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士師記21章 めいめい自分の目に良いと思うことをしていた

2022年05月16日 07時45分42秒 | 士師記
21章 士師記の結論
1.神不在の問題解決
士師記も最後の章となりました。イスラエルの中での悪、そして内乱に近き戦い、結果、戦いが終わってみると、イスラエルの12部族からベニヤミン部族が欠ける事態が生じてしまっていたのです。町を焼き討ちにしたことで、ベニヤミンの女たちが根絶やしにされてしまいました。そこでイスラエルの者たちはベテルに上り、祭壇を築き、ささげ物を献げて、ベニヤミン部族をどのように回復すべきかを協議するのです。一度誓った誓いを変えることはできませんでした。そこでより重い誓いを持ち出すことによって彼らはこのジレンマから脱出しようとするのです。つまり、初め彼らは自分たちの娘をベニヤミン族に嫁がせないことを誓いましたが(1節)、既に、ベニヤミン族との戦いに参加しない部族は必ず殺されなければならないという誓いを立てていました(5節)。そこで調べてみると、ヤベシュ・ギルアデの人々が参加していませんでした。彼らはラケルの孫マナセの子孫で、ラケルの子ベニヤミン族とは血縁関係にあります。そこでベニヤミン族を絶やさないために、リモンの岩に隠れ住むベニヤミン族の男たちに、ヤベシュ・ギルアデとシロの女たちを略奪して、自分たちの子孫を残すことが許されるのです。こうして後に、アモン人ナハシュが攻めてきた時に、ヤベシュ・ギルアデの人々は、ベニヤミン族のサウルに助けを求め(1サムエル11:1)、またサウルと彼の子どもたちの死体がベテ・シャンの城壁にさらされた時に、危険を冒してそれを収容する、特別な深い関係が築かれるのです。
2.当時の宗教事情
 さて12節、シロの位置については、19節で注釈が加えられています。つまり、士師記が執筆された時(サムエルの時代の後、ダビデかソロモンの時代?)、シロの位置は読者にはよくわからなかった、ということです。しかし、シロは、ヨシュアの時代から会合の場として用いられ、会見の幕屋が立てられ、契約の箱が置かれ、ここで相続地が分割されています(ヨシュア18-21章)。つまりそこは軍事的、宗教的な中心地でした。それは後のサムエルの時代も同じでした。となれば、19節、ここで毎年行われる祭りというのは、一つは過越しの祭りの可能性があります。また20節、「ぶどう畑」で待ち伏せしてとあることからすれば、ぶどうの収穫期に行われる仮庵の祭りであった可能性もありますが、問題は、イスラエルにとっては本来大切な神の業を覚えるべき重要な祭典であるはずの場で、略奪結婚が許されてもよいと判断されるほどに、それは、世俗化した「お祭り」になっていたということです。もはや、神を神として恐れることなく、堕ちるところまで堕ちて、祭りの精神も忘れ去られ「それは勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でもない。私の聞くのは、歌を歌う声である。」(出エジプト32:18)と呼ぶような状況があった、ということでしょう。
3.士師記の結論 
彼らが宗教的であろうとしたことは確かですが、それはまことに神を恐れ、神に聞き従う心を持つ熱心さに基づくものではありませんでした。まさに「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」だけのことです。神の存在らしきものを認めながらも、神を恐れることなく、神を自分の下に置き、自分の思うところに従って生きた時代です。それは今日的状況に極めて近いものがある、というべきでしょう。
なお、この時代、「イスラエルには王がなく」つまり正義を貫く強力なリーダーシップにも欠けていました。国家の混乱を収拾するために、王制が強く望まれた背景が説明されているのかもしれません。こうしていよいよ後に続くサムエル記では、イスラエルが王政国家に踏み出し、いかに神と共に歩んだかが語られていくことになります。では今日もよき一日となるように祈ります。
 
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ミツパは「見張る場所」「物見やぐら
」の意味がありますが、そもそも、どんなエピソードによってつけられた名でしょうか?
答えは、創世記31:39に出てくる、ヤコブとラバンの会話に基づく。「われわれが互いに目の届かないところにいるとき、主が私とあなたがたの間の見張りをされるように」とラバンが語ったことによるものです。では、今日の聖書クイズを一つ、イスラエルでぶどうが最もよく収穫された地はどこであったでしょうか?答えはまた明日、では、今日もよき一日となるように祈ります。

