人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生5(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読は、モノの見方を変え、イエスと共に前に進む気を起こさせてくれます。ご一緒にしませんか?

ダニエル書12章

2020年11月03日 06時52分13秒 | ダニエル書
12章:終末の時
 おはようございます。ダニエル書は、迫害下にあるキリスト者への励ましの書という性質が色濃く出てくる最終章です。主の安息に入る目標をはっきり持って歩みましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.終末の出来事
ダニエルの幻は、彼の時代から未来に及ぶ神のご計画を語るものです。最後の12章は、さらなる終末の出来事を語っています。これまでにない苦難がやってくる。それは、神を信じる、信じないに関わらず皆に訪れる苦難です。しかし、神の民には救いがあると約束されています(1節)。また死人はよみがえり、裁きを受け、それぞれの定めにふるい分けられる、と言います(2節)。
明らかにヨハネが黙示録に描いた、第一の復活について語るものでしょう(黙示録20:5、6)。その時に、「賢明な者たち」つまり、信仰によってこの時代の動きを正しく洞察し、時に備える人々は、「大空の輝きのように輝く」。早朝、朝焼けではない、まさに日が輝く大空というものがあるものです。何か心がすっきり洗われ、いのちを与えられる、そんなイメージの空。賢明に生きたが故の輝きがあるのです。しかし、11:35によれば、その時代は、「賢明な者たち」ですら、悪の力にねじ伏せられ、神に見捨てられたような人生を強いられることがあります。もちろん、その苦難は聖めの目的をもったものですから、やがて受ける報いは大きいものがあります。そして3節後半は、信仰を守るのみならず、むしろ機を生かして福音を語り、神に人々を結びつける働きの報いの大きさを語っています。このことばをもって慰めとし、今日も、宣教に力を入れたいところではないでしょうか。
2.一時と二時と半時である
さて、5節から最後の幻が描かれます。川の両岸に立った二人の人とダニエルが会話をしています。そして、これまで述べられてきた、不思議な、理解の及び難い終末的出来事はいつ終わるのか、特に迫害の時代の終わりについてダニエルが問いかけています。答えは、「一時と二時と半時」でした。黙示録12章を思い起こす内容です。そこでヨハネは、ひとりの女と竜の戦いについて語っていますが、それは、メシヤを産んだマリヤとも、また、マリヤによって生まれ御子によって贖われた神の民、教会と竜の戦いとも解釈されています。しかしそのエピソードの趣旨は、「千二百六十日の間(黙示録12:6)」「一時と二時と半時の間(黙示録12:14)」という約三年半という区切りを示すところにあります。つまり、苦難や試練はいつまでも続くものではない、ということです。ですから大まかに意訳すれば、「ダニエルよ、大丈夫、こんなことはいつまでも続くわけではない。神に従う者の報いは大きい。ただ従いなさい」と言うことでしょう。しかしダニエルは、言葉尻に引っ掛かって再度理解を求めて尋ねています。答えは与えられませんでした(9節)。信仰の道を歩みつつ、小脇にもやもやとした疑問を抱えながら歩まなければならないことはあるものでしょう。しかしだからといって先に進めないわけではありません。時代がどうであれ進むべき目標ははっきりしています。主の安息です(13節)。その希望に向かって今日も進んでまいりましょう。

