人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読は、モノの見方を変え、イエスと共に前に進む気を起こさせてくれます。ご一緒にしませんか?

人生💯倍の視野😊【聖書】マラキ書3章 違いを見るようになる

2024年04月04日 20時17分41秒 | 小預言書
マラキ書3章 違いを見るようになる
1.神の民のきよめ
 3章前半は、2章後半の民のつぶやきに対する神の応答の続きです。「さばきの神はどこにいるのか」(2:17)というつぶやきに対して、「待っておれ、今そのさばき主を遣わそう(1節)」というわけです。
それは具体的に、2000年前に遣わされたバプテスマのヨハネとイエスを指しています。ヨハネは、イエスのために道備えをする者でした(マタイ11:10)。ですから主に遣わされる「主」は、イエスに他なりません。実際イエスは、突然神殿に現れ、その宮を聖められました(マタイ21:1213)。バプテスマのヨハネが語ったように、キリストは「聖霊と火のバプテスマ」により、「ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられる」お方として来られたのです(マタイ3:11,12)。そしてペンテコステの際に、「多くの祭司たちが次々に信仰に入った」(使徒6:7)と、祭司たちに悔い改めを起こしたのです(使徒2章)。
 そこで「さばきの神はどこにいるのか」とつぶやく、不信仰な者たちに対して、神は「わたしに帰れ」と悔い改めと立ち返りを勧めます。しかし彼らは、「どのようにして、私たちは帰ろうか」と言うのです。つまり、帰ろうしているわけではありません。彼らは帰る気がないのです。彼らの頑なな不信仰の姿勢が露わにされていると言えるでしょう。
2.神に立ち返る
注意すべきは、このことばは、未信者ではなく、神の民、いわゆる信仰者に向けて語られていることです。神は、彼らの不信仰が礼拝に表れていること、つまりそれが形式的な空しいもので、神に盗みの損害すら与えていることを指摘します(8節)。つまり彼らは、1章で述べられたように粗末ないけにえをささげているのみならず、十分の一のささげ物の教えを守ることもなく、誤魔化していたのです(9節)。
これは今日のキリスト教会においても問われるべきことでしょう。10節、神は「試してみよ」と語ります。十分の一もささげるのか、結構大きいな、こりゃ税金並みだなと思う方もいるかもしれません。しかし、人は好きなものにはいくらでも、また必要なものにはそれなりのお金をかけるものです。つまり十分の一も、ではなく、十分の一が一つの目安、そして、それは、国民が税金をもって国を支えるのと同じ、教会員が責任をもって自分たちの教会の働きを支えるのに心がけるべき額の目安である、ということです。
一般に、日本の普通のキリスト教会では、新興宗教のように、信者からあるだけお金を吸い上げ、それで指導者が私服を肥やすようなことはしていないと私は信じています。むしろ、日本全国に8000あるプロテスタント教会の内、信者の献金で成り立っているような教会は全体のわずか30%程度です。つまり大方の牧師は、簡素な生活をし、副業で教会財政を支え、何とか教会活動を成り立たせているのが実情だと思います。そういう意味では教会員は自分の教会の牧師がどのように生活しているのかに無関心であってはなりません。神の働きを正しく理解し、その働きを十分支えていくために、教会員が自分の教会を愛して、十分の一のささげ物を忠実にしていくことが重要なのです。そこにこそ、神への感謝と崇敬が増し加えられる、まことにいのちある礼拝も生じるのです。アナニヤとサッピラのように、神に誤魔化しながらの礼拝はありえません。 
神は再び、不信仰な民のつぶやきをとりあげます。真面目に神に仕えて何にもならない。神を否定して、自由に生きている方が、よっぽど良い暮らしをしているではないか、と(15節)。しかし、信仰は、ご利益ではありません。神がおられる現実に立つからこそ、何が無くても神を信頼し、従うのです。いずれ、そのように神の主権を認め、10年、20年聖書を読み続け、しっかり神につながって生きていく者とそうでない者の差は明らかになっていきます(18節)。信仰は日々の積み重ねです。聖書の教えに従って、神を見上げて、いのちある信仰者としての歩みをさせてまいりましょう。では今日も良き一日となるように祈ります。
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。十分の一のささげものの無視の問題に関して、ネヘミヤ記以外で旧約聖書が取り上げているのは、次のどの書になるでしょうか。①エステル記、②エズラ記、③ネヘミヤ記。答えは③ネヘミヤ記でした(ネヘミヤ13:10-12、マラ3:7-12)。では、今日の聖書クイズです。マラキ書が書かれてから、新約聖書の時代が来るまでの間は中間時代と呼ばれますが、それは何年間であったでしょうか?①100年間、②400年間、③800年間、答えはまた明日。では今日も良き一日となるように祈ります。

Malachi 3: Coming to See the Difference
1. the cleansing of God's people 
The first half of chapter 3 is a continuation of God's response to the people's murmuring in the second half of chapter 2: "Where is the God of judgment? It specifically refers to John the Baptist and Jesus, who were sent 2,000 years ago. John was a preparer for Jesus (Matthew 11:10). Therefore, the "Lord" sent to the Lord is none other than Jesus. In fact, Jesus suddenly appeared in the temple and sanctified it (Matthew 21:1213). As John the Baptist said, Christ came as the One who "cleansed every inch of His threshing floor" by the "baptism of the Holy Spirit and of fire" (Matthew 3:11, 12). And at Pentecost, "many of the priests came to faith one after another" (Acts 6:7), causing the priests to repent (Acts 2). There, to the unbelievers who murmur, "Where is the God of judgment?" God encourages them to repent and turn to Him, saying, "Return to Me. But they say, "How shall we return? In other words, they are not trying to return. They do not want to return. 
