人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生5(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読は、モノの見方を変え、イエスと共に前に進む気を起こさせてくれます。ご一緒にしませんか?

ユダの手紙

2021年09月04日 06時57分56秒 | 一般書簡
●ユダの手紙
1.信仰の問題を見極める(1:1-17)
教会には、信仰を伝える努力と同時に、信仰の純粋さを守る努力が必要です。つまり指導者は、これは正しいこと、これは間違っていること、とはっきり語ることもあるわけです。ただ、日本人は、和を重んじますから、どんな信仰でもよいじゃないか、物事を信じることは大切なことだよ、と考え、これが正しい信仰などという言い方は、批判や悪口にしか聞こえないこともあるものでしょう。けれども、信仰というのは、心のあり様というよりは、何を信じるか、つまり信仰の対象を明確にするところがあるのです。漠然と何かを信じていればよいというのではなく、これこれのものを私は信じる、というポジションを定めるものなのです。ですから、これは違うし、本当は、こうというのは、どうしてもあるものでしょう。 
ユダがこの手紙を書き送った教会も、そのような意味で、その信仰を正されなくてはなりませんでした。彼らは、4節にあるように、密かに忍び込んできた偽教師の影響を受けていました。どういう問題があったのか、「神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定している」と言います。まず、キリスト教は恵みの宗教、赦しの宗教です。イエスが私たちの身代わりとなって、十字架で死んでくださったことにより、私たちの罪は赦され、神に愛される者となった。私たちは救われた。そこで救われたなら後はどうでもよい人生を歩んでもよいとはなりません。救われた者は、救われた者らしく新しい人生を生きる、これが正しい考え方ですが、偽教師はそうではなかったわけです。恵みを放縦と取り違えている、古い人生の延長をよしとするかのようなことを教えたというわけです。そのようにして彼らはイエスの十字架での尊い命の犠牲を踏みにじりました。結局、イエスを十字架にある罪の赦しを無駄にする者たち、イエスが救い主であることを否定する者たちだったのです。神はこのような指導者を放っておかれることはありません。必ず裁きを付けられる、と言います。
2.信仰の純粋性を保つ(1:18-25)
そしてユダは、そのようにおかしげな信仰が蔓延る問題が、教会には起こりうることを指摘した後で、どのように、純粋な信仰を保っていったらよいのか語ります。
第一に、そのような、不敬虔な欲望のままに振舞う、間違った信仰というのは、当然起こりうるのだ、と心得ようと言います(17-19節)。キリスト者と言えども、その中身は色々です。口先ばっかりで、どうもおかし気な信仰者だなと思わされる人というのはいるものです。ちゃんと識別の目を働かせて、本物の信仰に生きている人というものを見分けなさいと言います。
そして第二に自分の信仰をしっかり育てることです(20,21)。信仰をもって終わりではありません。信仰は磨きに磨きをかけるべきものでしょう。他人と比べてどれほど立派に生きているか、というのではなく、1年前の自分と比べて、今どれほど信仰が進んだかです。
第三に、自分のことだけではない、他人のことも考えられるようになることです(22、23)。信仰的になかなか成長しきれないで悩んでいる人々の助けとなることです。自分のことを棚に上げて、人におせっかいを出すというのではなくて、本当に、自然な、必要な助けが出来るようになるというのは、信仰の成長のしるしというべきですね。大事なことは、信仰の精進というのは、私たちの努力だけによるものではない、ということです。神のあわれみ、神の恵みによるものです。神は、私たちが何度失敗しても、逸脱しても、見捨てず見放さないお方ですが、その恵みの機会を放縦とせず、信仰を成長させる機会、品性を向上させる機会とすることです。では、今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「ヨハネは愛を大事にし、愛を語る人のようですが、本当は、どのようなあだ名で呼ばれていたでしょうか?」答えはボアネルゲ(雷の子)でした。ヨハネは短気で怒りやすい人でしたが、愛を語り、愛を大事にし、愛に生きる人に変えられたのです。では、今日の聖書クイズを一つ。ユダの手紙で、聖書以外の書物からの引用があると言われているのは、どの箇所でしょうか?2か所あります。答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨハネの手紙第三

