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詩篇64篇

2010年03月14日 05時55分52秒 | 詩篇
 この詩は、アブシャロムの反逆を背景としていると考えられている。身内に反逆される、それ自体脅威であるが、人間にとって敵が生じることほど恐ろしいものはない。
 人間というのは、赦さないものだと思う。何か折れるべき出来事があっても、体面上赦せない、結局、死に至るまで敵対することがある。罪人として生まれてきた人間の頑なさというべきか。そして、敵となった人間は、悪、不法、策略、攻撃を持って、徹底して、敵と見なした者を排除しようとする。人間社会において何が最も恐ろしいかといえば、人間が恐ろしい,と感じるのはそういう時ではないだろうか。
しかし、どんなに、私たちに対して、敵が現れて、もはや、彼らの陰謀に囲まれて絶体絶命に追い詰められることがあっても、「神は、矢を彼らに射かけられるので、彼らは不意に傷つく」と言われる。彼らが練りに錬った策略は、彼ら自身の首を絞め、彼らを破滅に至らせるものである。
神の前にあって「正しい者」は、こうした敵や敵の陰謀を恐れる必要はない。神にあって、「心の直ぐな人は」神に身を避け、神を誇ることができる。そういう意味では、捨てかけた希望、夢を、私たちは捨てる必要がないのである。自分に敵が生じ、もはや、自分の行く末には希望がないと思っている人はいるかもしれない。しかし、もしそれが自ら犯した罪の故であると思うところがあるならば、素直に告白し、赦しをいただくべきであるし、イエスは十字架の赦しの故に、それらを不問にしてくださることに間違いはない。だからもし、私たちが神の前に正しい者であるならば、神が敵に「矢を射掛けられて、彼らが不意に傷つく」ということを忘れてはならないのであるし、失い掛けた夢とビジョンを、固く維持することも大切なのである。神がもう一度回復してくださる。神がもう一度、新たに、与えてくださる。神が無から有を造り出される創造のみ業を、私の内になしてくださると、信頼することが大切である。
恐れるべきは神のみである。人を恐れてはいけない。信頼すべきは神のみである。誰か信頼すべき人を捜してはいけない。神を信頼し、神の前に正しく歩むことをもって、どんな夢もビジョンも諦めてはならないことを、教えられることとしよう。
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