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士師記20章 わざわいが迫っているのに気づかなかった

2022年05月15日 07時06分11秒 | 士師記
20章 ギブアに対する聖絶
1.レビ人の招集
 レビ人の招集に、イスラエルの全部族、民全体のかしらたち、40万の剣を使う歩兵が集まってきました。「ダンからベエルシェバまで」というのは、聖書固有の言い回しで、イスラエル全土を意味します。彼らは、ギブアの者たちを立ち滅ぼし、イスラエルから悪を除き去ろうと試みました。イスラエルの良心はまだまだ捨てたものではない、ということのようにも思えますが、そうでもなさそうです。というのは、既に述べたように、レビ人のリーダーシップそれ自体が健全なものではありませんでしたし、この問題に感情的になって一つになり応答したイスラエルの民のその後の問題解決を見るにつけても、理解しがたいものがあります。まさに、全国民一丸となって戦い、最後には華々しく崩れていった日本の戦争時代を思い起こせる出来事です。皆が団結することが必ずしも正しいとは限らず、また神の御旨に適うというわけでもない、ということです。
2.神の御心を伺う
また13節、彼らは戦闘を開始する前に、まずよこしまな者を引き渡すように交渉しましたが、ベニヤミン族は、これに応じませんでした。むしろ、2万6千人を招集し、戦おうとしたのです。なんと、悪者を庇おうというのか、不思議なものです。けれどもこれは教会ですら例外ではないのです。実際新約聖書の中で、使徒パウロがコリントの教会に生じていた悪を除き去るように勧めた時に、コリントの教会は素直に聞き従いませんでした。彼らはパウロに抵抗し、仲たがいすらしています。主の教会だからと言って、物事が理屈通りに動くとは限りません。
またイスラエルの人たちは、神の御旨を聞き、ギブアに攻め上っていますが、これは必ずしも、イスラエルが信仰的で、ギブアの人たちがそうではなかったという対比にはなりません。神とイスラエルの人たちの不可解な三回のやり取りを皆さんはどう思われるでしょう。イスラエルの人たちは、神の御心を問い、それに沿って、戦い、けれども負けている。2度も。そして三度目の正直で勝っているのです。神の御心を問いながら物事を進め大敗を帰すとは、なんとも不可解です。ただ、彼らの神に向かう態度に、明らかに変化があることは確かです。三度目、彼らは主の前に泣くだけではないので、彼らは断食をし、ささげ物をささげているのです。つまり、神と共に戦う姿勢すら忘れていた彼らが、こうして神と共に出ていくことを学んだというべきではないでしょうか。そして何よりも大切なのは、このようにいい加減な信仰のイスラエルにも関わらず、神のあわれみは深く、神は決してともにいることを恥とされなかったこと、むしろ助けられたとこの箇所を読むことです。
3.イスラエルの戦い
イスラエルのベニヤミン族に対する戦い方について言えば、それは、招集から始まり、神の民の集会、誓約、神の導きを求めること、敗戦の際のささげ物や勝利の約束、聖絶、会衆の解散など、完全に「主の戦い」の形式にのっとっています。堕ちるところまで堕ちながらも、イスラエルの中には、神に従う形式は、どこかDNAとして受け継がれており、彼らはそれを思い起こしながら物事を進めているのです。神はかろうじて神の意思を確認するところに立ち返った民を用いられ、助けられたと言うべきでしょう。神の導きも、神の力も見えにくい現代は、士師の時代のようなものなのかもしれません。しかし、そうであればこそ、新しいサムエルの時代をいよいよ待ち望み、主の教会の形式を本質に近づける努力も必要とされることでしょう。ただ、形式を繰り返すのではなく、信仰の本質を深く掘り下げ、その信仰の本質に立つ歩みをさせていただきたいものです。