2. turn to God. 
God points out that their unbelief is manifested in their worship, that it is formal and empty, even causing God the damage of theft (v. 8). In other words, they were not only offering meager sacrifices as described in chapter 1, but they were also deceiving themselves by not observing the teaching of the tenths offering (v. 9). In verse 10, God says, "Try me. Some may think that this is a big amount to give, like a tax. But people will spend as much as they like and as much as they need. In other words, not even one-tenth, but one-tenth is one guideline, and that is a guideline of the amount that church members should keep in mind to support the work of their churches responsibly, just as the people support the nation with taxes. In general, I believe that ordinary Christian churches in Japan do not suck as much money out of their members as new religions do, so that their leaders can fatten their own pockets. In fact, of the 8,000 Protestant churches in Japan, only about 30% are funded by believers' donations. In other words, most pastors lead a simple life, support church finances with side jobs, and somehow manage to make their church activities possible. In this sense, church members should not be indifferent to how the pastors of their churches live. It is important for church members to love their churches and faithfully give a tenth of their offerings in order to properly understand God's work and fully support that work. Only there will arise a truly life-giving worship, in which gratitude and reverence for God will be increased. There can be no worship while deceiving God, as in the case of Ananias and Sapphira. God again takes up the murmuring of the unbelieving people. Serve God earnestly and you will get nothing. It is better to deny God and live a life of freedom (v. 15). But faith is not a benefit. Because we stand in the reality of God's presence, we trust and obey God no matter what. Eventually, the difference between those who acknowledge God's sovereignty in this way, continue to read the Bible for 10 or 20 years, and live their lives firmly connected to God, and those who do not, will become clear (v. 18). Faith is a daily accumulation. Let us follow the teachings of the Bible, look up to God, and walk as believers with life. I pray that today will be another good day. 

<Quize Coner
First, here is yesterday's quiz. Regarding the issue of the neglect of the tenths offering, which of the following books, other than Nehemiah, does the Old Testament discuss? (1) Esther, (2) Ezra, and (3) Nehemiah. The answer was (3) Nehemiah (Nehemiah 13:10-12, Mal 3:7-12). Now for today's Bible quiz. The period between the writing of Malachi and the coming of the New Testament era is called the Intermediate Period, which was how many years? (1) 100 years, (2) 400 years, (3) 800 years, and the answer will be given tomorrow. Well, I wish you a good day today.


