人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生5(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読は、モノの見方を変え、イエスと共に前に進む気を起こさせてくれます。ご一緒にしませんか?

創世記50章

2021年11月15日 06時58分56秒 | 創世記
創世記50章  ヤコブの死とヨセフの死
1.ヤコブの葬儀(50:1-14)
ヤコブは、天に召されました。ヨセフがヤコブをミイラにしています。この時、ヨセフが、専門家を呼ばずに医者を呼んだのは、ミイラ化にともなう宗教的・呪術的儀式を避けるためであったと考えられています。立場上ヨセフは、エジプトの慣例を無視することはできなかったでしょう。しかしそれは、死者崇拝と結びついたミイラ化の儀式において、その実用的な部分のみを受け入れたヨセフの信仰の在り方を物語っているようです。
10節、ヨルダンの向こうの地、とあります。ヤコブの葬儀が行われた「ゴレン・ハ・アダデ」が具体的にどこであるかはわかっていません。またエジプトからカナンに至る通常のルートは海沿いの道ですが、どうやらわざわざ死海を迂回して北東からカナンに至る遠回りをしてカナンに入り、マクペラの畑地の洞穴に辿り着ています。なぜそんなことをしたのか、理由はよくわかっていませんが、このルートは、後にエジプトを脱出したイスラエル人たちが、約束の地カナンへと戻っていった際に、辿ったものです。ともあれこうしてヤコブは約束の地に葬られました。
2.兄弟との和解(50:15-21)
さてヤコブの死後、ヨセフの兄弟たちが陰で相談を始めました。彼らは、ヨセフを信用せず、その仕返しを恐れていたのです。しかし、ヨセフは語りかけます。「恐れることはありません。あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました」(20節)。もはやヨセフの心の傷は、完全に癒されていました。兄弟たちが恐れた復讐心など、ヨセフには微塵もなかったのです。むしろ問題は、悪を図った兄たちでした。彼らは、自分たちの過去の記憶に責められ、その矛先を相手に向けているのです。罪人の心理がよく表されているところです。本来は、自分の問題なのに、相手に問題があるかのように考えてしまう。けれども救われた罪人はそうではありません。救われた罪人は、神の守りと助けを信じます。神が正しいことをなさり(19節、ローマ12:19)、さらには良き結果に転じてくださると信じます(20節、45:5)。ですからたとえ悪事を身に受けることがあっても、すべては神のみ許しの中で生じていることであると考え、物事に動じることもなく、静かにその成り行きを見定めていくこともできるのです。神のご配慮と悪を善に変える神の力を覚えればこそ、悪に対して赦しと愛情をもって報いることもできます(21節、ルカ6:27)。実際「私は、あなたがたも、あなた方の子どもたちも養いましょう」と語るヨセフには、兄弟たちに対する心からの愛が溢れていました。
