人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生5(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読は、モノの見方を変え、イエスと共に前に進む気を起こさせてくれます。ご一緒にしませんか?

マラキ書4章

2021年01月09日 07時33分43秒 | 小預言書
マラキ書4章 モーセの律法を覚えよ
 おはようございます。今日で旧約聖書を読み終わります。何事も完成は喜ばしいものです。また一つの年輪が刻まれ、知らずに、信仰的に強くされているところがあるはずです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.主の日
3章に続く、主の日の預言です。内容的には、3:13の、民のつぶやきに対する神の応答の続きです。神は正しいことをなさるお方、その日、「正しい人と悪しき者、神に仕える者と仕えない者」の違いがはっきりとする、と言うのです(3:18)。大切なのは、神に仕える者のイメージです。それは、「主を恐れる者、主の御名を尊ぶ者たち。」そして「主の哀れみを受けた者たち」です(3:16-17)。神に仕えない者は、逆で1節「すべて高ぶる者、すべて悪を行う者」ということになります。また、神に仕える者の結果にも注目しましょう。神を認めず、神に仕えない者には、その日は焼き尽くす巨大なかまどとなって到来します。しかし2節、神に仕える者には「義の太陽が上り、いやしがある」と言います。さばきは同じように望むのでしょうが、彼には希望が続くのです。そして、牛舎から太陽の光輝く外へ解き放たれた子牛が飛び跳ねるように、それは、喜びの日となると言います。また、「悪者どもを踏みつける」とあるように、決定的な勝利者となる時になります(3節)。
このようなことはいつ起こるの。終末の時のことか、いや、今もそのような機会が与えられると理解したいところです。というのも、キリスト者の勝利は、彼岸のそれのみならず、今の人生においてのそれでもあるからです(ローマ8:35-37)。信仰生活に淡い期待を抱き続けることを止めて、主への信頼を益々深めて歩みたいところです。
2.神の警告
4節からは、最終的なまとめです。マラキがこの書を書いたのは、だいたいBC460-430年頃、ハガイとゼカリヤが神殿を再建するように民を激励してから80年後のことです。約束された繁栄は実現しておらず、バビロンから帰還した時の最初の信仰と熱意は冷め、道徳的にもたるんでいた時代です。人々は預言者たちが大ボラを吹いたのではないか、あるいは、自分たちの神は、期待するほどの力もないと考えるようになったのでしょう。そのような頽廃ムードの中で、マラキは、旧約聖書最後の預言者として、また宗教改革者として現れるわけです。志気を失い、神を信じて何になる、と懐疑的になっている民に、再び、神のことばを告げるために現れました。それはちょうど、アハブの時代にエリヤが登場したように。いや、実のところ、これから霊的衝撃をもたらす、本番のエリヤが来ると言うのです。それはバプテスマのヨハネだと理解されるところですが、確かに彼は6節「父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる」者でした。この箇所は単純に、文字通り家族の破れが回復される意味ではなく、父なる神と人の関係の回復を語っています。ですから「わたし」は、イエスのこと、イエスの来臨を語っています。彼はまさに、契約に基づいた神の裁きが地に下されないために、破れ口に立つお方として来るのです(レビ記26:32)。大切なのは、神の掟と定めに立ち返り、そこに立ち続けることです。今年も主の教えを心の中心に据えた歩みをさせていただきましょう。
明日から第五サイクルに入ります。ユダヤ教であれば、シムハット・トーラー(トーラの喜び)の祭り(一年1サイクルの律法の書の完読と読み初めを祝う祭り)をするところです。キリスト教会も「聖書信仰」と言うのですから、そのような喜びの時を教会で持つことは期待されてよいのではないでしょうか。聖書こそ私たちの命、力、喜びなのですから、完読と、読み始めは、やはり重要な励ましと祝いの時としたいものです。参考までに、ユダヤ教徒が、この祭りで必ず歌うとされる歌があるので、リンクを張っておきます。


歌の中では、「あなたの他に王・救い主・贖い主は居ない。あなたは真実であり、始めであり終わりである。」という歌詞がリピートされています。神を愛し、そのおことばを慕うところに信仰の本質があります。また明日から新しいサイクル、ご一緒に読み進んでまいりましょう(パスターまこと)。

