり十分の一献金の根拠とされる箇所です。収入の十分の一は、主の聖なるもの、ささげられるべきものであると言います。こうした教えは、私たちの信仰を試すもの、つまり私たちが、モノではない神により頼んで生きているかどうかを試すものです。さらに、実際的なことを言えば、これらのささげ物は、土地のない人、つまり収入の手段のない祭司やレビ人などの働きや生活を支えたり、祭儀の執り行われる神殿を維持したりするために使われました。やはり、教会の交わりは楽しい、教会で助けられていると思うのはよいのですが、そのような教会の働きを成り立たせている牧師の働きを覚え、その働き以外に収入の手段のない牧師をしっかり支えていく愛の心を持つことは、大切なことでしょう。
以上、神の民として教えられ、理解し、実行しなくてはならないことが多くあります。それらは、義務のように思われるところもあるかもしれませんが、基本的に神の民として生きることは、実在の神の心に応答して生きる歩みです。罪の滅びの中から救い出してくださった神の愛に応えて生きる、これが聖書に教えられた律法を守る基本なのです。では今日もよき一日であるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。「高き所」は、単純に小高い丘や峰を指し、やがて偶像崇拝の場所とみなされるようになった場所ですが、これを積極的に国から取り除こうとした最初の王様は誰でしょうか?答えは、ヒゼキヤでした(2列王18:1-4)。イスラエルの歴史の中で、「高き所」は祭壇として利用されており、ソロモンもこれを用いています。しかし次第にそこは偶像礼拝の場とみなされるようになり、ヒゼキヤの宗教改革の流れで壊されるようになりました。では今日の聖書クイズを一つ。次の中で、ローマの銀貨の単位とされたのはどれでしょうか?①コドラント、②アサリオン、③デナリ、答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。
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答えはデナリ、アサリオンは銅貨の単位、デナリ銀貨の16分の1の価値、またコドラントは、ローマの最小の貨幣、アサリオン銅貨の4分の1。