人生100倍の視野😊【聖書】マラキ書4章 モーセの律法を覚えよ

2024年04月04日 20時16分02秒 | 小預言書
マラキ書4章 モーセの律法を覚えよ
1.主の日
さて4章は、3章に続く、主の日の預言です。内容的には、3:13の、民のつぶやきに対する神の応答の続きです。主の日には「正しい人と悪しき者、神に仕える者と仕えない者」の違いがはっきりとする、と言います(3:18)。大切なのは、神に仕える者のイメージです。それは、「主を恐れる者、主の御名を尊ぶ者たち。」そして「主の哀れみを受けた者たち」です(3:16-17)。神に仕えない者は、逆で1節「すべて高ぶる者、すべて悪を行う者」ということになります。また、神に仕える者の結果にも注目しましょう。神を認めず、神に仕えない者には、その日は焼き尽くす巨大なかまどとなって到来すると言います。しかし2節、神に仕える者には「義の太陽が上り、いやしがある」と言います。さばきは同じように望むのでしょうが、主に仕える者には光が照らされるのです。そして、牛舎から太陽の光輝く外へ解き放たれた子牛が飛び跳ねるように、それは、喜びの日になると言います。また、「悪者どもを踏みつける」とあるように、その日は、決定的な勝利者となります(3節)。
そのような日はいつくるのか。終末の時のことか、いや、そうではないのです。まさに今、そのような機会が与えられると信仰をもって理解すべきところでしょう。というのも、キリスト者の勝利は、あの世だけではなくて、今の人生でも起こりうることだからです(ローマ8:35-37)。漠然とした期待に生きておらず、主にある勝利を信じて、大胆に人生を踏み出すことです。
2.神の警告
4節からは、最終的なまとめです。マラキがこの書を書いたのは、だいたいBC460-430年頃、ハガイとゼカリヤが神殿を再建するように民を激励した時から80年が過ぎた頃のことです。しかし神に約束された繁栄は実現していませんでした。そして、バビロンから帰還した時の最初の信仰と熱意は冷め、道徳的にも堕落し始めていた時代でした。人々は預言者たちが大ボラを吹いたのではないか、あるいは、自分たちの神は、期待するほどの力もなかったのだ、と考えるようにもなっていました。
そのような頽廃ムードの中で、マラキは、旧約聖書最後の預言者として、また宗教改革者として現れるわけです。神を信じて何になる、と懐疑的になっている民に、マラキは、神のことばを再び告げるために現れました。それはちょうど、アハブの時代にエリヤが登場したようなものでした。いや、実のところ、これから霊的衝撃をもたらす、本番のエリヤが来ると言うのです。それはバプテスマのヨハネのことを言っているわけですが、確かに彼は6節「父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる」者でした。この箇所は単純に、文字通り家族の破れが回復される意味に取るよりも、父なる神と人との関係の回復と理解すべきでしょう。ですから「わたし」は、イエスのこと、イエスの来臨を語っています。彼はまさに、契約に基づいた神の裁きが地に下されないために、破れ口に立つお方として来るのです(レビ記26:32)。大切なのは、神の掟と定めに立ち返り、そこに立ち続けることです。
さて旧約聖書を完読しました。ユダヤ教であれば、シムハット・トーラー(トーラの喜び)の祭り(一年1サイクルの律法の書の完読と読み初めを祝う祭り)をするところです。プロテスタント教会だって、まさに聖書が中心なのですから、聖書通読完読の喜びを祝う時を持ってもおかしくはないでしょう。聖書こそ私たちの命、力、喜びです。完読と、読み始めは、やはり重要な励ましと祝いの時としたいものです。参考までに、ユダヤ教徒が、この祭りで必ず歌うとされる歌があるので、リンクを張っておきます。
https://www.youtube.com/watch?v=N-U9Y-7PYKg
歌の中で繰り返されているのは、「あなたの他に王・救い主・贖い主はいない。あなたは真実であり、始めであり終わりである。」という歌詞です。神を愛し、そのおことばを慕うところに信仰の本質があります。
明日から第六サイクルが始まります。このブログと共に、20年以上、聖書を繰り返し読み続けてきた方もおられることでしょう。コメントを戴いた方々、またコメントなしで読み続けてくださった方々、皆さんとの出会いを心より感謝申し上げます。第六シーズンも、ご一緒にされる方は、どうぞよろしくお願いいたします。
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。マラキ書が書かれてから、新約聖書の時代が来るまでの間は中間時代と呼ばれますが、それは何年間であったでしょうか?①100年間、②400年間、③800年間。答えは②400年間でした。クイズコーナーは、第六サイクルは一旦お休みにいたします。また準備が出来ましたら再開を検討します。

Malachi 4: Remember the Law of Moses
1. the day of the Lord
Chapter 4 is a prophecy of the Day of the Lord, a continuation of chapter 3. In content, it is a continuation of God's response to the murmuring of the people in 3:13. He says that on the Day of the Lord, the difference between "the righteous and the wicked, those who serve God and those who do not" will become clear (3:18). What is important is the image of those who serve God. It is "those who fear the Lord, those who honor His name." and "those who have received His mercy" (3:16-17). Those who do not serve God are the reverse, verse 1, "all exalted, all evil-doers." Note also the consequences of those who serve God. He says that for those who do not acknowledge God and do not serve Him, the day will come as a huge kamar-tzah that will burn. But verse 2 says that for those who serve God, "the sun of righteousness will rise and there will be healing. Judgment may be desired in the same way, but light will shine on those who serve the Lord. And it says that it will be a day of rejoicing, like the leaping of a calf unleashed from the barn into the shining sun. It will also be a day of decisive victory, as it says, "I will trample down the wicked" (v. 3).
Will such a day be created? Is it the end times, no, it is not. We should understand with faith that such an opportunity will be given to us now. For the victory of the Christian can happen not only in the afterlife, but also in this life (Romans 8:35-37). We are not to live in vague expectations, but to step out boldly in life, believing in the victory that is in the Lord.
