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ヨシュア記24章 主に心を傾けなさい

2022年04月25日 07時05分56秒 | ヨシュア記
ヨシュア記24章 神との再契約
1.イスラエルになされた神のみ業
 ヨシュアは、イスラエルの全部族をシェケムに集めました。そこで再び神の民に向かって語ります。
初めにヨシュアは、イスラエルの歴史においてなされてきた神のみ業の数々を振り返っています。族長たちの召し(2節)、出エジプト(5-7節)、ヨルダン川東岸の勝利(8-10節)、ヨルダン川渡渉(11節)、そして約束の地の征服(11-13節)です。メッセージの中で繰り返し強調されるのは、これらイスラエルの勝利と成功が、一つとしてイスラエルの力によるものではないことです。「あなたがたの前にスズメバチを送ったので、スズメバチがアモリ人の二人の王をあなたがたの前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、またあなたがたの弓にもよらなかった。わたしは、あなたが労したのではない地と、あなたが建てたのではない町々をあなたがたに与えた。あなたがたはそこに住み、自分で植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑から食べている」(13節)
 スズメバチとは何でしょう。文字通りスズメバチととるべきか、一種の比ゆ的な表現と見るべきか。どうやら後者が通説のようです。つまり、イスラエルが侵入する前に、神が敵に与えた恐怖のことを語っています。また、出エジプトの早期年代説をとる場合には、これを先んじてカナン攻略を試みたエジプトのパロのことと取る説もあります。つまり、BC1411年、アメンホテプ3世はカナンに侵略し、壊滅的な打撃を与えました。そのようにカナンの地が弱められていたときに、ヨシュアとイスラエル人がエリコに侵入したと言うわけです。イスラエルのカナンの地の所有は、イスラエル人たちの力によるのではなく、神のご計画による後ろ盾があってこそ、成し遂げられた、というわけです。となればこそ、イスラエルは、まことの神のみを礼拝するように、「誠実と真実をもって主に仕えなさい」と勧められるのです(14節)。
2.神との再契約
15節からは、ヨシュアと民の対話の形式をとりながら、神と民との契約を明らかにしています。つまり、ヨシュアは、民に神への絶対的献身を促し(14-15節)、これに対して民は、これまでの神の恵みと救いを告白して、主に仕える決意を明らかにしています(16-18節)。そこでヨシュアはさらに、主の厳しさを語り、警告をし(19-21節)、これに対して民は、「いいえ。私たちは主に仕えます」と、忠誠の誓いを立て、契約を結ぶのです。
 主に仕えると口で語るのは易しいものでしょう。しかし、人間の心には、罪があります。神を認めようとせず、神に背を向け、神抜きで物事を進めて行く内なる性質があります。もし、人が主に仕えると口で語るとおりの忠誠を持っていたら、こんなことは起こりえないであろうに、という現実があるものです。私たちの礼拝にも、教会生活にも、それは、明確に現わされています。信仰はことばによらず、行為、振る舞いによって明らかなものですが、私たちの現実は、自分に都合よく、自己流に主に仕え、まことに神に仕えているわけではない、と思わされることがしばしばでしょう。けれども、そうであってはならないのです。主に仕えようというのなら、私たちの日々の生活は、神の栄光を現すものとして献げられなくてはなりません。主にあって信仰の生涯を貫きとおしたことが、誰の目にも明らかなような生き方をしていく必要があります。
イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また長老たちの生きている間主に仕えたと言います(31節)。残念なことに、イスラエルの信仰は自立的なものではなかったのです。誰かに支えられなければ続かない、そのような信仰では、主に伝えたということはできません。私たちの信仰の熱心さは、主ご自身に直接結び付き、主に動機づけられたものであることが大切なのです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。神が、ヨシュア記で実現したと言っている神の約束は、どこに書かれているものでしょうか?申命記11:22、23。神がモーセを通してイスラエルの民に約束したものでした。では、今日の聖書クイズを一つ、イスラエルがエジプトから携え上ったヨセフの遺骸は、約束の地カナンのどこに葬られたでしょうか?今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨシュア記21章