2021年09月03日 07時05分00秒 | 一般書簡
ヨハネの手紙Ⅲ ガイオ
1.ガイオのような人(1:1-8)
ヨハネの手紙第三の宛先は、ガイオ、どのような人物なのか、よくわかっていません。ただヨハネが「愛するガイオ」(1節)、「愛する者よ」(2、5節)と呼んでいるところからすれば、彼は、ヨハネによって救われた人なのか、特別な関係にあったと思われます。
ともあれ、ヨハネはガイオの霊的な状態については、安心を表明していますが(4節)、体の健康について気遣っていますね。どうやら、この時彼は、体の調子を崩していたのでしょう。ヨハネはガイオの健康の回復を祈っています(2節)。
さてヨハネは、先の第二の手紙では、「選ばれた婦人」に偽りの教師をもてなしてはいけないと警告を与えています。しかし、ここでは、まことの牧会者、巡回伝道者をもてなすように励ましています。ガイオは、どうやら、彼らに自分の家庭を解放しただけではなく、お金や食べ物を提供したり、衣服を繕ったり、洗ったりして、巡回伝道者の旅を支援したようですね。ガイオは、信徒の立場で、熱心に主の働き人を支えた人のようです。彼は神のことばに忠実で、宣教が進むように、自分の持てるものを分かち合う人々でした。そのようにして、ヨハネや多くの巡回伝道者の同労者となった人です。
2.ディオテレペスのような人(1:9-11)
しかし、残念なことに、教会の皆がガイオのような人ばかりではないのです。9節、ディオテレペスのような人もいるのです。彼は、古参の信徒であったのかもしれませんね。自分は先輩であり、様々なことを誰よりもよく知っていると、なんとなく人の上に立とうとする人であった。そして、その傲慢さの故に、教会では、多くの人が不快な思いをし、傷ついている状況があった、ということです。10節「意地悪なことばで私たちをののしっています」というのは、「間違ったむなしい訴えを起こす」という意味です。彼は、指導者に対して、あれこれ批判を向けますが、その批判は実に空しい、ただ人の時間を無駄にし、皆に不快な思いを残すだけなのです。問題は、そのようなむなしい訴えを、真に受ける人々もいた、ということです。日本人は、声のでかい人に引きずられると言います。誰かが強い調子で、声をでかくして言えば、そのことに引きずられてしまう、そして正しいことが行われなくなってしまう、と言うのです。確かにそんな国民性を持っているかもしれませんね。ディオテレペスは、ヨハネを拒否し、ヨハネと交わる人々を拒絶しました。彼は受け入れるべき人、退けるべき人の判断に狂いのある人でした。そのような人が教会の指導的な立場に立つと、やはり教会は混乱します。教会がどのような指導者を立てていくかは、本当に重要なことですね。そして、ヨハネは、ディオテレペスのようになってはいけない、確かな判断力を持ちなさい、と勧めるのです。そして、むしろデメテリオの用でありなさい、と言います。デメテリオは、おそらくガイオと同様、真理の内を歩み、神のことばに従う人だったのでしょう。
教会に必要とされているのは、より多くのガイオやデメテリオのような人、そしてより少ないディオテレペスのような人です。霊的に健康で、確かな識別力を持ち、正しいことをしっかり行う人々です。教会の発展はまさにそのような人にかかっていると言えるでしょう。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「ヨハネは、キリストを認めない者を「反キリスト」と言いましたが、パウロは、これをどのようなことばで表現しているでしょうか?」答えは「不法の者」でした(2テサロニケ2:3)聖書で色々と言い換えられていることを、整理すると、さらに聖書理解が進むでしょう。では、今日の聖書クイズを一つ。ヨハネは愛を大事にし、愛を語る人のようですが、本当は、どのようなあだ名で呼ばれていたでしょうか?答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨハネの手紙第二

2021年09月02日 07時00分13秒 | 一般書簡
2ヨハネの手紙 霊性の深さ
1.業界内の挨拶(1:1-3)