2. God's Warning
Verse 4 begins the final summary. Malachi wrote this book roughly around 460-430 BC, 80 years after Haggai and Zechariah encouraged the people to rebuild the temple. But the prosperity promised by God had not been realized. And it was a time when the initial faith and zeal of the people upon their return from Babylon had cooled and they were beginning to become morally corrupt. People even began to think that the prophets had blown a big whistle, or that their God was not as powerful as they had hoped.
It was in this mood of decadence that Malachi emerged as the last Old Testament prophet and religious reformer. Malachi appeared to reiterate the Word of God to a people who had become skeptical about what it meant to believe in God. It was just like the appearance of Elijah in the days of Ahab. No, as a matter of fact, he says that the real Elijah is coming, the one who will bring the spiritual impact. It is referring to John the Baptist, and indeed he was the one who "turned the heart of the Father to the Son and the heart of the Son to the Father" in verse 6. This passage should be understood as a restoration of the relationship between God the Father and man, rather than simply taking it to mean a literal restoration of the brokenness of the family. Thus, the "I" speaks of Jesus and His coming. He is coming precisely as the One who will stand at the breaking point so that God's covenant-based judgment will not come upon the earth (Leviticus 26:32). The important thing is to turn to God's laws and decrees and keep standing in them.
Now we have completed the Old Testament. If you are a Jew, you are about to celebrate the festival of Simhat Torah (the joy of the Torah), which celebrates the completion and beginning of the reading of the Book of the Law for one cycle a year. Even Protestant churches, with the Bible at the center of their being, may well have a time to celebrate the joy of reading the Bible in its entirety. The Bible is our life, our strength, our joy. The completion of the reading and the beginning of the reading should still be an important time of encouragement and celebration. For your information, here is a link to a song that Jews are supposed to sing on this festival.
https://www.youtube.com/watch?v=N-U9Y-7PYKg
Repeated in the song is, "There is no King, Savior, or Redeemer but You. You are the truth, the beginning and the end." The lyrics are. The essence of faith is found in loving God and adoring His Word.
Tomorrow begins the sixth cycle. Some of you have been reading the Bible over and over for more than 20 years, along with this blog. To those of you who have commented, and to those of you who have continued to read without commenting, I thank you from the bottom of my heart for meeting all of you. If you would like to join us for the sixth season, please do so.
<Quiz Corner>     
First, here is yesterday's quiz. The period between the writing of Malachi and the coming of the New Testament era is called the Intermediate Period. (1) 100 years, (2) 400 years, and (3) 800 years. The answer was (2) 400 years. We will take a break from the Quiz Corner for the sixth cycle. We will consider resuming it when we are ready.

人生💯倍の視野😊【聖書】マラキ書2章 神と一つ心になる

2024年04月01日 11時59分05秒 | 小預言書
マラキ書2章 神と一つ心になる
1.祭司への裁きの宣告
 神の民が、神を愛さない問題、その最大の原因は、一重に祭司の問題であると、神は言います。祭司は、民を神へ近づけるために立てられた者、しかしその祭司が用をなさなかったというわけです。1章は、そのように祭司を告発するものでしたが(6、10節)、この2章は祭司に対する裁きを語っています。ただ祭司というのは、今で言えば牧師や伝道師のことだから私とは関係がないと単純に考えてはいけません。というのも、万人祭司という考え方があります。信徒は牧師ではありませんが、祭司ではあるのです。確かに信徒の主要な人生の目的は「主に栄光を帰す」、いわゆる祭司的人生を生きることにあります。確かに、親が祭司的人生を生きていなければ子も同じです。子は、親の普段の生活を見て、それに倣うのです。子どもの救いは、教会学校の役割ではなく、家庭に最も大きな責任があると言うべきでしょう。また近隣の方々は聖書こそ読まなくても歩く聖書、つまり信仰者を良く見ているものです。信仰があの程度のものならば、何も教会へ行かなくてもよいではないか。余計な苦労を負うだけだとなります。信仰者が祭司的生活を生きる、これは重要なことなのです。そして神は、そのような祭司的な生活を生きず、全く用を足さないクリスチャンであるならば、刑罰として祝福の代わりにのろいを送りこまれると言うのです。一般に「祝福」は、物質的な繁栄と考えられがちですが(レビ26:3-13)その限りではありません。霊的な平安、霊的な誇りもそうです。それが取り去られるのです(3節)。大切なのは神が「もし」を繰り返していることです。つまり裁きは神の本意ではありません。神は愛です。神はのろいではなく、祝福こそ注がれたいお方なのです。
2.関係の破れ
しかしながら、そもそもこうした問題の原因はどこにあるのか。5節からは、神との契約の破れについて語られます。鍵となることばは「レビとの契約」です。レビと祭司は同義語で使われています。レビ、いわば祭司に期待されたのは「主に栄光を帰す」働きでしたが、それは、彼ら自身が神と共に歩み、神のみ教えを語ることによって達成されるものでした。しかし、彼らが実際にやったことは、全く神の期待に反する、いいかげんなもので、契約に反することでした(9節)。
