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ゼカリヤ書12章

2021年01月03日 07時35分04秒 | 小預言書
ゼカリヤ書12章 メシヤの受難
おはようございます。12章はキリストの十字架を預言しているとされる箇所です。メシヤの姿を重ねて読むと、実によくわかる預言書です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.エルサレムの再興
本章も、「その日」(3節)つまり終末的な展望をもって読むべきところです。まず、ゼカリヤは、エルサレムの守りと回復について語ろうとしています。いったいこれは、いつの時代のことなのでしょう。歴史的に考えてみると、ゼカリヤの時代は、バビロン捕囚から解放され、一度失った祖国を再建した時代ですから、その後のことでしょう。では、その後彼らはどうなったのか。彼らを解放したペルシア帝国に代わってギリシアが、そしてシリア、エジプト、やがてローマが、とイエスの時代まで、中東情勢は目まぐるしく変化しました。いわゆる中間時代と呼ばれるその時期に、一時、彼らは、ゲリラ戦を執拗に行ったマカベアによって、ハスモン王朝なるものを築き、イスラエルの独立自治を勝ち取った時代もありました。しかし、AD70年、エルサレムはローマに徹底的に破壊され、彼らが再びイスラエルとして独立自治を勝ち取ったのは、1948年、第二次世界大戦後、極めて近代のことです。それまでユダヤ人は幾度も民族浄化の危機を通り抜けながら存続し、再びエルサレムに集結し、国を再興しているのです。6節「エルサレムはなお、元の場所エルサレムに残る」は、なるほど実に不思議にも実現している預言であると思わされるところです。
しかし、キリスト教会は、この箇所をそのような地上のエルサレム再建と言う歴史的な意味では解釈してこなかったのです。
2.メシヤの受難
ことに10節「自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て」という箇所は、イエスの脇腹を兵士が突き刺し、その死を確認した十字架の預言として受け止められてきました(ヨハネ19:37)。確かに、ゼカリヤ書は、9章以降の第二部に入るや、メシヤのエルサレム入場(9:9)、メシヤの来臨(10:4)、ユダの裏切り(11:12)、そして今日の受難(12:10)と、メシヤの歩みを預言的に書き込んでいます。つまり、この箇所は、迫害によって倒されても、不屈に立ち上がるキリスト教会を語っている、とすべきなのでしょう。実際、使徒ペテロが、ペンテコステの日に、神が主ともキリストともされたイエスを、十字架につけた現実を語り、悔い改めを促した際に、エルサレムで大いなる嘆きが起こり、キリスト教会が誕生しました(使徒3:36)。つまりこの後の嘆きも、地上での何等かの戦争に負けた悲劇を嘆くものではなく、神を拒んだ罪を認識することによる悔い改めの嘆きを語っています。「ダビデの家の氏族」は王の系統を、「ナタンの家の氏族」は預言者の系統を「レビの家の氏族」は祭司職を、「シムイの氏族」は学者、教師の系統を指すという説があります。つまり悔い改めが、国家の指導的な立場にある者たちから生じるということです。大事な点です。しかもそれは「ひとり嘆き」なのです。つまり神の前での悔い改めは、個人的な行為であり、集団的なものではありません。ペテロも、「それぞれ罪を赦していただくために」と言いました(使徒2:38)。各自神の前にあって信仰を新たにすることといたしましょう。
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