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申命記34章 もう再びイスラエルには起こらない

2022年04月01日 06時59分53秒 | 申命記
申命記34章 モーセの死と結語
1.モーセの死(1-7節)
 モーセの最後の務めは、主に命じられてピスガの頂に登ることでした。それは、死海の北端、ヨルダン川東側19キロにあるネボ山とほぼ同じ地点にあり、標高700メートルほどの頂でした。そこからは、死海が眼下に横たわり、荒野を見下ろすことができました。そこで主は彼に約束の地を見せたのです。まず「ギルアデをダンまで」。それは、ピスガの頂からはるか北に目を向けることでした。次に「ナフタリの全土、エフライムとマナセの地」北から、西側へ視線を移しています。そして「ユダの全土を西の海まで」つまり、北側から始まり、西側、そして南西側へと視線を動かし、約束の地全土を眺望した、ということでしょう。しかしながら、実際には、パレスチナ山脈が邪魔をして、西側の海全体を見通すことは難しかった、とされています。ですから、ここは実際に肉眼で見たというよりは、信仰によって見た、ということです。
ともあれその地は、主なる神が、アブラハム、イサク、ヤコブに対して「あなたの子孫に与えよう」と誓われた地です。となれば、地理的な広がりのみならず、歴史的な流れの中から、モーセはその地を眺めたと言うべきです。つまりモーセは、神がもっておられる、イスラエル民族に対する壮大な計画を思い巡らしながら、その地を眺めたのです。実に、占領すべき土地というよりも、アブラハムの時代から面々と続く、神の深いご計画、そのご計画に与る小さな塵のような人間、モーセはそんなことを考えさせられたのではないでしょうか。
 モーセが死んだ時は120歳でしたが「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」(7節)とされます。しかし、その肉体は確実に衰えていました。モーセは「もう出入りができない」(31:2)と足腰が弱くなったことを認めています。人は老い、いずれ体が思うように動かなくなる時を迎えます。しかし、若い時には、いや、70、80歳になって、いささか体の動きに不自由さを感じ始めても、自分の体が動かなくなるなど考えもしないのが人です。頭ははっきりしていても、体の機能が停止していく。人間の齢には限度が設けられています。つまり人は、神の任務を背負い、その働きを遂行し続けながらも、確実に老い、退く時を迎えるのです。神は人それぞれに任務完了の時を与えておられます。  
大切なのは、その時「主は彼を葬られた」とあるように、モーセを主が葬ってくださったことです。主ご自身が任務完了を遂げたモーセの労をねぎらい、葬ってくださったのです。確かに、神のみこころに生きる事に徹するならば、神が私たちを葬ってくださることは、当然のこと。そして神は天にも迎えてくださるはずです。
こうして死に際して重要なのは、葬儀が荘重に行われ、この地に何かの足跡を残すよりも、確実に神の御手によって葬られ、神に迎えられることです。「身体は土に帰り、霊はこれをくださった神に帰る」とあるように、最後には、神に葬られ、迎えられるような人生を生きていくことが求められているのでしょう。
2.イスラエルの前進
モーセは神の召しに忠実に生きました。彼は、エジプトを懐かしみ、過去に戻ろうとするイスラエルの民を前進させ続けました。約束の地にまでモーセは同行できませんでしたが、いつでもモーセはイスラエルの民に約束の地を指さし、そこに向かわせました。神に立てられた指導者の任務は、民に前進を促すことです。それはイエスの働きを象徴するものです。神はイエスを通して、私たちを出エジプトに等しい罪からの解放を成し遂げてくださいました。そしてさらに、この世において旅人、天の御国に戻ることを促し、神の国と義を第一に求めるように教えられました。罪人の人生から、神の恵みの中に生きる人生へと、イエスも前進を促し続けておられます。
8節、「モーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わり」新しい指導者ヌンの子ヨシュアが立てられました。「イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命じられた通りに行った」(9節)と言います。神の民は、新しい指導者に導かれて新しい歴史のページを開いて行きます。どのように死を飾るかではなく、どのように死後の歩みを次の世代に示し、備えていくか、使命の完了をしっかり遂げるものでありたいところです。

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<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。エシュルンという単語は、旧約聖書に4回しか出てきませんが、申命記の3回(32:15、③3:5、26)と他にどこに出てくるでしょうか?答えは、イザヤ書44:2です。「 あなたを造り、あなたを母の胎内にいるときから形造り、あなたを助ける【主】はこう言う。恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。」と出てきます。では、今日の聖書クイズを一つ、ピスガは、ネボ山の頂上である。〇でしょうか、×でしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。


