人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生5(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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ヨハネの福音書21章

2021年04月08日 06時57分16秒 | 福音書
●ヨハネの福音書21章 復活の主の召し
1.弟子たちの再召命(21:1-14)
ヨハネを始め、弟子たちがイエスに招かれるのは、これで三度目です。最初ヨハネは、自分の師バプテスマのヨハネに勧められてイエスについて行き、ガリラヤ伝道を共にしますが、しばらくして、また故郷に戻ったのでしょう。そんなヨハネをイエスが、再び自分の弟子として招く場面があります。それがちょうど、この21章の出来事と同じような内容になっています。彼らは夜通し漁をしたものの、魚が獲れずにたのです。そこにイエスが現れ、イエスに勧められるままに網を下ろしてみると、大漁となりました。驚いた彼らは、イエスに招かれるままに弟子となるという話です。なぜヨハネは、こんなスタートに戻るようなエピソードを最後に加えたのでしょう。この記事もヨハネ独特です。
この時、ペテロは復活のイエスと会いながらも「私は漁へ行く」と再び、自分の仕事に戻ろうとしていました。復活のような前代未聞の出来事を体験しながら、彼の心は約束の聖霊を待つ思いにも、主の宣教命令に従う心にも向かっていかなかったのです。なぜか。それは、イエスが復活したという事実があっても、自分たちの師は、やはり十字架で死んだ感じる事実の方がより現実的だったからではないでしょうか。復活は驚くべきことでしたが、イエスは、現れたかと思えば消える、結局は消えてしまう幻想の世界に取り残された気持ちになっていたからかもしれません。そんな白昼夢のような生活を続けていて、何になるだろうか。目を覚まして漁に行くか、というわけです。そこにイエスが現れ、もう一度振出に戻るわけです。そして、今度のスタートは、目には見えないけれども、確かにイエスが共におられることを信頼する、完全に信仰によるスタートであることを彼らは覚悟させられるわけです。イエスのおことばに従うなら、空ではない、確かに手ごたえのある網を引き揚げる、彼らは信仰による自立を促されたと言えるでしょう。
2.ペテロとイエス(21:16-25)
ペテロとイエスの対話が記録されます。それは、苦難にってイエスに対する信頼を失いかけていた初代の弟子たちに聞かせたいものであったのではないでしょうか。この対話のポイントは、「私の羊を飼いなさい」という使命をペテロに与えられたイエスが、その働きのベースにイエスを「愛する」という動機を三度確認されたことです。どの弟子よりも主に身をささげていると豪語しながら、主を否定してしまったペテロにとって、それは、最も急所を突いた問いでした。イエスの働きを担うにあたり、何よりも大事なことは、能力ではなく、イエスに対する愛なのです。この先どうなるかもわからない、しかしイエスを真実に愛する思いがあるなら、その思いを持って私について来なさいということでしょう。たとえそれが不完全であっても。神は私たちの思いを認め、大事にしてくださるお方なのです。それは神にとっても賭けでしょう。その神の懐の深さを思えばこそ、私たちの腹も決まるのです。21節、主に従うというのは、自己実現の代わりになるものではありません。あるいは党派心、競争によるもの、つまり他人の働きに比較してどれほど優る働きができるか、ということでもありません。ただ主が、あなただけのオンリーワンの働きに召しておられることです。ですから、その職務に忠実であるなら、神に対する私たちの愛、そして主は常に真実であるという私たちの信仰が証しされることになるのです。
最後に、今日の聖書クイズを一つ、新約聖書が書かれたギリシア語には、愛と訳されることばが三つあります。その内、与え尽くす神の愛を意味することばはどれでしょうか。①アガペー、②フィレオー、③エロース、昨日のクイズの答えは、①4回目でした。(11:16、14:5、20:25、20:28)今日の答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。