マラキ書3章

2021年01月08日 07時21分28秒 | 小預言書
マラキ書3章 違いを見るようになる
おはようございます。10年、20年聖書通読をし、しっかり神に仕えた者とそうでない者の差はいずれ明らかになるものです。日々の積み重ねを軽んじてはなりません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神の民のきよめ
 3章前半は、2章後半の民のつぶやきに対する神の応答の続きです。「さばきの神はどこにいるのか」(2:17)に対して、「待っておれ、今そのさばき主を遣わそう(1節)」という事でしょう。それは具体的に、2000年前に遣わされたバプテスマのヨハネとイエスを指しています。ヨハネは、イエスのために道備えをする者でした(マタイ11:10)。ですから突然やってこられる「主」は、イエスに他なりません。実際イエスは、突然神殿に現れ、その宮を聖められました(マタイ21:1213)。バプテスマのヨハネが語ったように、キリストは「聖霊と火のバプテスマ」により、「ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられる」お方として来られたのです(マタイ3:11,12)。そしてペンテコステの際に、「多くの祭司たちが次々に信仰に入った」(使徒6:7)と、エルサレムに悔い改めが起こりました(使徒2章)。私たちが信ずべき神は、神話のそれとは違うのです。
 ですから不信仰な者たちに対して、神は「わたしに帰れ」と悔い改めと立ち返りを勧めます。しかし、「どのようにして、私たちは帰ろうか」という言葉自体に、彼らの頑なな、神に帰る意志のなさが現わされていると言えるでしょう。
2.神に立ち返る
注意すべきは、このことばは、未信者に語られているのではないことです。神の民、いわゆる信仰者に向けて語られているのです。ですから、神の名を口にしながら、それほど神に期待するわけでもない不信仰な信仰者の現実は、その礼拝行為に明らかです。神は、彼らの礼拝が、空しい形式であり、神に盗みの損害すら与えていることを指摘します(8節)。つまり神を軽んじる信仰者は、1章で述べられたように粗末ないけにえをささげるのみならず、十分の一のささげ物の教えを正直に守らず、誤魔化していたのです(9節)。
これは今日のキリスト教会においても問われるべきことでしょう。10節、神は「試してみよ」と語ります。確かに思い切って十分の一を献げたとして、それによって生活が汲々となることはありません。むしろそこには正しいことをした喜びが生じ、神への感謝と崇敬が増し加えられる、まことにいのちある礼拝が生じるのです。アナニヤとサッピラのように、神に誤魔化しながらの礼拝はありえません。 
神は再び、不信仰な民のつぶやきをとりあげます。真面目に神に仕えて何になる。神など否定して、自由に生きている方が、よっぽど良い暮らしをしている、と(15節)しかし、信仰は、ご利益が中心なのではありません。神がおられる現実を覚えるからこそ、何が無くても神を信頼し、従うのです。いずれ、そのように神の主権を認めて生きている者とそうでない者の差は明らかになります(18節)。目先の損得感に惑わされてはいけません。また世の人々が執着するようなものに心を奪われないことです。ただ神を見上げましょう。