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申命記33章 下には永遠の腕がある

2022年03月31日 08時56分58秒 | 申命記
申命記33章 モーセの祝福のことば
1.序(33:1-5)
 申命記は、伝統的にモーセによって書かれたとされてきましたが、1節の前置きを読むと、これがモーセの手によるものではないと思わされるところです。となれば、これはおそらく、ヨシュアによって書かれたと考えるのがよいのでしょう。またそれは、イスラエル12部族への祝福のことばでありながら、シメオンについては語られていません。いくつか解釈上難点を持つ章ですが、全体の構造を見ると、大まかに三つに区分されます。もろもろの国民に対する祝福(2-5節)、各部族に対する祝福(6-25節)、そして再びイスラエルの民全体に対する祝福(26-29節)というようにです。
 2節、「シナイ」「セイル」「パランの山」いずれの地名も、神がご自身の栄光を現された場所と記憶されるところです。5節「エシュルン」はイスラエルの別称です。この単語は、32章にもすでに出てきましたが、旧約聖書にはこの章を含めてイザヤ書にあるだけで、全部で4回しか出てきません。その意味は「正しい者」「高潔な者」です。つまり、イスラエルの言い換えに使われている語のようでありながら、実際には、ヤコブ、イスラエル、エシュルンと使い分けられていることから、イスラエルの中でも、特に理想的な神の民を意図するときに、これが使われているようです。主はヤコブ、いわば罪人の神である、しかし、悔い改めた者、つまりイスラエルの神であり、さらに言えば、悔い改め神の義に生きようとする者、エシュルンの神というべきでしょうか。ともあれ、神はもろもろの民全体を愛するお方、万物の主である、この最初の箇所には、何か終末的に集められたすべての民に対する祝福のイメージが語られているように思われます。
2)各部族への祝福の言葉(33:6-25)
 次に6節から、各部族に対する祝福のことばを見ていきましょう。ルベンは、部族存亡の危機にありながら守られていく、それが祝福であると言っています。ユダは、常に民の先頭を進む。そして敵との闘いから助けられる、それが祝福であると言います。これは祝福のことばというよりは、むしろとりなしの祈りに近い内容です。本来なら続いてシメオンに対する祝福のことばが入るのでしょうが欠落しています。そこでレビの祝福のことば、それは、レビが職務を全うすること、つまりトンミムとウリムを用いて神の御旨を伺い(8節)、民に御教えを伝え(10節)、とりなしを行うことです(10節)。牧師も同じです。牧師に対する評価は、どれだけ人数を増やしたか、どれだけ大きな会堂を立てたかにはありません。彼が祈りとみことばの職務に忠実であり、民に対して、神のことばと神の契約を示し続けているかどうかです。
 ベニヤミンは、ユダと同じく、激しく戦う部族であればこそ、主の守りが祈られます。ヨセフには物的祝福が祈られているようですが「柴の茂みの中におられた方の恵み」とあるようにそれが天の神のみ許しによる祝福であること、また事実の追認であることに注目すべきでしょう。イスラエルがダビデ王によって王制国家となるまでは、エジプトでのヨセフ族の優勢な地位が、そのままイスラエルの民全体の中での力関係、富裕関係を決めていたことは確かでした。これからヨセフ族は、物的に祝福されるというのではなくて、それが神のみ許しの中で起こったことを追認しているのです。ゼブルンとイッサカルは対に語られますが、いずれも義のいけにえを献げる民であることが祝福として語られます。ガドもまた、主の正義と公正を行うことが祝福です。ダンは勇敢であること、ナフタリは主の恵みの中に生き、アシェルも主の恵みに、具体的にオリーブの産出(油)に豊かに恵まれることが語られます。
3)結び(33:26ー29)
26節からの最後の段落は賛美です。ここでも主の祝福は、エシュルン、つまり霊的な神の民が、神の守りの中にあることを語ります。27節「下には永遠の腕がある」つまり、神の腕が永遠に私たちを支えてくださるといいます。人生には底なし沼に陥ったかのように思われることがあっても、神が私たちの足を沈まないように支えてくださる、安らかに住まわせてくださる、天の露で潤してくださる、と言います。このように懇ろに語られる神を信じましょう。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。モーセの従者ヨシュアは、他に何と呼ばれていたでしょうか。答えはホセアでした。彼はホセア(「救い」という意味)と呼ばれていましたが、モーセによってヨシュア(「主は救い」という意味)に改名されています(民数13:8)。
