人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生5(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読は、モノの見方を変え、イエスと共に前に進む気を起こさせてくれます。ご一緒にしませんか?

人生💯倍の安心😊【聖書】歴代誌第一17章 神の御国の夢

2022年09月16日 07時21分24秒 | イザヤ書
17章 王国の完成を祈る
1.ダビデに対する神の「否」
礼拝の回復の後に、神殿建設の話が来ています。その順序は象徴的です。会堂を建てることと礼拝を建てることは別物だ、ということです。
ダビデは預言者ナタンに相談しました。ナタンは、ダビデがしようとしていることをするように勧めています。ナタンにとっては、主のための善であれば、すべて問題なし、と思ったのかもしれません。しかし、そんなナタンに、神が「否」と声をあげられるのです。そして、翌日ダビデは、おもいがけない神の「否」を告げ知らされました。
 そこには三つの理由がありました。第一に、神はご自分の住まいを必要としないお方です(5,6節)。神は民と共に生きることを大事にされました。民と共にある、それが神にとってはすべてであったのです。
第二に神は祝福の神です。誰かに何かをしてもらうことなどありえないのです(7-10節)。動詞に注意しましょう。7節「あなたを君主とした。」8節「あなたに与えてきた。」9節「民を住まわせてきた。」10節「敵を屈服させた。」そして「あなたのために一つの家を建てる」神はしてきたこと、またこれからしようとしていることを明確に告げています。つまり、神は世話をされるような方ではありません。むしろ神が世話をしてくださるのです。神は祝福の神です。そのお方のみこころを聞き、そのお方に従っていくことが、私たちのすべてなのです。
そして第三に、神の関心は神殿という建物ではなく、王国を建てあげることにありました(10-14節)。その王国は、「わたしの王国」と言い換えられているように、ダビデの王国ではなく神の王国です。つまりダビデは神の神殿よりも、神の永遠の王国を完成する使命を与えられているのです。しかもそれはダビデ一代の働きではなく、彼と彼の子孫にも託されたものでした。となるとそれは、ダビデ家の地上の王国、つまりイスラエル国家でないことは明らかです。霊的な意味での、目に見えない王国、後の新約聖書時代にイエスが語った御国に繋がる王国です。実は、古代イスラエル史を超えた、壮大なビジョンをここは語っています。ダビデに語られた神の御国のビジョンは、現代に生きるキリスト者も引き継いでいるものです。
2.ダビデの祈り
このような神のことばを受けて、後半ダビデの祈りが献げられています。ダビデは、壮大なビジョンを持っておられる神が、自分のようなものに信頼を寄せてくれていることへの感謝を表明します。そして他に比類なき神が、実際に自分たちにしてきてくださったことを認めています。そしてダビデは謙虚に祈るのです(16、17節)。神が語られたとおりのことを続けてしてくださるように、と(23節)。これは私たちの祈りの基本形です。イエスの母マリヤも、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と祈りました。私たちは、神がしてきてくださった恵みの数々を覚え、どうぞ、あなたのみこころが続けてなりますように、と祈るのです。しかし多くの場合私たちは、神がしてくださった恵みを覚えることなく、ただただ自分の思いや要求を突きつける祈りをし、神は私の祈りを聞いてくださらないという不満に至るのです。
ともあれ、このダビデの祈りが、捕囚帰還後の読者にも大きな慰めと励ましであったことは言うまでもありません。彼らは落伍者であり、失敗者でした。彼らは思ったでしょう、約束の地、エルサレムに帰ることが許されたものの、この先、何をどうすれば、と。まして神がどこまで私たちを祝されるのか。そんな彼らに歴代誌の著者は神のことばを持って励ますのです。この地上の王国を再建するのではない、神の霊的な王国を再建するのだ。地上の支配ではなく、神の支配に生きる、より大きな神の御国のビジョンを持って生き、そして子々孫々、その夢を伝えるのだ、と言うわけです。その素晴らしい恵みに、私たちも招かれているのです。では今日もよき一日となるように祈ります。
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ヤコブが、神にイスラエルと名付けられた場所はどこでしょうか?①ベテル、②ペヌエル、③シェケム、答えは②ペヌエルです。では、今日の聖書クイズです。主の幕屋の建設について細かな規定が書かれている聖書箇所はどこでしょうか?①出エジプト15章、②同20章、③同25-27章、答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。
Chapter 17 Praying for the completion of the kingdom
1. God's No to David
After the restoration of worship comes talk of temple building. The order is symbolic. Building a synagogue and building a worship service are two different things.
David consulted the prophet Nathan. Nathan encourages David to do what he is about to do. Nathan may have thought that as long as it was good for the Lord, all was well. However, God can raise his voice to Nathan saying "No." Then, the next day, David was informed of the unexpected "no" of God.
"There were three reasons." First, God does not need his dwelling place (verses 5, 6). God cherished living with his people. Being with the people was everything to God.