レビ記26章

2022年01月20日 06時57分24秒 | レビ記
26章神への従順と不従順
レビ記も残すところ、あと2章となりました。この26章は、いよいよレビ記の締めくくりになる部分でもあるのですが、偶像崇拝を避け、まことの神の教えに従順であることが、その人の祝福と繁栄を約束するものであることが語られています。
1) 神に従う祝福(26:1-13)
 まず神は、ご自身を恐れ、従う者を祝福されると言います(1,2節)。偶像礼拝を避けよ、安息日を守れ、主を恐れよ、そうすれば、地は産物を出し(4節)、パンに満ち足り(5節)、安らかに住み、平和が与えられる(6節)、と。また、悩まされることもなく、悪い獣や剣からも守られ、敵がいても追い散らされ(7節)、多くの子を与えてくださる、と。イスラエルをエジプトから解放すると約束された主は、確かにその言葉を守られましたし、後の民数記を読むとわかることですが、荒野を彷徨った40年の間、神はイスラエルの民を天来の恵みをもって養い、守られたのです。今の私たちに対しても神は、同じようにしてくださるでしょう(9節)。かつて神がイスラエルの民と交わされた契約は(12節)、まことの神を信じる者全てに及ぶ、と信仰をもって受け止めたい箇所です。
2)神に従わない罰(26:14-39)
 ですから他方で、もし聞き従わず、契約を破るのならば(14,15節)、ここで語られていることは、同じように真実なものだ、と考える必要があります。主が祝福を約束されることを信じてその報いを受けるならば、その逆もまた然りなのです。神は言います。従わないのなら、神は、恐怖を臨ませ(16節)、敵を起こし、打ち負かされ、踏みつけられるようにし(17節)、地も産物を生み出さず(19節)、すべての努力は実を結ばない(20節)、と。畑は野の獣に荒らされ(27節)、疫病がくだされる(25節)。神が敵対し(24,27節)、祈りも聞かれない(31節)、と言います。36節「追いかける者もいないのに倒れる」とは、自滅の道を辿るということでしょう。神の契約は、良いことづくめではない。やはり従わないのなら、そこには逆のことも起こりうる、と語るのです3)悔い改めの報い(26:40-46)
ただ大切なのは、神は、基本的に愛のお方であり、最初は優しかったけれど、何かの拍子に、私たちに対して手のひらを反すような方ではない、ということです。神は、懲らしめを与えられつつ、いつでも悔い改める者に哀れみ深くあられます。神は敵対しても、人を見捨てることはありません(44節)。神はいかなる人も滅びることを望まれず、悔い改めて生きることを願っておられます(ルカ15:7)。わざわざエジプトから連れ出した民を、途中で投げ出して、滅ぼされることはしないのです(45節)。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(ヘブル12:5,6節)とあるように、神は、祝福に引き戻されようとして懲らしめを与えられるのです。
ですから、人が苦しみを通して学び、心遜るなら(41節)、神は再び契約を思い起こすとされます(42節)。ただし、その契約はその人と結んだ契約ではありません。その昔、アブラハム、イサク、ヤコブと交わした契約を思い起こすと言うのです。そしてその契約に基づいて、その人に再び恵みを注がれると言うのです。
これは極めて重要なことを言っています。というのも、私たちが神に不従順のゆえに裁かれた時に、神は私たちとの契約を思い起こすのではないのです。破られた契約は、そのまま、むしろそこでまだ破られていない契約を思い起こす。そしてその破られていない契約によって、私たちとの契約をまた再生しよう、と言うわけです。で、その破られていない契約と言う、他でもない、2000年前に、神がイエスと交わされた契約、十字架で完成された罪の赦しの契約です。神は、悔い改める者を見るならば、その度に、イエスが十字架上でなしてくださった契約を思い浮かべて、その人を赦してくださる、と言うのです。これは確実な罪の赦しです。私たちの状態によらず、神様の気まぐれな思いやりによるのでもない、ただ、十字架のイエスの業をもとに、誰でも、どんな裏切りでも、どんな敵対でも赦してくださるというのです。
神は、私たちの罪の赦しのために、イエスを十字架におかけになり、血を流し、肉を裂き、これを永遠の契約とされました。いつでも私たちはその十字架に立ち戻らなければなりません。十字架に私たちのすべての罪の赦しがあり、十字架に、私たちの回復の出発点があるのです。なお、34節、神への反逆者が罰せられている間、土地が休むことができる、とは興味深いところです。罪人によって散々搾取された土地、汚された環境が、回復の時を得るというのです。確かに、天地をお造りになった神を無視し、神に背を向ける人間の歩みは、人に対してのみならず、自然環境にも傍若無人な振る舞いをするものでしょう。天地万物をお造りになった神を覚える、そのような人は、自然環境も大事にし、その回復にも努めるようになるのです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。人がヨベルの年を実施するなら、神は、その前に何年分の収穫があると約束しておられるでしょうか。答えは、3年分(レビ25:21-22)でした。まさに信仰を要求される神のご計画です。では、今日の聖書クイズを一つ。「高き所」は、単純に小高い丘や峰を指し、やがて偶像崇拝の場所とみなされるようになった場所ですが、これを積極的に国から取り除こうとした最初の王様は誰でしょうか?答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