この手紙は、ある「長老」から書き送られました。伝統的にこの長老は、使われている用語や文体の特徴から、使徒ヨハネと考えられてきました。また、「選ばれた婦人とその子どもたち」については、文字通りそのような婦人や子どもがいたのだ、とする説と象徴的に教会である、とする説があり、結論は出ていません。ただ私は、婦人は教会の女執事、代表者で、子どもたちはその教会の信徒たちではないか、と思うところがあります。
冒頭から、ヨハネは、この教会を本当に愛している、と語ります。「本当に」は、「感情的に」というよりは、「真理によって」つまりキリストの十字架愛に基づいて愛している、というものでしょう。ですから、「真理を知っている人々」(1節)、つまり他教会の人々も、皆、あなたがたを愛している、と言うのです。ですから、1-3節は完全に業界内の挨拶なのですが、それでも、そこには同じ十字架愛に立つ者の確認と、励ましに満ちた挨拶がある、と言うべきでしょう。
2.互いに愛すること(1:5-6)
そこで最初にヨハネは、互いに愛することを命じています(5節)。ヨハネの手紙第一の基本的な教えの繰り返しですね。新しい命令ではなく、基本的な命令である。イエスが十字架上で身を持って教えてくださった、その愛に生きる、これが教会の本質である、と言うわけです。それまで人は、人に寛容であること、親切であることは十分教えられていたことでしょう。日本の学校教育でも道徳の時間があって、いじめはだめであること、自分よりも立場の弱い人や、社会的援護が必要な人には優しくすべきことを教えられているはずです。しかし、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ、と語られる神の愛はどれほど教えられているでしょうか。実際、この犠牲的な、親の愛にも例えられる愛だけが、冷え切って破壊された人間関係、かきまわされてどうにも手のつけられなくなった人間関係を立て直すことができるのではないでしょうか。そして教会こそが、この神の十字架愛を教えられる大切な場と言えるでしょう。そのような意味で、日本の社会にキリスト教会があるということは希望です。親の愛も、完全ではないことがありますが、例えて言えば親の愛にも似た神の愛、与え尽くし、人を建て直していく忍耐強い愛は、キリスト教会でこそ語られ、教えられるのです。教会は、本当に人間社会において大切な価値を語っているのですから、信者を獲得する宣教目的というよりも、当たり前のことを当たり前に語る必要があるのではないでしょうか。それを他人が伝道だと言おうが言うまいが、まず、人間にとって本質的に大事なことをしっかり語るようでありたいものです。
3.教会を教会としていく(1:7-13)
教会は、キリストの教えを語る場、そしてキリストの教えの中心は十字架愛、このことを語らぬ者、この教えを大事にしない者は、皆惑わす者、反キリストであり、そのような人を受け入れてはいけない、と言います。やはり教会を教会としていくこと、ただいい話をするような教師は、受け付けないことです。そういうお話は、教会の外でももっと上手に語る人はいるものでしょう。教会ではキリストが中心、キリストが十字架上で身を持って示した、十字架愛を語るのです。教会を建てあげるには、ある種の霊性の深さが必要です。本質を見抜く力が必要です。牧師のみならず中核になる信徒は、やはり、大事にすべきものを大事する、霊的な識別力が必要なのです。結局、教会の力は、教会に集う一人一人の、キリストの十字架を大事にする思いが大事というべきでしょう。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「神の命令を簡単に要約すると、どのように言うことができるでしょうか?答えは、神を愛し、人を愛することです。イエスは、律法の戒めは、その二つの要点に集約されると教えられました(マタイ22:36-40)では、今日の聖書クイズを一つ。ヨハネは、キリストを認めない者を「反キリスト」と言いましたが、パウロは、これをどのようなことばで表現しているでしょうか?答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨハネの手紙第一5章

2021年09月01日 07時04分07秒 | 一般書簡
1ヨハネの手紙5章 神の証言を受け入れて生きる
1.神の愛に生きる(5:1-5)