ヨハネの福音書20章

2021年04月07日 06時56分31秒 | 福音書
ヨハネの福音書20章 神の栄光を信じる
1.空の墓(20:1-18)
 安息日が明けた朝、マリヤは、まだ暗い内にイエスが葬られた場所へやってきました。このあたりの出来事は、マタイ、マルコ、ルカと読み比べてみると、それぞれ違いのあることがわかります。天使が現れた様子、天使がいた場所、マリアとイエスが遭遇した状況、ペテロが空の墓を確認した状況、それぞれ違うのです。一番、内容的に近いのは、マルコとヨハネでしょう。どれが事実に近いのか、と思わされるところですが、大切なのは、9節「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった」という事実です。事の次第は、いささか曖昧ですが、復活したのは事実、そして、聖書がイエスの復活について語っていることを彼らが理解していなかったのも事実だったということです。
さらに言えば、ヨハネにイエス昇天の記録はありません。明日の21章を読めばさらにその特徴がはっきりしますが、ヨハネは、十字架から復活までを記録し、天の御父の元に戻る途上にあるイエスを描き終わっているのです。そして先のマタイやマルコ、ルカの福音書のように、宣教を命じることばもありません。なぜそうなのか、それはおそらくこの福音書の読者を想定してのものだったのでしょう。つまり、当時迫害の苦難と死の危機に直面していた読者には、イエスの十字架の死にこそいのちがあった、それを最初の弟子たちもわかっていなかった、と教えられる必要があったということです。そして17節、ヨハネだけが記録するイエスのマリアに対することばは、十字架の死に直面したあのイエスが、天の御父の栄光の元に戻りつつある、ことを示し、苦難の中にある読者もまた、同じ途上にあることを教えようとしている、と言えるでしょう。
2.平安があるように
とすれば、19節以降のエピソードの趣旨も明らかになってきます。19節、ユダヤ人を恐れて集まりあっている弟子たちにイエスが現れています。それはまさに、迫害下にあった当時の教会の状況そのものであったことでしょう。そのように、信仰を試され、集まり合う信仰者たちに、ヨハネは、イエスが現れ「平安があるように」と語り、目に見えない聖霊が共にあることを思い起こそうとするのです。そして、なおも平安を持ちえないでいる、キリスト者に、トマスのエピソードを描くことで、単純に信頼すること27節「信じない者ではなく、信じる者になる」ように促すのです。トマスは、不名誉な不信仰者の汚名を着せられていながら、実に、当時の信仰者にとっては、「私の主、私の神よ」と信仰告白を引き出すよき模範であったと言えます。
こうしてこの福音書は、マタイやマルコ、ルカとは異なって、単純に教育および宣教的な目的をもって書かれたというよりも、むしろ、信仰の深い部分で、キリスト者を支える目的をもって書かれたと言うべきでしょう。信仰と不信仰の狭間で揺れてしまう信仰者、それは、別に、珍しいことではありません。大切なのは、そのような一見不信仰とも言えるような状況にありながらも、一人一人が、ニコデモように、またサマリヤの女のように、イエスと語り合いながら、31節、信仰の確信を深めていくことです。もし本当に神がおられるならば、信仰の深まりもあるのです。そして信仰は、一生懸命信じようとして起こってくるものでもありません。それはイエスと出会うことで、上から与えられるのです。謙虚に神のもとに遜り、聖書を通じて神と語り合うところに備えられるものなのです。

最後に、今日の聖書クイズを一つ、ヨハネの福音書にトマスは度々出てきますが、トマスの信仰告白「私の主、私の神よ」は、何回目の発言に当たるでしょうか?①3回目、②4回目、③5回目、昨日のクイズの答えは、①足を木槌で打ち砕くでした。今日の答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

ヨハネの福音書19章

2021年04月06日 06時57分36秒 | 福音書
ヨハネの福音書 19章 十字架の御業の完成
1.ピラトによる裁判(19:1-13)
 イエスは、ローマ式の裁判で裁かれ、死刑が確定しました。罪状は自分をユダヤ人の王であるとする、ローマ帝国への反逆罪です。ピラトは、これが、まともな訴えではないことに気づいていました。ですから、強盗のバラバを引き合いに出したり、イエスを鞭打ち、懲らしめたりして、イエスを釈放しようと努力しているのです。しかし、ユダヤ人たちは、これを受け入れようとはしませんでした。群衆はイエスを十字架につけろと叫び続けるのです。
ピラトは、イエスが「神の子」と呼ばれたことに恐れを抱いています。当時それは、ローマ皇帝が自分を指すのに使った呼び名でした。いったいこの人物は何者なのか?どこから来たのか?ピラトはユダヤ人に訴えられたイエスに、戸惑うのです。しかしついに、ピラトの心を定める声が上がりました。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています」(12節)。ピラトは現実に引き戻されたのです。この世のものではない国、真理などどうでもよいお話でした。そしてピラトは、ユダヤの宗教家の声に押される形で、イエスの有罪を認め、イエスを十字架に処すため、ユダヤ人に身柄を引き渡してしまいます。ピラトの思考停止、弱さは、私たちの現実とも言えるのでしょう。正義を貫くべき時に、それができない、そんな現実が人にはあります。神を認めず、この現実の中だけで物事を考えるならば、そうした弱さは避けられないことでしょう。
2.イエスの十字架刑(19:12-42)
こうしてイエスは、十字架につけられることになりましたが、イエス自身は、これによってすべてご自分の使命が達成されたことを知って「完了した」と言われ、天に召されました。神が人類にご計画しておられた救いの計画は完成したと言うわけです。新約聖書のヘブル人への手紙には、このイエスの十字架の意味が、ユダヤ人の文化を踏まえながら解説されています。簡単に言えば、日本人は罪は水に流すと考えますが、ユダヤ人は罪は血を流すことによって赦されると考えます。ですから、祭壇で犠牲動物を屠り、その血を流しささげる儀式を重んじたのです。そのような背景の中で、イエスが十字架上で流された血は、全人類のための一度限りの、最終的で完全な罪の赦しのためのいけにえであった、ということなのです。
人は、どんなに表向き立派に見えていても、その内面は、罪や欲望を抱えていることに間違いはありません。「私には罪はありません、私はよい人です」と言い切るような人は、平気で嘘をつく人でしょう。そしてそのような人がその罪を赦されずにして、死後天にいく希望を抱くなどもっての他です。実際、そのような人たちが天国に溢れたら、そこはもはや天国ではなく、この世の延長に過ぎないからです。誰がそのような死後の世界に希望を抱くことができるでしょうか。ですから、もしまことに聖く、祝福に満ちた死後の世界があるとしたら、人はその国に入るために、どこかで罪赦され、聖められて、相応しく整えられることが必要なのです。使徒パウロは言いました「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって、神の義となるためです」(2コリント5:21)。イエスの十字架は、人類の死後に希望を与えるものであり、それを信じることは神の国に入るための第一歩なのです。