10節からは、神の嘆きが語られます。神との契約をないがしろにすることで、実際に起こっていたことは宗教的な雑婚でした。当時の背景として帰還民の中には、経済的な安定を求めて、妻と離別し異邦人の女と再婚する者たちがいたようです(エズラ9:1、ネヘミヤ13:23)。問題は異邦人の女の人種ではなく、宗教にありました。結果彼らは、異教的な影響を受け、神とも離別してしまうのです(14節)。結局、神への不忠実さは、最も親しい夫婦の関係への破壊にまで及び、その子どもを育てることの失敗でもあるのです。
3.民の第二のつぶやき
 さてマラキは、民のつぶやきを再びとりあげます。先のつぶやきは「神を愛していないと批判されるのはなぜか」でした。今度は「悪を行う者が栄えるのはなぜか」です。しかしそれはつぶやきなのです。神はいるかもしれん、しかし、正しいことを行う神などいるものか、それが彼らの思いでした。神は彼らのそんな心のつぶやきに、飽き飽きしたと言うのです。大切なのは、ヨブのように、腑に落ちないことを神ととことん語り合う心を持つことでしょう。神を認め、神を信じるなら、空しくつぶやく人生から卒業することです。
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。マラキ書は、ハガイ書、ゼカリヤ書よりも前に書かれた、〇か×か。答えは×です。預言者ハガイとゼカリヤは、捕囚からの帰還者を鼓舞して神殿の再建を達成する目的を持っており、マラキ書は、その後、期待していたメシヤ時代が来ないことに霊的に無関心になっていたイスラエルの民に語られたものです。では、今日の聖書クイズです。十分の一のささげものの無視の問題に関して、ネヘミヤ記以外で旧約聖書が取り上げているのは、次のどの書になるでしょうか。①エステル記、②エズラ記、③ネヘミヤ記。答えはまた明日。では今日も良き一日となるように祈ります。

Malachi 2: Becoming One with God
1. pronouncement of judgment on the priests
 God says that the greatest cause of the problem of God's people not loving Him is the problem of the priests. While chapter 1 was an indictment of the priests (vv. 6, 10), chapter 2 is a pronouncement of judgment on the priests. However, we should not simply think of priests as pastors and evangelists today, and therefore have nothing to do with me. This is because there is the concept of a priest for all. The laity are not pastors, but they are priests. Indeed, the primary life purpose of the laity is to "give glory to the Lord," to live the so-called priestly life. Indeed, if the parents are not living the priestly life, neither are the children. The child sees the parents' normal life and follows their example. It should be said that the salvation of children is not the role of the church school, but the family has the greatest responsibility. Also, the neighbors may not read the Bible, but they watch the walking Bible, or the faithful, very closely. If their faith is that good, they don't need to go to church at all. It would only be an unnecessary burden. It is important that believers live a priestly life. And God says that if a believer does not live such a priestly life and does not do any work at all, God will send cursing instead of blessing as a punishment. Although "blessing" is commonly thought of as material prosperity (Lev. 26:3-13), it is not limited to that. So is spiritual peace and spiritual pride. It will be taken away (v. 3). The important thing is that God repeats "if." In other words, judgment is not God's intention. God is love. God is not cursing, but blessing is what He wants to pour out.
2. relationship breakdown
From verse 5, we are told about the breaking of God's covenant with us. The key phrase is "covenant with Levi. Levi and priest are used synonymously. Levi, the priests, so to speak, were expected to work to "bring glory to the Lord," which was to be accomplished by their own walking with God and speaking His teachings. What they actually did, however, was totally contrary to God's expectations, lax and contrary to the covenant (v. 9).
From verse 10, we are told of God's lament. By neglecting God's covenant, what was actually going on was a religious miscarriage. In the context of the time, it seems that among the returned people, there were those who separated from their wives and remarried Gentile women in search of financial security (Ezra 9:1; Nehemiah 13:23). The problem was not with the race of the Gentile women, but with their religion. As a result, they were subjected to pagan influences and separated from God as well (v. 14). Ultimately, their unfaithfulness to God extends to the destruction of their closest marital relationships and their failure to raise their children.
3. the second murmuring of the people
 Now Malachi takes up again the murmuring of the people. The previous murmur was, "Why are we criticized for not loving God? Now he asks, "Why do evil doers prosper? But it is a murmur. There may be a God, but there is no God who does what is right. God had had enough of the murmuring of their hearts. What is important is to have a heart like Job's to talk with God about things that don't add up. If you recognize God and believe in Him, you will graduate from a life of empty murmuring.