マラキ書2章

2021年01月07日 07時11分43秒 | 小預言書
マラキ書2章 神と一体になる
おはようございます。「神は人を一体に造られた」とは驚きです。「神は男と女を一体に造られた」というのではありません。神といかに向かい合って生きていくかが重要です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.祭司への裁きの宣告
 神の民が、神を愛さない問題、これは、一重に祭司に帰せられると、神は言うのです。祭司は、民を神へ近づけるために立てられた者、しかしその祭司が用をなさなかったというわけです。1章は、そのように祭司を告発するものでしたが(6、10節)、この2章は祭司に対する裁きを語ります。そこで祭司イコール牧師・教師と単純に理解してはならないのでしょう。というのも、今日万人祭司という考え方があります。信徒も皆牧師ではありませんが、祭司ではあるのです。確かに信徒の主要な人生の目的は「主に栄光を帰す」、いわゆる祭司的人生を生きることにあります。神は、この役目を果たせないのであるならば、刑罰として祝福の代わりにのろいが彼らの中に送られる、と言うのです。一般に「祝福」は、物質的な繁栄と考えられますが(レビ26:3-13)その限りではありません。霊的な平安が奪われること、そして恥辱が加えられることです(3節)。大切なのはこのように語る神が「もし」を繰り返すことでしょう。裁きは神の本意ではないのです。神は愛であり、のろいではなく、祝福を注ぐお方です。
2.関係の破れ
しかしそもそも、何が問題であったか、5節からは、神との契約の破れについて語られます。鍵となることばは「レビとの契約」です。レビと祭司は同義語で使われています。レビ、いわば祭司に期待されたのは「主に栄光を帰す」働きでしたが、それは、彼ら自身が神と共に歩み、神のみ教えを語ることによって達成されるものでした。しかし、彼らが実際にやったことは、全く神の期待に反する、いいかげんなもので、契約に反することでした(9節)。
10節からは、神の嘆きが語られます。神との契約をないがしろにすることで、実際に起こっていたことは宗教的な雑婚でした。当時の背景として帰還民の中には、経済的な安定を求めて、妻と離別し異邦人の女と再婚する者たちがいたようです(エズラ9:1、ネヘミヤ13:23)。問題は異邦人の女の人種ではなく、宗教にありました。結果彼らは、異教的な影響を受け、神とも離別してしまうのです(14節)。結局、神への不忠実さは、最も親しい夫婦の関係への破壊にまで及び、その子どもを育てることの失敗でもあるのです。
3.民の第二のつぶやき
 さてマラキは、民のつぶやきを再びとりあげます。先のつぶやきは「神を愛していないと批判されるのはなぜか」でした。今度は「悪を行う者が栄えるのはなぜか」です。しかしそれはつぶやきなのです。神はいるかもしれん、しかし、正しいことを行う神などいるものか、それが彼らの思いでした。神は彼らのそんな心のつぶやきに、飽き飽きしたと言うのです。大切なのは、ヨブのように、腑に落ちないことを神ととことん語り合う心を持つことでしょう。神を認め、神を信じるなら、空しくつぶやく人生から卒業することです。


マラキ書1章

2021年01月06日 07時03分31秒 | 小預言書
マラキ書1章 神の愛、人の愛
おはようございます。これほどストレートにささげ物について教えられている箇所も珍しいものです。自身のささげ物の在り方、ささげ方を見直したいところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神の人に対する愛
マルティン・ルターは、ヨハネ3:16を小さな福音書と呼んだが、マラキ書は、小さな旧約聖書と呼ぶことができます。つまり、旧約聖書の歴史を要約し、新約聖書への橋渡しの役も担う書なのです。
2節、旧約聖書の中心的な主題が語られます。聖書の神は、人を愛されたのです(エレミヤ31:3)。しかしながら、目には見えない神が、人をどのように愛されたのか、知りたいものです。神は言います。一つの歴史的な事件、エサウの子孫であるエドムの荒廃にそれは明らかである、と(3節)。エドムは、イスラエルと同じ起源を持つ民族ですが、ナバデヤ人によって侵略され、BC4世紀には、ユダヤ南部へと移住し、衰退していきました。彼らは国を再建しようとましたが、それはかなわなかったのです。なぜか、神がこれをお許しにならなかったからです(4節)。他方神は、全く不可能と思われるイスラエルを再建されました。そこにイスラエルに対する神の格別の愛を知ることができる、というわけです。
2.人の神に対する愛
しかし、逆のこと、つまり人の神に対する愛は欠落している、神は人の造り主であり、贖い主です。しかし、神を神として正しく認識し、仰ぎ恐れることがない、と指摘されます。いや、それはどうして。どこに、人の不敬虔さを神は感じておられるのか。信仰は、目に見えない心の態度ですが、実際にそれは、人の具体的な生活に現れるものでしょう。一番わかりやすいのは、ささげ物です。確かに、人にものをあげる時には、色々と気遣うものでしょう。余り物や傷んだもの、誤魔化して手に入れたものをあげることはまずないものです。マラキの言い方は、ストレートです。総督にすら差し出せないものを、どうして、神にささげ物とするのか、そこに神に対する心遣い、愛があるのか、それはむしろ、神を愛するどころか、侮辱しているのだ(マルコ12:41-44)というわけです(8節)。そして言います。どうしてそのようなささげ物をする者たちの嘆願を神が受け入れてくださろうか、と(9節)。神はささげ物で心を動かすようなお方ではないので、これは皮肉でしょう。そして、そもそも、そのようなささげ物を受け付ける祭司に、神は嫌悪感を示しています(10節)。
新約聖書における献金の勧めは、収入に応じて、週の初めの日に蓄えておくことです(1コリント16:2)。そして、献金が、恵みの業であることを覚えて豊かにそれを行うことです(2コリント8:7-15)。「ずるい者はのろわれる」(14節)と言うように、主が見ておられるのは心でしょう。礼拝においては、その天地万物をお造りになり、支配し、人を滅びの穴から救い出してくださった方に相応しいささげ物をおささげしましょう。今日は週の半ばですが、まず、次週のために礼拝でささげる物を、とりわけておきましょう。そしてこの「二匹の魚と五つのパン」が、豊かに主の御用のために用いられるようにと祈り備えましょう。