2022年04月24日 10時12分26秒 | ヨシュア記
ヨシュア記21章 レビ族の相続
1.レビ族の土地の分配
 土地の分配がほぼ終了すると、最後に、祭司の役を務めるレビ族がモーセに近づいてきて、自分たちにも約束された土地を求めてきました(民数紀35:1-8)。そして彼らは、全部族の土地の中に、48の町と、その周囲に放牧地を与えられるのです。彼らが与えられたのは農地ではなく、放牧地で、放牧を生活の糧とするのです。また彼らはイスラエル中に散らされ、神のことばを分かち合う役割を担いました。
4-8節は、レビ族のケハテ、ゲルション、メラリ、そしてアロンの子ら四氏族への町の分配について語っています。レビ人の中でも特別な役割を持っていた「アロンの子孫」は、エルサレムの神殿近くに土地を持つことになりました。またケハテ族は、レビの二番目の息子の子孫で、契約の箱と他の幕屋の備品を運んだ氏族です。彼らは、初期イスラエルの礼拝の最初の中心地となった中央丘陵地帯を与えられています。また、ゲルション、メラリの諸氏族は、それぞれイスラエル北部、東部の町々を与えられています。
以下9-43節は、四氏族それぞれに与えられた町のリストとなっています。アロンの子孫(10-19節)、ケハテ族(20-26節)、ゲルション族(27-33節)、メラリ族(34-40節)それぞれに、順に町が与えられています。
2.約束は果たされた
 すべての町と領土の分配が終了した後、著者はこれまでのことを振り返り、要約的に次のように述べています。「主がイスラエルの家に告げられた良いことは、一つもたがわず、すべて実現した(45節)。」神は約束を果たされたのです。その約束は、初めアブラハムに与えられ(創世記13:14-17)、続いてその子孫に与えられたものです(創世記17:8)。その約束に基づいて、モーセはイスラエルを引き連れてエジプトを脱出し、約束の地カナンへと向かい、ヨシュアがその働きを引き継ぎました。そしてヨシュアは、約束を信じる戦いを戦い抜いて、その土地を自分たちのものとしたのです。そのような意味で、まずこのリストは、神の約束の確かさを証明するものでしょう。
 また、神は約束を守って、その戦いを終わらせ、イスラエルを周囲の敵から守って、安息を与えられました。神は土地の所有のみならず、そこでの平和な暮らしをも約束しておられたのです(申命12:9-10)。神が約束された「すべて」が、まさに皆実現したのです。
3.神の言葉に懸ける
そこで、私たちこのエピソードの読者もまた、神が約束されたすべての良いことを、何一つたがわず実現されることを信じてよいでしょう。ところが、私たちにはそのような約束への信仰もないし、期待もないことがあるものです。深い不信仰というべきか、諦めというべきか、今の自分と自分にまつわる状況に何一つ期待せず、感情的にも冷めきってしまっていることもあるのではないでしょうか。
しかし信仰は一種の賭けです。信仰を無謀な賭け事にしてはならないでしょうが、神の約束を思いめぐらし、静かに自らの状況を熟考し、もはやこれ以外にすがるものなしという状況においては救いです。他に頼るものがあるのならば、そうすればよいだけのことですが、そうではないとすれば、神の約束は、一つの選択です。それは弱い言い方かもしれませんが、必死にもがいて生きている人間にとっては、神の言葉に信頼して人生を切り開く積極的なものと言うべきでしょう。主の約束を耳にしながら、荒野を40年彷徨った古い世代のようであってはならず、約束の地を受け継ぐために、神に信頼して出ていき、実際に土地を勝ち取った新しい世代でありたいものです。では今日も、神の約束に懸けていくよき一日であるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。次の部族の内、逃れの町をその割り当ての地に持たなかった部族はどれでしょうか?①ユダ族、②ガド族、③ダン族。答えは、ダンう族(ヨシュア20:7-8)でした。では、今日の聖書クイズを一つ、レビ人は、全部でいくつの町を与えられたでしょうか?①12、②24、③48、では今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨシュア記23章 約束は実現した

2022年04月24日 07時05分34秒 | ヨシュア記
ヨシュア記23章 ヨシュアの告別説教
1.大きくて強い国々を追い払った