Second, God is the God of blessings. He cannot ask anyone to do anything (vv. 7-10). Be careful with the verbs. Verse 7, "I made you a prince." Verse 8, "I gave you." Verse 9, "I have made the people dwell." Verse 10, "I have subdued my enemies." God is telling us clearly what he has done and what he will do. In other words, God is not the one to take care of. Rather, God will take care of you. God is a blessing God. He hears the heart of the person and follows the person is all we have.
And thirdly, God's interest was in building a kingdom, not a building called a temple (vv. 10-14). That kingdom is not the kingdom of David, but the kingdom of God, as it is paraphrased as "my kingdom." In other words, David was given a mission to complete the eternal kingdom of God rather than the temple of God. Moreover, it was not the work of the first generation of David, but was entrusted to him and his descendants. Clearly, then, it is not the kingdom of David on earth, the nation of Israel. In a spiritual sense, it is the invisible kingdom, the kingdom that connects to the kingdom that Jesus spoke of in later New Testament times. In fact, it tells a grand vision that goes beyond the history of ancient Israel. The vision of the Kingdom of God spoken to David is one that Christians living in today's world have inherited.
2. David's Prayer
In response to these words of God, David's prayer is offered in the second half. David expresses his gratitude that a God of great vision has put his trust in someone like him. And they acknowledge what the incomparable God has actually done for them. And David humbly prays (verses 16, 17). May God continue to do as He has spoken (verse 23). This is the basic form of our prayer. Mary, the mother of Jesus, also prayed, "Truly, I am the servant of the Lord. Please, let it be done according to your word" (Luke 1:38). We remember the many blessings that God has given us, and pray that your will will continue. But in many cases, we simply pray our own thoughts and demands without remembering the grace that God has given us, leading to complaints that God does not hear our prayers.
In any case, it goes without saying that David's prayer was a great source of comfort and encouragement to the readers after returning from captivity. They were stragglers and failures. They must have thought that they were allowed to return to the promised land, Jerusalem, but what would they do next? How far will God bless us? The author of Chronicles encourages them with the word of God. We are not going to rebuild this earthly kingdom, we are rebuilding God's spiritual kingdom. Live under God's rule, not under earthly rule, live with a greater vision of God's kingdom, and pass that dream on to your children and grandchildren. We are also invited to that wonderful grace. I hope you have a good day today.
<Quiz Corner>
First, yesterday's quiz. Where was Jacob named Israel by God? (1) Bethel, (2) Penuel, (3) Shechem, the answer is (2) Penuel. Here's today's Bible quiz. Where is the Bible verse that gives detailed instructions for the construction of the Lord's tabernacle? (1) Exodus Chapter 15, (2) Chapter 20, (3) Chapters 25-27, the answer will be tomorrow. I hope you have a good day today.