ダニエル書11章

2020年11月02日 06時25分03秒 | ダニエル書
11章:エピマネスと反キリストの預言
おはようございます。本章は、中間時代の歴史を預言的に語っています。しかしポイントはその迫害の時代をどのように生きるかを示すことにあります(32、33節)。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.ギリシア時代のこと
 ダニエル書は、同じテーマを螺旋的に増幅していく書き方となっていて、それはヨハネの黙示録とよく似ています。11章も基本的にその延長でギリシアについての預言です。
 まず配役を押さえておきましょう。2節、クロスの後に「三人の王」がペルシアに起こるとされます。カムビュセス、スメルディス、そしてダリヨス・ヒュスタスピスの三人で、「第四の者」は、クセルクセスと考えられています。ただクロスからクセルクセスまで、実際には3人以上の王がいたとされていますので、代表的な王の数なのでしょう。3節、「ひとりの勇敢な王」は、アレキサンダー大王のことで、彼は、急激に勢力を拡張しましたが、わずか32歳で亡くなり、死後、ギリシアは四分割されました(8:8)。5節「南の王」は、このうちエジプトを支配したプトレマイオスで、6節「北の王」はシリア、7節以降、二つの国の政略結婚と、覇権争いのストーリーが展開されています。ちなみに、18節の「彼」は、アンティオコス大王、「ある指揮官」は、アンティオコス大王を打った海軍の首領ルキウス・スキピオ、20節「一人の人は」セレウコス4世です。21節「一人の卑劣な者」は、セレウコス4世の弟である、アンティオコス・エピファネスとなります。
2.エピマネスの迫害
11章後半は、このエピファネスが中心に語られます。彼は不正と策略の名手で、その名は、「名高い」を意味しましたが、実際には「気が狂った男」を意味するエピマネスとあだ名をつけられています。21-35節は、彼のエジプト遠征について語っていますが、第一回遠征(24節)は、その目的を完遂できず、その帰り道、エルサレムで略奪と虐殺を行っています(28節)。第二回遠征(29節)でも、キティムの船、つまりローマ海軍の干渉により(30節)戦果をあげられず、帰路エルサレムを攻撃、神殿礼拝を廃止し、異教の祭壇を築きユダヤ人を痛めつけました(31節)。
 以上が、ダニエルが預言した歴史の配役になるのですが、その目的は、預言的に歴史を語ることではなく、そのような激動の時代の中で、信仰者がいかに生きるべきかを示すためです。前半1-6章はまさにそのような証集で、後半は、帝国の盛衰の歴史を語りながら、そこに「自分の神を知る人たちは堅く立って事を行う」(32節)「民の中の賢明な者たちは、多くの人を悟らせる」(33節)と信仰者のあるべき姿が明言されるのです。そのような意味で、エピファネスは、聖徒に挑む迫害者の型となっています。つまり36節以降は、歴史的事実とは一致せず、アンティオコスの最期とも異なるので、教会を迫害する反キリストの預言として理解されるのです。36節「この王」は反キリスト、パウロが言う「不法の人」(2テサロニケ2:8)、ヨハネが語る「獣」(黙示録13章)に相当します。困難な時代にあると思えばこそ、主の栄冠を目指して、最後まで走り抜く心を持ちたいものです。

ダニエル書10章

2020年11月01日 06時49分05秒 | ダニエル書
10章:第四の幻1(ダニエルと御使い)
おはようございます。10章は、バビロン捕囚帰還後の出来事を伝えています。ヨハネの黙示録1章を連想するような内容ですが、大事なのは神の愛の支配を語るその使信です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.天上の事柄
 ペルシアの王キュロスの第三年(BC538 年)、つまりユダヤ人がパレスチナに帰還した2年後のことです。ダニエルは、ゼルバベルに率いられてエルサレムへ帰っていく第一次帰還民には加わらず、バビロンに残っていました。そして、本章以降に記された大きな幻を見る形で神の啓示を受けました(1節)。
第一の月の24日(4節)、というのは、第一の月の14日に過ぎ越しの祭、それから、1週間種を入れないパンの祭が続いたので、それらの祭の直後という意味です。荘厳な姿をした「一人の人」については、受肉前のキリスト、神に遣わされた天使、と種々の解釈があります。しかし、この箇所を一読、黙示録1:12-16を連想させる点からすれば、キリストと理解するのがよいのでしょう。
伝えられたメッセージは単純です。その人は、ミカエルと共にペルシアの君やギリシアの君と戦い、到来が送れたと言います。ペルシアの君やギリシアの君は、それぞれの守護天使を意味しているのでしょう。つまり、天上での霊的な戦いがあることを意味しています。大切なのは、この地上の王国の滅亡が、天上のこと、つまり霊の戦いとして語られている点です。人は、聖書の言葉を読み、祈りもしますが、結局は、目先の世界で物事を考えています。あの人、この人のせいで物事がうまくいかない、と。しかし実はあの人、この人の背後があるわけです。確かにヨブ記を読むと、ヨブは、自分の身の不幸が、神とサタンの議論で、つまり天上に起因することなど全く思い当たらずに、ただ自分に非があるか否かで苦悩しているのです。パウロは「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗やみの世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ6:12)と語っていますが、まさにこの世の色々な問題以上に、霊的な天上での問題が、私たちを苦しめていることがある、と考える必要があるのでしょう。
2.安心せよ。強くあれ
 そのように考えるからこそ、クリスチャンには祈りが大事なのです。そしてダニエルのように、神に「特別に愛されている」(11節)ということも意味が出てくるのです。やはり人生には、人間の力ではどうにもならない、ということがあるものです。人類のベストを尽くしながら、神のあわれみにすがる他、何かの魔力的な力を払拭することができない、というものがあるでしょう。コロナ禍に対峙し戦っている人も、人類の知の戦いだ、と思いつつ、やはり、「特別に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ」(19節)と語られることをよしとする瞬間はあるものでしょう。人類が何を発見し、発明したとしても、素直に神の恵みを認める、謙虚な心を持ちたいところではないでしょうか。そして、今日も、神の恵みが、我が家族に、同僚に、友人・知人に豊かにあるようにと祈りましょう。

