人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生5(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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ヨハネの黙示録22章

2021年09月26日 07時06分13秒 | ヨハネの黙示録

 
ヨハネの黙示録22章 神の御国に入る
1.神の御国の恵み(22:1-11)
ヨハネの黙示録を読み終わりました。また新約聖書を全部完読ですね。明日からは、旧約聖書、約3倍ほど分量が多いですが、チャレンジを続けましょうね。
では、今日の箇所ですが、今日は、ヨハネの黙示録のフィナーレ、人類の終着点ともなる、天の御国について語っている部分です。ヨハネは、まだ人類が経験したことのない世界に足を踏み入れ、色々とレポートしてくれていますね。そこには、「水晶のように輝く、いのちの水の川」(1節)があった、と。きらきら輝いて、透き通るような水が流れている。癒しの光景ですね。実際そこにはいのちの木があり、実をならせていたと言います。ですからそこには、矛盾したもの、「のろい」(3節)も「夜」(5節)もない。今の私たちの世界とは全くの別世界だ、と言いたいようです。そしてヨハネは言うのです。「これらのことばは、信ずべきものであり、信頼できます」(6節)、つまり「ホントだよ!」と言うのでしょう。
先の章でも語ったように、この御国との関係はすべてイエス・キリストを通すことによるのです。最後なので、もう少しイエスのことを語っておきましょう。なぜイエスを通して、私たちは神の御国に行くことができるのか。それは、イエスの十字架にある罪の赦しがあるからです。本来、私たち罪人に与えられる報いは「火と硫黄の燃える池」あるいは「真っ暗な闇」と呼ばれるところでしょう。けれども、イエスが私たちの身代わりとなって、私たちの受けるべき神の罰を受けてくださった、というのが、イエスの十字架の死の意味であったわけです。私たちは、死をもたらす神の裁きの前で、自分を救うことはできません。ですから、イエスの十字架にある罪の赦しは、恵みであり、福音なのです。イエスの十字架の御業を受け入れる者は、皆救われるし、皆、この素晴らしいいのちと癒しに満ちた、神の御国に招かれるのです。
2.わたしはすぐに来る(22:12-21)
ヨハネは、この素晴らしい恵みを知らせてくれた、御使いの足元にひれ伏し、礼拝しようとしました。すると御使いは、礼拝されるべきはただ神のみである、どんなものも礼拝してはいけない、と言うのです。そして、この書のことばを公にし、時が近いからこそ、この素晴らしい神の恵みが近づいていることを明らかにして生きなさい、と言います。11節「不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者はますます聖なる者とならせなさい」大切なことばですね。このように何が正しいか、将来何が人類に待ち受けているか、そのことが明らかになった以上、人は、人生の方向性を選択しなくてはならない、ということです。
キリスト教の大きな特徴の一つは、死後のことは死ぬ前に予め自分で決めるということです。日本人の多くは、死後の備えのために、せいぜい、自分の墓地や墓石を購入する程度のことしか考えないのではないでしょうか。人生死んだらそれでおしまいというかのように。しかし、聖書は、人間にとって死が確実なように、死後のいのちも確実である、と言います。そして、その死後のいのちは、キリストによって手にするものであり、キリストと共に生きるのなら、それにふさわしい生き方がある、と言うのです。目に見えない価値を大事にして生きるのなら、やはり、目に見えない正しさ、聖さ、愛を大事にして生きるべきでしょう。
12節「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る」これはイエス・キリストのことばです。14節「自分の衣を洗う者たちは幸いである」要するに、神の前に悔い改め、イエスの十字架の死を自分のものとして受け入れるということでしょう。17節「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい」イエスは、罪の赦しは、イエスご自身のいのちの犠牲を支払った高価なものであるけれども、これをただで、無償で皆さんにお分かちしよう、と言います。そして、イエスは、十字架にある罪の赦しを受けた一人一人を、天の御国の祝宴に与らせるために、迎えに来ることを約束するのです。信仰を持って歩むというのは、このような終末的な希望に立ち、そこから今の人生をしっかり、神の恵みに与ったことを感謝しつつ生きることなのですね。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「聖書が語る、地獄絵図、それは苦しいところをイメージさせるというので「火と硫黄の燃える池」と語られますが、他にどんな象徴表現が用いられていますか?」答えは「真っ暗な闇」(ユダの手紙13:13)です。そこは光と対照される場所です。では、今日の聖書クイズを一つ。天地創造の際に、いのちの木と共に園の中央に作られていながら、終末の御国の光景からは消え去ってしまった木は何でしょうか?また明日、今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨハネの黙示録21章