では、今日の聖書クイズを一つ、エシュルンという単語は、旧約聖書に4回しか出てきませんが、申命記の3回(32:15、③3:5、26)と他にどこに出てくるでしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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申命記32章 私のほかに神はいない

2022年03月30日 07時50分56秒 | 申命記
申命記32章 モーセの歌
1.呼びかけと讃美(1-4節)
 モーセの歌と呼ばれる、一章です。これは、約束の地での新しい生活に備えて、モーセによってイスラエルの民に教えられた歌です。それは、神の民を養い育てることばであり、露、小雨、夕立ちのごとくである、と言います。その目的は、神に栄光を帰すことにあるとされます(3節)。神に栄光を帰す、もはやキリスト教会では業界用語と言うべきことばで、実際に何を意味しているのか、わからずに合言葉のように使われている部分もあるのではないでしょうか。それは、人々が神を認め、神を崇めるようになるため、神を指し示す私たちの姿勢を語っています。私たちを愛する主は真実なのだと告白する私たちのあり様を物語っているのです(4節)。
2.叱責と恵み(5-18節)
 そこで、まずその真実を尽くされる神の前に、イスラエルの現実がどんなものであるかが語られています(4-6節)。イスラエルは、その神に真心を持って応えるどころか、背を向け、恩を仇で返すような者たちでした。にもかかわらず、8節、神は、イスラエルに恵みと祝福をもって関わってこられた、とその具体的な事柄が語られています。
 まず、神はイスラエルに安住の地を備えられました。そして出エジプトと荒野の旅に伴われました。彼らはエジプトの奴隷から解放され、荒野での40年の月日を支えられたのです。にもかかわらず、彼らは主の恩を忘れ、背教を重ねました(15-18)。大切なのは、これが、これからのイスラエルのための警告として語られていることでしょう。彼らは、この歌を繰り返し口ずさむことで、神に栄光を帰す人生からぶれないように、と期待されたのです。天と地をお造りになり、支配しておられる神は、私を造り、あなたを造り、すべての人をお造りになりました。人は神を仰ぎ見ながら、つまり神に栄光を帰すように生きるものとして造られたのです。
3.裁きの宣告(19-25節)
 ところが、人間の現実はしばしばそうではありません「ねじれた世代、真実のない子ら」(20節)と呼ばれるようなものであったりします。そのような人間に、「神は、顔を隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう」と言われます。神は頑迷な人間を、自分の愚かさの中に放置しようというわけでしょう。この箇所は、後の時代のアッシリヤやバビロンによるイスラエルの歴史的な裁きを預言的に語っているようにも思われるところですが、単純に一般的な原則を語っている、と受け止めてよいでしょう。
4.救いの希望(26-43節)
大切なのは、裁かれる神は「殺し、また生かす」方(39節)、「傷つけ、またいやす」方(39節)だと語られている点です。神は裁き主ですが、同時に哀れみ深いお方です。いつまでも怒ったままでおられることはありません。そもそも神の裁きは、警告であり教育のためのものです。罪を犯した者は滅ぼし尽くさねばならぬというものではありません。だからこそ、イエスの十字架の恵みも、与えられているのです。イエスの十字架は、「私たちが罪を離れ、義のために生きるため」(1ペテロ2:24)のものです。
5. 近づくモーセの死(44-52節) 
 さて、モーセは、自分の後継者となるヌンの子ホセアを連れて、これらすべてのことばを民に語り聞かせました。イスラエルの民は、この歌を反復しながら、神の真実さ、神の正しさ、それに対する、自分たちの弱さ、頑迷さを覚え、さらにその弱く頑迷な自分たちに対する神の深い愛を思い巡らしたことでしょう。モーセは、これを心に留め、子孫にも伝え、自分たちのいのちのことばとすべきだ、と力説します。そこに、新しい約束の地での祝福があるからだ、と言うわけです。確かに、キリスト者にとっても、自分の罪深さと、その罪深い自分に対する神の恵み深さを覚えることは、命であり祝福そのものです。
最後にモーセの死が宣告されます(48-52節)。神の信頼を裏切り、神に栄誉を帰さなかったモーセはその罪の結果を負うことを宣告されています。傍目で見ていると、なんとも、かわいそうな気もしないではありません。けれども、神のモーセに対する評価の高さも、愛の深さも変わりはありません。そして神の祝福は地上に終わるものではありません。イエスが、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか(マタイ16:26)」と語ったことのこのことです。厳しいと思われることも、それは、神とその人の永遠の関係を守るもの、と覚えたいところです。では今日もよき一日であるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。仮庵の祭りで、作られる仮小屋の材料に使われたのは次のどれでしょうか?①粘土、②なつめやしの小枝、③レンガ、答えは②なつめやしの小枝でした。仮庵の祭りで、イスラエル人は、7日間、木々の大枝となつめやしの小枝からできた仮小屋に住むよう命じられました(レビ記23:42)。では、今日の聖書クイズを一つ、モーセの従者ヨシュアは、他に何と呼ばれていたでしょうか。答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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申命記31章 恐れることを学ばなければならない