<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ギブアが首都とされたのは、どの王様の時代であったでしょうか?答えはサウルでした(1サムエル13-15章)では、今日の聖書クイズを一つ、ミツパは「見張る場所」「物見やぐら」の意味がありますが、そもそも、どんなエピソードによってつけられた名でしょうか?答えはまた明日、では、今日もよき一日となるように祈ります。

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士師記19章 このようなことは起こったこともなければ、見たこともない

2022年05月14日 06時58分45秒 | 士師記
19章 ギブアの惨事
1.ギブアに起こった出来事
1節「イスラエルに王がいなかった時代」、繰り返されるフレーズがあります。イスラエルに王が望まれた時代を描いた、次のサムエル記につなぐ意図を感じる書き方です。16章までの士師サムソンの記録以降は、士師と呼ばれる指導者の活躍よりも、イスラエルの混乱した社会の実像が淡々と描かれています。ミカとダン部族の物欲的、上昇志向的エピソードに、さらに倫理感の失われたエフライムの山地のレビ人のエピソードが加えられます。祭司の部族、いわゆる宗教的な指導者の部族とされるレビ人に、起こったこの出来事、イスラエルの倫理観の混迷の深さを物語るものと言えるでしょう。
2.指導者無き時代の本質
事件は、こうです。エフライムの山地のレビ人にめかけがいました。彼は自分を嫌って出て行ったこの女を取り戻そうと追いかけます。彼女と和解し、家への帰り道、ギブアの町で一泊した所、町のよこしまな者たちに襲われ、レビ人は自分を守るために、めかけを犠牲にするのです。そして翌日、このような悪があることを、全イスラエルに知らせ、悪を除き去る行動を起こすように、全部族に呼びかけて、めかけの死体を12に切り刻んで送ったという話です。
何ともおぞましい話ですが、聖書は当時の悪の現実、イスラエルに王がなかった時代、それぞれめいめい自己満足的に生きる結果が、どんな堕落の極みに至るのか、つまり、偶像礼拝(17,18章)、不品行、暴力、内乱(本章)の状況を描いています。神との掟を忘れ、自分の心の基準に従って歩みだすことによって、このような悪と混乱を極め、堕ちるところまで堕ちていった人間社会の状況を描き出しているのです。
注目すべきは、このレビ人です。彼はイスラエルの指導的な立場にある人でした。つまり、指導者無き時代というのは、指導者がいないわけではないということです。指導者がいるにはいるものの、機能していない時代なのです。政治家が政治屋でしかない時代、牧会者も牧会屋でしかない時代というわけです。本来、神のしもべとして、忠実に、一人一人を神に近づけ、神のいのちあることばに立たせていくはずの指導者が、その職務を形だけ行っていく時に、何が起こるか、ということでしょう。
実際このレビ人、取り戻そうとした女が殺されたというのに、女の死を悼むわけでもなく、レビ人らしく悪の告発に熱を入れるのです。そしてイスラエルは、彼の腹いせのリーダーシップに踊らされていくのです。というのも、女を殺したのはギブアのよこしまな者たちであって、ギブアの者たちではありませんでした。また、彼は自らそばめを危険にさらし、自分は朝までゆっくり休み、暴行受けた女を介抱することもしませんでした。つまり、冷酷でプライドの高い一人の指導者によって、あたかも事実である、と訴えられたことばに、善人のイスラエル人たちが利用されていくのです。預言者ホセアは、この出来事を、社会の腐敗を示す最悪な事例として引用しています(9:9,10:9)。
 ともあれ社会が混迷していくその最たる問題は、リーダーシップにあります。一般の人々のみならず、地の塩、世の光としての役目を果たすべき神の民も、そして神の民の指導者も同じように塩気を失い、光を失っていく時代。後で私たちはルツ記において、そのような時代の中にも光る部分があったことを知るのですが、本章で押さえておきたいことは、レビ人、指導者たる者の堕落です。指導者が神の正義に立たないなら、その社会の混迷は一層激しいものとなるのです。塩味を持ち、光となるリーダーが望まれるところです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。エリとサムエルの時代、礼拝の中心はどこにあったでしょうか?答えは、シロでした。では、今日の聖書クイズを一つ、ギブアが首都とされたのは、どの王様の時代であったでしょうか?答えはまた明日、では、今日もよき一日となるように祈ります。