イザヤ書66章

2020年07月09日 07時11分06秒 | イザヤ書
66章 主のことばにおののく
おはようございます。イザヤ書完読です。神が忌み嫌われるのは、偶像崇拝と形式主義的な信仰です。これは、イエスが戦った宗教的二大悪というべきものでしょう。イエスはそのために十字架につけられ、嘲られましたが、最終的には復活の勝利に与ったのです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神のご計画と業
イザヤ書は、黙示録と重なる興味深い書である。黙示録も、基本的に新しい出エジプトを語り、終末のビジョンを指し示す。そしてそのビジョンを共有する今の心の幸いがある。
 さて66章は、65章に続く神の応答であるが、まず1-5節、神は「貧しい者、霊の砕かれた者、神の言葉におののく者に(2節)」こそ目を留めるとされる。神は霊であり、目に見えないお方である。だから、偶像を造り、その神のために神殿を建て、献げものを携えて崇拝に熱中する者たちを、神は罰せずにおられない。5節は、「今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう」という十字架上のイエスに対する嘲りを思い出させることばである。祭司長や律法主義者たちは、イエスの神に対する熱心を嘲ったが、最終的に、神の怒りに触れて度肝を抜かれたのは、彼らであった(マルコ16:32-39)。
神のみことばは必ず時至り実現する。しかも、人が予測するよりも一歩先にそれは実現する(7節)。突如、一瞬にして、ということがある。確かに、主の日は盗人のように来るのであり、教会は神の御国の種を宿し、それを生み出そうとしている現実がある。「わたしは産ませる者なのに、胎を閉ざすだろうか」(9節)。捕囚帰還然り、出エジプト然り、キリスト者が希望を抱く神の国も然り、それは時至れば必ず起こりものである。空しい希望ではない。そして信じる者は皆、乳飲み子のように愛される安息の平和を享受する(12-14節)。だから、その望みを抱いて、今を喜び生きるように、と神は語る(10-11節)。
2.形ではなく、真実に主を愛す
 15-17節は、再度、偶像崇拝に対する警告である。神が忌み嫌うのは、偶像崇拝、まことの神の否定である。しかし、形式的な礼拝も同じように忌み嫌われる(23-24節)。まことの神を愛する熱心を、明らかにしたのがイエス・キリストであった。そのイエスがこの24節を引用して、当時の偽善に満ちた律法主義、形式主義の信仰者を批判している(マルコ8:48)。イエスは申命記を愛読された、と何かの書で読んだことがある。申命記の主題は、神の愛であるから、確かにそうだろう。だが、イザヤ書の最後の節を引用するイエスの心は、やはり、まことの神に対する霊的な愛と信頼を語る、預言者の心にも深く共感しているようだ。「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように。」(22節)神はもはや、全世界からご自身を求める者を、霊的なエルサレムに集められる。その日は近い。その救いの中心に立つのは、目に見えない神を真実に恐れ、そのみことばに心から従い、その武骨さのゆえに嘲られるわずかな信者である。世の形式からすれば、神の祭司、レビ人となるには無資格とされる者を、神はお選びになり、その者たちによるまことの礼拝を受け入れられる、と言う。形を整えるのではなく、心において神に繋がる信仰が求められている。