 ヨシュアは年を重ねて老人となっていました。23章はヨシュアの告別説教となるものです。これまでの歩みを回想しながら、ヨシュアは、イスラエルの民が進むべき道を示しています。まず、イスラエルの民を安住の地に招き入れたのは神であり、神がイスラエルの民のために戦い、カナンの地に入ることを可能にしたのだ、と語っています。大切なのは、今あるのは神の約束の実現である、ということです。既に、申命記には次のように述べられています。「もしあなたがたが、私の命じるこのすべての命令を確かに守り行い、あなたがたの神、主を愛して主のすべての道に歩み、主にすがるなら、主はこれらの国々をことごとくあなたがたの前から追い払い、あなたがたは、自分たちよりも大きくて強い国々を占領することができる(申命記11:22、23)」確かに神は、約束した通りに、イスラエルの民よりも大きくて強い国々を追い払い、イスラエルの民に、その地を継がせたのです。神のなさることは真実である、と言うべきでしょう。
2.働きを完成させる 
この神の真実さを受け止めながら、ヨシュアは、さらなるチャレンジを与えています。「あなたがたの神、主があなたがたに告げたように、彼らの地を占領しなさい」(5節)まだ、あなたがたには残された戦いがある、というわけです。神が与えられようとしているものを、完全に自分たちのものとしなさい、というのです。
 それは、私たちの救いにおいても言えることでしょう。「救われた」などと過去形で言うものの、実際には、救いの第一歩を踏み出したに過ぎません。救いは完成されなくてはならないのです。私たちは、罪の深みの中から救い出されたことに間違いはありませんが、心底深く蝕んだ罪は、何かの折に再燃しうる燃える火種のように残っているのであって、私たちを取り囲む誘惑や試練も、変わらないままです。「あなたがたは自分自身に十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい」(11節)とあるように、十分に気をつけて自分の救いを達成することです。また何かの働きも同じです。神は、私たちに完成品を与えられることはなく、完成すべき働きを与えられるのです。
3.主にすがる
では、そのような自分の救いや働きの完成のためには、何を心がけたらよいのでしょうか。8節がその秘訣を語っています。「ただ、今日までしてきたように、あなたがたの神、主にすがりなさい」難しく考えることはありません。これまでしてきたとおり、主にすがることです。主に信頼し、主の業がなされるように、意を注ぐことです。そのようにして「大きくて強い異邦の民」(9節)を追い払うことができるのです。ヨシュアは、「あなたがたの前に立ちはだかることのできる者は、一人としていなかった」「一人で千人を追うことができる」(10節)と言います。
逆に、神を忘れ、神から離れ、追い払うべき異教の民と妥協するなら、それが「罠となり、落とし穴となり、あなたがたの脇腹にむちとなり、目にとげとなり、主がお与えになったこの良い地から滅び失せることになる」(13節)と警告されます。私たちにとって益になるはずのものが、そうではないものに変化する、と言うわけです。
詐欺師は詐欺師と見破られないからこそ詐欺師であると言われるように、サタンも、人をあからさまに誘惑することはありません。エバを罪に誘い込んだ蛇も、ヘブル語では光るもの。つまり魅力的なものとして現れたのであり、まんまと騙されてしまったわけです。ですから、神ではないものを容易に神とする自分の弱さ、愚かさに十分気をつけて、一宿一飯の恩義ではありませんが、神に助けていただいた思いは大事にしたいところでしょう。ヨシュアも、イスラエルの民も神の約束は真実である、と身を持って知ったのですが、それをしっかり心に刻み込んで恩義を忘れずに歩む者とそうでない者がいるのです。主の恩義を忘れない者でありましょう。では今日もよき一日であるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ルベン族、ガド族、マナセの半部族が祭壇を築き、これが問題になった時に、イスラエルの十部族から、派遣され、事態を収拾した祭司は、誰でしょうか。答えはエルアザルの子ピネハス(ヨシュア22:12)ピネハスは、モーセの時代、ミデヤンの娘たちによって引き起こされた偶像崇拝の問題を解決(民数記25章)、士師の時代においても神のみこころを示し、戦いを指揮する中心的な役割を果たしました(士師記20:28)。では、今日の聖書クイズを一つ、神が、ヨシュア記で実現したと言っている神の約束は、どこに書かれているものでしょうか?では、今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨシュア記22章 これは神が主であることの証だ