人を愛するという視点から、全てを考えていく、これがヨハネの言いたいことのようですね。そしてその根底に、神を愛している、いやまず神が私たちを愛してくださったという事実によって、私たちも神を愛している、という神との関係があるのです。そして人を愛している。1節。「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します」
こうしてキリスト者の愛の実践のベースに、キリスト者と神との深い絆があるというわけです。ルカの福音書15章には、神の愛のたとえ、通称放蕩息子のたとえと呼ばれているものがあります。ある金持ちの次男が、生前贈与を求めて、財産を得て、遠い国でそれを湯水のように使い果たし、ボロボロになって家に戻ってきたお話です。父親は、彼を可哀そうに思い、自分の息子だからと全てを赦し、受け入れるのですが、長男は感情的に父親のすることが受け入れられないのです。確かにそうですね。虫が良すぎると思います。けれども、親の愛というのは不合理なものです。理屈抜きに、神は人を愛されているのです。ですから神に例えられた父親は、冷ややかに受け入れようとしない長男に言うのです。私のものは皆あなたのものだ、あなたも私と同じ心になって受け入れるべきではないか、と。これがキリスト者の愛の実践のベースです。神に愛され、豊かに与えられているという原点に立って、神と同じ心をもって、敵と思えるような人も愛していく、それがキリスト者です。神の愛に祝されている現実がよくわかれば、神の命令を守ることは重荷とはなりません。世の中のある人々のように、狭い心で生きることもないのです。
2.キリストの証を信じる(5:6-21)
 ヨハネは、そこでキリスト者がどんな祝福にあるかを再び協調していいます。神の子、キリストを信じる者は、キリストのいのちを持っている。キリストの喜び、望み、力を共有しているのだと。それは、御霊と水と血によって証言されていることだ、と。水というのは、バプテスマのことでしょう。信仰を持った時に、授けられたバプテスマ。その経験が、キリストのいのちを持っていることの証言だ、と。また血は、イエスの十字架上で流された血。つまり歴史的に証言されたことである。さらに、御霊、目には見えませんけれども、聖霊なる神が、私たちに内的な確信を与えてくれるのだ、と。内的な確信というのは、主観的なものです。人によって物事の感じ方は違うものでしょう。キリストのいのちを私は得ていると、強烈な感覚をもって感じる人もいれば、そうでない人もいるはずです。16世紀、宗教改革時代以来のプロテスタント信仰の確信は、御霊は神のことばとともに働くです。つまり聖書のことばとともに、聖霊は、私たちの心の内に語り掛ける。御霊が単体で直接、耳に語り掛けるという神秘的なことは考えません。ですから、聖書を読みながら、確かにそうだな、確かに私には神の永遠のいのちが与えられているのだな、と静かに感じる内的確信もあることでしょう。ともあれ、御霊と水と血が、私たちに永遠のいのちの祝福、神との親しき関係があることを証ししているのです。
 となれば、もし、何かが私たちの内に不足し、必要があるとしたら、素直に神にこれを語るべきでしょう。14節、神のみこころに従って願うなら、神は聞いてくださる、これは私たちの確信だと言います。そうです、何事も自然に、力を抜いて生きてまいりましょう。そしてもし、不足があるなら、自分の我欲に基づくものでない限り、素直に神に願うべきなのです。16節、ことに、魂の救いについてはそうでしょう。人を愛するということにおいて、不足があれば、神はそれを聞いてくださることでしょう。罪を犯さない、それは、私たちが神と人を愛するということに関わる問題です。あらゆることにおいて、偽物、偶像を識別して、本筋に生きてまいりたいものですね。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「キリストの神性について、端的に語っている聖書箇所はどこでしょうか?答えは、ヨハネの言葉で言うなら、ヨハネ5:18「ご自分を神と等しくされた」であり、パウロの言葉で言うなら、コロサイ2:9があげられます。ヘブル1:3もよいですね。では、今日の聖書クイズを一つ。神の命令を簡単に要約すると、どのように言うことができるでしょうか?答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨハネの手紙第一4章

2021年08月31日 07時00分32秒 | 一般書簡
1ヨハネの手紙4章 キリストの神性を認める