イザヤ書65章

2020年07月08日 07時01分55秒 | イザヤ書
65章 楽しみ喜べ
 おはようございます。人は過去の記憶の中に生きている者です。しかし、未来の展望の中に生きている者の生き方はまた違います。主の御国の素晴らしさを思い、そこに向かっている者として歩ませていただきましょう。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神の答え
 先の預言者の祈りに(63-64章)、神が応答している。本来は、イスラエルの民にこそ、与えられる祝福であったのに、彼らは、神に従わず、偶像礼拝に陥り(3節)、異国の異教的習慣に染まり(4節)、律法を守らず、その心は神から遠く離れていた。神はそのようなイスラエルに対して厳しい裁きを告げられる(6、7節)。しかしそれは神の本意ではない。
神は愛であるから、主の名を呼び求める者には、あわれみ深い。いつでも答えてくださる。たとえ、神を尋ね求めず、頑なに、良くない道を歩む者であっても、神は「わたしはここにいるから」と待ち構えている、と言う(65節)。預言者が、期待したとおりの神である(64:4)。
大切なのは、人の神に向かう心である。人が、この神の祝福を受けようとするか否かなのである。ただ、それは、必ずしも、信仰者として模範的な生き方をしているかどうかを意味しているわけではない。むしろ、神の哀れみに寄りすがって、主に従って生きているかどうかである(13、14節)。
2.他の名の祝福
だから、他人がどうであれ、主の前に真実に生きる小さき者があれば、神に見過ごされることはない。腐れたぶどうの房の中に、一粒の甘い実があるなら、それは損なわれないと言う(8節)。彼らは、神の約束の地を相続するのである(10節)。実に真実な者に対する神の細やかな目がある。「ガド」は言ってみれば福の神、「メニ」は運の神として拝まれた偶像である。これら偶像の神を拝み続けるのではなく、まことの神のみを拝すべきことが勧められる。偶像に執着する者にはのろいを、これと決別し、神に立ち返る者には「ほかの名」を、つまり、もはやこれまで貼られた不名誉なレッテルはすべて取り去られる、というのだろう。
3.新天新地の祝福
 さらに神は答える「先ことは思い出されず、心に上ることはない。」(17節)。人はいつまでも過去の記憶に生き、落胆しているものだ。「曲がったものは真っ直ぐにできない」というが、まさに、曲がりきって、よれてしまった人生に何の希望を抱くことができるだろうか、と考えている。しかし神は言う。「わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。」神は創造の神である。神に不可能はない。期待は棄ててはいけない。しかしより大切なのは、人が味わうべき祝福は、何かを所有することよりも、何かを共有することにあることだ。もうすぐ、悲しみも叫び声もない、御国の約束が訪れる時が近づいている。以心伝心というがごとく、神と人の心が、打つ前に響くごとく通い合う時が近づいている(24節)。25節は、11:6-9の引用であり、御国の祝福を語る。もはや、争いもなく、平和で静かな時を永遠に共有する、そこに向かっている者として、この社会の喧騒を超えて生きたいところだろう。

イザヤ書64章

2020年07月07日 07時22分38秒 | イザヤ書
64章 奮い立って主にすがる
 おはようございます。63章に続く、預言者イザヤのとりなしの祈りです。ただひとりでぶどう踏みをした神に対比し、ただひとりでとりなすイザヤの姿が印象的です。ぼんやり物事を考えてしまいかねないCOVID-19禍にあって、大事にすべきことが見えてくるように。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.驚天動地の事態が起こらんことを
63章7節から続く預言者の祈りとなる。既に見たように、預言者は、「わたしの側に立つ者はだれもいない」(63章)と語る神に共感して、人間のはなはだしい罪深さに心を留めている。「私たちはみな、汚れた者」「義はみな、不潔な衣」「枯れた木の葉(6節)」と語るように、預言者は、人間の現実を厳しく見ている。そのような預言者を極端に思い、受け入れがたく感じる人も多いことだろう。誰も彼もが悪いわけではないだろう、と。しかし、神の義は人が考える程度のものではない。かつてペテロは変貌山でイエスの聖さを目撃し、それは「この世の職人にはとてもなし得ないほどの白さ(マルコ9:3)」であると伝えたが、もし神の義、神の聖を目撃することがあれば、人は自分の何であるかに恐れ震え、沈黙せざるを得ないことだろう(イザヤ6:5)。だが人間の感覚は余りにも鈍麻し、現実にはそのようにはならない。だから罪深き人間が救われるとしたら、神が「天を割いて降りて来られ」「山々が揺れ動く」、想像を絶するような、見たことも聞いたこともないことが起こらない限り、到底不可能と言うべきである。使徒パウロは、この4節をコリント人への手紙の中に引用し、十字架の出来事がそうであった、と語る(1コリント2:9、10)。確かに、人の罪に赦しのためにいのちをささげたイエスの十字架は、たましいを心底揺さぶる驚天動地の出来事であった。だが預言者はまだその十字架を知らない。
2.どうか、主よ
だから9節以降の、預言者の神に対するとりなしは叫びに近い。サマリヤの陥落という歴史的な事件を目の当たりにし、残されたユダに対する神の裁きを確信せざるを得ない状況にあって、預言者は祈らざるを得ないのである。実際後にバビロン捕囚を経験した読者は、その惨状にあって、「主よどうか激しく怒らないでください」と祈らざるを得なかっただろう。そのように祈る何の権利もなく、討ち滅ぼされて当然で、静かに身を引くべき立場にあろうとも、いじましくも、人間は命ある限り回復を願わざるをえないのである。神が愛であるとすれば、やはりあつかましくもそこに希望をつなぐのである。そこで、回復を求めて、代弁する、それが預言者の祈りであった。ただ一人「ぶどう踏みをした」神の姿に(63:3)、ただ一人とりなす預言者の姿が浮かび上がってくるところだ。
ウィーンでグラーベンのペスト記念碑を見た時に、このようなものはもう昔話かと思ったが、愛の神の懐に飛び込んで訴える祈りが、再び求められている時代である。というのもCOVID-19禍が見せてくれたのは、まさに、病の怖さよりも、その病にあって立ち振る舞う人間の罪深さではなかったか。しかしその罪深き人間を見捨てることのない深き神の愛に訴えて回復を祈る使命がある。イザヤはその列に加わるように招いている。