2022年04月23日 07時11分06秒 | ヨシュア記
ヨシュア記22章 東側の民の記念碑
 約束の地を取り戻す、イスラエルの戦いが終わりました。神の約束も果たされました。そしてルベン族、ガド族、マナセの半部族もまた、初めに交わした約束を果たすことができました。彼らは、自分たちの土地、ヨルダン川の向こうに戻っていくのです。
1.自己中心性を乗り越える
 この世に、他人の苦労を背負ってくれる人など、いないものでしょう。そのような意味で、彼らは、自分たちの安住の地を、ヨルダン川を渡る以前に手に入れながら、他の部族の戦いを共に戦う約束を守ったのですから、奇特な心がけを成し遂げたと言わなくてはなりません。それは、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったイエス・キリストを思い起こさせるような働きです。しかしこれぞ、神の民の特色でもあるのでしょう。普通、人は余計な苦労は背負いたくないと思うものでしょうし、それが人間の自然な姿なのだ、とも言えます。けれども、神の民の特色は、罪人の性質である自己中心性を乗り越えていくことに他なりません。損得を考えて物事を進めていく世の中にあって、しばしば損をするような役回りも引き受けていけるようになることでしょう。イエスの弟子となるというのは、そのようなことを抜きには考えられないのです。
2.真実をクールに語る
 ところで、彼らは、ヨルダン川の向こうに戻っていくと、そこで、新しい祭壇を築きました。それは、他の部族には、異なったいけにえを献げるための、神に対する反逆とみなされました。そして彼らがまさに攻撃を受けようとしたその時、彼らは、それがいけにえを献げるための祭壇ではなく、自分たちの歴史の確認としての、また証拠としての祭壇であることを説明し、受け入れられていくのです。つまりヨルダン川の東側は、果たしてイスラエルの一部なのか、わからない時代が来るようなことがあってはいけないということでした。その説明は、イスラエルの地にただ一つの祭壇のみを求める他の民族の理解を得るところとなりました。
 大切なのは、衝突が回避されていく際の双方の態度です。レビ、ガド、マナセの半部族を誤解し、攻め滅ぼそうと憤った他の部族には、感情的になりながらも、相手の弁明に耳を傾けようとする心がありました。よくありがちなのは、相手のことばに一切耳を貸さず、ただ一方的に敵対心をエスカレートさせ攻撃を強めてしまうことでしょう。また、問題の当事者に聞くのではなく、また聞きや噂で行動してしまうことです。そして、感情的に害してしまうと、もはや理性を利かせられなくなることです。
しかし、神の民はそうではないし、クリスチャンになり神の子とされたのならば、この事例を範とする心を持ちたいものです。そして、一方的に聞かされた話を鵜呑みにせず、直接確認し、問題があればその解決の糸口を見出していく、物事をよきに動かしていく、それが、真の神の民の証拠でもあります。
神の民、いわゆるクリスチャンと言っても様々です。クリスチャンと呼ばれる人が皆、良い心がけを持っているとは限りません。指導的な立場に立っている人であれ、付き合ってみれば心は俗人、クリスチャンとは名ばかりということもあるでしょう。では名ばかりと思うのはどういうところかと言えば、このような所、つまり、あるいはと耳を傾け、物事をよき方向に向ける心がけを持った人であるかどうか、誰が見ても損な役回りを引き受け、物事をしっかり支え、人が投げ出すような仕事をしっかりやりぬく人であるかどうかではないでしょうか。そしてなぜ、クリスチャンがそのようなことができるのかと言えば、その人の心の根本に主の臨在が明確であり、「主にすがる」という価値観が深く養われているからでなのでしょう(5節)。徹底して、私たちの働きは人間の力によるものではない。人間は、迷い易い者であり、弱い者であり、愚かな者である。ただ主にすがり、生きるところに人間が物事を正しく進めていく力があるし、神の助けもあるという確信に生きているからです。天来の恵みを豊かに感じて生きていればこそです。では、今日も天来の恵みを豊かに感じるよき一日であるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。レビ人は、全部でいくつの町を与えられたでしょうか?①12、②24、③48。答えは、③48でした(ヨシュア21:41)。では、今日の聖書クイズを一つ、ルベン族、ガド族、マナセの半部族が祭壇を築き、これが問題になった時に、イスラエルの十部族から、派遣され、事態を収拾した祭司は、誰でしょうか。では今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨシュア記20章  彼に場所を与える