2021年09月25日 07時04分19秒 | ヨハネの黙示録
ヨハネの黙示録21章 新しい天と新しい地
1.始まるために終わる(21:1-15)
 1節「以前の天と、以前の地は過ぎ去る」とあります。私たちは自分たちの未来について、あまり深く考えもせずに日々暮らしているものではないでしょう。しかしながら、考えてみれば、地球温暖化、大気汚染、海洋汚染と、私たちの住む地球はうめき声をあげており、この地球はいつまでもつのだろうか、と思っている人は多いはずです。人間の歴史観には種々のものがあります。ハリウッド映画的に、たとえ地球滅亡の危機があったとしても、人間の科学の力と人間の勇気でその危機は回避されていく、と考えるのも一つの歴史観でしょう。そして、インド仏教のように、「悟ればこの世も極楽、悟らねばこの世も地獄」と、今だけが確実な世界、死後の事はわからない、と腹をくくるものもあります。さらにヒンズー教のように、輪廻転生、円環のように人の世は終わらないと考えるものもあります。聖書が語るのは、この世界は、神によって造られたが、その同じ神によって終わらせられる日が来る、という直線的な終末史観です。ある意味で、人類の横暴による環境破壊、自滅を予測したような現実的な考え方ですね。ただ、聖書は終末を語りますが、そこに恐怖を煽る意図はありません。むしろ、新しい始まりのためには、今の世は終わらなくてはならない、と次の世の世界を語っています。そしてその新しい次の世が、いかに素晴らしいものかを語っているのです。最後の21と22章は、その新しい都エルサレムについてのお話です。
 そこで21章を読むと、まず、その新しい世界には、4節、「もはや死はなく、悲しみも、叫びも、苦しみもない」と言い切ります。なぜなら、神がそこで、私たちの魂や心の傷を深く癒してくださるからだ、と言います。そして過去はすべて過ぎ去ってしまうからだ、と言うのです。大事な点は7節「勝利を得る者は、これらのも
のを相続する」ということでしょう。キリストの前に自分の罪を認め、悔い改め、神の力によって変えられた人生を歩む、そのことに徹した人が、そこに入れるとすれば、確かにそこは、今の世とは全く異なる世界でしょうね。ですから逆に勝利できない人、つまり、8節にあげられているような「おくびょう者、不信仰の者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある」と言います。終末は人類の分かれ道です。そこでどちらに転ぶか、それは、あなたの悔い改め次第、イエスの十字架にある罪の赦しをまことに受け入れていきるかどうかにある、というわけですね。
3.神の都(21:16-27)
16節から、その新しい神の都の特色がさらに詳しく語られます。そのサイズは、一万二千スタディオン。一スタディオンが185メートルなので、計算すると2220キロメートル。大ざっぱにアフリカ大陸の広さを底辺とした立方体です。これは大変大きな都でしょう。東京も大都市ですが、アフリカ大陸を底辺とする面積の都市というのは、ちょっと想像できない大きさです。しかし、これも黙示文学特有の表現です。文字通りに受け止めるものではありません。「非常に大きな都」と言う程度の意味です。また城壁があることから、入れる人と入れない人がいるということでしょう。さらにその都は、様々な宝石で飾られている(18節)。これも、そのような宝石があるというのではなくて、人類がまだ経験していないことを、既に人類が経験していることをもって語ろうとする試みです。ですから大変素晴らしい所という程度の意味です。そしてさらにそこは、22節、神様を中心としていて、一日中、光に包まれた、明るいイメージで描かれています。そこにはもう夜がないのです(25節)。
そしてヨハネは繰り返します。27節、「すべて汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。」と。そこはこの世の延長ではありません。この世の世界のバージョンアップでもありません。明らかに断絶している世界、けれども、イエスの十字架にある罪の赦しという架け橋によって続いている。イエスがそこに至る道である、と聖書は言うのです。イエスにある救いの恵みを逃さないようにしたいものです。では今日も良い一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「旧約聖書は、全部で何巻からなっているでしょうか。」答えは、39巻です。旧約聖書39巻、3×9=27、新約27巻合わせて、聖書は66巻です。では、今日の聖書クイズを一つ。聖書が語る、地獄絵図、それは苦しいところをイメージさせるというので「火と硫黄の燃える池」と語られますが、他にどんな象徴表現が用いられていますか?答えはまた明日、今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨハネの黙示録20章