ダニエル書9章

2020年10月31日 07時06分57秒 | ダニエル書
9章 第三の幻(ダニエルよりメシヤまでの時である70週についての預言)
おはようございます。神と心を交わしながら祈るダニエルの姿が印象的です。落ち着いて、静かに、大切なお方と祈りの時を過ごす、大事にしたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.ダニエルの祈り
この時ダニエルはエレミヤ書を読んでいました。そして、神に定められたバビロン捕囚の期間、70年が満ちた事を悟ったと言います(2節)。つまり、ダニエルは、神が約束通りにイスラエルの民を祖国に戻してくださることを知り、祈りをささげるのですが、その祈りに何か心を打たれる思いがします。ダニエルは、実に自然に、神の御前に自分たちの罪を告白し、赦しを請うています。単に彼は、神に約束通りにイスラエルの民を祖国に戻してくださいと祈っているわけではありません。むしろ、神と心を交わし合っているのです。文字に書き起こされた以上の霊的なやり取りがあった、と言うべきでしょうか。ダニエルは、契約を守り(4節)、義しく(7節)、あわれみと赦しに富み(9節)、全能である(15節)神の御前にあります。そして他方、神に反逆し、神が遣わした預言者に耳を傾けず(5節)、その結果面目丸つぶれの現状に陥り(8節)、最悪の惨事を経験しながら、今なお神を求めずにいる愚鈍な自分たちの状況(13節)を感じています。もはやこの状況において神がイスラエルを回復されるとしたら、それは、自分たちにその価値があるからなのではなく、全く神のあわれみと誠実さの故である(18節)、厚かましくも、受けるに値しないその恵みが与えられますように、と神の御前に心を伏しているのです。まさに「神に特別に愛されている者(23節)」と言われる理由がそこにあるのでしょう。
2.荒らす忌むべき者の預言
24節以降の70週の預言については、大きく二つの解釈があります。一つは、BC167年アンティオコス・エピファネスが神殿を汚し、ゼウスの神の像を建てた時のこと、ユダ・マッカバイオスによって神殿が奪還され、清められて、再びささげられた過去の出来事を指す、と解釈するものです。ダニエルの預言的能力を認めない批評的な立場では、こうした歴史的事実に基づいて、BC2世紀頃、ダニエル書は回想的に書かれた、とします。しかし、保守的な立場では、この箇所を未来的、終末的に解釈してきました。というのも、キリストがこの箇所を引用して、終末について解き明かしているからです(マタイ24:15)。しかしそのキリストの引用の意図についてまた二つの解釈があります。キリストにある罪の赦しに重点を置くものとキリストの終末的な出来事に重点を置くものです。確かに、神に対する背きの罪が赦されて、宥めが行われるのは十字架の出来事を語っているようですし、聖所が聖別されて神にささげられるのは、もっと未来のこと、新しいエルサレムにおける新しい至聖所のことを言っているようです(黙示録21章)。しかし今の段階では、よくわからない、と言うのが本当です。ただ、エレミヤの預言も、理解される「時」がありました。この預言も、いずれ理解される「時」が来るものと考えるべきです。天の秘密を明らかにする神を恐れ、今日も、み言葉を巡らし、神と心を交わす祈りの時を持ちたいものです。