2022年04月22日 06時51分44秒 | ヨシュア記
ヨシュア記20章 逃れの町
1.逃れの町:疑わしきは罰せず
カナン占領後の領土分配についての記載は、19章で終了です。20-21章は、この約束の地の一部に特別な場所を設ける、つまり「逃れの町」について指定するものです。これはすでに民数記35:9-15や、申命記4:41-43、19:1-10にも述べられていますが、ここで具体的にヨルダン川の東側に3つ、西側に3つが指定されました(7、8節)。
その目的は、意図せずに、誤って人を打ち殺してしまった場合、殺人者がそこに逃げ込むことができるように、するためでした。つまり不用意な敵討ちから、殺人者を守るため、疑わしきは罰せずというわけです。彼は公正な裁きを受ける必要があったのです。
2.大祭司が死ぬまで
 興味深いのは、彼は大祭司が死ぬまでその町に住むことが許されたことです。疑わしきは罰せずといえども、疑いが残ることはあるものでしょう。しかし、人は、事実関係をもって公正に取り扱われなくてはならないのであり、大祭司は自らの裁決に最期まで責任を持つということでしょう。
 となれば、この箇所を、イエス・キリストの予表と受け止めて読むならば、ここは、大いなる助けであり、また、支えです。というのも、人は皆、イエス・キリストに、罪の赦しの宣告を受けて、神の御国、いわば逃れの町に住むことが許されます。しかし、その罪の赦しは、その人の罪を大目に見るというものではなく、ただ、神のあわれみによる情状酌量的なものです。けれども、果たして神は、それをどこまで有効とされるのか。ここに、大祭司が死ぬまで、という原則を適用するとしたら、私たちの罪の赦しを宣告するのは、キリストですから、キリストが死ぬまでです。しかもキリストは神であり、永遠に死ぬことがないのですから、それは、永遠に有効だ、ということになるでしょう。こうしてキリストの十字架にある罪の赦しは、永遠のもの、決して取り去られることのないもの、と確信を持つこともできるのです。
3.永遠の逃れの町
 今日、キリスト教会にはキリストによって定められた聖餐式というものがあります。それは、パンとぶどう酒を分かち合う、大切な礼典ですが、そこで私たちが教えられているのは、「主が来られるまで、主の死を告げ知らせる(1コリント11:25)」ことです。つまり、復活の主が再臨される、再びこの地上に戻ってこられるという信仰がキリスト者にはありますが、その時まで、主の死、主の十字架の犠牲によってすべての人は救いに定められていることを告げ知らせる、ことです。ですから、聖餐式を受けるたびに、自分の罪の赦しは完全であり、また、それが自分だけではない、自分の隣人の全ての人に適用されうるものであることを覚え、祈ることが大切になります。
 人は歳をとればとる程に、自分の不完全さや自分が罪深い者であることがわかるものでしょう。そこで良心を咎められることがあっても、聖餐を受けるたびに、そのような自分を神が哀れみ、この世においては、見捨てることなく最期までともに歩んでくださり、あの世においては、永遠の御国に住まわせてくださることを覚えるわけです。それは、決して取り去られることのない永遠の祝福としてある。この恵みを自分だけのものとしていてはならないのでしょう。故意の罪は赦されないけれども、過失は赦される。これは聖書の大原則です。けれども事はそれほど単純ではありません。故意か過失かわからない、まぜこぜの罪意識に駆られる人生というものはあるものでしょう。過ち多き人間に、神が用意される、永遠の逃れの場所、それがイエス・キリストです。素直にイエス・キリストのもとに駆け込み、イエス・キリストに守られた人生を歩みたいものです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。約束の地において、レビ族と同じように割り当ての地を持たず、ユダ部族の所有地に散らされた部族は何部族でしょうか?答えはシメオンでした。では、今日の聖書クイズを一つ、次の部族の内、逃れの町をその割り当ての地に持たなかった部族はどれでしょうか?①ユダ族、②ガド族、③ダン族、では今日もよき一日となるように祈ります。

*二子玉川聖書学院聖書通信講座開講中、旧約概論や新約概論と本ブログを合わせて学ぶことで、聖書を体系的に全体的に理解できるようになります。偏りのないしっかりとした信仰を持ってまいりましょう!➡詳しくはこちら

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