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レビ記25章

2022年01月19日 07時12分54秒 | レビ記
25章ヨベルの年,買い戻しの制度
1.ヨベルの年
 聖書には七の生活リズムがあります。一週間毎の安息日に加えて、七ヶ月目の宥めの日、そして七年毎の安息年という定めがあります。安息年は、六年間土地を耕し、七年目には完全に休耕するものです。この年、貧しい者はその土地に自然に生えたものを自由に食べてもよく、イスラエルの奴隷は解放され、負債はすべて帳消しにされました。それは、土地が人のものではなく、「神のもの」であることを教えることを目的とするものでした。
 さらに安息年を七度重ねた49年目の翌年、つまり50年目はヨベルの年と呼ばれる特別な年とされました。ヨベルは「雄羊の角」という意味で、この年の第七月の10日に角笛を鳴り響かせるところからその名がつけられたのです。そしてその日が定められたのは、かつてエジプトにおいて奴隷であった神の民が、神の奇跡的な介入によりその抑圧から解放されたことを思い起こすためでした。神のあわれみと助けによってエジプトを脱出した彼らは、神と契約を結んで神の民となり、他国の者とは区別されるようになりました。そして彼らは、自分たちが苦しめられた物質主義的な生き方とは違う、神の民としての生き方を歩むようにされたのです。ですから、五十年に一度、神に定められたこのヨベルの年に、自らの過去を振り返り、同じように束縛されている者たちを解放することで、彼らは、人はパンのみによって生きるのではなく、神のあわれみをもって生きるように教えられたのです。奴隷の解放、財産の処分、土地の休閑といった全ての行為は、その考えを実践するものであり、さらに彼らはこの期間に、簡素な生活を営み、かつて荒野という環境の厳しさを生き延びた時に必要とされた肉体と精神との原則を思い起こさせられたのです。もう少しヨベルの年について説明しましょう。
(1)安息
まず、この年には、畑を休ませなくてはなりませんでした。それは、農耕の観点からすれば土地を休ませる懸命な方策であり、人にとっても喜ばしい余暇をもたらします。しかしながら、安息年を七度重ねた49年目も、畑を休ませますから、ヨベルの年になると2年連続の安息となります。そんなに土地を休ませて大丈夫か、ということに対して、神は、「六年目にあなたがたのために、わたしの祝福を命じ、三年分の収穫を生じさせる」(25:21)と約束するのです。大事なことは、祝福の鍵を握るのは神であることを思い起こすことでしょう。安息を守る時間を惜しんで、仕事や勉学に精を出しても、思ったほどの成果が得られないことはあるものです。人生思うようにならない、計画通りにはいかない、それは、万物の支配者である神を勘定に入れないからです。イエスは、神の国とその義とを第一に求めるように教えられました(マタイ6:33)。神のみこころを勘定に入れない人生設計に祝福はありません。神が休みなさいと言われた時には素直に休み、すべてが神にかかっているかのように生きていくところに、祝福があるのです。
(2)土地の返却
また土地は神のものであり、人はその借地人です。人はすべて神に与えられているに過ぎません。やはり、神のものを正しく用いる心を持たなくてはなりません。しかしそれができない。実際当時のイスラエルの民も、この土地の返却はしませんでした(イザヤ5:8、アモス2:6)。神のみこころを勘定に入れる、教えを実行する、そんな容易いことではありません。しかしそれが人間の罪性というべきでしょう。
(3)奴隷の解放
 さらにヨベルの年、奴隷が解放されました。つまり、それは土地も人も神に属するものであって、特定の人のものではない、人は、神の財産の善良な管理人に過ぎないことを思い起こす年でした。天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言われますが、人間は生まれながらに平等であって、貴賤・上下の差別はありません。ましてその差別により搾取が行われることがあってはなりません。ですからもしこの年が実際に行われるなら、利益追求一辺倒の社会システムがリセットされ、原状が回復し、富の偏在の悪を是正する効果をもたらしたことに間違いはありません。
北米のフィラデルフィヤにあるインデペンデンス・ホールには、合衆国独立の時に鳴らした自由の鐘がありますが、その鐘には、このレビ記25章10節からの引用「国中のすべての住民に解放を宣言する」が刻み込まれています。それは、イザヤの預言(イザヤ61:1-3)を引用して「きょう、この聖書のことばが実現しました」(ルカ4:21)とおっしゃったイエスの言葉に対する信仰に基づくものでしょう。ヨベルの年は、いまだかつて人類の歴史において実施されたことがなかったとしても、その精神は絶えず、神の摂理的な出来事に乗じて、時代を変える動きをもたらしてきたのだと思います。今回のコロナ禍も、利益追求一辺倒の社会システムを一時中断する動きであったことは確かです。そうであれば、この時代、単純に元の経済システムの復興を願うのではなく、神が与えられた恵みの機会として、真に人間性が回復され、大事にされる社会システムの構築をこそ考えたいものです。キリスト者は、このヨベルの年の思想に生きる者です。これが人類の求めるべき本当のゴールであることを心に刻みその方向に向かって進む者です。では今日もよき一日であるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。次の組み合わせの内間違っているものはどれでしょうか?①過ぎ越しの祭り、初穂の祭り、②五旬節、七週の祭り、③仮庵の祭り、種を入れないパンの祭り。答えは、③仮庵の祭り、種を入れないパンの祭りでした。正しくは、仮庵の祭りは、別名収穫祭というものです。種を入れないパンの祭りは、過ぎ越しの祭り、初穂の祭りの別称です。
では、今日の聖書クイズを一つ。人がヨベルの年を実施するなら、神は、その前に何年分の収穫があると約束しておられるでしょうか。答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

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