ゼカリヤ書14章

2021年01月05日 07時39分23秒 | 小預言書
ゼカリヤ書14章 主の日に向かう
おはようございます。終末的な救いと教会の完成が語られます。先行き不透明な時代であればこそ、救いと教会の完成に心を向けるべき時です。そこが終着点だからです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神の守り
エルサレムに対する神の裁きが語られます。これはすでに13章の8、9節で述べられていることの繰り返しです。しかし、神殿再建後のタイミングにこれが語られたとすれば、それから後のこと、となります。つまり昨日も書いたように、いわゆる終末的な預言として読むべきもので、エゼキエル(38-39章)や黙示録(14:17-20、16:14-21)で語られる、神の民に対する最終的な戦いに通じる内容です。となれば、町は占領され、踏みにじられる、そして捕囚の民が連れ去れるというのは、霊的な意味でのイスラエルの試練を物語っていることになります。あまり聞いても嬉しくない内容のように思われるものですが、実は神の恵みに満ちた内容でもあるのです。
というのも、第一に神がこの試練の中で、ご自身に従う者を守られることを約束しているからです。オリーブ山が神の力によって分けられ、残りの者がその谷を通って逃げる、という4節の約束は、文字通りではなく象徴的に受け止めるべきところで、神の奇跡的な介入による神の民の守りを伝えています。神は神の側に立つ者とどこまでも共にあるのです(9節)。そして神は、ご自分の民を攻める者と戦われることを約束します(12節)。注目すべき点は、その神の民を攻める者が神に下された疫病によってふるわれ、その残りの者が神の民の残りの者に合流させられる点です(16節)。「残された者」は、神の民とそうでない者を問わず、神の下に残された者、ということです。
2.救いの完成
20節、「馬の鈴」が主への聖なるささげもとされます。もともとユダヤ人にとって馬は傲慢と王の虚飾と肉性の現われで、所有することすら禁じられていました。家庭用の「鍋」も世俗的なものと考えられていました。しかし、その日、それらが皆、聖なるものとして用いられると言います。つまり聖俗の区別がなくなるということです。神によってふるわれて残された民にとって、教会は聖なる場、日常生活は世俗の場、というような二重生活はなくなるのです。宗教は生活の一部ではなく、生活そのものになるのです。ですから、その日「万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる」(21節)とも言われます。私の家は祈りの家と呼ばれると、イエスが、神殿で商売する者どもを追い出し、宮清めを行ったことが思い起こされるところです(マタイ21:12)。神の宮は完全に聖められ、神の栄光を純粋に崇め礼拝する場とされ、キリスト者の日常も同じようになるのです(ローマ12:1)。
こうしてゼカリヤは、救いと教会の完成を語っています。やがて私たちは神の前に立つことになります。それまでに神が、戦乱や疫病をもって人類をふるい分けすることもあるでしょう。世に起こる事柄は皆、それぞれ意味のあることで、それは神を認める者をますます神に近づけ、そうでないものを退けていくプロセスとなります。先行き不透明な時代であればこそ、自身の救いと教会の完成に心を向けてまいりましょう。それが終着点だからです。