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士師記18章 安心して行きなさい

2022年05月13日 06時58分32秒 | 士師記
18章 ダン族の横暴
1.正義無き力の世界
 18章は、ダン部族について、彼らは相続地を求めていた、と言います。というのも彼らは、割当の地を与えられていたにもかかわらず、それを自分たちのものにすることができずにいたのです。サムソンもダン部族の一人であったとされますが、この時代ペリシテの勢いが強く、ダン部族は、狭い相続地の中で本来の居場所である低地から丘陵地帯に追いやられていました。彼らが、本来の相続地とは別にはるか160キロも離れて北方の領地を所有していたのは、そのような理由があったからです。彼らは新天新地を求めていました。
そんなある日、彼らはミカの家に立ち寄ります。彼らは祭司がいるのに気付き、自分たちの仲間となるように話を持ち掛けています。するとこの祭司、「心をはずませて」ついて行きました。さらに、雇われ祭司であったのに、神殿にあった祭儀の道具までも持ち去ったのです。なんともとんでもない食わせ物の祭司です。ミカは、これらを取り戻そうと追いかけるのですが、力の差を悟るや否や、空しく家に戻っていきます。そしてダン族は、「平穏で安心しきっている民を襲って、その地を自分たちのものとしました。正義を力で踏みにじり、弱い者を泣き寝入りさせる不条理な世界です。それは、まさに「イスラエルには王がなかった」(1節)という、王が待望される時代のお話でした。
2.ヘブル語本文上の問題
ところで30節、ミカのもとにいた祭司はモーセの子孫であったとされます。しかし脚注にあるように、ヘブル語本文では、「モーセ」を「マナセ」と読み替える別の読みがあります。このいかさま祭司がモーセの子孫であるというのは、いかにも不都合だ、というので書き変えられたと推測する者もいます。しかし実際、モーセの子ゲルショムの子については、聖書は長男シェブエルの名を記すに留めています。ヨナタンという子はいないので、やはり「モーセ」ではなく「マナセ」なのでしょうが、確かなところはわかりません。
また、「その地の捕囚の日まで」というのは、いつのことなのか。アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルがその住民をアッシリヤへ捕え移したBC733年の時という可能性を考える者もいます。しかし続いて「神の宮がシロにあった間中」とあります。シロが礼拝の中心となっていたのは、エリとサムエルの時代です。サウルの時代になるとそれは、ノブに移されました。そしてダビデの時代にはギブオン、ソロモンの時代にはエルサレム、王国が分裂したヤロブアムの時代には、ベテルとダンがその中心地でした。ですから「捕囚の日」を北イスラエルの捕囚(BC733)と理解するなら、つまり士師記の執筆年代をかなり後代のものと考えるなら、ダン部族たちは、サウル、ダビデ、ソロモンの時代の政策とは関わりなく、自分たちの祭儀を独自に守っていたことにもなります。厳密に読んでいくと、ヘブル語本文の矛盾が気にならないわけではありません。しかし、細部に拘ることよりも、まず、このエピソードが伝えている中心的なメッセージを捉えることが大事なのでしょう。
3.エピソードが伝えるメッセージ
つまりこのエピソードは、まさに異常に乱れた当時の社会の状況を描くものです。正義によって国を治める王はおらず、神を恐れないいかさま祭司のもとで、めいめいが自分の目に良しと見える生き方をしていたというわけです。それは「地にあるもので欠けているものは何もない(10節)」毎日であっても、神が天から与えられようとしているものを、何も得ようとしない時代です。ただ人間の欲が蔓延し、力ある者がさらにその勢いを増し、力無き者が落ちこぼれていく時代です。ただ地上にある祝福だけが目的とされ、天上の祝福が忘れ去られた時代です。しかし、現代も同じかもしれません。
使徒パウロは「天にある全ての霊的祝福」(エペソ1:3)が人に注がれていることを語っていますが、天上の祝福の光がはっきりと照らされる、今の時代に求められることと言えるでしょう。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。旧約時代、銀は、どこからパレスチナに運ばれていたでしょうか?答えはタルシシュです。エレミヤ10:9には、「銀箔はタルシシュから、金はウファズから運ばれる。」とあります。では、今日の聖書クイズを一つ、エリとサムエルの時代、礼拝の中心はどこにあったでしょうか?答えはまた明日、では、今日もよき一日となるように祈ります。