さて、創世記を読み終わりました。創世記は旧約聖書の本質的なメッセージをよく描いています。それは後の旧約の預言者たちにも語られていく内容、と言ったら意外でしょうか。アブラハム以降、イサク、ヤコブ、そしてヨセフと族長たちの人生を追いかけながら、それぞれ三様の人生を歩まされていることを思います。
 イサクにとって父アブラハムの存在は大きいものでした。優れた信仰者アブラハム、その親の七光りのもと、彼は、素直にその恩恵を受けながら生きた人です。イエスの十字架の恵みにあやかってその祝福を受ける私たちも同じようなものです。
 ヤコブは、家族間のトラブルで、家を追い出され、いばらの人生を歩まされた人です。しかも、お人よしで世間知らず、そのために叔父のラバンにいいだけ利用された人です。そして彼自身小心者でした。けれども神はヤコブをそのような人では終わらせないのです。神に勝った者、イスラエルと神は彼を呼びました。ヨセフは、転落に継ぐ転落の人生の後、その心の傷を癒される人生へと導かれています。ヤコブもヨセフも全く想像もしない人生を走り抜けたと言えるでしょう。
ともあれ三人の人生は、それぞれ全く異なっていながら、いずれも神の最善に与った人生です。人生の一部を切り取れば、しばしばそれは最善とは思われない出来事もありました。そして終わりよければすべてよし、と締めくくられるようなものでした。神に手を引かれるままに、また与えられたものを素直に喜んで生きていく、さらに神が与えられる人生の多様さを認め、自分の人生の計り知れぬ可能性と祝福を信じ、従っていくところに人の幸せがあります。しかし、私たちのなすことは逆で、自分の頭で考えられる最善に自分たちの幸せがあると思うものでしょう。だから自分の考えから物事がずれて行くと、不安になるし、神などいないとすら思ってしまうものです。けれども、たとえ人に悪をはかられる人生であれ、神はそのはからいをよいことのための計らいと変え、私たちへの最善を成し遂げてくださいます。いつでも希望を抱き、人を恐れず、神を恐れて歩みたいものです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。「ベニヤミン族から出た王様の名前は何というでしょうか。」答えはイスラエルの最初の王サウルでした。(1サムエル9:1)では、今日の聖書クイズを一つ。アブラハムが購入した畑地は、マクペラ、ではヤコブが購入した畑地はどこであったでしょうか?答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

