人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生5(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読は、モノの見方を変え、イエスと共に前に進む気を起こさせてくれます。ご一緒にしませんか?

ヘブル人への手紙5章

2021年08月06日 07時05分59秒 | パウロ書簡
ヘブル人への手紙5章 大祭司に勝るキリスト
1.大祭司キリスト(5:1-11)
ヘブルの著者は、キリストの卓越性について語ってきました。1、2章では、天使に勝るイエス、3、4章では旧約時代の指導者モーセに勝るイエス、そして5、6章では旧約時代の宗教的権威である大祭司アロンに勝るイエスが語られます。
その初めに、イエスがまず大祭司として完全であったことを語ります。二つの点が重要です。一つは、大祭司は、自分が代表する人々に同情できることです(2-3節)。彼は人々のために神に仕える者ですが、罪人の弱さをよく理解し、その立場に立ってとりなしの出来る者でなくてはならないのです。また、彼は自ら買って出てその職務に就く人ではなく、神に召されてその地位に任命された人でなくてはなりませんでした(4節)。イエスの場合は、これが問題でした。というのも、イスラエルで大祭司となる家系はレビ族であり、イエスはユダ族の出身です。それなのにどうしてイエスは大祭司になりうるのか。ヘブルの著者は、イエスもまた神の任命を受けた者であることを示すため、詩篇2:7を引用して説明します。つまり、イエスは、アロンのようにではなく、メルキゼデクのように神に召された大祭司であった、と。突如メルキゼデクという人物が出て来ます。それは後の7章で詳しく述べられますが、もともとは旧約聖書の創世記14:17-24と詩篇110:4に登場してくる人物です。その箇所を読むと、彼は、イスラエルがエルサレムを支配する前にエルサレムを支配していた王でした。しかも、イスラエルの父祖であるアブラハムに祭司として認められた人でした。つまりイスラエルに関わる祭司として、イスラエルにはアロン系の祭司が起こる前に、メルキゼデク系の祭司もいたのであり、イエスは言ってみれば、アロン系ではなくメルキゼデク系の祭司なのだ、というわけです。
2.
さて、ヘブルの著者はこのメルキゼデクが、実にイエスに対する信仰を解き明かすのによい例なので、色々と語りたいのだが、読者がそれを受け止める力がないことを指摘しています。本来なら、信仰をもってもう随分となるので、他の人を教える力があるはずなのに、事実は、人を教えるどころか、むしろ神のことばの初歩をもう一度教えてもらう必要がある状況にある。それは一体どういうわけか、ということです。固い食物をどんどん食べてよい頃なのに、離乳食、いやまだ乳を飲んでいるような状況にあるのは、どういうことか、というのです。
固い食物、乳、一体どういう状況を語っているのでしょうか。実は、先に学んだコリントの手紙でも、コリントの教会に同じような問題があったことが指摘されていました(1コリント3:1以下)。コリントの教会では、分派分裂の問題があって、人々は、神の言葉に集中するよりも、神のことばを語る人に注目していました。パウロの話は面白い、いいや、アポロの方がよい。キリストよりもキリストを語る人々に熱中する状況、それは、神を知らない、霊的な目が開かれていないからこそ起こる状況です。もう一度神様を知るところから始める、神様との関係を回復するところから始める。それは初歩の初歩であり、何年も信仰生活を続けて来た人がやることではない、というわけですね。14節、堅い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のもの、つまり、神様との関係がしっかりできている人は、善と悪を見分けられるようになります。この世の目まぐるしい動きに、振り回されず、何が正しいことか、何が間違っていることなのかを判断できるようになり、人間として狂いのないしっかりとした生き方が出来るようになります。そのように訓練された人は、さらに、神の使命に生きる、つまり固い食物を食べる次の段階に進むことができるのです。では、今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズですが、「イスラエルの祭司制度には、大祭司、祭司、レビ人の三階級がありますが、これらを担ったのは、イスラエル12部族の内どの部族でしょうか?答えは、③レビ族でした。では、今日の聖書クイズを一つ。イスラエルの偉大な大祭司アロンが神に召された場所は、どこでしょうか?①ホル山、②ネボ山、③タボル山、答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。
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ヘブル人への手紙4章