2021年09月24日 06時44分12秒 | ヨハネの黙示録
ヨハネの黙示録20章 千年期
1.千年期の考え方(20:1-10)
20章は、神学的にも論争のあるところで、難しいところです。しかし、原則は、わからないところはわからないままに受け止め、はっきりとしたところに立つことです。この箇所には、キリスト教神学の中で、千年期、あるいはミレニアムと呼ばれるものについて語っています。しかも、このテーマについて聖書が語るのはこの箇所のみで、情報量が少ないので、あまりはっきりとしたことは言えません。考え方として大きく三つ、あるいは四つあります。
一つは、千年期を象徴的に理解し、これをキリストの地上生涯から再臨までの教会の時代を指すと考えるものです(無千年期説)。ですから6節の「第一の復活」は信者が信仰を持った時の経験を意味すると理解します。しかし千年期はサタンが縛られて、キリストが支配する時代であるという割には、現実は全くそのようには感じられない問題点が指摘されます。
そこでこれを修正した解釈として、同じように千年期を象徴的に考え、キリストの再臨の位置を最期に持ってくる説が考えられました(千年期後再臨説)。つまり千年期は、キリストが地上で治める期間ではなくて、キリストの霊的な支配がだんだんこの世に浸透していく時を意味する、と。確かに、神の国はある意味でイエスが地上に来られた時から霊的な事実として始まっており(マタイ12:28)、それは、未来に完成するものなのです(マタイ19:27)。19世紀の終わりから20世紀の初頭にかけては、このような解釈が好まれました。進化論の考え方の影響や、教育が進み様々な福祉が発展する社会変化から、右肩上がりの人類史の向上が期待されたからです。
しかし人類が二度の悲惨な大戦を経験した20世紀後半は、千年期を象徴的にではなくて文字通りにとる千年期前再臨説の考え方が注目されるようになりました。千年期の出来事は20章に記された順番で展開すると考え、千年期の前にキリストの再臨があると解釈する立場です。ジョージ・ラッドの『神の国の福音』はこの考え方をよく説明しています。このような古典的千年期前再臨説は、イエスや初代教会の弟子たちの立場で、また戦後福音派のキリスト教会が強く影響を受けた考え方とされます。ただ、微妙に違う、第四のディスペンセーション主義に立つ千年期前再臨説もあります。ディスペンセーションというのは、世代や区分を意味することばで、聖書全体の歴史をいくつかの時期に区分して理解し、最後の時代区分を千年期とします。また、千年期はあくまでもユダヤ人のための思想であるとし、地上でのダビデ王国の再興を想定する、極端に聖書を文字通りに理解する立場です。
無千年期説や千年期後再臨説を取る人は、世の中はだんだんよくなると考えるので、社会改革や実践に積極的です。一方ディスペーセンション主義の千年期前再臨説を取る人々は、この世の改革にあまり関心を持ちません。人がどんなにあがこうと、この世は悪の頂点に向かっている、とひたすら望みを次の世に置くからです。ただ、古典的な千年期前再臨説を取る人は、世の終わりが来ても来なくても、現実的な対応をとると考えるようです。どの立場に立つかは個人の確信ですが、現実の世に対するキリスト者として姿勢を決める重要なものです。
2.神の正義は明らかにされる(20:11-15)
さて基本的にこの20章は、人類がまだ経験しえぬこと、世の終わりについて預言的に書かれたものです。それはよくあるハリウッド映画のような、人間の勇敢さを前面に押し出し、新しい地上の世界を人間の力でリセットしていくというものではなく、完全にこの地球が神の力によって消滅させられるイメージで書かれています(11節)。けれども、心に留めたいことは、それは、神の正義が完全に執行される日とされていることです。12、13節、当時、地上で死んだ人は、死後、皆「黄泉」に下ると考えられていましたが、海で死んだ人は全くわからないとされていました。海で死んで行方不明となり、それで終わり。しかし、聖書は、その日は、海の深みがもはや神秘ではなくなると言います。世の中には、失踪、未解決事件と呼ばれるものは少なくありません。しかし、聖書はその日は、歴史の隙間に消え去って、わからなくなったと思われていることもすべて明らかにされる、神は何一つ見過ごしてはおられず、きっちり正しい裁きをなさると語るのです。信仰は、人にとって最後の砦、不確実性の世において最後の希望というべきでしょう。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「新約聖書は、福音書、歴史書、書簡からなっていますが、全部で併せて何巻の書物でしょうか」答えは、27巻です。では、今日の聖書クイズを一つ。旧約聖書は、全部で何巻からなっているでしょうか。答えはまた明日、今日もよき一日となるように祈ります。