<Quiz Corner     
First, yesterday's quiz. Was the book of Malachi written before the books of Haggai and Zechariah? 〇 or ×?。The answer is ×. The prophets Haggai and Zechariah had the purpose of inspiring the returnees from captivity to accomplish the rebuilding of the temple, and the book of Malachi was then addressed to the Israelites who had become spiritually indifferent to the fact that the expected Messianic era had not come. Now for today's Bible quiz. Regarding the issue of the neglect of the tithe offering, which of the following books, other than Nehemiah, does the Old Testament address? (1) Esther, (2) Ezra, and (3) Nehemiah. The answer will be given tomorrow. Well, I wish you a good day today.

人生💯倍の視野😊【聖書】マラキ書1章 神の愛、人の愛

2024年04月01日 11時52分05秒 | 小預言書
マラキ書1章 神の愛、人の愛
1.神の人に対する愛
マルティン・ルターは、ヨハネ3:16を小さな福音書と呼びました。同じような言い方をすれば、マラキ書は、小さな旧約聖書と呼ぶことができます。つまり、旧約聖書の歴史を要約し、新約聖書への橋渡しの役を担う書と言えます。
2節には、旧約聖書の中心的な主題が語られています。聖書の神は、人を愛される神です(エレミヤ31:3)。しかしながら、目には見えない神は、人をどのように愛されると言うのでしょうか。神は言います。一つの歴史的な事件、エサウの子孫であるエドム人の荒廃にそれは明らかである、と(3節)。エドムは、イスラエルと同じ起源を持つ民族ですが、ナバデヤ人によって侵略され、BC4世紀には、ユダヤ南部へと移住し、衰退していきました。彼らは国を再建しようとましたが、できなかったのです。なぜか、神がこれを計画されなかったからです(4節)。他方神は、同じようにバビロンに侵略され、衰退してしまったイスラエルを再建されました。それは、神がそのように意図されたからです。そこにイスラエルに対する神の格別の愛を知ることができる、というわけです。
2.人の神に対する愛
しかし、神は人を愛しても、人は神を愛することはありません。神は人をお造りになったお方であり、またこれを救われるお方です。しかし、その神を神として正しく認識し、仰ぎ恐れる人はまずいない、と指摘されます。実際、その恐れの無さは、その宗教行動に現われるのです。一番わかりやすいのは、神へのささげ物です。確かに、人にものをあげる時には、色々と気遣うものでしょう。余り物や傷んだもの、誤魔化して手に入れたものをあげる人はいないものです。しかし、神に対してはそうではない。マラキの言い方は、実にストレートです。総督にすら差し出せないものを、どうして、神にささげ物とするのか、そこに神に対する心遣い、愛があるのか、それはむしろ、神を愛するどころか、侮辱しているのだ(マルコ12:41-44)というわけです(8節)。そして言います。どうしてそのようなささげ物をする者たちの嘆願を神が受け入れてくださろうか、と(9節)。実際神はささげ物で心を動かすようなお方ではありません。ですからこれは皮肉を交えて語っていることです。そして、そもそも、そのようなささげ物をよしとする祭司に、神は嫌悪感を示しています(10節)。確かにそのように考えると、1円や10円玉をお賽銭に投げ入れて、神に祝福を願う日本人の文化は、ある意味で神を冒涜しています。
ともあれ新約聖書は、神への献金は、収入に応じて、週の初めの日に蓄えておくようにと教えています(1コリント16:2)。ある意味で現実的であり、備えて献げるという姿勢が重視されるのです。神にお会いするという意識が大事だからです。そして、献金は、やはり、神の豊かな恵みに対する感謝という目的であるならば、収入に応じて、つまり、その豊かさに応じてという心を大事にすることを教えているのです(2コリント8:7-15)。有金すべて、全財産を寄進するなど、新興宗教が教えるようなことは教えていません。大切なのは献金をする心です。14節「ずるい者はのろわれる」と言うように、神が見ておられるのは心です。礼拝においては、その天地万物をお造りになり、支配し、人を滅びの穴から救い出してくださった方に相応しいささげ物をお献することです。今日は、週の半ばに入りましたから、まず、次週のために礼拝でささげる物を、とりわけておくことにしましょう。そして例えて言えば、このレプタ銅貨を主が豊かに用いてくださるようにと祈りを加えて礼拝に備えましょう。
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。アラムの王がリモンの神殿で祭儀をつかさどった時に、それを補佐したのは誰でしょうか?①ナアマン、②バラム、③ゲハジ。答えは①ナアマンでした。では、今日の聖書クイズです。マラキ書は、ハガイ書、ゼカリヤ書よりも前に書かれた、〇か×か。答えはまた明日。では今日も良き一日となるように祈ります。
Malachi 1: Love of God, Love of Man
1. the love of God for man
Martin Luther called John 3:16 a little Gospel. In a similar way, the book of Malachi can be called a small Old Testament. In other words, it summarizes the history of the Old Testament and serves as a bridge to the New Testament.