2021年08月05日 06時58分20秒 | パウロ書簡
ヘブル人への手紙4章 安息に入る
1.安息に入る約束(4:1-11)
昨日は、イエスが旧約時代のモーセよりも、優れていることをお話しました。後でもう少しこれをクリアに説明できないものか、色々と考えていました。それで思いついたのは、こういうたとえです。ある敵対的な第三国と国交を回復したいと思うならば、まずその国に打診をすることでしょう。そして国交回復を成し遂げる人がいます。その後、国交が回復されたその国に行くために道案内をしてくれる人が、必要となります。どちらが偉いかと言えば、困難な国交回復を成し遂げた人に間違いはありません。イエスは全人類の身代わりとなって、十字架にご自分のいのちをささげ、神の怒りを宥め、神との和解を成し遂げてくださった人だとすれば、国交回復を成し遂げた人です。その後、罪人に、イエスの十字架にある罪の赦しを指し示して、神の御国に入るためには、このイエスを信じ受け入れることだ、と道案内をする人が必要ですが、これは荒野から約束の地カナンにイスラエルを具体的に先導したモーセが果たした役割と同じです。ですから、イエスはモーセよりも偉大だということになります。
大切なのは、1節「神の安息に入るための約束はまだ残っている」という点です。つまり、国交は既に回復されていて、人は行こうと思えばだれでも、国交の回復された神の御国に入れる状態にある。だから、「そこに入れなかったということのないようにしましょう」というわけです。そして入るために必要なのは、イエスキリストの十字架にある罪の赦しを信じる信仰ですよ、ということになるわけです。不信仰になって入れないということがないように、むしろ7節「今日、この招きのことばがわかるなら、心素直になって、イエスの十字架にある罪の赦しを受けなさい」と言うわけですね。
2.安息に入ることの重要さ(4:12-16)
そこでヘブルの著者は、12節から、神の御国の安息に入る祝福が、いかに人間にとって根本的な問題なのかについて触れています(12節)。聖書は神の言葉であり、生きていて、力があり、人間の最も心の奥深い部分にメスを入れるものです。人は、聖書を読む時に、やはり心を探られます。人は、自分は犯罪人だとは思わないでしょうが、自分は立派な人間、何一つ汚れのない人間だと思うような人はいないでしょう。どこかかしこか、叩けば埃が出てくる、人はそのような罪感覚は持っていると思うのです。あからさまに、あなたは罪人だと言われると、反発心が先に立ちますが、一人胸に手を当てて、私の先祖も私も、何一つ悪いことはしていない、と言い切れるかと静かに考えると、そうではないなあ、とあれこれ心がちくりちくりすることはあるものでしょう。そのような意味で、静かに聖書を一人読み進むなら、やはり自分は正しい人間ではないなあ、ということがよくわかることはあると思うのです。大切なのは、そこで自分を誤魔化さないことでしょう。というのも、13節、「神の御前にあらわでない被造物はありません。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」やがて、寿命となり天に召された時に、やはり、閻魔様がいるというよりは、裁き主であり、この世の創造主である神の前に立たされて、一切合切の弁明をさせられることになる、と聖書は言います。あの世のことは、誰も確かめて帰ってきた者はいませんが、事実そのようなことがあるのだ、と聖書は言うのです。ただ、そこであれこれ弁明と求められても、側に一緒に立ってくださるイエスがおられて、イエスに免じて、神様が、ちゃんと受け入れてくださるというのです。しかも、この神との和解を成し遂げてくださったイエス様は、人間の地上の底辺の生活を味わったお方です。どんな底辺の人であろうと、イエス様がしっかり弁明してくれるから、心配は何もない(15節)、というわけです。しっかり胸を張って、神様の前に出られる、これは素晴らしいことだから、早く、イエスの十字架にある罪の赦しを自分のものとして受け入れなさい、というわけです。ぜひ、イエスの救いのことばを受けていただきたいですね。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズですが、「かつてモーセに率いられたイスラエルは、エジプトの国から約束の地カナンへに入るのに40年間荒野を彷徨い歩きましたが、実際にエジプトから約束の地カナンまでは、どのくらいかかる道のりだったでしょうか?答えは③2週間でした。では、今日の聖書クイズを一つ。イスラエルの祭司制度には、大祭司、祭司、レビ人の三階級がありますが、これらを担ったのは、イスラエル12部族の内どの部族でしょうか?①ユダ族、②ベニヤミン族、③レビ族、答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