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黙示録19章

2021年09月23日 07時04分21秒 | ヨハネの黙示録
ヨハネの黙示録19章 子羊の勝利
1.確認された神の真実さ(19:1-5)
17章では、大淫婦が登場しました。それは古代ローマ帝国、あるいはバビロンのような、欲望を解放する大都市の象徴でした。18章では、その大淫婦が、神の裁きによって滅ぼされることが語られました。実際18章の後半は、大都市に神の裁きがもたらされたことによる、都市の経済活動の破綻と混乱が描かれています。こうして19章では、この世においては、まことに正しいことをなさる神がおられることが語られていきます。
2.天上の礼拝
そこで6節からは、再び天上の礼拝の光景が描かれます。これまで神を礼拝する光景は何度か出てきました。最初に4章。そこでは、24人の長老たちが与えられた勝利の冠を投げ出して礼拝をしていました。そして次に7章、そこでは24人の長老たちに代表される、天に召されたキリスト者の礼拝がささげられています。つまり礼拝に集っているのは、あらゆる国民、部族、民族、言語からの数えきれない者たちであり、信仰の戦いを戦い抜いた者たちです。続く本編の中では、礼拝の場面が二回取り上げられています。まず11章、迫害の苦しみを通って天に迎えられた殉教者たちは、礼拝の中で自分たちが豊かに報われていることを告白するのです。また14章、そこでは、童貞の者、つまり、霊的な意味で汚れなきキリスト者が礼拝に参加しています。となると、本編には、天で礼拝する二つのキリスト者の姿が描かれているのでしょう。一つは迫害の中で信仰の戦いを戦い抜いたキリスト者、もう一つは、この17-18章に詳しく描かれた、享楽と世俗化の世界に影響されることなく神の聖さに生きたキリスト者です。というわけで、この19章は、14章を詳しく描いたもの、と言うことができるでしょう。
注目すべきは、霊的な意味で操を立てたキリスト者が、天において花嫁として迎えられている、祝福を描いているところです。音楽家のバッハは、旧約聖書の雅歌を素材として、カンタータBWV140番、「目覚めよ、とわれらに声がよびかける」を作曲しました。それは、旧約聖書にある恋愛詩、雅歌に、この19章に描かれた終末的な婚宴のビジョンを重ねて作った曲でした。しかし実際には、それよりも早く、フィリップ・ニコライという人がそのビジョンのもとにコラールを作曲しています。彼は、ペストが猛威を振るった脅威の時代に、強い終末意識に囚われていました。そして、聖書を読みながら、天における復活の希望に慰められて、神の御国で開かれる祝賀をイメージしてコラールを作曲したのです。バッハはそれを下敷きにして自身のカンタータを作曲したと言われています。けれども、バッハの作曲の意義は、旧約聖書の恋愛詩、雅歌を終末的な視点から解釈し、偶像礼拝に陥らず、霊的な純潔を保ったキリスト者が、キリストの花嫁として天に迎えられる婚宴の賛歌としたことです。19章が描いているのは、まさにその祝婚の素晴らしさに信仰者一人一人が招かれているということでしょう。
3.子羊の勝利(19:11-21)
 11節からは王と天の軍勢による勝利が描かれます。12節「多くの王冠」は、ギリシャ語でディアディマ、勝利の冠ではなく、王の冠を意味します。いわゆる主権が神にあることを示しています。「名が書かれていた」つまり名前をつけることも支配権を意味しています(創世記2:19)。13節、「 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。」とあります。ヨハネの福音書でも、イエスは神のことばと表現されています(1:1)。また、イエスご自身裁きのために来たと語ります(9:39)。
 17節、「中天を飛んでいる」は、共同訳では、「空高くを飛んでいる」となっています。すべてを見通すことができる、ということでしょう。主権を持った神が、その鳥に命じられたことは、徹底した裁きです。先にハルマゲドン、戦いへの招集の場面がありました(16:16)。その後の戦闘の記録がここに描かれていると言うべきでしょう。ただ詳しい説明はありません。大切なポイントは、神の力によって悪の勢力が一掃される、と繰り返し述べられていることです。主権を持った神の子羊によってすべての帳尻が合わされる、正義が成し遂げられる日は近いということです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「黙示録を書いたヨハネは、他にどんな書を新約聖書に残していますか?」答えはヨハネの福音書、そして三つの手紙です。では、今日の聖書クイズを一つ。新約聖書は、福音書、歴史書、書簡からなっていますが、全部で併せて何巻の書物でしょうか。答えはまた明日、今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨハネの黙示録18章