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創世記49章

2021年11月14日 07時04分39秒 | 創世記
1.子供たちへのことば(49:1-21)
ヤコブは、その波乱万丈に富んだ人生を閉じようとしていました。最期に、息子たちを呼び寄せて、遺言とも言うべきことばを託すのです。しかも、一人ひとりについて。ヤコブの親としての思いの高さを思わされるところです。1節「集まりなさい。私は終わりの日に、あなた方に起こることを告げよう」とあるように、これは一種の預言です。もちろん、「終わりの日」は、終末的な意味ではなく、「後の日」とも訳されるように、彼らが約束の地カナンに戻った時のことを想定していると思われます。では、その預言的なことばを見てみますが、まず、ルベン。彼は長子ですが、長子の威厳を保つことができないと言います。というのも、彼は力はあっても、水のように奔放で、つまり自制心を欠いていたからです。後の士師の時代、ルベン族は、リーダーシップを欠く優柔不断さを責められています(士師5:15,16)。シメオンとレビは、シェケムの印象を語るのでしょう。ひとまとめに彼らの集いに連なるな、と言います(6節)。神の裁きと、人間的な恨みと復讐は違うもので、人の罪には関わらないことです。彼らは、ヤコブが預言したとおり、後の時代に散らされています。シメオン族は、ユダ族の中に組み入れられ(ヨシュア19:1-9)レビ族も土地を相続することはありませんでした(ヨシュア18:7)。しかし、神は、つけ離して物事を終わらせるような方ではありません、レビ族の相続地は、目に見える土地ではなく主の祭司として仕えることとなり、そこに神の恵みもあったのです。
ユダは獅子の子とたとえられています。それは、黙示録5:5にあるイエスの戦士的なイメージを思い起こさせます。事実10節、「王権はユダを離れず」は、後のイスラエル部族での主導権を示唆しています。「シロ」の意味は不明です。このヘブル語を「シェロー」と読み替えて、「彼に属するものが来るまで(ユダが受け継ぐものがすべて明らかになるまで)」と、ここにダビデあるいはイエスの到来が預言されていると伝統的に理解されてきた箇所です。アブラハム、イサク、ヤコブに継承された、霊的な祝福、つまり「神の言葉の祝福」は、ユダに受け継がれるものでした。11節の、ぶどう酒がまるで水のように、またぶどうの木が家畜をつなぐ杭にされるイメージは、ユダのリーダーシップのもと、霊的に豊かな時代が到来することを物語っています。13節「ゼブルンは海辺に」とあります。しかし、地図で確認すると、ゼブルンの割り当て地は、海岸に接するところにはありません(士師5:17)。また「その境界はシドンにまで至る」とありますがシドンにも近くはありませんでした。ただ、こうしたヤコブの預言が、後に、イスラエルがカナンの地を征服した時の大まかなパレスチナの土地分配の基礎となったことは確かなことでした。
16節、ダンもそのようにしてモーセの時代土地の分配を受けたのですが、その後、ダンの名は、新約聖書の黙示録7:5-8にあるイスラエル民族の構成のリストからは消えています。旧約聖書と新約聖書では、イスラエル12部族の構成は変化しているのです。ダンは神の裁きを行う部族とされながらも、いつの間にか歴史の舞台から消えていきます。それは、後に士師記18章で読むように、ダンが偶像崇拝を行う部族であったことと関係があるのかもしれません。預言されたことを自らのことと受け止めて生きるか、そうでないかの違い、がこうした結果を生んだようにも思わされます。
2.ヨセフへのことば(49:22-27)
22節、ヨセフは、「イスラエルの岩である牧者が出る」とまるでメシヤがその子孫から起こるかのように語られています。実際には、そのようにはなりませんでした。しかし、ヨセフの生涯は、メシヤの生涯を象徴しています。ヨセフは兄弟たちに憎まれ、銀20枚で売られています。また奴隷から囚人へ、社会の底辺に下りましたが、やがて大臣として高く挙げられています。それらは、皆、イエスの公生涯と十字架の苦難、そして復活と、神の右の座につく栄光を物語るものです。
考えてみれば、ヨセフは、大臣になるべく教育を受けた人物ではありません。しかし神がご自身のご計画に基づいてヨセフを大臣として抜擢されて用いられたのです。人は努力したとしても、幸せになれないことはあるものです。けれども、神によって思いがけない機会が与えられて幸せになることもありますまさに「全能者による祝福」というものがあるのです。大切なのことは、人生において神による祝福があることを覚えて神に味方となっていただくことです。今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。「イスラエルが約束の地カナンに入植した後、士師と呼ばれる人々によって統治される時代が来ますが、その時現れたマナセ族出身の士師は誰でしょうか。答えはギデオンでした(士師6:35)では、今日の聖書クイズを一つ、ベニヤミン族から出た王様の名前は何というでしょうか。答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