最後に、今日の聖書クイズを一つ、当時の十字架刑で、受刑者の死を早めるために行われたものはどれでしょうか?①足を木槌で打ち砕く、②わき腹を槍で刺す、③酸ぶどう酒を飲ませる。昨日のクイズの答えは、③600人でした。今日の答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

ヨハネの福音書18章

2021年04月05日 07時00分44秒 | 福音書
ヨハネ18章 イエスの捕縛、裁判、十字架
1.イエスの逮捕(18:1-14)
エルサレムの旧市街、神殿の丘と呼ばれる場所からケデロンの谷を挟んで東側にオリーブ山があります。その西側の斜面にゲッセマネ(油しぼりの意)の園があり、イエスはそこを祈りの場としていました(ルカ22:40)。マルコの母マリヤの所有地であったとも考えられています。そこには古くから教会があり、テオドシウス大帝によって建立された最初の教会は、614年ペルシア軍によって破壊され、1919年、フランシスコ会によって、現在のビザンティン式カテドラルが再建されました。この教会のために16カ国の国際的な協力があったため、俗に「万国民の教会(Church of All Nations in Jerusalem)」とも呼ばれています。中央祭壇の前には、イエスが祈られたと思われる場所、「苦難の岩」と呼ばれる岩盤があり、鉄柵で囲んでいます。
また、万国民教会から園を横切り、道を隔てて100メートルばかり北に「裏切りの洞穴」があります。イスカリオテのユダの裏切りによってイエスが逮捕された場所とされているところです。イエスは、ローマ軍の1個小隊に囲まれる中で逮捕されましたが、イザヤが預言したように(53:8)抵抗もせず、カヤパの官邸に連行されました。いや、むしろイエスはその時を待ち、より積極的にこの事態を受け止めていたかのようでした。実際イエスは、剣を持つペテロを制し、弟子を逃し、ただ一人進んで連行されていくのです。
2.イエスの裁判と主張(18:15-40)
イエスの裁判が始まります。それは、不当な裁判でしたが、ここでもヨハネは、裁判の不当性よりも、イエスがそれを預言の成就として、淡々と受け止めていく姿を描くのです。既に述べたように、重大な犯罪の逮捕は、夜ではなく、日中にされなくてはなりませんでしたし、裁判は複数の裁判官の前で行われなくてはなりませんでした。さらに判決は三日後に慎重になされなくてはなりませんでした。これらどの原則も破られながらも、イエスは、この不当な裁判をそのまま受け止めていくのです(36節)。というのも、イエスにはこの裁判によって決定される十字架刑によって成し遂げなくてはならないものがあったからです。イエスは一つの使命を担ってこの世にやってきました。18章でも、またこの19章でも、イエスはご自分がこの世のものではないことを強調しています。そのようなイエスの姿と主張に、ピラトは、イエスを有罪扱いすることに躊躇いを感じていたようですね。極悪人のバラバを引き合いに出し、死刑を求めるユダヤ人の良心に訴え、イエスを解放しようとしました。その結果は19章に続きますが、18章で注目すべきは、イエスとピラトとの「真理」を巡る対話です。
ピラトにはよくわかっていたことでしょう。目の前に立っているイエスがローマ帝国をひっくり返すような反逆者ではないことぐらい。だからこの男は何者なのだろう、という疑問はあったはずです。イエスは、そんなピラトに語り掛けます、「わたしは真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました」と。ピラトは、「真理とは何か」とイエスの言葉を受け止めながらも、それ以上掘り下げようとはしませんでした。しかしそれは、大方の人間の現実を象徴しています。人はどこか真理を求めながらも、真理を実際に追及して生きていくことはしないものです。しかし求めるべき真理があり、それはイエスにある、聖書の中にあるというべきなのです。