ヘブル人への手紙3章

2021年08月04日 07時02分50秒 | パウロ書簡

 
ヘブル人への手紙3章 モーセの忠実さに勝るイエス
1.モーセに勝キリスト(3:1-6)
先の1、2章では、当時の読者の間で崇敬されていた、御使いが取り上げられ、キリストは御使いに遥かに優る存在であると語られていました。キリストの十字架、復活、高挙は、御使いがした、あるいはしてくれることに優るものであった、と。
続いて、著者は、当時の読者の間で同じように崇敬されていた、旧約時代の指導者モーセを取り上げます。そして、イエスは、そのモーセに遥かに優る存在である、と語ります。比較のポイントは、神の家、または神の家族と象徴的に語られる、イスラエルの民の中でどのような役割を演じたかです。モーセは神の家の一員として、しもべとして忠実であった。イエスは、神の家を治める者として忠実であった、ということです。
具体的に語れば、かつてモーセは、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民を、神の助けにより解放し、約束の地、カナンへと移住させることに成功しました。しかしその旅は、容易なものではなく、荒野を40年も彷徨い続けた結果、という過酷なものでもあったのです。その40年間、モーセは、イスラエルの民の一人として、指導的な役割に忠実であったと言います。他方イエスは、単に指導的な役割を担ったというのではなく、全人類が神の安息に入るために、ご自分を十字架上におささげになる、特別な使命を担っていました。全人類の身代わりとなり、救いを完成する御子の役割に忠実であったのです。
2.聖霊の警告に注意せよ(3:7-19)
 著者は、モーセに勝るイエスに注目し、以下の勧めを心に留めるように語ります。
(1)第一に、昔のイスラエル人のように心を頑なにしてはいけない(8節)、ということです。神を信じるならば、信じる信じないで、ふらふら揺れていてはならない、迷っていてはならない、ということです。
(2)第二に、不信仰が強くなって、神などやっぱいないのだ、と迷い出てしまうことのないように、気をつけなさい、と言います(12節)。走れメロスという小説がありますが、人の友情を信じ続けることもまた難しいことですが、さらに目に見えない神の愛と哀れみを信頼し続けることは難しいものです。神を信じるというのは、結構ハードルの高いことなのですね。でも、信じない者にならないで信じる者になりなさい、というわけです。
(3)そうであれば第三に、日々、互いに励まし合い(13節)信仰の道を進んでいきなさいと勧められます。信仰が進むように、この世の社会には教会が与えられているのです。コロナ禍になって、多くの教会は、オンライン礼拝を行い、教会という場所に集まることがなくなりました。それだけ、孤独な信仰生活を続け、色々な世間の荒波の中で、やせ細りそうな思いでいる方々も多いことでしょう。兄弟姉妹と互いに呼び合う実質が問われるのはこのような時なのです。誰一人落伍することなく、素晴らしい神の御国の安息に入ることができるように、このような時にこそ、教会は建物ではなく、人であること、お互いに支え合う者たちの集まりであると心得たいものです。
(4)そのようにして最後まで忠実でありなさい(14節)、また、神を信頼しし続けましょう(19節)と勧められます。人生は、荒野を彷徨う如きものである、と思わされることがあるかもしれません。しかし人の人生は、荒野のようなこの世の営みで終わるものではありません。永遠の安息、神の御国の祝福が待っているのです。神を信頼し、この世の歩みを、手を取り合って、乗り切ってまいりたいものですね。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズですが、「聖書には、いくつか天使の名前が出てきますが、その中で天使長と見なされているのはどれでしょうか。答えは①ミカエル(ダニエル10:13、21、黙示録12:7)では、今日の聖書クイズを一つ。かつてモーセに率いられたイスラエルは、エジプトの国から約束の地カナンへに入るのに40年間荒野を彷徨い歩きましたが、実際にエジプトから約束の地カナンまでは、どのくらいかかる道のりだったでしょうか?①1年、②1か月、③2週間、答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