イザヤ書63章

2020年07月06日 07時10分55秒 | イザヤ書
イザヤ書63章 主のたぎる思い
 おはようございます。61章、62章は、私たちに希望を与える素晴らしい主の励ましのことばでした。しかし63章は一転して、私たちの現実を語ります。そして、主の励ましが私たちのものとなるようにとりなす預言者の祈りが心を打つ一章です。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.だれもいない
 エドムは、死海の南に位置する。ボツラは、その主要都市であり、エドムの王ヨバブの出身地である。もともとヤコブの兄エサウに起源を発したが、イスラエルには友好的ではなかった民族で、神の都シオンに敵対する勢力の象徴とされた。
1-6節は劇詩形式で描かれている。つまり、聖歌隊が舞台の一角から「エドムから来るこの方、ボツラから深紅の衣を着て来るこの方は誰か(1節)」と呼びかけると、舞台の中央に、深紅の衣を着た主ご自身が現れて、「私は救いをもたらす大いなる者」と歌う。そして聖歌隊が「なぜ、あなたの装いは赤いのか」と尋ねると、主が「わたしひとりでぶどう踏みをし」、「私の装いをすっかり汚してしまった(3節)」と答えている。つまり、神は敵対する暴虐のエドムと戦い、これを裁かれたと言う。これはイザヤ書34章の再述であるが、単純にエドムに対する裁きを語るのではない。その趣旨は、敵対者に、裁きを執行したものの、だれも神を助けて正義の戦いを共にする者はなかった(5節)、イスラエルですら、神と行動を共にせず、神がただ一人、血だらけになって奮戦したと激白するところである。エドムであれイスラエルであれ、神の義に立たない者は皆神の敵とされている。こうしてこの箇所は、最後の審判者イエスの姿を思い浮かべさせられることになる(黙示録5:4、19:13)。
2.預言者のとりなし
第二幕、聖歌隊と主役の主が退くと、神のあわれみを請い、とりなしの祈りをする預言者が登場する。だから人称代名詞は、7節から「わたし」が「私」となりわけだ。
まず預言者は、神がイスラエルに与えられた過去の大いなる恵みを回顧し感謝する。イスラエルの子らは、今こそ責められてはいるが、まことに神の子である。神ご自身がそうおっしゃったではないか、と(8節)。彼らが苦しめば神も苦しみ、ずっと昔から共にいてくださったではないか、と(9節)。裏切ったのはイスラエルの方であり、弁解の余地もない。何ともバツの悪い思いにありながら、それでも、窮地にあっては、まことの神の子として、かつてのモーセの日々を思い起こし、あわれみ深い父のあわれみにすがる他はない(11-14節)。「私へのたぎる思いとあわれみをあなたは抑えておられるのですか(15節)」。預言者は、神の懐に飛び込んで、自らの窮状を訴える。預言者に、神の愛と熱心を疑う心はない。そして物事の解決は、神が自ら行動を起こす以外にはないとわかっているのである。だから神に見捨てられたようなイスラエルに代わってとりなし「どうかお帰りください(17節)」と絶叫している。今の日本に必要なのは、このような祈りなのだろう。「たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ」と叫び、同胞の癒しと回復のために、愛の神の懐に飛び込み、とりなす祈りである。