2022年03月29日 07時11分31秒 | 申命記
申命記31章 モーセの告別説教
1.主があなたとともに(31章)
1)民たちとヨシュアへの励まし(31:1-8)
31章は、120歳になったモーセの最後のメッセージです。モーセが繰り返し強調したことは3節、「あなたの神、主ご自身が、あなたに先立って渡って行き、この方があなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領する。」6節「あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」8節「主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる」でした。モーセが死に、いなくなったとしても、神は永遠に変わらず、私たちと共におられ、私たちの歩みを助けられるのです。イエスもまた言われました。「見よ。私は世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と(マタイ28:20)。
この神の力強い励ましが、28章からの神の祝福とのろいの選択を促すことばの続きとして語られている点に注目すべきでしょう。私たちが真に神を第一とし、神に従って行くなら、神は私たちを祝福されるだけではなく、私たちと共に進み、いや、私たちの先を進み、いかなる時も見捨てられることはないのです。そこで、神の約束の要点を整理すると、(1)神に従う時に、神は私たちの手の業を祝福される(28章)
(2)神に立ち返る時に、神は私たちを回復される(30章)
(3)神に従う時に、神は私たちと共におられ、先を進まれる。見放さず見捨てない。
祝福されるし、祝福を取り逃しても回復される。神は私たちを見捨てることはない、神を信じるというのは、この神の約束を真実としていくことです。
2)みおしえの書の朗読の規定(31:9-13)
 そこでモーセは、イスラエルの民に、今まで述べて来た律法の教えに聞き、集会を守って神様を恐れ、神の御教えを実際の生活の中に生かしていくべきことを教えます。
 その一つに、七年目ごとに迎える仮庵の祭のことが語られています(10-11節)。そして、神のみ教えを朗読することと、それを学び、子孫に至るまでよく教えることが命じられます(13節)。まことに神が約束を守られるお方であることは、時間をかけた従順の中で、それこそ一生をかけて学ばれるのですし、それは、子々孫々に伝えるべきことです(13節)。ある意味でボーと時を過ごさず、七年ごとに、神が自分たちに何をしてくださったのかを思い起こす時を持つのです。そこに確かに、神の守りと助けがあることを知ることになるでしょう。
3)モーセの後継者ヨシュアの任命(31:14)
14節、ヨシュアが後継者として任命されています。主がモーセを通じて語られることは、何とも後継者ヨシュアの気を滅入らせるようなことでした。彼が世話をしなくてはならない民は、うなじのこわい、主に逆らって背教する傾向のある者たちでした。モーセが辿った苦難をヨシュアも通らなければならないというわけです。しかしそれは、神の苦難を共にする栄誉に与ることです。
4)警告のことば(31:15-30)
15節以降、神の警告とモーセの警告が語られます。既に述べたように、イスラエルの民は、神を離れ、堕落していくことが予測される民でした。しかしそれは、神の愛のゆえの警告です。親は子供にうるさく思われ、嫌がられようとも、最悪の事態を予測して忠告することがあるものです。親の故に言い難きことを敢えて言うことがあるのです。
19節、神がイスラエル人に書き写し、教えるように語った「次の歌」は、具体的に、32章にあるモーセの歌のことです。それは、簡単に要約すると前半は、イスラエルが主に対して恩を忘れていること(5-18節)、後半は、そのような彼らに下される主の激しい怒り(19-25節)とイスラエルに敵対する者への報復(26-35)、またイスラエルの回復(36-46)を歌うものです。
神は、イスラエルの民がどのような性質をもった民であるのか、そして、ヨシュアの任務がいかに困難なものであるかを語り、その上で諦めてはならない、投げ出してはならない、と言います。モーセは、イスラエルの民も自らの弱さを覚えながらしっかり主に従うように、この歌を教えるのです。頑なな罪の心を持った、私たち人間が、神に従うには、神のことばに自らを浸す努力を要するのです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。南ユダ王国を滅ぼしたのはバビロン帝国でしたが、そのイスラエルを解放し、イスラエルの再建を促した国は、どこの国であったでしょうか?答えはペルシア帝国でした。バビロンを滅ぼしたペルシア帝国によって、イスラエルは、ネヘミヤ、エズラなどの指導者によって国を再建していきます。では、今日の聖書クイズを一つ、仮庵の祭りで、作られる仮小屋の材料に使われたのは次のどれでしょうか?①粘土、②なつめやしの小枝、③レンガ、答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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申命記30章