ヘブル人への手紙2章

2021年08月03日 06時56分48秒 | パウロ書簡
へブル人への手紙2章 統治者イエス
1.聞いたことを心に留める(2:1-4)
「聞いたことをますますしっかりと心に留め、押し流されないようにせよ」と言います。既に、著者は、キリストがみ使いに、はるかに勝る存在であることを語りました。そのキリストが私たちにもたらしたものが何であるかを、よく考え、しっかり心に留めよ、というわけです。
というのも、ユダヤ人は、旧約聖書を読みながら、御使いによって語られたことに聞き従わなかった結果、ユダヤ人がどれほど大変な苦しみを味わったかを理解していました。となれば、時代が改まって、イエスの救いが語られた時代、その救いのことばに聞き従わないとなれば、その失うものも遥かに大きいことだろう、というわけです。
イエスが世に現れ、救いの言葉が語られ、イエスの弟子たちによって、さらにその救いのことばが地の果てにまで伝えられたこの時代、日本人が、自国語の日本語の聖書で、神のことばを聞くことができるようになった時代にあって、このヘブルの著者の警告は、よくよく心に留める必要があることでしょう。
2.キリストのなさったこと(2:5-9)
ヘブルの著者は、9節キリストが「御使いよりもわずかの間、低くされた方」だと語ります。そして先の1章では、キリストは神の子であり、み使いは、キリストに仕える者と定められていたと語りましたが、この2章では、キリストが世界の統治者であると明言しています。イエスは万物の支配者なのです。大切なのは、その創造主であり、統治者であるイエスが自らを、一時的に低くされたことの意味です。つまり、イエスが神であられるのに、神の在り方を捨てて、母マリヤより生まれ、人間の子となり、私たちと同じ血肉の体をまとい、私たちの生活を味わったことの意味。しかも、王宮や良い家柄の家ではなく、全くイスラエルの貧民窟と呼ばれるような地域の、貧しい家庭で育ったことの意味、そして、人間の最も醜い妬みと裏切りの中で、最も残虐な仕打ちである鞭打ちと十字架刑にさらされたことの意味。天の高さから、そのような地の低くさの極みを経験されたことの意味です。それは、10節、「多くの子たちを栄光に導くためであった」つまり、罪人に罪の赦しをもたらし、全人類をご自分と同じ、神の子とする栄誉をもたらすためであった、というわけです。み使いどころか、キリストが再び元に戻られるその同じ高さに、私たちをも引き上げてくださるためであった、キリストの救いは、それほどに素晴らしい内容を持っている、というわけです。
3.キリストの高挙(2:10-18)
教会に行くと、十字架の話はよく聞かされます。あなたの罪は赦された、と言うお話はよく聞くものです。またキリストの復活のお話もよく聞きます。キリストが復活に与った、その素晴らしい神の力によってあなたも新しく変えられるのだ、と。けれども、キリストが天高く上げられたその高さにあなたも引き上げられるのだ、というキリストの高挙の話はどうでしょうか?イエスは、十字架にかかり、復活し、高挙された。そのすべてのプロセスを私たちも味わう、つまり私たちは最終的に、イエスの高さに引き上げられる、ということです。11節、イエスは、彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない。なんと、死んで、あの世に行っても、身分の差、位の差があるようなところなど、行きたくはないと思うものでしょう。しかし、聖書は、この世では罪を赦され、新しい人生にチャレンジする恵みが与えられるのみならず、あの世では、神であるキリストと兄弟と呼ばれ、一切の差別なく扱われるというわけです。誰かの下で奴隷のような生き方をする人生は地上だけのこと、あの世ではそんなことはありません、というわけです。聞いたことを、しっかり心に留めよということは、それだけ得なお話だということでもあるのでしょう。キリストはあなたに本当の自由をもたらすお方なのです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズですが、「砂漠の熱気と砂塵を運び、農作物を枯らすこともある、南東風を何と呼ぶでしょうか?答えは①シロッコ風でした。では、今日の聖書クイズを一つ。聖書には、いくつか天使の名前が出てきますが、その中で天使長と見なされているのはどれでしょうか。①ミカエル、②ガブリエル、③セラフィム、答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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ピレモンへの手紙1章