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創世記48章

2021年11月13日 07時02分30秒 | 創世記
●48章ヤコブの遺言
1.病気になったヤコブ(48:1-7)
ヤコブは、エジプトで時を過ごしますが、病気となり、天の神のもとに帰る時を迎えました。彼は力を振り絞って床の上に座り、語ります。全能の神はカナンの地ルズで私に現れ、私を祝福して仰せられた」(4節)と。ヤコブは「全能の神」との出会いを思い起こすのです。すべてはそこから始まりました。そしてその神は「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」(15節)です。しばしばヤコブは困難な人生を強いられました。しかしその時々に、ヤコブは神の守りと助けを得てきました。神は羊飼いとして、また全能の神として、ヤコブと共にあったのです。しかしそこには、4節、約束の地を永遠の所有とする目的がありました。彼らはエジプトから約束の地カナンに戻らねばなりませんでしたが、このことばが実際に、生きてくるのは、ずっと後の時代のことです。
ともあれ、5節、ヤコブはヨセフの子マナセとエフライムを自分の子に数えようとしています。後に、ヤコブの子孫が、イスラエルの民となり、約束の地カナンに戻ってきて、土地を分割した際には、マナセとエフライムがヤコブの子の子孫12の部族に加えられ、数えられているのは、この理由によるのでしょう。
2.ヤコブの祝福(48:4-22)
さてヤコブは、見舞いに来た、ヨセフの家族、ことに二人の息子に気づいて、彼らを祝福しました。その祝福の祈りは、どうも、ヤコブが父イサクから受けた、長子が受ける、神の祝福のことばを意識したものなのでしょう。しかし、祈っていることは、自分が祖父アブラハム、イサクの正統なラインに加えられることです。そして、マナセとエフライムがその継承者であり、ことにエフライムが祝福されることです(16節、20節)。ヤコブは、手を交差させ、弟のエフライムにその祝福が受け継がれることを期待しました。
後に、エフライム族から、イスラエル北王国の最初の王ヤロブアム1世が現れ(1列王11:26)、やがて北王国イスラエルはエフライムとすら呼ばれるようになりました(イザヤ7:2等)。実際、エフライムはパレスチナの中央部に位置し、礼拝の中心地シロ、ベテルや(1列王12:32)、北王国イスラエルの首都シェケムがありました(エレミヤ31:18)。
確かに、ヤコブの祈った通りに、神の祝福はあったというべきでしょう。何の益もない祈りというものはないのです。けれども、神のご計画は、必ずしもヤコブが考えていたとおりではありませんでした。
22節、ヤコブは、ヨセフにシェケムの地を与えようと語ります。ヤコブは、シェケムを「剣と弓で」得たという言い方をしますが、実際には、お金を払って買い取った土地です。つまり、正当な手段で、彼がパレスチナに得た唯一の土地でした。エジプトの大臣となり、エジプトで最もよい地、ゴシェンの地にあったヨセフにとって、シェケムなど二束三文の土地であったはずです。ヨセフは父のことばをどう受け止めたのかと思います。ヤコブにとってそこは思い入れのある「先祖の地」であっても、ヨセフにとっては幼少期を過ごした思い出の地でしかなかったと思われます。そしてそれは、心に留めはしても、聞き流す類のことばであったのではないでしょうか。けれども、このような親子の会話とは別に、神の計画は、シェケムどころか、ヤコブの子孫がパレスチナ全土を支配することにありました。この時はまだ、誰もそのようなスケールのでかい神の計画など考えもしなかったと思います。
つまり、これから聖書が記録することは、ヤコブが思い描いたようなものではありませんでした。ヤコブは神のみこころを思い、神のみこころに生きているつもりでしたが、神のみこころは、ヤコブの思いをはるかに超えたものとして進められていたのです。それは、私たちについても言えることでしょう。人に神のみこころは知り尽くしがたいものがあります。ある意味で、いかに謙虚に、神のみこころを考え抜かねばならぬかを教えられるところです。そして同時に、信仰をもって子を祝福することも教えられるところです。子どもを見れば色々と足りないところだらけで、気を揉むことも多々あるでしょう。しかし親が子にしてあげられることは、愛情を注ぐことであり、祝福することをおいてほかにありません。現実ばかり見るのではなく、子の将来に主の確かな祝福があることを覚えて祈り続ける、そして「分かっている、わが子よ。私にはわかっている。しかし、その子孫は国々に満ちるほどになるであろう」と大胆に子の祝福を祈るものでありたいところです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。「聖書の歴史の中で、牧畜が本格的になったのは、誰の時代からでしょうか?」答えは、ヤバル(創世記4:20)でした。家畜を飼う習慣は人類の歴史のごく初期からあったと思われますが(創世記1:24、4:2)、牧畜が本格的になったのはヤバルの頃からです。では、今日の聖書クイズを一つ、イスラエルが約束の地カナンに入植した後、士師と呼ばれる人々によって統治される時代が来ますが、その時現れたマナセ族出身の士師は誰でしょうか。答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