ダニエル書8章

2020年10月30日 06時43分53秒 | ダニエル書
8章 第二の幻(雄羊と雄やぎ)
おはようございます。8章も2章の繰り返しです。しかし、7章同様に、新しい情報も加えられています。徐々に詳細が解き明かされる神の啓示の前に、信仰の姿勢を問われます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.第二と第三の王国
 ヘブル語聖書では、ここから再びアラム語ではなくヘブル語に戻っています。2章、7章、8章の幻は、共通した内容を伝えており、2章では、バビロンからローマに至るまでの歴史的な帝国主義の盛衰、そしてイエス・キリストによる新しい神の国の到来が語られていました。そして7章には、終末直前の出来事、反キリストの時代の預言が加えられていました。8章は、第二と第三の王国について、より詳しい情報を与えるものです。
 2章で「銀の胸と両腕」、7章では「熊に似た獣」と例えられたメディア・ペルシアの王は、ここ8章では「二本の角を持つ雄羊と」となっています(3-4節)。二本の角は、メディアとペルシアの王ですが、長さが違うのは、その力関係、つまりペルシアがメディアよりも強かったことを意味しています。また、「青銅の腹ともも」(2章)、「四つの頭を持つひょうのような獣」(7章)に例えられたギリシアの王は、ここ8章では「全土を飛び回る雄やぎ」とされています。この雄やぎは際立った一本の角を持っていて、それはペルシア帝国を破ったギリシアのアレクサンドロス大王を意味しています。アレクサンドロス大王の亡き後、帝国は、マケドニア、トラキア、シリア、エジプトと四分されたので、「大きな角が折れた。そしてその代りに、天の四方に向かって、際立った四本の角が生え出て来た」(8節)となるわけです。
2.8章に固有の情報(二千三百の夕と朝)
9節の小さな角は、7章の聖徒たちに戦いを挑み、打ち勝つ小さな角(7:20、21)のことでしょう。つまり、ギリシア帝国から分かれてシリアを治めたアンティオコス・エピファネス(BC175-164年)です。彼はエルサレムを占領し、それをギリシア化しようとしました。聖書を焼却させ、神殿をゼウス・オリンポスの宮と呼び、祭壇にはユダヤ人が忌み嫌う豚や不浄な動物がささげられ、娼婦が戯れる場としたのです。王の命令に背いた者は死刑に処せられ、多くのイスラエル人は、信仰を守るために死を選びました。9-14節は、こうした彼の治世の残虐さを物っています。もし、詳しいことを知りたければ、第一マカベア書1-6章を読むとよいでしょう(関根正雄編『旧約聖書外典』(上)講談社文芸文庫)。なお8章に固有の新しい情報は、14節「二千三百の夕と朝」、25節「一時と二時と半時の間」というキ時を表すキーワードです。ただその数字は、大雑把に、エピファネスが支配した一定の期間と理解しておくのがよいのでしょう。つまり神の裁きが、確実に迫っている、伸ばされることはない、ということです。ダニエルが「動揺し、顔色が変わった」(28節)のもそのためでしょう。何度も国が亡びる現場に巻き込まれたダニエルにとって、それは、身の毛のよだつ神の啓示でした。一歩身を引いて、世の動きを見せられているのです。しかしそれは私たちにも必要なことで、識別の目をもって大事すべきものを知るようでありたいものです。