最後に、今日の聖書クイズを一つ、イエスが逮捕された時に送られた兵士の単位は「一隊」とされますが、それはどのくらいの規模であったでしょうか?①100人、②300人、③600人、昨日のクイズの答えは、③キション川でした。今日の答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

ヨハネの福音書17章

2021年04月04日 06時57分45秒 | 福音書
ヨハネの福音書17章 大祭司の祈り
1.イエスのご自分のための祈り(17:1-5) 
  最後の晩餐が終わりました。イエスは、教えるべきことを皆教えられたのでしょう、ご自分の時が来たことを知り(18:4)、ゲッセマネの園へ向かう前に、しばらく、父に祈る時を持っています。そこで祈られたのは、三つのこと、自分自身について(1-5節)、弟子たちについて(6-19節)、そして教会(20-26)についてです。
まず1節、イエスは、ご自分の栄光が現されるように祈ります(1節)。それは一見自分を第一とする祈りに見えながらも、実際には、永遠のいのちの祝福がイエスに従う者たちに与えられることを確証するための祈りでした。4節、イエスは、神がご自分に計画しておられたことを、全て忠実に行ったのです。そこで、天に戻り、「世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光」が現わされるように、と祈っています。キリスト教は、神は一つであると言いますが、父なる神と子なる神はここではっきり区別されています。二つが一つ、聖霊を合わせて三つが一つ、三位一体よくわからないと思われる方もおられるでしょう。ただ神が人間の知恵で説明できたら、もはや神ではありません。人間以下でしょう。それでも、敢えて不完全な解説をすれば、一人の人が父親であり、夫であり、かつ息子であることがある、と説明できるかもしれません。大切なことは、その神と子なる神イエスを知る、知的に理解するというよりも、親しい人格的な関係を得るということです。だからこそ3節、それが永遠のいのちだと言われるのですし、それが神の願いであり、信仰の目的でもあるのです。
2.弟子と教会のための祈り(17:6-26)
続いてイエスは、弟子たちのために祈られました。6節「わたしはあなたの御名を現しました。」「現しました」は、覆いを取り除く意味があります。イエスは、弟子たちとともに3年の時を過ごし、それによって神の「御名」、つまり神のご性質を余すところなく示されたのです。イエスを見た者は父を見た者であると言うとおりです。そして今イエスは天に戻るにあたり、取り残される教会のために祈るのです。11節、「あなたの御名よって、彼らをお守りください。私たちと同じように、彼らが一つとなるために」と。父とイエス、そして聖霊が異なるものでありながら、一つであるように、教会も、多様な者が一致するようにと祈られています。鳥の巣が、木の枝、プラスチック片、ハンガーなど雑多な素材で出来ていながら、愛の巣として機能するように、教会も、神の愛によって信仰者一人一人が育まれる場として一つに完成されることが期待されているのです。そうであればこそ、17節「聖別してください」とも祈られます。そこは、この世にはない、特別な場所、天に通じる場所であることが期待されるのです。
 最後に20節、イエスは、弟子たちのことばによってイエスを信じる人々、つまり当時の教会の人々のみならず今日の私たちのためにも祈られています。驚くことです。イエスが私たちのことも心にかけ祈られたとは。そこでイエスは、21節、三位一体の神と同じように、一つになることを祈っています。三位一体の神秘が理解できるのは、キリスト者が教会において一つになる経験をする時なのでしょう。そして世はその経験を目撃する時に、神がまことにおられることを知るのです。伝道の力は、教会が声高に宣伝したり、パフォーマンスしたりすることにあるのではなく、ただ、神の永遠の命に生きるところにあるのです。

最後に、今日の聖書クイズを一つ、次の川のうち、ヨルダン川につながっていない川はどれでしょうか?①アルノン川、②ヤルムク川、③キション川、④ヤボク川、昨日のクイズの答えは、③魑魅(すだま)でした。聖霊は、木や石の精や物の怪とは違う、神そのものです。今日の答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。