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創世記47章

2021年11月12日 06時59分04秒 | 創世記
創世記47章ヨセフの政策
1.ヤコブの人生の総括(47:1-12) 
エジプトに来たヤコブは、ファラオと会見しました。ヤコブは、ファラオの質問に答えて自分の人生を「いろいろなわざわいがあり」(9節)とまとめています。確かに、ヤコブの人生を振り返ってみれば様々なことがありました。兄エサウを騙して、家を追い出されたところから始まり(27章)、ラバンに騙されて20年も安くこき使われ、不条理な人生を歩まされ(29-31章)、自分が望みもしない4人の妻の争いに巻き込まれ(30章)、息子、娘たちの浅はかな行動のために、自分が住み着こうと買い取ったシェケムの地を追われ(34章)、心のよりどころであった妻ラケルを失い(35章)、その妻の形見であり、誰よりも大切にしたかったヨセフを、レアの息子たちに奴隷として売り飛ばされ(37章)、終いには、最愛の妻ラケルの最期の形見、ベニヤミンさえ奪われそうになったのです(42章)。ヤコブの人生は、「いろいろなわざわいがあり」とその記憶に圧倒されそうなものであったことでしょう。しかし、ヤコブは、そのような人生を神とともに生き延びて来たのです。
 家を追い出されたヤコブは、それを機に、共におられる神を知り、べテルに祭壇を築いています(28章)。ラバンに散々利用された20年の後、ヤコブは、「神は私の苦しみとこの手の労苦を顧みられ、昨夜さばきをなさったのです」(31:42)と神がその苦難から解放されたことを認めています。またシェケムの殺戮でカナン人とペリジ人の憎まれ者になり、存在が危くされた時には、神が、恐怖を町々に下して守ってくださったことを理解しています。ヤコブは様々な苦難の局面で、神の助けと守りがあったことを認識しているのです。ですから、最愛の妻ラケルが死に臨んだ際に、ラケルが生まれてくるわが子を「ベン・オニ(悲しみの子)」と呼んでも、ヤコブは、その名を「ベニヤミン(我が右手の子)」と積極的に読み替えて、乗り越えています。そして、ベニヤミンがエジプトへ連れていかれる時も、「全能の神」(43:14節)にすべてを委ねる姿勢を見せているのです。
自らの人生を振り返って「いろいろなわざわいがあり」と思わざるを得ないことがあるものでしょう。楽しいことは何もなかったとすら思えるような人生があるかもしれません。しかし、神を知る人生がいつも幸せと言いうるものであるとは限らないものです。キリスト者の人生は綺麗ごとではないのです。しかし、神と共にその苦難を乗り越えることができることもまた真実です。ヤコブの生涯はそのことを明確に語っています。様々な破れや痛みがある厳しい現実の中で生き抜いていかなければならぬ人間に、ご自身の「祝福のことば」が確かであることを示し、最期まで望みを捨てないように、と励まし、寄り添い、支えてくださる神がおられることを覚える、それが大切なのです。それは、まさに、イザヤが「ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(43:1-2)と語ることを、真実であると受け止めるようなものです。こうして読んでみると、創世記は、実に神の祝福のことばに生きる人生が何であるか、その本質を語る、感動的な書であると思わされるところです。
2.ヨセフの飢饉への対応(47:13-31)
さて、ヨセフの活躍が描かれています。この記録は、ヤコブにとって、それは、「いろいろなわざわいがあった」人生を忘れさせてくれるような、息子ヨセフの働きを語っています。しかし政策的関心から読んでみれば、ヨセフの活躍は、単に飢饉から人々を救うという対処療法的な働きを超えたものであると教えられます。つまり、彼は、食糧と引き換えに土地を買い取り、税制度を導入し(25節)、エジプトの将来を築く国の構造改革を成し遂げているのです。20%の税率は極めて高いと思われますが、40~60%にさえ達し得る古代社会の税率に比較すると、十分民衆に配慮したものである、と言われます。こうしてヒクソス王朝以降、エジプトでは土地その他の財産の集中的な国有化が進んだことも知られています。ともあれヨセフは、17節、人々に難局を乗り切らせました。
ヨセフが、大所高所で物事を見、将来につながる政策を成し遂げられたのも、天地万物を支配し、保持する神を知ればこそでしょう。物事を行き詰まりではなく、プロセス、移り変わりとしてとらえて行く。つまり変革の機会であるとみなして、新しい転換を求めて行く。神を信じているのであるならば、そのようなしたたかさを持って生きたいものです。難局を乗り越えさせてくださる神を覚え、ただその場しのぎで生きる以上の歩みをさせていただきたいものです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。「エジプトでイスラエル人が住んだ土地、ゴシェンの地は、別名何と呼ばれているでしょうか?」答えは、ラメセスの地でした(47:11)。では、今日の聖書クイズを一つ、聖書の歴史の中で、牧畜が本格的になったのは、誰の時代からでしょうか?答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