2022年03月28日 07時09分08秒 | 申命記
申命記30章
1.命と死の選択(30章)
30章の勧めが語られたのは、イスラエルの民が、未だ約束の地、カナンに入っていなかった時、これから入って行こうとしている時でした。神はイスラエルの民に、カナンの地に入ってから後、神を忘れ、教えを守らず、心を異教的な宗教や世俗的な事柄に向けているなら、イスラエルは哀れみをもってエジプトから救い出されたのに、今度は裁きを受けることになるだろう、と警告されました。しかし、当時、彼らはその警告が何を意味するのか、全く想像もできなかったと思われます。
1)悔い改めの勧め(30:1-10)
 ただ神は、人によくしてやったかと思えば、今度はご自分の言うことを聞かないので痛い目に合わせる、といった単純なお方ではありません。むしろ、神の愛は一貫しており、神が痛めつけるのではない、回復させるための裁きであるその意図を明確にするのです。つまり、イスラエルが命ではなく死を選択し、神に背を背ける未来を見越して、そこからの回復を語り始めます。神はあわれみ深いのです。4節、神の裁きを受け、「天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻される」(4節)と言います。つまり、神はイスラエルを滅びに放置されることはなく、回復させてくださるのです。
 それは実際のイスラエルの歴史に確認されることです。イスラエルは、分裂王国時代以降、BC722年には北イスラエルがアッシリヤに滅ぼされ、BC586年には南ユダがバビロンに滅ぼされています。彼らは国を失い、方々に散らされ、ある者たちはバビロンに捕虜として強制移住させられる経験をしました。ある意味で天の果てに追いやられてしまったのです。しかし、それから約70年後、ペルシアの時代に、帰国と国の再建を許され、彼らは神の約束したとおりに、再び連れ戻され、回復させられたのです。
神の約束は真実です。たとえ、捕虜となって遠い異国の地に連れ去られることがあっても、神の戒めを守り、心を尽くし、精神を尽くして神に聞き従うなら(10節)、神はあわれんでくださって、再び集め、栄えさせてくださるのです。
人は人を見捨てたらそれで終わりですが、神はそうではありません。神は、私たちが悔い改め、立ち返るなら、集め、連れ戻し、回復させ、再び栄えさせてくださるのです。さらに、神は、あなたを迫害したあなたの敵や、あなたの仇に、これらすべてののろいを下される、と約束されています。
2)命か死かの選択(30:15-20)
11節、神のことばは、難しいものではありません(11節)。神学をこねくり回して、信仰を難しいものであるかのように考える、これは、現代の新たな異端であり、不信仰でしょう。神は、それは、天にあるのでも、海のかなたにあるのでもなく、まさに14節「あなたの口にあり、心にあって、行うことのできる」ものです。それは、私たちの心に語り掛け、決断と行動を迫るもので、難しいパズルを解くごとく、思案に思案を重ねて悟り、悟ってもなお行動に移せぬようなものではありません。
そこで神は言います。15節「見よ。私は、確かに今日、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く」。神はよきものを約束されますが、罪によって堕落した世にあっては災いの選択もありうるのです。信仰は、強制ではなく、自主的な決断ですが、そこにはいのちか死かの決断、幸福か災いかの決断が起こるものです。そして、神が心から願っておられるのは、「あなたはいのちを選びなさい」そこにあなたの幸せがあるから、ということです。自分と子孫のために迷わず「いのちの道」を選びたいところでしょう。私たち一人一人が、手にしている聖書そのものに目を向けること、聖書のことばを大事にし、それをよく味わい、それに従うこと、そこに心をつくし、思いを尽くし、精神を尽くしていくこと、そこに私たちの祝福もあるのです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ホレブとシナイ、これは、同じものを言っているのでしょうか?それとも違うものでしょうか?答えは同じです。ホレブは、山脈名でシナイは頂上の名と区別する人もいますが、両者は全く同じ山を指していると考える者もいます。ほぼ同じ山と考えてよいでしょう。では、今日の聖書クイズを一つ、南ユダ王国を滅ぼしたのはバビロン帝国でしたが、そのイスラエルを解放し、イスラエルの再建を促した国は、どこの国であったでしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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