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士師記17章 主が私を幸せにしてくださる

2022年05月12日 05時50分45秒 | 士師記
17章 めいめい自分の目に
1.的外れな親子
 17章はミカという人を巡る、種々のエピソード、しかしこれが何か現代の宗教的な事情も反映しているようで興味深い内容です。まず、ミカが自分の母親のお金を盗むエピソードが綴られます。母親は、お金が盗まれたことを知り、盗んだ人を呪うのですが、それが息子だとわかると、その呪いを取り消して、むしろ祝福を祈るのです。さらに、返されたお金で、偶像を作ったと言います。このようなエピソードを読むと、本当に信仰って何かなあ、と思います。別にミカも、母親も神を恐れているわけではありません。ただ宗教的に生きているだけでしょう。神などいると思えばいるし、いないと思えばいない、というのは、まさにこういう状況に思わされるわけです。そして聖書は、これを、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」と解説するのです。すべてにおいて自己満足的な生活、本来絶対的なものであるはずの信仰ですら、人が認めようと認めまいと私はこれでいいんだと、自分流でよしとされる時代、それが、モーセ、ヨシュアなき時代でした。
2.レビ人の若い浪人
次の7-13節のエピソードもまた、そんな相対的、自己満足的な信仰の在り方を物語るものです。ミカは、神殿と、さらにその神殿を飾る偶像を持っていました。しかし、残念なことに、そこを仕切る祭司がいなかったのです。彼は、息子の一人を祭司としていましたが、それはあくまでも代用でした。資格のある人がいれば安心というのは、よくわかることです。そんな折に、浪人のレビ人、いわゆるイスラエル人が唯一祭司の働きを認める部族の若者が流れ着いてくるのです。そこで彼は、その人を自分の神殿の祭司として迎えるのです。
 ミカは言います。「私は主が私をしあわせにしてくださることをいま知った。レビ人を私の祭司に得たから」(13節)。神殿があり、偶像があり、祭司がある。イスラエルの伝統からすれば偶像は余計なものですが、当時のカナン地方の文化からすれば、神殿、偶像、祭司の三拍子が揃う、もう祝福・繁栄間違いなし、というわけでしょう。
3.自己流の信仰を超えて
 改めて宗教って何なのか、と考えてみたいところです。宗教的な生活はしている。しかし、目に見えない生けるまことの神を恐れているわけでもありません。自分が信じているものの実質を問うわけではない、ただ、家内安全、商売繁盛、無病息災、といったご利益を求めて、そのご利益をもたらすものであれば何でもよい、という自分本位の、ご都合主義の信仰。士師記を読むと、それはまさに、古代イスラエルのお話でありながら、何か今日的な状況を思い浮かばせるような内容です。世俗的な祝福は、自己流であっても得られるかもしれないが、神の霊的な祝福は、本当に聖書流に立っていく時にこそ、理解され、得られていくもののはずです。しかし、クリスチャンとは名ばかりで、聖書の中身もよくわからないし、聖書を取り去っても成り立つ、ご利益信仰と変わらない信仰を持っている人も少なくないのではないでしょうか?結局、クリスチャンの信仰のあり様が、神はいると思えばいるし、いないと思えばいない、という程度のことであったりするのです。互いに聖書から教えられて、自己流から脱皮して、まことに神に教えられた歩みをしてまいりたいところです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。サムソンが使った「ろばのあごの骨」は、アフリカやラテンアメリカでは楽器として使われますが、それは何と呼ばれるでしょうか?答えはキハーダです。ロバや馬の下顎の骨を乾燥させ、歯肉を落とすと、歯が自由に動くようになり、効果音を出す打楽器として使われます。では、今日の聖書クイズを一つ、旧約時代、銀は、どこからパレスチナに運ばれていたでしょうか?答えはまた明日、では、今日もよき一日となるように祈ります。

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