In verse 2, the central theme of the Old Testament is discussed. The God of the Bible is a God who loves man (Jeremiah 31:3). How, however, does the invisible God say that He loves man? God says. It is evident in one historical incident, the desolation of the Edomites, the descendants of Esau (v. 3). Edom, a people of the same origin as Israel, was invaded by the Nabadaeans, and in the 4th century BC, they migrated to southern Judea and declined. They tried to rebuild their nation, but they could not, because God had not planned it (v. 4). God, on the other hand, rebuilt Israel, which had also been invaded and decimated by Babylon. This is because God intended it that way. This is where we can see God's exceptional love for Israel.
2. man's love for god
God loves man, but man does not love God. God is the One who created man and the One who saves him. However, it is pointed out that there is no one who properly recognizes, reveres, and fears God as God. In fact, this lack of fear is manifested in their religious behavior. The most obvious example is offering to God. Certainly, when we give things to others, we take a lot of care. No one would give something that is left over, damaged, or obtained through deception. But not to God. Malachi's way of putting it is really straightforward. How can you offer something to God that you cannot even offer to the governor, and have such care and love for God? Then he says. Why would God accept the plea of those who make such offerings (v. 9)? In fact, God is not moved by offerings. So this is said with irony. And God is disgusted with priests who accept such offerings in the first place (v. 10). Certainly, in this light, the Japanese culture of throwing one yen or ten yen coins into money offerings and asking God to bless them is, in a sense, blaspheming God.
At any rate, the New Testament teaches that offerings to God are to be stored up on the first day of the week according to one's income (1 Corinthians 16:2). In a sense, this is realistic, and the emphasis is on the attitude of provision and offering. It is important to be aware that we are meeting God. And if the purpose of the offering is gratitude for God's abundant grace, then it also teaches us to be mindful to give according to our income, that is, according to our abundance (2 Corinthians 8:7-15). It does not teach the kind of things that new religions teach, such as donating all one's money or all one's possessions. What is important is the heart of giving, and as verse 14 says, "The cunning man is cursed," God looks at the heart. In worship, we are to offer an offering worthy of the One who made heaven and earth, who rules over them, and who has delivered mankind from the pit of destruction. Today, as we enter the middle of the week, let us first set aside what we will offer in worship for the next week. Let us prepare for worship with a prayer that the Lord will richly use these lepta coins, metaphorically speaking.
<Quiz Corner     
First, yesterday's quiz. Who assisted the king of Aram when he took charge of the rituals in the temple of Rimon? (1) Naaman, (2) Balaam, and (3) Gehazi. The answer was (1) Naaman. Now, here is today's Bible quiz. Was the book of Malachi written before the books of Haggai and Zechariah,〇0 or ×? The answer will be given tomorrow. Well, I wish you a good day today.

人生💯倍の視野😊【聖書】ゼカリヤ書14章 主の日に向かう

2024年03月19日 15時32分29秒 | 小預言書
ゼカリヤ書14章 主の日に向かう
1.神の守り
エルサレムに対する神の裁きが語られます。これはすでに13章の8、9節で述べられていることの繰り返しです。しかし、神殿再建後のタイミングにこれが語られたとすれば、それから後のこと、となります。つまり昨日も書きましたが、バビロン捕囚以降のことですから、むしろ終末的な預言として読んでいくのがよいのでしょう。実際そこには、エゼキエル書(38-39章)や黙示録(14:17-20、16:14-21)で語られる、神の民に対する最終的な戦いに通じる内容があります。ですから、町が占領され、踏みにじられ、捕囚の民が連れ去れるという預言は、霊的な意味でのイスラエルの試練を物語っていると理解できます。となると、それは、私たちに直接かかわって来る内容でもあるため、あまり聞いていて楽しくもない内容にも思われてくるかもしれませんが、実は神の恵みに満ちた内容でもあるのです。
というのも、それはまず、神がこの試練の中で、ご自身に従う者を守られることを約束しているからです。オリーブ山が神の力によって分けられ、残りの者がその谷を通って逃げる、という4節の約束は、文字通りではなく象徴的に受け止めるべきところで、神の奇跡的な介入による神の民の守りを伝えています。神は神の側に立つ者とどこまでも共にあるのです(9節)。そして神は、ご自分の民を攻める者と戦われることを約束します(12節)。注目すべき点は、その神の民を攻める者が神に下された疫病によってふるわれ、その残りの者が神の民の残りの者に合流させられる点です(16節)。「残された者」は、神の計り知れない御心の中に、神の下に集められていくのです。
2.救いの完成
次に20節、「馬の鈴」が主への聖なるささげ物とされると言います。もともとユダヤ人にとって馬は傲慢と王の虚飾と肉性の現われで、所有することすら禁じられていました。家庭用の「鍋」も世俗的なものと考えられていました。しかし、その日、それらが皆、聖なるものとして用いられると言います。つまり聖俗の区別がなくなるのです。神によってふるわれて残された民にとって、教会は聖なる場、日常生活は世俗の場、というような二重生活はなくなります。宗教は生活の一部ではなく、生活そのものになるのです。