2021年09月22日 07時06分43秒 | ヨハネの黙示録
ヨハネの黙示録18章 世の富は過ぎ去る
1.18章の位置づけ(18:1-10)
 アメリカニズム的キリスト教、あるいは繁栄の神学ということばがあります。アメリカには、独特のサクセスストーリーの文化があります。つまり、目に見える豊かさに価値を見いだし、そこを中心にして生きる考え方があるわけです。それがアメリカのキリスト者にも影響を与えており、繁栄が神の祝福の現れであると考えるのです。しかしそのような考えは、世俗のご利益信仰とあまり変わるものではありません。そのようなことのために、何もキリスト教信仰を持つ必要もないでしょう。
 聖書はもっと重要な価値観を教えています。そのような物質主義に囚われた生活は、大淫婦に貢ようなものである、と(1節)。先の17章で、ヨハネは、大淫婦が聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見て非常に驚いた、と語っています(17:6)。つまり、キリスト教信仰を持ちながらも、物質主義的な価値観に毒され、大淫婦の餌食となっているキリスト者に驚いているわけです。実際、ヨハネが書き送った7つの教会の内、ラオディキアの教会は、そのような問題を抱えた教会でした(3:17)。成功を求め、富を求め、繁栄を求める、世の風潮の中で、知らず知らず、キリスト者もそれに染まっていくことがあるものでしょう。しかし聖書は言うのです。4節、「その災害に巻き込まれないように、彼女のところから出ていきなさい」と。悪影響を受けないために分離する、離れなさい、と言います。もはや、モノに囚われて生きていた時代は、十分ではないか、今は神の栄光のために生きているのではないか、というわけですね。そのような意味で、18章は、17章の結論として読むべきところです。
2. 混乱する経済活動(18:11-24)
11節以降、大淫婦が裁かれる、つまり、バビロンに神の手が及ぶことで、大都市での経済活動が全く混乱していく様が描かれています。12節の商品のリストについて、多くの注解者は、生活必需品ではない贅沢品であると言います。つまりこれらのどれがなくても十分幸せに生きていけるはずのものです。その中には、「奴隷、それに人のいのち」もあります。当時ローマ帝国の繁栄は奴隷制度によって支えられていました。ローマ帝国全体に6000万人の奴隷がいたとされます。しかしそれだけの奴隷を動かしたということは奴隷売買によって巨大な富を得ていた、ということでしょう。奴隷や人のいのちまどもが商品化されていく大都市の現実、これは、現代でもありうることではないでしょうか?「聞かれることはない」ということばが繰り返されています。それは、生活音が消失してしまうほどに、無に帰す徹底した滅びが起こるということでしょう(22節)。ローマは結局、繁栄の頂点にあったときに、贅沢のために滅んでいきました。徳川幕府が倒れた原因の一つに、それまで権力と富を握っていた武士階級から富が、商人に移っていったことにある、と言われます。武士が没落し、お金を握った商人が地上の権力者になっていき、幕府が倒れていくのです。
現代は、世界人口の20%の人々が世界の資源の80%を消費していると言われます。どれだけ少数の金持ちが自分のためにだけお金を使っているか、ということですが、神はそのような自己目的化した富の浪費、不正な使用を、決して見過ごされることはない、というわけです。
イギリスの黙示録研究の第一人者であるボルカムという神学者は、まさにこの17-19章は、平和を保障された先進国に対する現代的なメッセージである、と語りました。現代の日本も、おむすびころりん1億個と言われる状況があり、享楽的な雰囲気に溢れています。その雰囲気にいつのまにか影響されて、迫害下で苦しんでいる他国の兄弟姉妹の存在を忘れ、この世の快楽や贅沢にうつつを抜かしているとしたら、その人生は、獣に刻印を押され、淫婦に貢ぐそれと変わらない、大淫婦と共に滅びる人生ではないでしょうか。終末の試練は、迫害だけではないのです。それは世の享楽に惑わされることもそうなのです。今の時代がどんな時代であるか、冷めた目を持って、しっかりとした信仰の歩みを進めさせていただきたいものです。では良き一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「17章に出てくる大淫婦、これは、何の象徴と説明されているでしょうか」答えは5:18にあるように「大きな都」つまり、贅を尽くし、享楽に浸りきっている大都市のことを言っています。では、今日の聖書クイズを一つ。黙示録を書いたヨハネは、他にどんな書を新約聖書に残していますか?答えはまた明日、今日もよき一日となるように祈ります。

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