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創世記46章

2021年11月11日 07時00分11秒 | 創世記
46章父ヤコブとの再会
1.出発するヤコブ(46:1-27) 
ヤコブは、ヨセフが送ってくれた車を見て元気づいたとあります。「息子のヨセフがまだ生きているとは、私は死ぬ前に彼に会いに行こう」ヤコブはエジプトに向けて出発しました。総勢70名の大移動でした。彼らは、ベエル・シェバまでやって来ると、そこで神にいけにえを献げました。ベエル・シェバは、ヘブロンからエジプトに通じる南方面への道と、アラバから地中海に至る北西方面への道との合流点にある町です。今日は荒涼とした土地で史跡あるのみですが、かつては、アブラハムが居を構え、イサクが自分の根城としたところです。そこでヤコブは、「父イサクの神にいけにえを献げ」ました。つまり彼は、先祖からの地境を動かすことになるかもしれないこの旅について神の許可を求めようとしたのです。しかし神は、ヤコブに約束されました。「このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ戻る(4節)」。地境が動かされることはないし、神がエジプトに共に下ってくださるというのです。要するに、神は留守も預かられるし、それに伴う旅も守られる。神の守りは私たちの人生に関わる全てに及ぶというべきでしょう。
2.ヨセフとの再会(46:28-34)
こうして神と共にエジプトに下ったヤコブがヨセフと再会しました。ヨセフは父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けたとあります。実に、長い間隙を埋める涙であったことでしょう。他方父のヤコブは、ヨセフを抱きながら、神がヨセフに何をし、また自分に何をしてくれたのかを深く思わされていたはずです。
かつてヤコブは、11人の息子の誰よりもヨセフを愛し、ヨセフを特別扱いしました。しかし、この時ヤコブは、人間にできることなど、神がなさることには全く及ばない、と思わされたことでしょう。というのも、ヤコブがヨセフに着せたものは「長子の長服」でしたが、神がなさったことは、ファラオの指輪、亜麻布の衣服と金の首飾り、つまり「エジプトの大臣」の装束にヨセフを飾ることでした。ヤコブは、輝かしい装束に身を固めたわが子を抱きながら、父親が子にしてやれることなど、大したことではない、自分は神に勝ったイスラエルなどと言われたが、やはり神は偉大だ、としみじみと感じたことでしょう。
またヤコブは、神が子を取られたのではなく、子を先に遣わしたこと、ヤコブの家族を憐れんで、ヤコブの家族を健康的に支えられたことを深く諭されたはずです。小さな家族コミュニティの中で、偏見と偏愛に満ちた人生を免れることができた。その意義は大きかったはずです。
子は、神からの授かりものであると言われます。ですから親の所有物のように扱うことをせず、あくまでも神に授かったものとして、神のご計画に沿って育てていくものです。神は、この子にどのような計画を持っておられるのか、神のご計画が実現するために、私はこの子にどのように関り、育てたらよいのか、考え抜きながら、子どもと共に人生を歩む、それが神を恐れる者の子育て論でしょう。
ともあれエジプトに着いたヤコブたちは、ゴシェンの地に住むことになりました。そこはラメセスの地とも言われており(創世記47:11)、正確な位置はいまだに不明です。しかし、神のこのような措置が、外国にあって、イスラエル民族の共同体を作り、イスラエル人のアイデンティティを守ることになるのです。実際、エジプト人は外国人を蔑視する傾向にありましたし、このような特別居住区が作られることで、雑婚によるエジプト人との同化も防がれました。さらに、宗教的にもエジプトの偶像崇拝から守られました。そして、イスラエルは外敵の脅威にさらされることもなく、エジプトの地で増え広がることになるのです。神のなさる最善は、私たちの小手先の最善に遥かに勝るものです。今日も私たちの思いを超えた神の最善に期待し、希望を持って歩ませていただきましょう。では今日もよき一日となるように祈ります。
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。「ヨセフはヤコブの何番目の子どもだったでしょうか?」答えは11番目の子でした。では、今日の聖書クイズを一つ、エジプトでイスラエル人が住んだ土地、ゴシェンの地は、別名何と呼ばれているでしょうか?答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

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