ですから、その日「万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる」(21節)とも言われます。私の家は祈りの家と呼ばれると、イエスが、神殿で商売する者どもを追い出し、宮清めを行ったことが思い起こされるところです(マタイ21:12)。神の宮は完全に聖められ、神の栄光を純粋に崇め礼拝する場とされ、キリスト者の日常も同じようになるのです(ローマ12:1)。もはや偽善的な信仰のあり方も一掃されるということでしょう。
こうしてゼカリヤは、救いと教会の完成を語っています。やがて私たちは神の前に立つことになります。それまでに神が、戦乱や疫病をもって人類をふるい分けすることもあるでしょう。世に起こる事柄は皆、それぞれ意味のあることです。それは神を認める者をますます神に近づけ、そうでないものを退けていくプロセスとなります。先行き不透明な時代であればこそ、自身の救いと教会の完成に心を向けてまいりましょう。それが終着点となるからです。
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ゼカリヤと呼ばれる人物は、聖書に何人出てくるでしょうか?①11人、②21人、③31人。答えは③31人でした。では、今日の聖書クイズです。アラムの王がリモンの神殿で祭儀をつかさどった時に、それを補佐したのは誰でしょうか?
①ナアマン、②バラム、③ゲハジ。答えはまた明日。では今日も良き一日となるように祈ります。
Zechariah 14: Toward the Day of the Lord
1. God's Protection
We are told of God's judgment against Jerusalem. This is a repetition of what has already been said in verses 8 and 9 of chapter 13. However, if this is said at a time after the rebuilding of the temple, it will be after that. In other words, as I wrote yesterday, it is better to read it as an apocalyptic prophecy, since it takes place after the Babylonian captivity. In fact, there is a connection to the final battle against God's people spoken of in Ezekiel (chapters 38-39) and Revelation (14:17-20, 16:14-21). Thus, the prophecies of the cities being taken over, trampled underfoot, and the captives taken away can be understood as speaking of the trials of Israel in a spiritual sense. This may not sound like a very pleasant thing to hear, but in fact, it is full of God's grace.
First of all, God promises to protect those who follow Him in this trial. The promise in verse 4 that the Mount of Olives will be divided by the power of God and that the rest will flee through its valley, which is to be taken symbolically rather than literally, conveys the protection of God's people through His miraculous intervention. God is everywhere with those who stand on His side (v. 9). And God promises to fight those who attack His people (v. 12). It is noteworthy that those who attack God's people will be destroyed by a plague sent down to God, and the remnant will join the rest of God's people (v. 16). The "remnant" will be gathered together under God in His unfathomable will.
2. the consummation of salvation
Next, verse 20 says that "the bells of the horses" are to be made a holy offering to the Lord. Originally, for the Jews, horses were a manifestation of arrogance, royal pretense, and carnality, and even owning one was forbidden. Household "pots" were also considered worldly objects. But on that day, he says, they will all be used as holy objects. In other words, the distinction between the sacred and the secular will disappear. For the people left behind by God, there will no longer be a double life: the church will be a place of holiness, and daily life will be a secular place. Religion will no longer be a part of life, but life itself.
Therefore, it is also said that in that day "there will be no more merchants in the temple of the Lord of hosts" (v. 21). When my house is called a house of prayer, we are reminded of the temple purification Jesus performed by driving out those who did business in the temple (Matthew 21:12). The Temple of God is to be completely sanctified, a place of pure worship and adoration of the glory of God, and the daily life of the Christian is to be the same (Romans 12:1). It would mean that the hypocritical way of believing would no longer be swept away.
Thus Zechariah speaks of salvation and the perfection of the church. Eventually we will stand before God. Before then, God may sift mankind with wars and pestilences. All things that happen in the world have their own meaning. It will be a process of bringing those who recognize God closer to Him and driving out those who do not. In these uncertain times, let us keep our minds focused on our own salvation and the perfection of the church. That is the end point.
<Quiz Corner     </div>
First, yesterday's quiz. How many people called Zechariah appear in the Bible? (1) 11, (2) 21, (3) 31. The answer was (3) 31. Now, here is today's Bible quiz. When the king of Aram took charge of the rituals in the temple of Limon, who assisted him?
(1) Naaman, (2) Balaam, and (3) Gehazi. The answer will be given tomorrow. So, I wish you a good day today.