1.偽の教えを区別せよ(4:1-6) 
ヨハネは、再び、偽教師、この4章では「反キリスト」という言葉を用いて警戒すべきものがあることを語ります。つまり、同じ聖書のことばを使いながら、似て非なる信仰もあるもので注意が必要だ、ということです。
ことに、この聖書箇所の背景には、コリントの教会にも見られた「預言」活動がありました(1コリント12、14章)。ヨハネは、「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません」と言います。つまり、だれかが、これこそまことの神の教えだと言うようなことがあっても、簡単にひっかかってはいけない、と言うのです。今までの教えは、本当は間違っていて、これが正しい教えなのだというような人が現れたら、それがまず「神からのもの」なのか、それとも「偽預言者の惑わし」なのか、よくよく吟味しなさい、というわけです。
そこで、その識別のポイントとして、第一に、ヨハネはイエス・キリストを人となって来られた神であると認めるかどうかをあげています。実際のところ、これがまさに当時のグノーシス主義者の問題でした。たとえば小アジア出身のユダヤ教徒で、グノーシス派のケリントスと言う人がいましたが、彼は、ナザレのイエスは「公正賢明な人間」に過ぎないと主張し、その神性とメシヤ性を否定した、と言います。しかし、こうした問題は古い時代のお話ではありません。日本においても、1887年ユニテリアンの宣教師、A.M.ナップの来日以来、同じような信仰がキリスト教会に大きな影響を与えています。彼らは伝統的なキリスト教神学の立場である三位一体の神学に反して、イエスの神性を否定しています。またキリスト教の異端とされるエホバの証人も、三位一体の教理を認めておらず、結果、キリストの神性を否定しています。しかし、仏教、イスラム教、ユダヤ教と区別し、キリスト教をキリスト教とするものは、キリストの十字架への拘りであると同時に、キリストの神性です。ヨハネはそれによって、偽の教えを区別せよ、というわけです。
2.神の愛を理解し、その愛に生きている(4:7-21)
そして第二の識別のポイントは、教師がその神の子、キリストとの関係で生きているかどうかです(7節以降)。その人は、キリストによって神に愛されていることを理解しているでしょうか。ヨハネは言います。10節「私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を使わされました。ここに愛があるのです」神の怒りを宥めるために、キリストは、私たちの身代わりとなってあの十字架の刑罰を受けてくださいました。まさにあそこに神の愛が豊かに表されたのです。それを理解し、その神の愛の深さに生きている、それがまことのキリストの教師です。
ついでに言えば、神の愛がわかっていれば、裁きの日を恐れることもなくなります。神にお会いする日、最後の審判の日は、決して恐れるものではないということがわかります。それは、私たちを心から愛してくださった神にお会いする素晴らしい日です。神の裁きを恐れる人は、まだ神の愛がよくわかっていない人です。また神の愛がわかっていれば、その神の愛に生きたいと願うようになるでしょう。神が私たちを愛してくださったから、私たちも神を愛するようになるのです。そして神に造られた同じ、兄弟姉妹を愛するようになるのです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「一般に神の愛は、ギリシア語でアガペー、人間的な愛を示すフィレオーやエロースとは区別されますが、アガペーの愛の特徴はどのようなものでしょうか」答えは、一方通行、ギブアンドギブの与え尽くす愛、というものです。フィレオーはギブアンドテイク、エロースはテイクアンドテイク、奪う愛と言われます。アガペーの愛は、まさに神譲りの性質として、信仰者の内に形作られるものです。では、今日の聖書クイズを一つ。キリストの神性について、端的に語っている聖書箇所はどこでしょうか?答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

ヨハネの言葉で言うなら、ヨハネ5:18「ご自分を神と等しくされた」であり、パウロの言葉で言うなら、コロサイ2:9があげられます。もしくはヘブル1:3

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