2021年08月01日 07時00分16秒 | パウロ書簡
ピレモンへの手紙
1.背景
 パウロがローマで囚人となっていた時のこと、牢獄でもまた一つの出会いがありました。逃亡奴隷オネシモです。オネシモは、主人から何かを盗み、ローマに逃亡し、都会の雑踏の中に紛れ込もうとしていたところを見つけられ捕まえられたのです。彼は、図らずも、パウロと一緒に牢獄で生活するようになり、福音宣教に熱心なパウロによって、キリスト教信仰を持ったのでした。しかも、パウロは、彼が自分の友人ピレモンの奴隷であることを知り、元の主人のもとへ送り返されることになったオネシモについて、寛大な措置を取るように、この手紙を書き送るのです。
 というのも、当時、逃亡奴隷が事務的に戻されることはまずなく、それは買い戻しを必要とし、さらに、ローマの法律は逃亡奴隷の処刑を認めていました。ですから主人の下に送り変えられるということは、しばしば残虐な結果になることもあったのです。
2.兄弟として受け入れる(2:1-16)
パウロは、まず挨拶をしていますが、その中で、ピレモンが、イエス・キリストと神の民の双方に対して愛と信仰を抱いている人であると評価しています。つまり、ピレモンは、話せばわかる、そのような感覚のある人のようでしたね。そこでパウロは、ピレモンのその心に訴え、オネシモを穏便に受け止めるように、と筆を進めていくのですが、まず、ピレモンの人物評価から始めていますね。しかも面白い評価です。ピレモンは、かつての奴隷ではない、キリストの救いを受け入れ、新しい心を持った、パウロにもピレモンにも役立つ者である、と。パウロは、ピレモンがオネシモを、愛情をもって再び受け入れることを期待しているのですね。ですから、パウロは、オネシモが、奴隷としてローマへ逃れたものの、今や兄弟として送り返されることを強調するのです。彼はかつて主人を裏切った不従順な奴隷であったかもしれません。そして今も奴隷であることに変わりはないのですが、今や、彼はキリスト者となって、愛されるべき主にある兄弟となったのだ、というのです。しかし、奴隷制度が当たり前の社会において、ピレモンがこれまでの発想を変えて、オネシモを兄弟として受け入れるなど、そんなに簡単ではなかったことでしょう。実際、逃亡奴隷のオネシモに安易な態度を取れば、他の奴隷たちは「クリスチャンになる」ことで全ては穏便に解決されると安易に考えたかもしれません。他方、彼が他の奴隷を持つ主人と同じように、手厳しく残忍な態度を取れば、皆は、キリスト者とは言えども、その社会的態度は同じ。自分の身内にはよくするが、奴隷は差別し、人をモノとして扱う、その態度は変わらない。キリスト者になる意義は何かと、信仰の評判に影響を及ぼすことになったでしょう。
3.パウロの解決
パウロはそのジレンマを解決すべく、一つの提案をしています。それは、間に入ったパウロ自身が、買い戻しのための代価を支払うことでした(18節)。実に、パウロは、キリストの弟子、キリストのしもべとしての生き方を身をもって示していた、と言えますね。本来ならば、神の怒りを受けるべき罪人の私たちが、キリストが身代わりになってくださったことで、私たちは、神と和解することができたという、十字架愛の実践に、パウロは立っていたのです。
しかしながら、なぜパウロは、奴隷制度そのものを非難し、ピレモンにそういうものは非人間的な制度だから、オネシモを平等な人間として受け入れるようにと言わなかったのでしょうか?これは、奴隷制そのものを批判する理想的な機会だったようにも思われます。しかし、パウロは知っていたのでしょう。人間というのは、心が根本的に救われていない限り、どれほど社会制度を変えるように働きかけても、無駄であると。変化はまず人の心の内側から起きなくてはならなかったのです。これはどうなんだろう、と思う、種々の社会制度が、改善、廃止されるためには、個々人の考え方がまず変わらなくてはと考えたのでしょうね。では、今日もよき一日となるように祈ります。


<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズですが、「東部の台地と呼ばれる地点に含まれない地域名はどれでしょうか?」答えはガザです。ガザは地中海沿岸地域にある町の名前ですね。では、今日の聖書クイズを一つ。死海は聖書では「塩の海」または何と呼ばれているでしょうか?①エドムの海、②アラバの海、③ヨルダンの海、答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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